立原道造 【たちはら・みちぞう】

詩人。大正3年7月30日〜昭和14年3月29日。東京市日本橋区橘町三丁目一番地に生まれる。昭和2年、東京府立三中に入学。先輩に当たる芥川龍之介以来の秀才といわれる。「学友会誌」に短歌を発表し、山木祥彦の筆名で幾つかの詩歌ノートもまとめた。昭和6年、一高理科甲類に入学。短歌や小説の発表を続け、翌年には本格的な詩作も始める。昭和9年、東京帝大建築科に入学。室生犀星やリルケに傾倒し、詩雑誌「四季」をはじめ、同人雑誌などに多くの詩を発表する。また、学業の建築の分野でも優秀な成績を収めた。昭和12年、大学を卒業後、石本建築事務所に入社。同年に詩集「萱草に寄す」「暁と夕の詩」を立て続けに発表。自己の恋愛体験を背景とした、青春の哀愁に満ちた抒情詩を多く作った。しかしこの頃より健康を害し、昭和14年3月29日、結核により死去。享年24歳。代表作は「萱草に寄す」「暁と夕の詩」「優しき歌」など。

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著作目録

詩歌 : 発表年順

物語 : 発表年順

ノート : 執筆年順

エッセイ・その他 : 発表年順



回想録

 僕達の高等学校時代のクラスはまことに美しい人々許りであったが、僕達は文芸部に関係した為文科の連中とばかりつき合ってゐた。
 始めのころ、僕達は理科生なのでディレッタン的だと思はれはしまいかといふ妙に後めたいものを感じて、そんな不安を語ったことがある。そのとき最後に彼は、「ヴァレリやジッドは数学を勉強したのだ。物理学を知らねばならない。そして僕等はヴァレリであらねばならぬ。」と昂然と叫んだりした。夜晩くまで話し込んで、そんなときはいつも彼は別れ際が悪くて、あそこ迄歩いてから別れようとか、もう一つ電車を待てとかよく言ひ張ったり、執拗に嘆願したりした。別れる頃になると、手練手管をつくした彼のおしゃべりは一層光彩を帯びて来るのであった。
生田勉「立原道造君のことども」
昭和14年7月



 立原の、ジレッタント的色彩はこのころがいちばん強かったようだ。じぶんが、ひとりでたのしんでいるのに、なんの不都合があるかという考えであった。その彼も、大学を卒業するころは、保田与重郎らの『日本浪曼派』に加わって、極めて怯ず怯ずとではあるが、政治的な方面にも近づいて行き、宮城前で万歳をとなえたりした。じぶんの死期の近づいたのを、うすうす気づいたものか、真摯な態度で、政治や人生について考えるように変っていった。一高時代には、天文学の方へ進むつもりだったらしく、詩をつくり、小説をかき、ジレッタント色彩が強かった。一年のとき彼は寄宿寮にはいっていたが、おなじ部屋のH、僕らのクラスYと特に親しくしていた。これは、考えが合うというのではなく、軽い同性愛的な気持があったのではないかと、いまになって考えられる。
 大学にはいると、それが女性との恋愛にかわるが、それまでは同性と恋愛めいた交遊があった。戦死した松永茂雄との手紙のやりとりなどは、文学的でもあったが、まるで女学生との手紙のやりとりのように、甘ったるくて見ていられなかった。後の女性との恋愛の予備段階としてみると、このじぶんの立原の同性との交遊は、きわめて興味ぶかい。
生田勉「一高時代の立原道造」
昭和32年12月



 立原はおしゃれだった。プラーグ製のネクタイだといって、見せたり、その服装でよく音楽会に行った。毎夏堀辰雄のいる軽井沢や追分に行ったのも、心のおしゃれの現われであったようだ。彼の話もよい意味でしゃれている。彼は命を縮めても、しゃれた生活と文学とを欲求したであろう。そんな点では、『四季』のなに人も立原にかなわない。女性関係でさえも、そうした美意識の制限を免れることは出来なかった。東京の女学生(その後姿を一度見た)や追分のお嬢さんがいた。晩年に浅路さんがいる。しかし何よりも大切なのは、昭和十年の頃の立原は快活で、美しくて、生の青春に溢れていたことである。十二年に大学を出てから、彼を脅やかす暗い翳が出て来て、死の相が生活にも詩にも現われてくる。悲劇が始まるのである。詩の深みもそこに起ってきている。
江頭彦造「昭和十年の頃」
昭和33年7月



