2011年08月18日

 ふとあるシンポジウムに参加した時のことを思いだしたので、今日はこれについて少し。それは青少年問題に関するもので、いわゆる青少年育成団体の関係者や若者代表として大学生が参加して行われておりました。当然こうしたものにパネリストとして選ばれた方なので、皆話すことが得意な方ばかりでした。

 ただ、中でもパネリストの大学生が異彩を放っておりました。何故「今の若者は元気がないのか」という感じのありきたりの議題について意見を述べているときでしたが、突然その大学生が、それは「大人が、今の社会が元気がないからだ。」とかなり厳しい意見を述べ初めました。

 彼のいわんとしていたのは、若者が夢や希望を持てず元気がないのは、今の社会がそうなってしまっているからであるということでした。そして現在の社会を作り上げたのは誰か、目の前にいる大人(社会人)の方々なので、大人の方にはその責任を感じてもらいたいというものでした。

 確かに学生ならではの、社会を知らない者の、青くさい理想論と言ってしまえばそれまでかもしれません。しかし正論は正論です。そのため、それを聞いていた他のパネリストや会場にいた「大人」の方々は苦笑するしかありませんでした。

 ソクラテスの時代から自分一人がどう頑張っても「社会」は簡単に動かない(良くならない)ことは認識されているわけですが、社会を作っているのは自分たちと1人1人というのもまぎれもない事実です。

 それともう1つ興味深かったのが、今となっては何の話だったか記憶がはっきりしませんが、その大学生が如何にも習ったばかりの理論を話して「俺はこんなことを知っている、こんなすごい考えを持っている。」という感じを漂わせていたことです。

 私自身、高校・大学と今まで知らなかった理論を教えてもらったり、勉強したりするとそれだけで賢くなったような気がした人間だったので、彼が何を考えていたかよくわかったという面があったのかと思います。以前書いたように、私は大学時代フェミニズムにこっていたことがあります(「フェミニズム」)。

 合同ゼミか何かの席だと思ったのですが、ある方がフェミニズムという考え方はこんなにすごいということを延々と話す方がいて閉口したことがあります。おそらく学び始めたばかりで、反対意見などを聴く機会がまだ少なかったのかと思います。

 私が修士課程に在学していたとき、修士論文を書くために他人の書いたものを見る作業をしていた時期があります。今から考えれば当たり前なのですが、通常読んでいるのが有名な方の論文だったので(正確には有名な方以外私が知らないので)、それと比較して修士論文とはこの程度で良いのかと思ったことがあります。

 ただ、2年目に自分が莫大な労力と時間をかけて書いたものを後で読みなおすと、自分の書いたものも「この程度」でしかありませんでした。後日、後輩が修士論文を書き始める前に同じようなこと言っていたので、皆同じようなことを考えるものだと思ったものです。

 実際、自分でもブログを書くようになって、他の方の書かれたものを拝見する機会が増えました。その際、本当にすごいと思うこともある反面、もう少しつっこんで分析してくれないものかと物足りなさを覚えることもあります。ただ、その際思うのが、自分で同じことが書けるということです。

 ブログを書き始める前であれば、自分はもっとすごいものが書けると思っていたかもしれません。しかし、自分の書いたものを見ると自分ももっとつっこんだ分析ができていないと思うことが多く、やはり自分でやらないとわからないものだなと改めて思いしらされました。

 何故このような記事を書いているかというと、実は土曜日から1週間ほど夏休みをいただいたので、しばらく留守にし、更新ができなくなる予定だからです。明日(金曜日)も準備があるので、果たして更新ができるかわからないため、これを機会に振り返ってみるものよいかと思って今回のエントリーとなった次第です。

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凜amuro001 at 21:15│コメント(3)トラックバック(0)その他 │この記事をクリップ!

2011年08月17日

 今日は以前書いた「中国のスポークスマンのあるべき姿」の続きのようなものです。「信じるか信じないかはあなた方の自由だが、私自身は信じる」などの迷言を残した中国鉄道部の王勇平報道官が16日に停職処分となりました。

 これを受けて『環球網』が社説「希望“王勇平悲剧”不再重演」(王勇平の悲劇が再び起こらないことを望む)を掲載していたのですが、これが興味深いものだったので、今日はこれについて少し。

 導入部は彼の停職についてです。しかし、高速鉄道の事故を受けたの記者会見で、マスコミと接したときに、一定の(スポークスマンの満たすべき)水準を満たしていなかったことが今回の解任と関係があり、彼は責任をとるのは当然だと、かなり手厳しく始まります。

 ただそれに続いて政府の他の部門でも社会から信用を無くしている状態で、彼と必ずしも異なる対応ができたか疑わしいとそれなりに擁護するとともに、スポークスマンに対し頑張ってくれと訴えています。そして、スポークスマンは中国政治が公開されていること、透明性を表してるとタテマエ論を論じます。

 そしてその後で、そうは言ってもインターネットやマイクロブログで通常に人もいろいろな情報を知ることができ、こうした世論を相手にするのは難しいことだと現実に基づいたことを書き始めます。どうも読んでいて思ったのですが、○○だけども、必ずしもそうでもないと、左右にぶれた書き方をするのが作者の特徴の様です。

