岩野泡鳴 【いわの・ほうめい】

詩人、小説家、評論家。本名。岩野美衛(よしえ)。明治6年1月20日〜大正9年5月9日。兵庫県淡路島洲本に生まれる。明治26年、東北学院を中退。初期には詩人として活躍したが、明治39年、処女小説「芸者小竹」を発表。明治42年、「耽溺」により自然主義作家としての地歩を固める。また、評論集「神秘的半獣主義」(明治39)を刊行するなど、評論活動も活発化。「芸術即実行」を唱え、作者の主観を移入した人物を描く「一元描写」論を展開した。この理論の実践として、「放浪」(明治43)を皮切りに「泡鳴五部作」(明治43〜大正7)と称される作品群を発表。事業の失敗や放浪生活、色恋沙汰など、作者自身の思想と生活を大胆に描写した。また、私生活における醜聞も多く、破滅的な生涯を送ったことでも知られる。大正9年5月9日、腸チフスにより死去。享年47歳。代表作は「神秘的半獣主義」「耽溺」、「放浪」、「発展」、「毒薬を飲む女」など。

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著作目録

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回想録

「我」の強いのは、敢て泡鳴氏に限らないが、然し泡鳴氏は如何にもその「我」を露骨に見せた人であつた。普通の人ならば今少し婉曲に云ふべき所を、泡鳴氏には全然それがなかつた。だから泡鳴氏に初めて会つた人なら、或は、一寸驚くかも知れない。つまり泡鳴氏は、対手の感情を酌むと云ふやうなことよりも、或はまた、対手によつて其態度を変へると云ふことよりも、先づ自分と云ふものを露骨に投げ出す人であつた。だからさうした泡鳴氏の態度を了解してしまへば、交際の上にはどれだけ簡単便利だつたか知れない。で、初めには聊か不快にさへ思はれたものが後には如何にも愛すべき正直者の泡鳴氏と見ることとなる。
 斯うした露骨な態度は気持の好いほど真正直であると共に、その正直さには、どことなく自然に湧き出づるユーモアがあつた。そのユーモアが即ち「愛すべき泡鳴氏」たる所以である。氏の作品の中に、何とも云へぬ好い、自然に湧き出て居るユーモアを見るのは、かうした氏の性格そのものゝ表現とも云へよう。
石丸梧平「正直の人泡鳴」
大正9年6月



 今から七八年以前、まだ岩野氏を直接に知らなかつた時分には、私は岩野氏が大きらひであつた。無闇に自信だけが強くつて、粗野で傲慢で自分勝手で、相手かまはず片つ端から喰つて懸る、乱暴至極の人間のやうに思はれたからである。
 ところが、一度面と向つて会つて見ると、案外、至極正直な開け放しな、如何にも人の好い人、気の置けない人であるので、実際、一寸驚いた位であつた。その上、段々つき合つて見ると、ますます、気持の好い人、物に拘泥しない人、俗ばなれのしてゐる人であるのが解つたので、私は岩野氏に対して、少なからざる親しみをさへ感ずるに到つた。
 第一、写真で見ると可なりこわさうな様子をしてゐるあの顔が、直接会つて見ると、思ひもつかなかつたほど無邪気な、人の好ささうな表情をしてゐるのも、意外であつた。殊に、顔を少し上へ向けて思ひ切り大きい口を開いて、太い声で笑ふ時の様子などは、実際、悪気などは何処を探しても見当らないと云ふ風であつた。然かも、何処かに人間としてのスケールの、妙に大きいところがあつた。何か正体の知れない大きさ、普通の大きさとは少し趣きを異にした、別種の大きさがあつた。大杉栄氏に「偉大なる莫迦」と云ふ名をつけられたのも、あながち根拠のない事ではない。たしかに何処か偉大であつた。
江口渙「人としての岩野泡鳴氏」
大正9年6月