 新緑が風になぶられ陽光に映えるのを見ていると、立原と過ごした、緑の美しい追分のことを想い、又立原が江古田の療養所で、急に青さを帯びてきた麦の、その青さと土の黒さのコントラストを病臥したまゝ鏡で映して、三月の春の訪れを喜び、退院転地する日を楽しみにしながら「五月の風をゼリーにしてたべたい」などと語ったことなどを想い出す。あれからもう二十年近くになろうとしている。彼が大学生の頃から一年のうち何回となく訪れていた追分で、彼と過ごした初めてのとき、彼はその後焼けてしまった油屋をくまなく案内して説明をしてくれた。縁側からは八つ岳が見えた。中仙道を追分の観音のところまで歩き浅間の山を仰ぎ見たりした。彼が鮎子と名づけていた、初めて恋を語らい、悲しい終りを告げ、そして彼の『萱草に寄す』の美しい詩への結晶をした、その人の家の土蔵の白い壁が今でも浮び出るようだ。中仙道からそれて山側の林の中を語らい乍ら歩み、草の上に腰をおろしたりした。美しい空を雲が光って流れ、郭公が鳴いていた。その道、その腰をおろしたあたりも、彼は告げなかったが、きっと彼が鮎子と出会い、待つことをおぼえ、語らい歩んだ道だったり腰をおろしたあたりだったのだろう。
小場晴夫「立原のこと」
昭和32年9月



 立原君は見るからにいかにも弱々しかった。学生の頃から、会ふ毎にからだの調子はどうか、君は何よりも第一に君のからだを丈夫にすることが大事だと繰返し注意してやってゐた。大学卒業後は事務所の仕事が忙がしいままに、夜業などもしてゐると聞き、そんなことではからだが持たぬと思ひ、もっとひまのあるところへ就職を世話すればよかったと悔まれぬでもなかった。だが今の仕事に満足してゐる同君の様子をみると今更職を変へてはとすすめることも躊躇され、心ならずもそのままに過してゐた。去年のたしか今頃だったと思ふが、大学のわたくしの部屋に突然見え、石本さんの諒解を得て徹底的に静養することにしたとのこと、それは結構なことだと思ひ、人生の長さに較べればこの二年や三年は何でもないのだから思ふ存分静養してまづからだを丈夫にすることに専念したまへと心から忠言を述べた。「先だって徴兵検査を受けたら、検査官がこんなやせた壮丁は始めてだと笑ってゐました」とまるでひとごとのやうに同君は笑ひ、これから二三ヶ月九州路へ保養に出かけますとも語ってゐた。
岸田日出刀「立原道造君のことども」
昭和14年7月



 一方、立原道造は生まれつき詩人であった。一・七〇メートルで四〇キロそこそこのからだには肉らしい盛上りがなく、皮膚も灰色で、赤い血液が通っていないみたいだった。そういう体のせいか、はじめからわたしたちのような肉欲とか食欲とか権力欲とかいう世俗的な欲望をほとんどもっていないようだった。一しょに上野や浅草や池袋の古本屋を歩きまわったあと、わたしたちは食べもののことでいつも衝突した。わたしは焼鳥と称する豚の腸とか牛丼とかを食べたいのに、立原はおしるこか蜜豆を食べようと主張した。むろんアルコール類は一滴もやらない。それが晩飯なのである。だから蜜豆屋に入ると、ぜんざいを三杯も食べた。わたしは辛抱して田舎じるこ一杯をつついているより仕方なかった。もし食堂に入っても、甘いケチャップをかけたハンバーグステーキか、せいぜいチキンライスくらいしか食べない。「何だい、女学生みたいに」とわたしは腹を立ててののしることが多かった。が、今にしておもうと、譲歩したのは、たいていわたしの方だった。
杉浦明平「立原道造」
昭和39年8月



 立原君が二階の二畳の室から屋根裏へ移ったのは、大学へ入った頃だらうか。私はこの屋根裏の部屋を度々訪れた。屋根裏といっても床に古びたテエブルや椅子を置き、針金を渡して黒いきれを下げた仕切りの向うに本箱や寝台の置いてある本格的な屋根裏部屋で、表に面した窓の擦り硝子に堀さんの「硝子の破(わ)れてゐる窓 僕の蝕歯よ……」の詩が楽書きのやうに鉛筆で斜めに書いてあったり、梁に古風な吊りランプが下ってゐたり、屋根の裏側の真ん中から両方へゆるやかに傾斜してゐる垂木に、面の単調を破るためであらうか、外国雑誌のゴチック活字のペエジが二個所ほど斜めに貼りつけてあるといふ風に、部屋の隅々まで立原君の屋根裏の美学によって設計されてあった。(中略)
 昨年のはじめ頃だったと思ふ。或る夜久し振りに屋根裏部屋を訪ねたことがあった。寒い晩で火鉢にあたりながら話した。堀さんの「風立ちぬ」の話が出て、立原君は「風立ちぬ」の人物や風景を引き去ったあとの空白の深さについて、作者の危機について、熱心に語った。それは異常な尊敬と愛情の籠った言葉で、立原君はしまひに胸をつまらせて涙をぽろぽろこぼした。その夜遅くまで話し、雨が降って来たので泊ることになった。私は頭の上の屋根に雨のあたる音や、表の大通りを時々円タクの走り過ぎる音を聴きながら眠った。
高橋幸一「屋根裏の立原君」
昭和14年7月



