常設展

平成21年度第2回常設展  「昭和の公文書−復興から高度成長へ−」 (入場無料)

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 昭和20年(1945)8月、廃墟のなかで終戦を迎えた日本は、どのように復興への道のりを歩んだのでしょうか。また、どのように国際社会へ復帰したのでしょうか―。戦後復興から高度経済成長を経て、沖縄返還までの戦後日本のあゆみを、当館所蔵の貴重な公文書でたどります。

1.日本国憲法公布* (昭和21年)

 日本国憲法の制定は、大日本帝国憲法の改正手続に従って行われました。昭和21年(1946)6月、枢密院で可決された憲法改正案は、第90回臨時帝国議会に提出され、貴族院・衆議院両院で修正が行われた後、同年10月7日可決。この改正案を10月29日に枢密院が可決したことを受けて、日本国憲法は同年11月3日に公布されました。展示資料は、日本国憲法の公布原本です。

2.公衆衛生対策に関する件 (昭和20年)

 終戦にともない多くの国民が疎開先から帰郷し、海外から引き揚げ、あるいは復員してきました。これらによる混乱に加えて、発疹チフス・痘瘡・コレラ・性病その他の伝染病の蔓延や、食糧不足などにより、終戦直後の公衆衛生の水準は極めて低い状態にありました。このような状況下にあって、昭和20年(1945)9月22日、連合国最高司令官総司令部(GHQ)から日本政府に対して「公衆衛生対策に関する件」という覚書が出されました。この覚書は9項目からなる短いものですが、医療従事者数や病院の状況報告を義務付け、上下水道施設の復旧や海港検疫の実施などを指示しており、戦後の日本における公衆衛生行政に大きな影響を与えました。展示資料は、厚生省の「運営覚書(保健・衛生)」に綴られた資料です。

3.学校給食の実施* (昭和21年)

 学校給食の歴史は戦前に遡りますが、戦争の深刻化とともに中止されていました。昭和21年12月、「学校給食実施の普及奨励について」(文部・農林・厚生3次官通牒)が発せられます。極度の食糧不足に対処し発育の助長と健康保持を目ざした学校給食が、翌昭和22年1月から実施され、不完全ながらも次第に拡大していきます。しかし、給食実施の基本となっていた米国の占領地域救済資金(ガリオア資金)による小麦の提供が、昭和26年(1951)6月末に打ち切られることになり、学校給食の継続が困難となります。その後、国庫補助による学校給食の継続を要望する運動が展開され、昭和29年の学校給食法により実施体制が法的に整うこととなります。展示資料は、学校給食法案が内閣法制局で審査されたときの資料です。

4.傾斜生産方式の採用* (昭和21年)

 戦後の日本経済は、生産施設の荒廃と原材料の枯渇により極度の生産不振に陥っていました。特に、石炭生産と発電力が低下したため、国土の再建に不可欠な鉄鋼・セメントなど基礎原料部門の減産傾向が深刻でした。昭和21年(1946)12月27日、「昭和21年度第4四半期基礎物資需給計画」が閣議決定されました。石炭・鉄鋼の両産業部門に対して資材・資金を超重点的に投入し、両部門相互の循環的拡大を促し、それを契機に産業全体の拡大を図るという「傾斜生産方式」が採用されたのです。展示資料は、「傾斜生産方式」を閣議決定した際の閣議書です。

5.経済安定9原則* (昭和23年)

 国際情勢が変転し冷戦が進行するに伴い、アメリカ政府は日本をアジアにおける主要友好国とする政策を採用し、対日占領政策の重点を非軍事化・民主化から経済の自立化と政治の安定化へと転換します。昭和23年(1948)12月19日、日本経済の早急な安定と自立化のために採るべき施策として、経済安定九原則(予算の均衡、徴税強化、資金貸出制限、賃金安定、物価統制、貿易改善、物資割当改善、増産、食糧集荷改善)が、連合国最高司令官の吉田茂首相宛の書簡の形で指令されました。展示資料は、連合国最高司令官からの書簡を経済安定本部で翻訳したものです。
 なお、経済の安定と並行して税制改革も必要とされ、昭和24年(1949)5月には、財政学者のシャウプを団長とする税制調査団が来日して税制勧告を行いました。

