幸田露伴 【こうだ・ろはん】

小説家、随筆家、考証家。本名、幸田成行(しげゆき)。慶応3年8月20日(旧暦7月23日)〜昭和22年7月30日。江戸下谷三枚橋横町俗称新屋敷に生まれる。明治13年頃から湯島聖堂の東京図書館に通いつめ、経書、仏典から江戸時代の雑書に至るまで、広く渉猟する。明治17年、筑地の中央電信局に勤務。翌年には十等技手として北海道に赴任するが、文学革新の志を抱き、明治20年に職を捨てて帰京。明治22年、「露団々」、「風流仏」を発表し、文壇の注目を浴びる。東洋的精神主義や神秘主義のからまった浪漫的作品を多く発表し、やがて、尾崎紅葉と共に「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。「天うつ浪」(明治36〜38)を中絶したあたりから小説から遠ざかり、史伝、考証の世界に入る。昭和12年、第一回文化勲章を受章。昭和22年7月30日、死去。享年79歳。代表作は「風流仏」「五重塔」、「天うつ浪」、「運命」「連環記」など。

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著作目録

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回想録

〇三十余年前の先生を思ふ時、眼底に浮ぶものは、その温容であり、大人の風格である。先生はやさしい広い心の持主であつた。親切でもあつた。今思ふと無作法で常識的でない私は、随分先生の顰蹙を買つたことだらうと反省されることが少くないのだが、いつも機嫌よく会つて下さつた。一度も「今執筆中だから」と云ふやうなことで門前払を喰つた記憶はない。私ばかりでなく誰にでも、よほどの理由のない限り門前払なぞといふことはやられなかつたらうと思はれるやうな、当りの柔かい角の丸い処があつた。それに言葉なども丁寧であつた。
 この先生の平民的なのに対蹠的な、貴族的な一面を持つて居たのは鴎外先生であつた。初めて鴎外先生を千朶山房に訪ねたのは出版の用件であつた。通された一室に紫緞子(?)の立派な座布団がたゞ一つ置かれてあつた。私は何心なくそれに座つた。が、ふと気がつくとその座布団の位置がどうも主人公の座席であるべき処にあつた。私は慌てゝ布団をすべつて畳の上へ座った。間もなく先生がにこやかに現はれ、私も木綿の座布団を貰つた。
 程経て露伴先生に、「此の間は大失策をやりました」と云つてその話をした。先生は「森のやりさうなことだ」と一笑された。私は敢て鴎外先生の一面と云つたが、その後陸軍省の医務局長室に先生を訪ねて、至極気さくな、ざつくばらんな、時に冗談も飛ばす一面に触れた。兎に角吾々如きの揣摩臆測の限りではないが、両先生の違つた傾向はそれ/″\に興味深く追懐される。
植竹喜四郎「露伴先生の思ひ出」
昭和28年2月



 或時、其頃金港堂の『都の花』の主筆をしてゐた山田美妙に会ふと、開口一番『エライ人が出ましたよ!』と破顔した。
 ドウいふ人かと訊くと、夫より数日前、突然依田学海翁を尋ねて来た書生があつて、小説を作つたから序文を書いて呉れと云つた。学海翁は硬軟兼備の其頃での大宗師であつたから、門に伺候して著書の序文を請ふものが引きも切らず、一々応接する遑あらざる面倒臭さに、ワシが序文を書いたからツて君の作は光りやアしない、君の作が傑作ならワシの序文なぞは無くとも光ると、味も素気も無く突跳ねた。
 すると件の書生は、先生の序文で光彩を添へようといふのぢや無い、我輩の作は面白いから先生も小説が好きなら読んで見て、面白いと思つたら序文をお書きなさい、ツマラナイと思つたら竃の下へ燻べて下さいと、言終ると共に原稿一綴を投出してサツサと帰つて了つた。
 学海翁の家へはソンナ書生が日に何人も来た。預かつてる原稿も山ほど積んであつた。中には随分手前味噌の講釈をしたり、己惚半分の苦辛談を吹聴したりするものもあつたが、読んで見ると物になりさうなは十に一つと無いから大抵は最初の二三枚も拾読みして放たらかすのが常であつた。が、其日の書生は風采態度が一と癖有り気な上に、キビ/\した歯切れのイヽ江戸弁で率直に言放すのがタヾ者ならず見えたので、イツモは十日も二十日も捨置くのを、何となく気に掛つて其晩、ドウセ物にはなるまいと内心馬鹿にしながらも二三枚めくると、ノツケから読者を旋風に巻込むやうな奇想天来に有繋の翁も磁石に吸寄せられる鉄のやうに喰入つて巻を()く事が出来ず、到頭徹宵して竟に読終つて了つた。和漢の稗史野乗を何万巻となく読破した翁ではあるが、之ほど我を忘れて夢中になつた例は余り多く無かつたので、左しもの翁も我を折つて作者を見縊つて冷遇した前非を悔い、早速詫び手紙を書かうと思ふと、山出しの芋掘書生を扱ふ了簡でドコの誰とも訊いて置かなかつたので住居も姓氏も解らなかつた。愈々済まぬ事をしたと、朝飯もソコ/\に俥を飛ばして紹介者の淡嶋寒月を訪ひ、近来破天荒の大傑作であると口を極めて激賞して、此の恐ろしい作者は如何なる人物かと訊いて、初めて幸田露伴といふマダ青年の秀才の初めての試みであると解つた。
内田魯庵「露伴の出世咄」昭和2年11月
(註、この時、依田学海が読んだ露伴の小説は「露団々」)