 実際、鉄道部や中国赤十字(「中国赤十字に対する「醜聞」」及び「中国赤十字に対する「醜聞」2」参照)の失敗例などをみると、スポークスマンの仕事は今後益々難しくなっていくが、これを解決するには、再度「官」に対する信用を取り戻すよう努力する以外に道はないようだと、またしてもタテマエ論に戻っております。そして、信用(頼)が足りない場合は、正直になることが重要だとタテマエを続けます。

 でこのままタテマエで終わると思いきや、またしてもホンネに戻り、中国は問題が数多くあり、解決には過程と協調が必要であると始めたかと思うと、急いでもダメなことは大衆もわかっているはずであり、官僚も寸暇を惜しんで問題解決にあたっていると、官僚擁護を始めます。

 しかし、続けて官僚は社会に対し、公開したり謝ったりする勇気が欠けており、官僚は良い結果を宣伝することを勧められていると官僚批判らしきことを行います。

 先に作者の特徴として、右にいったり、左に行ったりすると述べました。しかし、もしかすると、個人的には官僚批判をしたいのですが、表だって行うといろいろ厄介なので、バランスをとって擁護しつつ、批判を行うという形態をとらざるを得なかったのかもしれません(あくまで私個人の推測の域を出るものではありません)。

 もう1つ紹介したかったのが、『環球網』にはこの社説以外に「王勇平の離任は鉄道部のイメージを改善することが出来るか?」というアンケート行っていたことです。結果は「出来る」と答えた者が5%に留まり、「出来ない」と答えたものが95%にものぼっておりました。

 「出来ない」として者が書き込んでいた意見としては、「鉄道部の改革が行われていないのだから、出来るはずがない。」といった至極当たり前のものから、鉄道部の腐敗を非難するものまでいろいろありました。当然のことですが、スポークスマン1人停職にして問題が片付くとは誰も思っていないというこどです。



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凜amuro001 at 20:33│コメント(1)トラックバック(0)中国高速鉄道 │この記事をクリップ!

2011年08月16日

 『中国新聞網』に「中国学子不应把留学当作逃避进入社会的途径」(中国の学生は留学を社会に出ることの逃避にすべきではない)という記事が掲載されており、興味深かったのでこれについて少し。

 一言で言ってしまえば、この記事は大学を卒業後も就職難や、社会にでることに対するおそれから大学院への進学を希望するものが増えている。その結果国内進学が難しくなったので、海外の大学院に進学するものが増えているがこれは国外逃亡、もしくは一種の逃避ではないかというものです。

 最近日本でも博士課程に進学したは良いものの、就職先が見つからないという問題がいろいろクローズアップされております。大学卒業後専門分野について、長期間研究したことが社会で生かせないということとなり、これは確かにもったいないことかと思います。

 しかし、その一方で単なる専門馬鹿になってしまい一般常識すら欠ける者がいることも事実です(それに実際社会と隔絶したところでの研究がどれだけ社会の役に立つかという問題もあります、特に文系)。また、どこもかしこも博士課程を創設したので、あの大学にまでというところにもあり、びっくりしたこともあります。

 斯様に大学院の拡充が、大学にとって金儲けの意味があったのは間違いないことかと思います。留学生も同じです。特に少子化が進み18歳人口が減少している日本では留学生でも何でも生徒をかき集める必要があったという現実があります。こうした大学側の状況は文科省の政策の不手際と併せてよく目にします。

 しかし、生徒の側に対する批判となると、どうしても生徒側には被害者的側面があるという理由からかあまり目にすることはありませんでした。騙す者と騙される者で、騙す者が悪いことはいうまでもありません。しかし、騙される者に全く非がないかというとこれも一概にそうは言い切れない面もあるかと思います。

 実際、大学院に進学するかどうかは誰に強制されたわけではありません(教授の勧誘があったかもしれませんが最後に決めたのは自分です)。それに大学院修了者の職の問題といっても、少子化の影響などから大学のポストが減って、研究職につけないというのが本当のところで、民間を目指せば就職口がないわけではありません(むろん学部卒より年齢も高く、専門に凝り固まっている分難しいことは否定しません)。

 実際、私も中国の大学に留学していたとき、日本の大学に進学できなかったからという理由で、中国の大学に進学して来た者がいました。当たり前の話ですが、日本で勉強できなかった者が、中国に来て勉強するようになるはずがありません。

 むろんこうした者だけが全てなどと言うつもりは毛頭なく、中国の何々を勉強したいというしっかりとした目的を持って来た者もおりました。ただ、どうしても何をしに来ているのかわからない者は目立つため、最初の記事を読んだ時、かなりの共感を覚えてしまいました。

 人は生きていく中で様々な選択をします。そして、自分の人生の中で、どのような選択をしたかによって、最後に責任を取るのは自分です。偉そうなことを書いておりますが、私自身、あのときああしておけばよかったという後悔だらけの人生というのが実際のところです。

 そういう意味でもある意味極めて正論の記事です。ただ、少しひっかかったのが、如何にも中国の大学院試験が難しいから外国に留学するという形になっているところです。大学によりいろいろなので、何とも言えないところもあるのでしょうが、中国も大学の金儲けのために生徒数を増やしており、以前よりは楽になったはずです。

 実際、私の見たところでは修士課程で1学年1専攻100名以上などというわけのわからないところもあり、学部生と大差ない授業形式になっておりました。ちなみに中国の修士は3年なので、外国で2年でとった方が良いと判断して留学する者もいるので、確かに様々で一概にどうこう言えないことだけは間違いありません。

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凜amuro001 at 20:12│コメント(2)トラックバック(0)教育 │この記事をクリップ!