プロ野球やサッカー中継を中心に様々な“無茶”を繰り返し、スポーツアナウンサーとして「切り取ることの重要性」を学んできたと言うニッポン放送・洗川雄司アナウンサー。そんな洗川アナがスポーツアナウンサーを目指すキッカケ、ニッポン放送を選んだ・選ばれた経緯を紐解いていくと、まさに運命のような物語があった。アナウンサー志望者必見の後編です。




新人アナウンサーが四苦八苦している姿を見て、笑う会社なんです(笑)


ニッポン放送 洗川雄司(あらいかわゆうじ)


ニッポン放送 洗川雄司(あらいかわゆうじ)PROFILE

1977年6月16日生まれ。長崎県五島列島福江島出身。早稲田大学社会科学部卒業。
2001年、ニッポン放送にスポーツアナウンサーとして入社。通称「エロい川」。歯切れのいい実況で野球、サッカー、競馬をすべて器用にこなす。声は高いが背は低い。深酒のせいか近年肥満が進み、身長と体幅があまり変わらなくなってきた。
現在は「ショウアップナイター」「Jリーグラジオ」「日曜競馬」など、スポーツ中継を中心に活躍中。



オグマナオト


オグマナオト PROFILE

福島県出身。風車とスポーツと食べることについてばかり考える30代。『エキレビ!』レギュラーライター(エキレビではスイーツ&スポーツ担当)。『編集会議』でインタビュー記事を担当するほか、風車ライターとして『電書雑誌よねみつ』で「まわれ風車男」を連載。テレビ朝日「マツコ&有吉の怒り新党」の“新・3大〇〇”(5/23放送分)で企画協力も。

Twitter:@oguman1977


──「無茶をさせるニッポン放送」という話がありましたが、アナウンサーとしての“初鳴き”も早い方でしたか?

洗川 アナウンサーとして最初にマイクを握ったのが、入社して6日後か7日後だったか……。

──めちゃくちゃ早いじゃないですか! 普通、研修中ですよね。

洗川 当時お昼に流れていたテリー伊藤さんの「のってけラジオ」という番組で、「今夜のショウアップナイター」(※1)を告知するコーナーがあったんです。その日担当するはずのアナウンサーがなぜかいなくて、研修で発声練習をしていたスタジオにディレクターがドカドカっと入ってきて「ちょっと洗川借りてっていいですか?」と。「とりあえずこっち来て」と言われて行ってみたらテリーさんがいて、「おぉ、テリーさんだ」とビックリしていたら「はい、原稿。これ読んで」とペーパーを渡されて、「CM明けまーす」と(笑)。テリーさんに「おい、新人っ!」って呼ばれて、もう手が震えながらしゃべりました。それが、デビュー(笑)。

※1
ニッポン放送ショウアップナイター:「まいにち とことんプロ野球!」のキャッチフレーズで、火〜金:夕方5時30分〜/土日:夕方5時50分〜試合終了まで完全中継。twitterfacebookでも情報発信中。


──「あれ? 放送でちゃった」と(笑)

洗川 スポーツアナウンサーとしては、研修が終わった7月ですね。「まずはJリーグの取材ね。夜の番組で流す録音用素材を撮ってきて」と言われたんですが……当時Jリーグは前・後期制で、7月はちょうどファーストステージの優勝争い真っ只中。そして行ってみたらジュビロ磐田のファーストステージ優勝の場面。「え? 俺もう優勝しゃべんの??」みたいな(笑)

──現場主義というか、本番主義というか。

洗川 ホントにそうですね。だけど、もっとビックリしたのが入社1年目の秋。10月の番組改編期にスポーツ部の副部長から「洗川、お前番組やるぞ」と。「え!? 何の番組ですか?」って聞いたら「Jリーグの番組だよ」と。「アシスタントですか?」って聞いたら「パーソナリティだよ」と!

──入社してまだ半年なのに?