6.日本円に対する公式為替レートの樹立 (昭和24年)

 それまで外国為替レートは輸出入品目ごとに設定され、輸出品については輸出奨励の目的で円安に、輸入品については原燃料価格の抑制の目的で円高になっていました。GHQの指示により、昭和24年(1949)4月25日から1ドル=360円の単一レートが実施され、昭和46年(1971)の通貨危機まで22年間続きました。展示資料は4月23日にGHQから出された覚書の仮訳です。

7.ユネスコ加盟* (昭和26年)

 昭和25年(1950)12月15日、日本政府はユネスコに対して加盟申請を行い、昭和26年3月14日国連経済社会理事会の承認を得て、同年パリで開催された第6回総会において、6月21日に加盟を承認されました。同総会に出席した前田多門代表は7月2日ロンドンにおいて英国政府が保管するユネスコ憲章(国際連合教育科学文化機関憲章)に署名するとともに、同政府に受諾書を寄託し、同日付けをもって、日本は正式の加盟国となりました。展示資料は、昭和25年(1950)12月12日ユネスコ加入のための手続を進めることを決定した際の閣議書です。展示資料は、指定についての内務省告示が掲載されている官報です。

8.サンフランシスコ平和条約発効*  (昭和27年)

 昭和26年(1951)9月8日、吉田茂首相をはじめとする日本全権は、第2次世界大戦中、我が国と戦争状態に入った連合国48カ国の代表とともに、サンフランシスコ平和条約に調印しました。同条約は、昭和27年(1952)4月28日発効し、約7年間におよんだ占領が終結し、日本は主権国家として独立を回復しました。この条約は、日本が朝鮮の独立を承認し、台湾・澎湖島、千島列島・南樺太を放棄することを規定しました。アメリカには、沖縄・小笠原諸島における施政権が認められました。また、国際連合に協力することが日本に義務づけられました。資料は、同条約の公布原本です。

9.防衛庁、自衛隊発足* (昭和29年)

 昭和29年(1954)6月9日、自衛隊法と防衛庁設置法、いわゆる「防衛二法」が公布され、同年7月1日施行されました。自衛隊法により、自衛隊の主な任務は「わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛すること」と定められました。展示資料は、自衛隊創設の日の長官訓示に関する保安庁の決裁文書です。

10.国際連合加盟*  (昭和31年)

 昭和27年(1952)6月日本は国際連合に加盟を申請しました。日本の申請は、同年9月の国連安全保障理事会では10対1の圧倒的多数の賛成を得ましたが、ソ連が拒否権を発動したため、否決されました。同年12月の国連第7回総会は、国連憲章が規定する加盟条件を日本が満たしていることを認め、日本の加盟を承認するべきであると決定し、この決定を安全保障理事会が了知するよう要請する決議を採択しました。その後、昭和31年(1956)10月の日ソ国交正常化を経て、同年12月12日の安全保障理事会で日本の国連加盟が承認され、同月18日の総会は全会一致で加盟を承認。日本は80番目の国連加盟国となり、国際社会に本格的に復帰しました。展示資料は、国際連合憲章と国際司法裁判所規程の公布原本です。

11.新安保条約発効*  (昭和35年)

 昭和35年(1960)1月19日、日米安全保障条約は改定され、新たに「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(新安保条約)が締結され、同年6月23日発効しました。新安保条約は、外部からの武力攻撃に対して日本を防衛する義務をアメリカが負うことを明記するとともに、日本の施政権下にある領域内でアメリカ軍が武力攻撃を受けた場合にそれを防衛する義務を日本が負うことも規定し、平等相互の援助条約となりました。また、経済的協力の促進も規定され、防衛面にとどまらない全般的な協力関係の推進が定められました。さらに、日本の安全または極東の平和と安全への脅威が生じた場合に協議を行うという規定等も設けられました。展示資料は、新安保条約の公布原本です。