 英枝夫人は陰鬱な伝染病室のせまい廊下に茫然とたゝずんでゐたが、わたし等のすがたを見ると、小刻みにこちらへ駆けて来た。そして私の胸にすがつて、声をはなつて慟哭した。わたしも胸が一ぱいになつて、何と慰めていゝやら分らなかつた。そこへ色白の丈のたかい一人の医員がやつて来て、わたし等二人にむかつて懇談的の口調でいつた。『患者をあのまゝにして置いては、まへに申し上げたとほり、十か十まで絶望です。ただ最後の手段として外科的手術がのこつてゐるのですが、金もかゝることであるし、何うしたら可いでせう』『手術を受けたら助かる見込みがあるでせうか』『助かる見込? ――それは何とも請合はれません、しかし満更ないとも申されませんが、何にしろ手遅れになつて居るのですからな』『何うせ助からないとして、あの儘にして置くと、手術を受けると、どちらが楽に死ねるでせう』『手術をうけると、早いのは手術台のうへで参つてしまふし、でなければ覚醒後比較的やすらかに死んで行きます。しかしあの儘にして置くと、しまひに口から糞便を吐いて、医者の我々でさへが見てゐるに堪へないほどの悲惨な死にかたをします』わたしは泡鳴氏ほどの人に、そんな見にくい死にかたをさせてはならないと思つた。出来るだけ美しく、やすらかに死なせたいと思つた。で、英枝夫人に目で同意をもとめて『では手術をしていたゞきませう。』医員はその言葉を聞くと『承知しました、手術をうけるのなら一刻も早いほうが可いのですから、あなた方のほうで本人の承諾をもとめ、遺言がまだしてないのなら、今のうちに聞いて置いたら可いでせう』(中略)
 病人は身にせまつた運命を感づいてか、感づかずでか、塑像のやうにベツトのうへに仰向いて、パツと開いた二つのおほきな目で天井をにらんでゐた。私はをどる胸をじつと押しつけて、極めてしづかに、極めておだやかに病人に云ひ聞かせた。『さきの稲田博士の診断によると、あなたの命は今晩ぢうに六ヶしいと云ふことです。あなたは、あらかじめ其の覚悟をしなければなりません。しかし。今また医員が来て、手術を受ければ、助かる見込みが無いわけでもないと申しました。あなたは其れをお受けになりますか』。病人は、しかし、私の言葉にすこしの驚きも見せなかつた。『手術とは何うするのか』『腹を切つて、腸の穿口を接合するのです』『腹を切る?――僕は一生に一度、腹を切るほどの経験をしてみたいと思つた。治つたら可い作が書けるだらう』。『さぞ可い作が書けるでせう、しかし手術をうけるにしても、危険は危険なのですから、万一の場合を覚悟して、いまのうちに言ひ遺すべきことがあつたら、言ひおいて下さい』。『よろしい』
 わたしは英枝夫人をさし招いた。病室のドアーを固くとざして、病人の遺言を聞くべく、夫人と、原子氏と、わたしの三人のみが病人の枕頭に立つた。病人は一語一語を噛みきるやうな沈痛な調子で述べたてた。わたしは其れを万年筆で書きとめた。遺言がをはると、病人はわたしから万年筆と、手控へとを受けとつて、顫へる手で、手控の余白に『以上、泡鳴岩野証明す』と書き足した。(中略)
 手術を終へたのは午前一時ころだつた。病人は佐藤外科の第十四号室のベツトのうへに、魔睡から目ざめた自分を見いだした。呼吸はすこぶる逼迫してゐたけれど、意識はきはめて鮮明だつた。明るい電燈が、病人のまうへを照してゐた。大きな西洋蝋燭が枕頭の卓上にともされてゐた。酸素発生のまろい器機がジジと音を立てゝゐた。『手術はまだか』と病人がたづねた。『もう済んだのです』と誰かが答へると、『さうか』と軽くうなづいた。いつの間にかここへ来てゐた英枝夫人が、涙に声を顫はせなから『しつかり仕なくては可けません。本統にしつかり仕なくては可けません。』
 酸素吸入器が、看護婦の手でたえず病人の口にあてがはれた。やがて病人は口をあけ放して、吸ふ息のみとなつた。追ひかけ追ひかけ注射器が運ばれた。万事休す矣。嗚咽のこゑが室内をこめた。英枝夫人がわたし等の名まへを順次に呼び立てゝ最後の別れをつげさせた。病人は一人々々をぢつと見つめたが、舌はもう自由を失つてゐた、手が氷のやうに冷たくなつて、死のいろが刻々面上ににじんで来た。眼はなにを見てゐるのか。開いたまゝで視点がなく、熱砂のうへに棄てられた魚のやうに、口をアクアクさせてゐる。やがて両手に痙攣が来た。医者と看護婦とが支へて居つた両手を、大きく二度ばかり差しあげたのを最後に、呼吸はピタとやんでしまつた。
江部鴨村「泡鳴氏の臨終」
大正9年9月



