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世の中をよくしていくのは政治だけではありません。
ここでは国会外でのすずきかんの社会創造家としての顔をご紹介します。

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松下村塾に強く感銘を受けたすずきかんが、95年から「新たな文化を若者と共に作り上げていく」事を志ざし、若者塾を開いたのが始まり。現在でも彼の元に集まってくる学生に、 「情報社会におけるプロジェクトマネジメント論」(通称すずかんゼミ)を教えています。慶応義塾大学の助教授として情報社会学を、灘高校では情報科の教鞭をとった経歴など、 実際の教育現場での経験も豊富です。教え子は、この10年で1000名に近くに迫り、ITビジネス、メディアプロデューサー、NPO活動家など、それぞれのフィールドで目覚しい活躍を遂げています。 現在も中央大学客員教授、早稲田大学客員准教授として現場に立ち続けています。

みんなでつくる地域の学校、それが「コミュニティ・スクール」です。すずきかんはコミュニティ・スクールを金子郁容慶應義塾大学教授と共に構想し、本を出版。2002年にモデル校7校が指定されました。 その目覚しい効果を国会で訴え2004年に法制化に成功、その後も指定数は増え続け、現在では195校にまで上っています。地域のみんながボランティアとして学校づくりに参画、知恵と力を持ち寄る事で、 地域ぐるみで子どもを育てる学びのコミュニティをつくります。閉鎖的になりがちな学校の風通しをよくし、子どもたちが多くの大人に出会う機会を増やし、生徒にあこがれや多様な相談相手を与える事が出来ました。

すずきかんは、現在の学校の現場と乖離してしまった法制度に疑問を持ち、志を同じくする各界のエキスパートたちと、全国の教師、そして学生たちと共に「NPO法人日本教育再興連盟」を立ち上げ、 代表理事として活動しています。 教育に対し、さまざまなアプローチを試みる人たちに、交流・発信の機会を提供し、特定の立場や考えにとらわれない斬新な教育実践を提案し展開することで、 あらゆる教育活動における最も効果的、効率的な実践の方法を創出をしていく事を目的とし、各地での教育フォーラム開催や小冊子の発行など、精力的に活動しています。

すずきかんは弱視児童のための、拡大文字教科書を全ての教科を用意し、また国がそれを無償で提供できる法整備の活動をしています。拡大教科書は、点字教科書と違い、 著作権上の優遇がされておらず、そのほとんどが弱視の度合いやニーズに合わせて、保護者の方やボランティアの手によって、一ページ、一ページ、拡大コピーしながら手作業によって作られている現状でした。 すずきかんは、国会で要請し続け、弱視教科書の著作権上の特例を設ける事に成功しました。引き続き、文部科学省、教科書会社に対し、保護者の経済的、精神的負担を軽減し、児童が平等に学べる環境が整うよう、政策を強く訴えていきます。

2004年夏のプロ野球2リーグ制廃止・球団縮小の危機において、1リーグ制に反対する超党派議員連盟を仙谷由人衆議院議員と共に立ち上げ、その事務局長に就任、プロ野球ファンの為に、 そして子供達の夢を守るために、盟友である古田敦也氏(東京ヤクルトスワローズ選手兼監督)と共に、球団新規参入にかかわる協約改正に携わるなど、プロ野球12球団維持に力を尽くしました。「野球の未来を創る会」の発起人の一人にも名を連ね、 2007年3月の西武球団裏金問題では、国会の文教科学委員会で選手ひとりを悪者とせず、体質構造の抜本的な改革を求めるなど、現在も球界発展の為の活動を続けています。

サッカー少年であったすずきかんは、広くスポーツを愛し、この国のスポーツ振興にも一役買っています。サッカーW杯誘致活動や、プロ野球界再編問題において国を動かすレベルで活躍するのみならず、 個人としても、ラグビージャパン元監督平尾誠二氏とともに「NPO法人スポーツ・コミュニティ&インテリジェンス機構(SCIX)」を立ち上げ副理事長に就任。実生活と密接に関わる「スポーツ」というものの本質的な価値を再認識し、 スポーツを鍵として、地域や産業を盛り上げる、ひいては日本社会・世界全体を元気にしていくための一大ムープメントをおこそうという取り組みをしています。また、東京オリンピック誘致活動支援なども精力的に行っています。

政治が医療現場をないがしろにしている事によって医療問題が噴出していると考えていたすずきかんが、現場レベルでの政策提言によって、医療を改革していかねばならないと、東京大学の医師らと共に設立した団体、 それが「現場からの医療改革推進協議会」です。また、その活動から創出した医療プロジェクトとして、すずきかんの元に集まってきたゼミの学生たちが主体となって、2006年11月、「コラボクリニック新宿」を立ち上げました。 すずきかんとその仲間たちは、一貫して現場レベルからの改革実践を目指しています。