 此頃は慰みがてらに小説を読むが、露伴といふ男は、四十歳位か、彼奴なか/\の奴だ、学文もあつて、今の小説家には珍らしく、物識で、少しは深かさうだが、お前懇意か、さうか、面白い、郡司大尉の弟だ、さうか、それから紅葉といふ男もあるな、アレハ才子だ、小説の外に仕事を遣る奴だ、書いたものに才気が現はれて居る、篁村……篁村といつたネ、アノ「むら竹」といふ本を書いた奴さ、彼奴の小説は暫らく見えぬが、モウ種切れになつたか、商売替でもしたかナニ未だ壮健だ、ぢやア老い込んだのか否、それから浪六といふ男がある、彼奴の書くのは、一本調子で、侠客ばかり書くが、何日見ても何も意味が無い、つまり腹の無い人間ばかり書く、あれでは遠からず種切れになるよ、露伴ばかりは博い、書くものが皆な趣が違ふ、仏教も少つとは読んだな、作者はなんでも腹が広くなくてはいかむ、
(中略)
 今の小説家は西洋を加味して、昔の物の焼直しをするから広いけれども、深さが足りない、昔の小説はその時世が判るけれど、今の小説は、今の風俗さへ判らぬ、諷刺が浅くて、直ぐに人を怒らせるのは、余り智慧の無い話ぢやないか、露伴なぞいふ奴が、モソつと年を老つたら好からう、書いたもので見ると、彼奴なか/\のもので、経歴もある、先づ今日ではアレが好いやうだよ。
勝海舟「古今小説談」
明治32年3月



 それから二三年の後、文藝春秋の鈴木氏亨さん、安成二郎さんと御一緒に露伴先生のところ、やつぱり表町のお宅へ伺つて将棋のお相手を致しました。「盤」が持ち出されたので、私は腹の中で八段と四段の対局は段割からいふと「角落」になるので、角落かなと思つてゐましたところ、果して「角落でねがひませう」と先生の方から申出がありました。双方無言のまゝ一局闘はして私が勝ちましたが、先生が再び駒を並べられますので、もう一局指すつもりかしらと思つてゐると、さうではなかつた。今の対局について、こゝはどう指すべきであつたとか、こゝでの作戦はどつちが本当か、と急所を一つ一つ質問され、私の意見を求められました。私が次々に講評してゆくと、棋譜をノートしながら、その側に私のいつたことを克明に書かれてゐました。それから数日して伺ふと、前回の将棋をすっかり研究されてゐて、もつとその先の方まで批判を求められるといふ熱心さには全く敬服しました。
 盤に向ふと、若輩の私のやうなものに、「先生この手はいかゞでせう。先生ならどう指されますか……」と先生づけで呼ばれたのには、こちらが全く恐縮した次第です。露伴先生としては単なる趣味であり道楽である将棋についてさへも、いゝ加減なことをなさらない。本当に物ごとの真実を学ばうとする態度をうかゞつて、先に申した「報知」の生駒翁の露伴翁を推賞されてゐた意味が、つぶさに納得されました。
木村義雄「露伴先生の将棋」
昭和25年1月