12.国民所得倍増計画 (昭和35年)

 国民所得倍増計画とは、池田勇人内閣のもとで昭和35年(1960)12月27日に閣議決定された経済計画です。昭和45年(1970)までの10年間に国民総生産の総額を2倍にするため、年平均成長率を7.2%に設定しました。高い成長、生活水準の向上、完全雇用を目的とし、社会資本の充実、産業構造の高度化と二重構造の緩和、貿易と国際協力、人的能力の向上と科学技術の振興などを課題に掲げました。結果的には想定を上回る高成長が実現しましたが、公害の発生や物価の上昇、格差の増大、社会保障の立ち遅れなど、さまざまなひずみも生じました。展示資料は閣議決定の文書です。

13.農業基本法制定* (昭和36年)

 昭和30年代に入り、「農業の曲がり角」という言葉がしきりに聞かれるようになりました。政府は、農政のあり方について新たな視角から総合的に検討するために、昭和34年(1959)4月総理の諮問機関として農林漁業基本問題調査会を設置しました。翌35年(1960)5月、同調査会は「農業の基本問題と基本対策」の答申をまとめ、農業者と他産業従事者に対する生活条件・所得の不均衡を指摘し、所得・生産・構造に関する政策を提言しました。これを受けて、政府は、国の農業に関する政策の目標と施策の方向を規定する「農業憲章」とも言うべき農業基本法の制定に取り組みました。同法は、昭和36年(1961)6月12日公布・施行されました。展示資料は、法律公布時の閣議書です。  

14.石炭鉱業調査団答申大綱  (昭和37年)

 昭和30年代は、エネルギー革命の時代でした。昭和34、5年の三井三池炭鉱の労働争議に象徴されるように、石炭から石油への急激なエネルギー転換が進み、また天然ガス、原子力などの新しいエネルギーが登場しました。昭和36年(1961)7月、原油輸入自由化の方針が決定し、石炭鉱業の危機が深刻化します。今後の石炭対策の検討を行った石炭鉱業調査団の昭和37年10月の答申大綱は、「石炭が重油に対抗できないことは、今や決定的である」としたうえで、石炭企業の赤字、労働者の失業、産炭地の疲弊という状況を打開するために、石炭需要の政策的確保等の対策を示します。これを受けて翌11月、「石炭対策大綱」を閣議決定し、石炭鉱業合理化臨時措置法を含む石炭関係11法案の改正あるいは制定を進めます。展示資料は、法案が内閣法制局で審査されたときの資料です。

15.全国総合開発計画*   (昭和37年)

 昭和37年(1962)10月5日、国土総合開発法(昭和25年法律第205号)第7条第1項の規定に基づいて、「全国総合開発計画」が閣議決定されました。これは、地域間の均衡ある発展を図るために、長期的かつ国民経済的視点にたった国土総合開発の方向を明らかにしたもので、工業の分散の必要を指摘し、拠点開発方式を打ち出しました。この第一次の計画以降、昭和44年(1969)策定の新全国総合開発計画では、高速道路や新幹線等のネットワーク整備と大規模工業基地建設を軸とした大規模開発プロジェクト構想を提唱しましたが、石油ショック後の構造不況と公害問題の発生等により破綻。昭和52年(1977)には定住構想を中心とした第三次計画が策定されます。また80年代後半に対米経済摩擦が激化するなか、昭和62年(1987)に第四次全国総合開発計画が決定され、多極分散型国土の形成を基本目標とするなど、時代の要請を受けて計画の目標や項目は移り変わってきました。展示資料は、第一次全国総合開発計画の閣議決定文書です。

16.IMF8条国に移行* (昭和39年)