洗川 番組が9時からで、Jリーグがナイターで7時キックオフの場合、9時に試合が終わるから毎回ぶっつけ本番で、原稿もいつも初見なんですよ。入社1年目のアナウンサーがこなせる訳ないじゃないですか! まぁ、無茶なことやりますよ、ニッポン放送は。そうやって、新人アナウンサーが四苦八苦している姿を見て、笑う会社なんです。

──悪趣味な会社ですね(笑)

洗川 でも今思うと、回りくどく色々やるよりはもう実地だと。若手にどんどんチャンスを与えてくれて「尻込みせずにどんどんやりなさい」という雰囲気がある会社ですね。それがこのニッポン放送のパワーなんだなと思うことはよくあります。おかげでスポーツアナウンサーとして鍛えられましたね。



実況アナウンサーの後を追って口真似をしていた


後編も、東京・有楽町のニッポン放送第5スタジオからお届けしています。

後編も、東京・有楽町のニッポン放送第5スタジオからお届けしています。


公称157cmの洗川アナ。<

公称157cmの洗川アナ。
「小学生のはじめの頃は大きい方で全校集会でもちゃんと前倣えをしていました。でも小学6年生になって遂に両手を腰に当てた時のあの切なさ……」(洗川談)。以降、ほとんど身長は変わっていないそうです。


──そもそも、洗川さんがスポーツアナを目指したキッカケはなんだったんでしょうか?

洗川 そもそも、なんだろうなぁ……。僕、生まれは長崎県の五島列島という島出身なんです。西の離れ小島なので結構遅い時間まで日が明るくて、夕方6時、7時まで外で遊んでいると親が車で迎えに来るんです。カーラジオではいつもナイター中継をやっていたので、それをよく聴いていましたね。あと、僕が子どもの頃って長崎の民放テレビ局が2つしかなくって、プロ野球中継にしても「この辺で一部地域の方とはお別れします」の地域なんですよ(笑)

──ありました! 懐かしい(笑)

洗川 でも、結果は知りたいからラジオで続きを聴くようになって。そんな風に、割と小学生の早い段階でラジオのプロ野球中継に接する機会があったんですね。それで、これは単なる原体験でしかないのですが、なぜか僕は子ども心に、プロ野球中継のラジオアナウンサーが「カッコイイ!」と思ったんですよ。記憶を辿っていくと、ニッポン放送の大御所アナウンサーだった深澤弘アナウンサー(※2)の実況だったハズなんですが。

※2
深澤弘アナウンサー:1964年〜94年までニッポン放送のアナウンサーとして活躍。現在はフリーアナウンサー。スポーツ中継、特にプロ野球中継の第一人者として知られ、長嶋茂雄氏、落合博満氏、原辰徳氏等と親交が深くプロ野球の表も裏も知り尽くしている。大ホームランが飛び出た時でも「あるいはホームランか?」と「疑問型」でしゃべるスタイルが有名。


──そこまで憶えているんですか? すごい!

洗川 そんな原体験と、僕は子どもの頃からオタク気質があったので、小学校3、4年生くらいになるとラジオでしゃべっている実況アナウンサーの後を追って口真似をしていたんです。たぶん「この子、バカなんじゃないか?」って親は思っていたと思うんですけど(笑)

──じゃあ最初から、アナウンサーの中でも「ラジオ」という思いがあったんですね。

洗川 ちょうど僕らの世代って「アナウンサー華やかし世代」なんです。小さい頃に女子アナブームが起こり、その後、逸見正孝さんブームがあったんですよね。「局アナ」がクローズアップされた時代だったから当然そこに憧れがあったのは間違いないんですが、ただ冷静に考えると、長崎の五島列島という離れ小島出身だし、中学を出ても背は150cmそこそこしかないし、

──あ、じゃあ中学からほぼ今の身長なんですね。

洗川 そう! ほとんど変わってないの(笑)。でも、テレビに出てる人ってみんなスラッと背が高いじゃないですか。こんなチビじゃどう考えてもダメだろうと。それに自分はカッコイイ人間じゃないっていうのも幼い頃からわかっていたので、ルックスじゃ勝てないなと思っていたんですが、「ラジオだったらルックスいらないじゃん!」とある時に気づいて。そういう単純な理由だったんですよね、テレビよりもラジオを選んだのは。

──大学を選んだポイントは?