 先生は或日私に、自転車を一台求めてくれと云はれたので、知合の店から早速和製の新台を購つてお届けした。それからはお伺ひする度、来合す青年達も連れて附近の空地へ自転車を持出し、先生へ稽古を勤めた。その頃体重十七八貫もあられたらうか、自転車は先生に苦手と見えてその進歩は遅々たるもので、疲れると路傍の捨石などへ腰を下す先生のため、石上の塵を払はうとしたら、「婦人の態をなす勿れ」。却つて叱られた。先生はペタルを踏まへながら、私が手放すと中心がとれなくなるので、いま/\しさうに「智悟の相違だな」とも云はれた。
 それでも一ヶ月ほどでどうやら一人歩きが出来た。向島から本所林町の私の宅まで乗つて来られたが、帰路が案じられるので私が先に立つて通行人を避けながらお送りしたこともあり、また晴れた日には吉野園の菖蒲を見に二人で輪行したこともある。「どうだ、今度は柴又の帝釈様の御神水でも頂きに行くか」と云はれるほどになつたのは好かつたが、或日の独り稽古に土手下の小流れへ転落し、負傷はされなかつたけれど和服で乗られたため下駄を失ひ、衣服をづぶ濡れにされたことがあつた。
(中略)即刻馳せ参じて見ると、門内の袖垣へ何本かのスポークの折れた自転車が寄せかけてあつた。奥様に出会つてお見舞いを申上げると、「倉本さん、もう自転車は御免ですよ」と私を叱るやうに云はれた。
倉本清太郎「夫人のことなど」
昭和28年12月



 終戦後であつた、ある日新聞の静岡版で、幸田さんが伊東の松林館に病を養つてをられることを知つた。かねて長野県の坂城に疎開されてゐると聞いてをつたので、驚いてすぐ手紙を出した。いつもは巻紙に墨で自ら書かれての返事であるに、代筆で「全快したらば知らせるから」とのことであつた。一二週間待つてゐたが便りがないので、ある日、突然に訪うた。宿の者に、「お目にかからいでよいから、どんな御様子であるか」と問うたに、年をとつた女が来て、「幸ひ気分がよいので、お逢ひします」とのこと、導かれて中二階にあがつた。そこは次の間つきではあるが、広くない一室の床の上に坐つてをられた。いつもの赤ら顔ながら、髪も鬚も手入れをされぬまゝに長く伸びてゐて、まるで仙人のやうな心地がした。黙礼して、しばらくは言葉も出なかつたが、自分は、「命なりけりさ夜の中山です、お互に命があつてお逢ひできたことが喜ばしい」というたに、幸田さんは口の中で「ウ、ウ、ウ、」と少しうなるやうにしてをられたが、大きな力づよい声で「ム、ム、命なりけりうやむやの関ぢや」と言ひ放たれた。その沈痛な語調は、今も耳底に残つてをる。
(中略)長居をして病気に障つては、といとまを告げたに、「まあいい、実に久しぶりだ、も少し話さう」といはれて、はやく小説にかかれた蓮台寺温泉や、天城山の石南花の咲きにほふ池の話をされ、「東京で焼けたものの中では、自分が特に工夫して作つた釣の道具や、多年あつめた釣の本が惜しい。先年君の世話で借りて写したあの本も焼けたよ」など話され、現代に就いても種々辛辣な批評をされた。
 それから間もなく、千葉県の市川に移られたとのしらせ、やがて訃音に接したのであつた。
佐々木信綱「幸田さんの思ひ出」
昭和26年4月



 露伴氏はたいへんな物識りで、馬琴や秋成の比ではなく、国漢文学はもとより、仏教に通じ、英文学も出来、歴史地理博物物理の方面にまで亘つてゐるのには驚く。物識りの方ではこれも有名な内田魯庵氏さへが、「あんな男はめつたに出るもんではないよ、五百年に一人ぐらゐしか生れない人間だよ」と云はれたと云ふ話を、私は木村毅君から聞いた。が、えらいのは物識りである点よりも、それほどの学者でありながら、少しも学者肌でなく、熱情漢である点なのである。私は個人的に知るところは少いけれども、作品を見れば随所にそれが感じられる。村上喜剣を書いた「奇男児」などと云ふ小説は、傑作と云ふほどではないが、しかし熱情漢でなければ書けない。某氏はいつか露伴氏を訪問したら、褌を締めてゐないのか、股間の一物があぐらの下から隠見したのには閉口したと云つてゐた。糖尿病の癖に酒も飲めば菓子もたべる、口を開けばチヤキチヤキの江戸弁である、それで学者なのだから、鴎外や漱石とは大分肌合ひが違つてゐる。
谷崎潤一郎「饒舌録」
昭和2年12月