 昭和39年(1964)4月、日本はIMF8条国に移行しました。「IMF8条国」とは、IMF(国際通貨基金)協定第8条が定める、経常取引における支払に対する制限の回避、差別的通貨措置の回避、他国保有の自国通貨残高の交換性維持を規定する、一般的義務を受託した国のことを言います。展示資料は、IMF8条国移行に伴い、外国為替予算を廃止するとともに外資導入に関する規制の簡素化を行うために、外国為替及び外国貿易管理法及び外資に関する法律を一部改正について、通商産業大臣が閣議を求めることに関する通商産業省の決裁文書です。

17.東京オリンピック開催* (昭和39年)

 昭和34年(1959)5月の国際オリンピック委員会(IOC)総会において、第18回オリンピック大会を東京で開催することが決定し、日本は国を挙げて開催準備に取り組むこととなりました。昭和36年(1961)6月には「オリンピック東京大会の準備等のために必要な特別措置に関する法律」が公布され、オリンピックの準備・運営経費の一部国庫補助や国有財産の無償使用、寄付金付郵便はがきの発行、日本専売公社等による援助などが定められました。 昭和39年(1964)10月10日、開会式が行われ、10月24日までの会期中、93カ国/地域から参加した5,133名の選手が20競技・163種目でその力と技を競い合いました。展示資料は、同特別措置法の公布原本です。

18.日本万国博覧会開催* (昭和45年)

 日本万国博覧会の開催は、昭和40年(1965)9月に正式決定し、翌41年(1966)5月には国際博覧会条約に基づいて登録されました。同年7月には「日本万国博覧会の準備及び運営のために必要な特別措置に関する法律」が公布され、博覧会の準備・運営経費の国からの補助や寄付金つき郵便はがき等の発行、日本専売公社等による援助などが定められました。博覧会は、「人類の進歩と調和」をテーマに、昭和45年(1970)3月14日に開会式が挙行され、9月13日まで開催。約6,422万人の入場者を集めました。展示資料は、同特別措置法の公布原本と開催1,000日前に際しての総理大臣談話案です。

19.国立公文書館設置* (昭和46年)

国立公文書館は、総理府設置法の一部を改正する法律の施行により、総理府の附属機関として設置されることになりました。同改正法は、第65回国会において成立し、昭和46年(1971)3月31日に法律第16号として公布され、同年7月1日に国立公文書館が誕生しました。展示資料は法案が内閣法制局で審査されたときの資料です。

20.環境庁発足* (昭和46年)

 昭和46年(1971)5月31日環境庁設置法が公布されました。7月1日総理府の外局として設置された環境庁は、公害の防止、自然環境の保護及び整備その他環境の保全を図り、国民の健康で文化的な生活の確保に寄与するため、環境の保全に関する行政を総合的に推進することを主要な任務とすることとされました。展示資料は、環境庁設置法の公布原本です。

21.沖縄返還 * (昭和47年)

 昭和40年(1965)8月、佐藤栄作総理は、戦後の総理として初めて沖縄を訪問し、沖縄問題の解決に意欲を示しました。昭和44年(1969)11月の日米首脳会談で1972年中の沖縄返還実現について原則的合意が成立。この合意に基づく日米交渉が昭和45年(1970)1月から始まり、昭和46年(1971)6月17日、衛星テレビ中継されるなか、日米双方の会場で沖縄返還協定(正式には「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」といいます。)の日米同時調印が行われました。昭和47年(1972)5月15日、沖縄返還協定が発効し、沖縄は日本に返還されました。展示資料は、「沖縄の祖国復帰に際しての政府声明」です。


*タイトルの右上の「*」印は、国立公文書館ホームページのデジタル・コンテンツ「公文書にみる日本のあゆみ」において展示資料に関連するデジタル画像をご覧いただける資料です(http://www.archives.go.jp/ayumi/index.html)。「公文書にみる日本のあゆみ」では、年表・時間・出来事の3つの入り口から当館所蔵資料を紹介しています。今回展示されていない資料も掲載されていますので、是非一度アクセスしてみてください。