 たしか銀座の紀伊国屋であったと記憶するが、通りがかりに個展をのぞいて見た。あまり感心した絵ではなかったので、二人はおしゃべりをしながら会場を一廻りして、ソソクサに帰ろうとした。
 入口のところにたまたま当の画家がいて、私達の態度に反感を持ったらしく、立原に向って、「もっと真面目に画を見てもらいたい」となじった。立原は虫のいどころが悪かったのか、ふだんに似合わずケンカを買ってでた。「そんなことはどうでもよい。もっと絵の勉強をして下さい」とやった。画家は「では僕の絵のどこが悪いのか批評をしたまえ」とからむ。立原は「僕の言いたいのはそれだけだ」そう言いすてて、サット階段の方へ身をひるがえした。
 私が彼の後を追って外に出ると、立原は顔を青くしながら「僕のかっこうがきっと向うには画家に見えたらしい。だからあんなにからんだのだ。あの見幕では、僕たちをやっつけに仲間と追っかけてくるに違いない。こわいから逃げよう」と言って僕をうながしながら、銀座の人ごみの中をまるで相手をまくように急ぎ足で町角を曲って歩いた。
 翌日会うとまだ気にして、「僕は当分銀座を暗くなってからは歩けない」とおびえた顔をして見せた。
 彼のように周囲から愛されることの多い人は、こんなチョッとした事件でも自分を迫害の中において見るというようなところがあったのではなかったかと思う。
武基雄「展覧会の絵」
昭和33年3月



○勤めに出てからは毎週土曜日に銀座からお菓子やパンなどをよくお土産に買って来てくれました。
○兄の部屋でビールを呑んで、二人で一本呑むと酔ってしまいます。兄がこれから出かける旅行のスケジュールを話しあったこともあります。
○よく部屋の窓の所に坐ってぼんやりしていたり本を読んだりしていました。
○旅行先から、どの本を送ってくれと言って来たり、お菓子の註文、それを送るのは皆私の役目でした、又郵便の廻送をしたりしました。
○父の事を二人で話しあった記憶はありません。お互にふれなかったのでしょう。
○大学を出てから、目立ってお洒落になりました。服地を自分で探してきて、自分でデザインして洋服やにたのんでいました。背中に縫目のない背広など自慢でした。
○お友達の事はあまりよく知りませんでしたが亡くなってから皆様がよく尋ねて下さるので、ずい分皆さんに親しくして頂いたのだなと思いました。
立原達夫「兄の思い出」
昭和33年7月



 私は大きいコンクリイトの病院に人を見舞ふと立原さんを見舞ったときのことを思ひ出します。それは冷たい病院でした。そんな事はない筈なのにラヂオががあがあ聞えてゐて「こんな中でかはいさうだな」と辰雄が言ったやうな気さへするのです。逗子に住ってゐた私たちは横浜の大きな花屋さんで買ったドイツ董の花束と西洋菓子の折箱とを持ってゆきました。立原さんはあの長い髪の毛を切って坊主頭にしてしまはれてゐたので、たくさんの患者さん達のベッドの並んでゐる部屋で、私は立原さんをすぐに見分ける事が出来ませんでした。辰雄はあとから息せき切って病室に入って来ました。病院の様子を知らなかったので面会時間の終るぎりぎりの時に病院に着いた事を知ってせめて私だけでもと長い階段を先きに馳け登ったのです。その時立原さんは待ちに待ってゐた辰雄の顔を見ると
「僕も堀さんのやうに死と遊んでゐたいんだけれど、とても苦しくて……」と仰言ったさうです。その一言を辰雄はどんなにか訴へたかったのでせう。「あのときはなんて返事をしたらいいかほんたうに困ってしまった」と感慨深げに言った辰雄ももう今はゐません。
堀多恵子「たった一年のおつき合ひ」
昭和34年1月



