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私の8・15<1>葛根廟事件 戦争はもうたくさん 母は頭に銃弾を浴びていました 川内光雄さん—連載
20050719付 朝刊掲載

 ●川内光雄(かわうち・みつお)さん(67) 福岡県古賀市
 あの日、一九四五年八月十四日のことは、思い出したくありません。思い出すたび、そのむごさ、怖さ、残虐さに体が震えるのです。小学校一年生、七歳だった私の目の前で母が銃殺され、妹とはぐれ、満州(現・中国東北部)の地で、戦争孤児となった日だからです。
 「葛根廟(かつこんびよう)事件」といいます。満州の「葛根廟」で、在留邦人千数百人がソ連軍戦車隊に襲われ、千人以上が惨殺された事件です。戦車は午前十一時すぎ、満州・興安街から戦禍を逃れて、集団で避難する途中だった私たちに襲いかかりました。狂ったようなエンジン音と機銃掃射でした。みんな泣き叫びながら逃げまどいました。ばたばたと人が銃弾に倒れ、戦車にひき殺された人もいました。

 私は、当時三十二歳だった母に抱かれ、大きな溝に転がり込むように逃げました。左肩に銃弾を受け、「痛い」と振り向いたとき、すでに母は頭に銃弾を浴びていました。「おかあさーん」「おかあさーん」と母の体を夢中で揺すりました。母は、ばったりと倒れました。背中にすがりつき、わんわん泣きました。妹ともはぐれました。父の行方も避難前から分かりませんでした。

     *

 一晩中、母の遺体の横で、泣き明かしました。私と同じく親を失って泣いていた子どももたくさんいました。狂ったように、わが子を捜す親もいました。その傍らで、負傷した多くの人が、絞り出すような声をあげて、手りゅう弾や短刀で自決してゆきました。
 翌朝、「おかあさん、さよなら」と手を合わせて、私は生きるために荒野を歩き始めました。親を亡くした子ども五、六人が一緒でした。途中、川にさしかかり、川を渡り終えたとき、私は、肩の傷の痛みで失神し、気がつくと一人になっていました。そのとき、中国人にカマで脅かされ、着ていたものを取られ、もう歩く気力も生きる力もなくすわり込みました。

 そんな時、優しい中国人「王魁」に出会いました。この人のおかげで私は、中国残留孤児として生き延びることができました。私の中国名は「王喜財」。王魁は、農業をしながら、養父として私を大事に育ててくれましたが、周りの中国人からは「中国語が話せない者は殺す」と脅かされたり、「小日本鬼子」と何度もののしられました。成人してから、会計の仕事などに就きましたが、私が日本人と分かり、職を失ったことも何度かあります。

     *

 佐賀の武雄で生まれた私は、九四年に祖国・日本に永住帰国しました。帰国後、日本人なのに日本語が上手に使えないので、つらい思いをしました。日本政府は私たちに十分な日本語教育をしてくれない上に、高齢なので、働こうにもなかなか就職先もありません。今は生活保護を受けています。
 戦争はもうたくさんです。これからの人に私のようなつらい体験をさせては絶対にいけない。

 葛根廟事件 一九四五年八月八日、日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告したソ連の戦車部隊が同十四日、満州のラマ教の廟「葛根廟」付近の丘で日本人避難民千人以上を虐殺した事件。犠牲者の多くは女性や子どもだった。