父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。

 巌兄、姉上様、しめそし、南ばん漬け美味しゆうございました。喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。

 幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難ううございました。モンゴいか美味しゆうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。

 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、立派な人になって下さい。

 父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

注:三日とろろ 須賀川地方では正月3日に食べるとろろをこう呼ぶ。

陸上自衛隊 三等陸尉 円谷幸吉 1968/01/09


 円谷は福島県立須賀川高校で陸上部に在籍していた。円谷は特に成績を残す訳でもない平凡なランナーだった。県の10マイルロードレースに出場した時も順位はビリから何番目という散々な結果だった。

 レース終了後、陸上部の監督は県陸連の委員から円谷について次のような言葉を聞いた。

「おまえのところには面白い選手がいるじゃないか。あいつさ。あれだけ走ってひとつも汗をかいてない。不思議な奴だ。」

 円谷は高校を卒業後、自衛隊に就職した。円谷の配属先は地元、須賀川駐屯地だった。須賀川駐屯地には陸上部がなかった。円谷は先輩の斉藤三曹と共に陸上部を設立し、毎日20キロ以上走りこんた。

 円谷は近所で開催された草レースに出た。円谷は一位、斉藤は二位に入賞した。そして自衛隊の上層部はレースに出る度に入賞する二人に注目した。東京オリンピックが近づいていた。

 昭和37年(1962年)4月、陸海空自衛隊共通の特殊学校として自衛隊体育学校が設立された。表向きは自衛隊の体育教官養成が目的の学校だった。しかし実際は東京オリンピックのためのメダル候補生養成機関だった。円谷は入校を志願した。

 円谷は腰部カリエスの持病を抱えながらも一教官の直感により入校が許可された。翌1963年、円谷はニュージーランドで開かれた2万m走において、ザトペックの世界記録を4秒縮るタイムで2位入賞した。長年不振に喘ぐ日本陸上界にとって久しぶりの快挙だった。円谷は一躍天才ランナーと賞賛された。

 1964年東京オリンピックが開催され円谷はマラソンに出場した。この時、円谷はけして後ろを振り向かなかった。以前、競技会の時後ろを振り向いた円谷は父から「男ならけして後ろを振り返るようなことはするな!」と強く叱責されていた。

 円谷はゴールの代々木競技場へ2位で入場した。観衆は熱狂の渦に包まれた。しかし、けして後ろを振り返らない円谷は場内でヒートリーに追い抜かれ3位に入賞した。

 しかし円谷のメダル獲得に日本中が熱狂した。地元須賀川市では大パレードが行われ、防衛庁長官からは第一級防衛特別功労賞が授与された。

 1966年、円谷は長年付き合っていた地元の女性と結婚する予定だった。しかし上官は競技生活に支障が出ると反対した。結婚は次のメキシコ五輪までしてはいけないと円谷に告げた。

 円谷は女性に結婚の延期を告げた。その後、女性は円谷の自宅を訪れ、玄関先に一つの段ボール箱を置いて去った。その中には円谷が送ったプレゼントが全て詰まっていたという。

 それから円谷は相次ぐ故障のため成績は延びなかった。女性は昭和42年暮れに須賀川市内の商家に嫁いだ。

 昭和43年1月、正月に久しぶりに帰郷した円谷はどこかでその話を聞いたのだろうか。円谷は正月、実家から東京へ帰るとき、兄の車に伴走されて国道4号線を走るのが常だった。普段は数時間は平気で走っている円谷はこの時、10分もしないうちに車に乗り込んできた。そして呟いた。

「もう走れない。」

 数日間、円谷は官舎に戻ることはなかった。官舎に戻ったのちに安全カミソリで頸動脈を切り自殺した。

 円谷の葬儀は須賀川市と円谷家の合同葬として行われた。生家は円谷幸吉記念館として公開されている。須賀川市では毎年11月第二日曜日に円谷幸吉メモリアルマラソン大会を開催しており、命日には地元陸上競技協会の後想会が開かれている。

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