 立原も立原で、その夏まへからだいぶ健康を害して、一年ほど前から勤め出してゐた建築事務所の方もとかく休みがちらしかった。さうしてなかば静養を口実に、好きな旅にばかり出てゐるやうだったが、夏のさなかの或日なんぞ、新しく出来た愛人を携へて、漂然と軽井沢に立ち現はれたりした。さう云へば、あのときなんぞ彼の弱ってゐた身体には、私達の山の家まで昇ってくる道がよほど応へたと見え、最初は口もろくろく利けずに、三十分ばかりヴェランダに横になったきりでゐた、息苦しさうな彼の姿がいまでも目に浮ぶ。――私と妻とはときどきそんな立原がさまざまな旅先から送ってよこす愉しさうな絵端書などを受取る度毎に、何かと彼の噂をしあひながら、結婚までしようと思ひつめてゐる可憐な愛人がせっかく出来たのに、その愛人をとほく東京に残して、さうやって一人旅をつづけてゐるなんて、いかにも立原らしいやり方だなぞと話し合ってゐた。――「恋しつつ、しかも恋人から別離して、それに身を震はせつつ堪へる」ことを既に決意してゐる、リルケイアンとしての彼の真面目をそこに私は好んで見ようとしてゐたのであった。
堀辰雄「木の十字架」
昭和15年7月



 この浅路さんは二十六歳の若さで、中野療養所で昭和十四年三月に亡くなるまで、立原に付添って看護をしてくれた。私が療養所を訪ねた日は雪ふりの後で、刑務所の塀にそうて津村信夫と、凍てた雪を踏んだ。そうしてその帰り道もおなじがじがじの雪を踏んで歩いた。
「ね、ありゃもうだめだね。」
と、私は津村にそう言い、津村も肯(うなず)いて言った。
「とてもあんなに痩せちゃっては、たすかりようがないですね。」
 浅路さんは立原の寝台の下に畳のうすべりを敷いて、夜もそこで寝ていた。おとなしいこの娘さんは立原の勤めていた建築事務所の、事務員の一人であったらしいが、立原の死ぬまでその傍を離れなかった。どんなに親しくとも男には出来ない看護と犠牲のようなものが、殆んど当り前のことのように行われ、私もそれを当り前のすがたに見て来たが、それは決して当り前のことではなかった。お嬢さんとかいう人、そしていまどきの人に出来ることではないと思ったが、それは私の思い上りで、女の人はこういう恐ろしい自分のみんなを対手にしてやるものを沢山に持ち、それの美徳を女の人は皆はしくも匿して生きているように思われた。
 療養所だから窓は明け放たれ、寒さは外の残雪を絡んで室内をつんざいていた。しかも、浅路さんはうすべりの下は板敷の上で、冷えることを承知で寝ていたのである。
「センセイ、僕こんなになっちゃいましたよ、ほら、これを見てください。」
 立原はふとんの中で大事にしまってある自分の手を、いくらか重そうにして、出してみせた。それは命のたすからない人の手であって、たすからないことを対手に知らせるための手であり、本人はそれでいて未だ充分にたすかる信仰を持っている手でもあった。私はそれを眺め、手が生きている間は書けるよ、こいつが動かなくなると書けなくなるがと言った。立原は嬉しそうに笑い、生きている大切な右の手をまたもとの胸の上にしまった。私は人間の手というものがどれほどの働きと、生きる証拠を重い病人に自信を持たせているかを知ったのだ。
室生犀星「我が愛する詩人の伝記」
昭和33年8月



 自然にして純粋といふことは、得がたいことである。私は立原君とかなり久しく知りあひ、その人と風をも知ってゐるから、ああいふ詩作品が後々誰によってさへ描かれないといふことではなく、ああいふ人がもう詩をかくことを止めて了ったといふことが大へん悲しいのである。
 ある時、もう二三年まへだらうか、中原中也君や立原君などと語りあったとき、中原君がいいぐあひに酩酊して、立原君の如き純粋な詩人はないといふことを、中原君らのグループの術語交りで云ったことがあったが、それからしばらくのち立原君と街を歩いてゐると、急に「中原さんの云ふやうに私は純粋でないのである、私はもっと不純なのです」と云った。
 この話は、このままできいてほしいのである。立原君といふ人は、自分の何かを意識する自信の自力人工によって成立するやうな詩人でない。その詩作品も、さういふ要素の少しもないものであらう。その点で、我々の世代を代表してくれる最も美事な一人の詩人の死を、私は悲しむのである。
保田与重郎「詩人としての立原道造といふ意味で」
昭和14年7月

昭和9年 昭和12年 昭和13年


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