「日本の女は結婚してしまふと、どうせあなたに上げた体だ。どうでも勝手にして下さい。と云つたやうに色気も活気もなくしてしまふ、さうして只夫から愛されるだけで自分から能動的に働いて来ない。悪い癖だ。」とよく云ひました。
 泡鳴氏は、妻として又は恋愛の対照者としての日本の女性をかう罵倒してはゐましたが、シヨウペンハウエルや、シヨオや其他の恋愛の失敗者が概して恋愛の罵倒者、女性の罵倒者となり、同時に女性に対する或は恋愛の絶望者となるのが一般の帰結でありますが、泡鳴氏は此点に於ても又全く異つた経路を執りました。彼は第一の妻を初めとしてそれ以後数人の女性との恋愛に於ても常に失敗者でありました。
「僕は今迄知つた女で僕から捨てたものは一人もない。」と彼が私に語つた事があります。此言葉から押しても彼は確に恋愛に於ての失敗者であつたのであります。然も泡鳴氏は其愛人には絶望しても、恋愛にも又女性と云ふものにも決して絶望しなかつた。彼が次から次へと新らしく恋愛を造つて行つたのは其ためであります。さうして彼は最後まで女性崇拝者女性憧憬者でありました。
遠藤清「別れたる夫泡鳴氏の死の驚愕を前におきて」
大正9年6月



 泡鳴氏の入浴好きであつた事は彼自ら告白してゐた通りであります。さうして旅行するにしても温泉のあるなしが問題でした。恐らく温泉のない所へは特別の事情がない限り行つて見る気にならなかつたのでせう。さうして一日中に五六回はかゝさず浸つたものです。
「湯の柔らかさは、若い女の肌よりもしなやかなものだ。」とよく云つてゐました。大久保の家は湯殿もありませんでしたし風呂桶を買ふ余裕もなかつたものですから隔日にかゝさず銭湯に行きました。池田には幸に家に備へ付けてあつたものですから一日もかゝさずにたてました。それ以後は目黒でも宮仲でもずつと通して家にお風呂を置きました。泡鳴氏は夏冬を通して毎日少なくとも二回は浸つてゐました。泡鳴氏は衣食住とも質素な人でしたがお風呂だけは唯一の道楽でした。
遠藤清、同上



 だが、多少案外に思はれる様な事がないでもない。例へば氏は非常に計算に精密であつたことなどもその一つであらう。泡鳴氏は金銭上にだらしのない様なことをした事がない。一寸想像して見たところで岩野泡鳴氏と云へば大分乱暴なしまりの無い人間の様に思はれる向もあり、また事実ある時代にはそんな事もあつたかも知れぬが、すくなくとも僕が知つてから――即ち大阪新報記者時代からこつちは所謂律儀者以上に金銭の事には厳重で、一銭の事でも五厘のことでも曖昧にして置くのは嫌ひな人間だつた。その当時大阪新報の会計係だつた沢田君など、時々泡鳴氏から逆ねぢを喰つて一本参らせられる事が度々だつたさうである。
 氏が目黒から巣鴨に転宅した時なども氏自身で「ここに来た時分家主など大分僕をあぶなつかしい人間だと思つて居たらしいが、家賃など正確に払ふもんだから大変な信用をして呉れて地面なども余分にいくらでもつかはせて呉れるから、百姓をやつて居る。」などと云つてトマト畑に肥料をやつたりなどして見せた。
 金銭にかぎらず何んでもキチンとした方で、著書の校正なども厳重だつたし、蔵書の整理も行き届いて居た。泡鳴氏の書いた「新体詩史」など年代を精密に調べあげた点だけでも蒲原有明氏をして舌を巻かせた程で、氏が博士論文として提出した韻律論などもコツコツ精根をつくして、数理的科学的に行つたものだ。そんな性質が特に如何にも泡鳴氏らしく無邪気にお愛嬌らしくあらはれた事は、例の初期の著作家協会を脱会した時などで、「僕は此の会の為めにハガキ代を何十何銭費つたからそれを請求する」と云つて僅かの銭を堂々と要求して席をたつて帰つて行く‥‥‥始めての人に招待を受けて御馳走になる場合にでも、帰る時に電車賃を十何銭などゝ要求することさへあつた。
加藤朝鳥「逸話に現はれた泡鳴氏」
大正9年6月