インターネットを知ったとき、「次の時代を創る哲学そのものだ。」と直感。通産省時代には、情報政策部門の総括課長補佐として、この国のIT革命の最先端を担う。また、私的にも、サイバー・ソサイエティ研究会を主宰し、ITプロデューサーの育成・支援に携わり、 1999年以降は、慶應義塾大学助教授として、情報社会論やネットワークコミュニティ論の教鞭をとりました。当選後も、情報政策を提言し続けるとともに、中央大学、早稲田大学、東京大学などにおいて、情報教育、知価社会論などの教鞭をとりました。現在も学会においても講演を行うなど、 ITを社会の格差を縮め、人を幸せにするための技術として健全に発展させるため、研究と実践を続けています。

すずきかんは、「親と子がお互いに絆を確かめる唄」として日本の子守唄を保存、普及させる活動に力を入れています。世々代々歌い継がれてきた子守唄、唱歌、童謡、などを通じて親子を再確認し、子どもたちの情操の発達に寄与する事を目的とし 「日本のうたとおはなしを甦らせ親子の絆作りを進める議員連盟」で事務局長を、「NPO法人日本子守唄協会」で理事を務めています。日本伝統の「うた」と「おはなし」に秘められた知恵を再評価し、 親子や家庭という教育の根本を見つめ直す新たな試みとして取り組んでいます。

5歳でピアノを習い始め、10歳で歌に目覚めたすずきかんは、中学入学と同時に、バンド活動を開始。同時に声楽に没頭し、一時はオペラ歌手をめざすほど。17歳で声楽で歌曲コンサート開催。大学時代には、合唱と同時に、 ミュージカル劇団ネバーランド・ミュージカル・コミュニティの音楽監督として、駒場小劇場などを拠点に小劇場ブームの一翼を担いました。1999年より、六本木男声合唱団を、作曲家三枝成彰氏とともに立上げ、音楽活動を再開。 現在は特別顧問を務めています。毎年、サントリーホールで定期公演をはじめディナーショーを開催。 また自らも、バンド「すずかんレボリューション」を結成。2007年には初アルバムを発売しました。

すずきかんは、アジアの人々との仕事を積極的に進めています。きっかけは、1992年から一年間シドニー大学に留学し、アジア太平洋協力について研究を行った事でした。帰国後も華僑・華人ネットワーク経済の研究を続け、 山口県企業の中国進出なども支援。当選後も、清華大学との交流を深める一方、朱前首相はじめ中国要人と交流。日中国交正常化30周年のときには日本若手 IT企業家訪中団団長、 2005年夏には、日中政経フォーラム・パネリスト、秋には、第一回ユーロ・アジア経済フォーラム・パネリストとして訪中。また、インドにも数回訪れ、IT関連の人々や、バジパイ元首相をはじめとした要人との交流を精力的に行っています。

すずきかんは、参議院、一期目初挑戦の際、自らの決意と共に、新たな文化が生まれる町、原宿表参道に事務所を構えました。すずきかんが考えていた次世代の社会構造、 自発性に委ねられた地域運営を見事に体現していた表参道に感銘を受けたすずきかんは、それが縁で、原宿表参道欅会商店街振興組合の相談役としても名を連ねています。 行政主導でもなく、ビジネス主導でもない、全く新たな運営モデルとして、「原宿表参道スーパーよさこい元氣祭」を応援し、特別顧問として、毎年運営に携わっています。

すずきかんは原宿表参道で生まれた「NPO法人グリーンバード」発起人として名を連ね、監事として活躍をしています。ポイ捨てをする人をなくすというコンセプトのもと、 自ら掃除をしてゴミを拾ったことのある人ならば、絶対にポイ捨てしないだろうとの仮説に基づき活動しています。今では、一年間で、6000人の人々がごみ拾いに集まり、 そして、60万人の人々に、ポイ捨てをやめようとのポスターやカードを配ることはできるまでになりました。環境問題を「押し付け」や「堅く」語るのではなく、あくまでかっこよく人に伝わるやり方で運動しています。

すずきかんが多彩なゲストを迎え、スタジオ635から毎週水曜日にお届けする対談番組、それが「スズカン.TV」です。インターネットテレビの試みとしては大変画期的であった2001年から始動。 「自分の情報発信のためのメディアが欲しい」と、議員会館の事務所635号室をスタジオに作り変え、放送局を立ち上げ、なんと自らプロデューサー兼キャスターまでも務めている。 以来、毎週水曜日の、豪華ゲストを呼んでの対談はほぼ休まず放送。特別番組なども交えながら、今や放送回数250回近くにのぼる長寿番組となっています。