 其の頃の先生の生活は全く質朴簡素であつた。三度の食事も私達三人の書生と全く同じものであつた。夫人はまた一層辺幅を飾らず、先生は平生夏は一枚の白飛白を洗ひ晒して着てゐられた。そんな中で三人の穀潰しを置いて小遣ひまでも心づけて下すつた。一人の門生の袂に五円札が這入つてゐたので、どうしたのかと思つたら、先生が入れて置いて下すつたのだつたと云つて、その門生はよく私に話した。而かも先生の日常は謹厳其のもので、明るい街の灯を追うて浮かれ出るやうなことは全くなかつた。時々僅かの晩酌をされる位……嘗て大酒豪のやうに聞いてゐた私には不思議な位であつた。先生自身に奉ずることは実に薄かつたが、私達には遊んで来いと云つて色街へ行くお小遣さへも下すつたこともあつた。
「君なんぞ紅葉のとこにゐたら一日で追ひ出されるよ。」
其の後のことだつたが、石橋忍月氏が私に浅草の鳥屋で御馳走して下すつて斯う云つたことがある。それ程先生は弟子達に寛大で親切であつた。
田村松魚「明治大正偉人の片鱗」
昭和3年3月



 露伴さんは硯友杜の人達なぞと違つて、「碧巌録」なんか読んでゐるから、あんな禅味をおびた小説が書けるのだといふことを耳にしたのは、それから大分たつてからで、作風がやや地について、「一口剣」や「五重塔」のやうな名作が次ぎ次ぎに出て来た時分であつたかと思ふ。露伴は又た一と風かはつた人間で、自分で本箱を指したり、舟を造つたりするのだといふことも聴かされて、私は驚いた。私は露伴さんの其の後の作品を紅葉さん以上にも尊敬し羨望したが、「一口剣」や「五重塔」のやうな名人気質の作品は、その後の段々小説体になつて来た多くの作品のやうに好きではなかつた。それに是は其の頃の私には無意識ながらにも自然の感情で、露伴のやうな人には近きにくいし、模倣をしようとしたら大変なことになりさうな気がしたので、上京した時に原稿をもつて行つたのは、却つてその実田舎の青年には少し歯の浮くやうな感じのした紅葉さんであつた。それが良かつたか悪かつたかを考へるのは無駄だが、紅葉さんの方が同じ肌が合はないにしても、普通世間の小説道を歩いてゐる作家であり、露伴さんの方は、渾然すぎるほど渾然とした、生れながらの天才のやうに思はれたのである。たしか露伴さんの言葉だが、優れた芸術品といふものは、何処の端を叩いても全体に響くやうなものでなければならないと言ふのであるが、露伴さんには確かにさう言ふところがある。「一口剣」や「五重塔」には確かにさういつた名品的な完成味がある。従つて是等の作品には、総てインスペレイシヨンの生息がかゝつてゐて、凡人の模倣を許さないやうなものである。
徳田秋声「露伴翁」
昭和12年7月



 もう二十年も前のことである。井上通泰先生の玉川の別荘へしげしげと上つてゐた間に、柵草紙時代の旧い話を何かと伺つた。その中には露伴翁のことなどもいろいろあつたのであるが、別に書留めても置かなくて、あら方忘れてしまつて、今となつては奈何ともし難い。僅かに記憶してゐる話の一二を受売して見ることとする。(中略)
 ――幸田が谷中にゐた時のことだ。どうしたといふのか、居間を釘づけにして、その中に閉籠つて、人を寄せつけぬといふ。そいつは捨てゝ置かれぬと、賀古(鶴所)と森〔註、鴎外〕とおれ〔註、井上通泰〕と、三人して出かけて行つた。なるほど唐紙が明かない。ゐるか、と呼ぶと、ゐる、といふ。無理やりにこぢ明けて這入つたら、当人はきよとんとして坐つてゐる。一体どうしたのだ、と尋ねると、向島へ花見に出かけたら風船売がゐて、その風船玉が風にふらふら揺れてゐる。それを見たら急に世の中が味気なくなつて、生きてゐるのが嫌になつた、といふ。そんな馬鹿気たことがあるものか。一杯遣りに行くから来い、と勧めると、絶食してゐて腰が立たぬ、といふ。それを賀古とおれとで、両方から吊るすやうにして連出した。森は後から、にやにやしながら附いて来る。近くの牛屋へ行つて、無闇に酒を飲ませたら、それなりけろりとしてしまつた。――
 このことはもつと精しく聞いたので、先生の話には大いに精采があつたのだが、今となつては、この程度にしか書かれないのが遺憾である。この話は小説五重塔の出来る前後のことだつたのであらう。あの頃の幸田の頭は、実際に少し変だつた。五重塔の後の方の暴風雨のことのあたりは、半分が気が狂つてゐて書いた。だからあんな破格な文章が出来たのだ。――先生はさういはれた。
森銑三「聞いた話」
昭和25年6月

明治29年夏 大正元年10月 昭和16年4月



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