 人々の中には、彼が好色家であつたと言つて非難するものがあるかも知れない。なるほど好色家であつたかも知れない。しかし、それならば、誰が好色家でないのだ。少くとも、好色家の故に彼に石を擲ち得るものが、天下に幾人ゐるだらう。親しく彼を見た吾々に言はせれば、彼は決して所謂好色家ではなかつた。たとひ好色家だつたと言ひ得るにしても、彼は真情のある好色家であつたのだ。
 人々はまた、彼が二度、三度その妻と取り換へたと云ふ理由で、彼の不倫を難ずるかも知れない。無論私は、その度々の離婚問題の理由が何処にあつたか、その是非曲直が何れにあつたかを知らないのだから、彼のこの行為を軽率に是認しようとは思はない。が、ただこれだけのことは言つて置かなければならない。彼はその妻に対して常に誠実であつた。人並外れて誠実であつた。その誠実が、その誠実ならんとする心掛けが、彼をしてあれほど度々離婚問題を起させ、あれほど熱心に離婚問題に当らせたのではないか。
 親しく見た吾々に言はせれば、岩野氏の性欲生活には濁りがなかつた。彼はよく私たちに、「自分は自分の女房以外の女とは関係しない」と公言してゐた。この公言には、或は多少の反証があがるかも知れないが、しかし私の知つた範囲に於ては、彼は女郎買ひも芸者買ひもしたことがない。実際、彼は、その点に於ては理想的な良人であつたと言へる。而して如何にも一元主義者らしい良人だつたと言へる。而もこの理想主義の良人、一元主義の良人が、一度ならず二度ならず、理想主義に与し易い世間から、その不倫を責められたと云ふことは、何と云ふ皮肉だらう。
田中純「岩野泡鳴を悼む」
大正9年6月



 或夏の事であつた。泡鳴氏は、一夕友人の北村季晴氏の招待を受けて芝伊皿子の同氏宅と訪れた。そして既に用意されてゐた席につくと早速北村氏が盃をさしながら、
「今日は君、惜しい事をしたよ。君に舶来のビールを呑ませやうと思つてわざ/\井戸につけて置いたのだ。ところが何うしたはづみか紐が切れて、井戸の底へ沈んで終つて、何うしても取れないんだよ。」と惜しさうに云ふのだつた。
「そいつは残念な事をしたね。――よし、そんなら僕が這入つて取つてやらう。」と云つて、気の早い泡鳴氏はその場で裸体にならうとした。それを見た北村氏も、傍に居た初子夫人も、驚いて色々止めてみたが、
「なあに大丈夫さ。これで僕は水泳の名人だからね。」と云つて中々止めなかつた。やがて氏は、褌一ツになつて、近所から梯子を借りて来て井戸の中へ下ろした。そして、亀の子のやうに水底へもぐつて行つたと思ふと、間もなく目的物を抱えて上つて来た。それを見た初子夫人、
「岩野さんの冒険にもほんとに驚いて終ひますわ。」
「奥さん。実際井戸の水は冷いものですね。」と云つて、氏は髪の毛から雫を垂らしながら、ガタ/\ふるえてゐたといふ事だ。
中沢静雄「逸話二つ三つ」
大正9年6月



 これは又去年の夏、泡鳴氏が塩原温泉へ行つた時の事である。氏は有名な二食家で、「二食主義者」といふ小説まで作つた程である。で、氏は旅行した先々まで必ず二食を厳守してゐた。
 塩原へ行つた時も、先づ第一に宿屋の上さんをつかまえて、
「僕は一日に二度しか飯を食べないのだから、宿賃を幾らか減いてもよからう。」と云つてかけ合つた。
「あゝ、さようで御座いますか。それでしたら、一日三円のところを、二円五十銭に致して置きませう。」と云つて、上さんはうつかり引受けて終つた。ところが、泡鳴氏の二食は普通の人の四食にも相当するのだ。平生氏は可成り大きな茶碗で一度に少くとも七八杯は平げてゐた。而も、湯好きの氏は、温泉宿の事で一日に幾度でも湯へ飛込んで、腹を減らして詰め込むのだから、どの位食べたかは想像に余りがある。米の高いのに二人分も食べられるので、流石の上さんもそれには随分狼狽したさうだ。だが、其処は客商売の事で、一旦承諾した以上は今更値を上げる事も出来ず、と云つて、みす/\損も出来ないと見えて、それからと云ふものはだん/\お菜の方を悪くして来た。さうなると今度は泡鳴氏の方が閉口して終つて、一月許り居る筈の予定を、十五日位で切上げて、早速東京へ逃げ帰つたさうだ。
中沢静雄、同上



 自分も岩野氏の過去の作に対しては余り接触を持たなかつた。がその半獣主義に、その日本主義にその征服々々と戦つて熄まざる論争に、最近にはその一元描写論にまたその常に徹底を望んで行動する私的生活の波瀾に於ける氏を常に感心と興味を以て見詰めてゐた。併し或る時期までは無智な、唯外側だけを見て本質を感じない世人達の様に、自分も氏の人為を可成り誤解してゐた。いはゞ虫の好かない人物、不愉快な作家――そんな風に考へてゐた。一つはその余りに乱暴な征服的態度に対する反感もあらう。一つはその余りに無茶苦茶に振舞ふ私的生活――例へば、数年前に起つた氏の離婚事件の如きに対する嫌悪もあらう。で、氏を全く未見の人として想像してゐた私は、今は亡き人に対して余りに心なき詞ではあるが、如何にもうす汚い、ガサツな、冷酷な、醜い肉慾的臭気の発散する人物――云ふならば、印象の極悪いあんまり逢つてみたくもない人だと云ふ風に思つてゐたのだつた。忌憚のない処、氏の作品に余り接触しようとしなかつたのは、さうした自分の想像から産み出される氏に対する一種の毛嫌ひからも確にあつた。
 が、この一月の初だつた。芥川君から「次の日曜我鬼窟に来れ。岩野泡鳴先生も来訪の筈‥‥」と云つたやうな葉書を貰つて、その日曜に田端の芥川君を訪ねた。三四人で話してゐるもう夕方に近い頃、岩野氏が座に這入つて来た。
「やあ、こないだは失敬……」と芥川君に如何にも打ち解けた調子で云つた、その飾りのない、サク/\した声に驚いた自分は、紹介されて氏が自分の横つさまに坐つた時、その身綺麗な、可成りしやれた、きちんとした身装に、その若々しい、艶々した顔色に、感じの好い、一種の無邪気さと、親切さを含んだ眼に、その美しくかき上げた漆黒な髪の毛に、その如何にも率直な、竹を割つたやうな感じを持つた笑ひ声に、その終始変らないざつくばらんな、活々した、打ち寛いだ態度に全く想像を裏切られて感心してしまつたのだつた。
南部修太郎「文壇の大損失」
大正9年9月



 渠は反坑の場合に全力を尽して、頑強其物の権化のやうに見えたが、同情若くは推讃の前には、何事も云ひ得ない程に弱かつた。反抗の前に雄弁な渠は、同情の前に沈黙するのだつた。だから、渠の作品でも褒めようものなら、渠は『ふん、ふん』と云つて鼻で聴くやうな風をして居た。褒められても謙遜するやうな事はなく、却て一段と思ひあがる処に、如何に渠の自信の強いかが現はれて居た。
 渠の傑作たる『入墨師の弟子』を掲載した『新小説』が発売禁止を食つた時、渠は検察官の蒙昧を嘲つて、大にやッつける積りだと息巻いて居た。後数日警保局に行つて某課長に会つた。その男は渠の機鋒を挫く為でも無かつたらうが如才なく渠の作の勝れてる点を挙げ、そして最後に禁止の己むべからざる理由を説明したさうだ。それで渠はすつかり諒解して一戦も交へずに、論陣を撤退したさうだ。お世辞にもせよ渠は褒められると、その好意を無条件に容れてしまふ。然うした処に、渠の率直な、生真面目な、半面を窺ふことが出来る。(中略)
 これも渠の直話だが、渠が道を歩いてゐると、渠の前に行つた男が放屁した。負け嫌ひの渠は急ぎ足にその男の前に行つて放屁を仕返した。その男も亦反抗心に駆られたと見えて、渠の前に立つて又放屁した。渠も亦男の先に行つて放屁した。数回こんな事を繰返して痛快がつたと云ふが、渠の有情滑稽味の反抗心が能く現はれてゐる。
 渠は碁でも、将棋でも、負け込んで来ると、畜生!を連発する。愈々負けると、歯を食ひ縛つて、この野郎!とお出でなさる。少しでも勝つと、にこにこするが、負けると顔色を変へて猛襲する。論壇の緊張した征服的態度は、矢張勝負事の上にも現はれた。不負魂――反抗、渠をして群を抜かう抜かうと努力せしめたのは、其処にあると思ふ。
吉野臥城「有情滑稽家の生死」
大正9年6月

大正2年 大正3年4月 大正8年12月


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