洗川 至極簡単。逸見さんが早稲田大学アナウンス研究会というサークル出身だというのを知ったからです。僕が高校生の頃に逸見さんが亡くなったんですが、当時、毎日のように逸見さんの仕事ぶりがメディアで取り上げられて、人生を紐解くヒストリーみたいのが出てくると必ず「早稲田大学アナウンス研究会」が出てきたんです。当時は今みたいにアナウンサーになるためのアナウンサースクールもなかったし、なる方法もわからなかったから、とりあえずいっぱいアナウンサーを輩出しているサークルに行けばいいんだ、という単純な理由で大学を選びました。正直、早稲田で何を学ぶとかもよくわかってなかったですからね(笑)

──アナウンス研究会で同じ志というか、同じ目標を持つ仲間と出会ったわけですね。

洗川 それはそれで刺激になる部分もたくさんあったんですけど、僕も含めてどうやったらアナウンサーになれるのかは結局みんなわからなかったですよね。大学の4年間で、やってた事と言えばお酒呑んでばっかりで、「俺、このままでアナウンサーになれるのかな?」っていう焦りはありましたね……あ、大学4年間って言っちゃいけないのか、5年間だ(笑)。もちろん、ちゃんと活動もやってましたけどね。何をやるかというと、毎週土日に東京六大学野球が開催されているので、神宮球場のバックネット裏二階席に行って、当時はカセットレコーダーを回しながら野球実況の練習をするという。ちなみに僕が最初に実況を教わった先輩が現フジテレビの福永一茂アナウンサーで、同じ学年で一緒に活動していたのが、文化放送の高橋将市アナウンサーです。

──実は私も同じサークルで、洗川さんのひとつ下の学年だったわけですが、私が初めて洗川さんの実況を聴いた時、もう今の実況スタイルに近いものが出来上がっていた印象がありました。

洗川 たぶんそれは、幼少期からラジオの野球実況をずっと聴いていたのと、小学生の3、4年生の頃からまるで落語の練習をするかのように口真似をしていたことで身に付いたアクセントとか間の取り方、言葉の使い方が出ていただけなんじゃないかなと。しかも、ここニッポン放送・深澤弘アナウンサーの実況を聞いて育っているから、同じラジオの野球実況でも、NHKの高校野球中継のような実況スタイルじゃないですよね、当時から。

──ニッポン放送とNHKの違いって、例えばどういう?

洗川 「第一球をぉーーー投げましたっ。直球、ストライク」というNHKのスタイルではなく、「第一球をぉ 投げたっ。直球ストライっクワンっ」という実況のリズムというかテンポというか。文字に起こすと伝えるの難しいと思うんですけど(笑)。打球にしても、「あるいはホームランか?」という深澤さんの名文句やスタイルをずっと聴いて育っていたので、まあ要はモノマネですよ。モノマネでやっていた下地があって、それが神宮球場で練習する時にもそのまま出ていただけで。たぶん、それを聞いてオグマ君は「もうスタイルが出来上がっていた」と思ったんじゃないですかね。オタクの少年がそのまま育っただけなんですよね。



最後のチャンスで、アナウンサーになることができたんです


洗川アナの表情:悩み編 1

洗川アナの表情:悩み編 2

洗川アナの表情:悩み編 3

洗川アナの表情:悩み編 4

カメラマンに「こんなに表情豊かで撮りやすい人ってなかなかいない!」と言わしめた洗川アナの表情:悩み編


──ここまでの話を聞くと、アナウンサーの中でもニッポン放送がずっと第一志望だったんですね。

洗川 幼少期に色々聴いていた中で、面白いなぁと思ったのがニッポン放送で。中学生になるとオールナイトニッポンを聴いていて、子どもの頃から「ニッポン放送」という名前に一番触れていましたからね。さらに、東京に出てくるとますますニッポン放送が聴ける環境になったので、毎日夕方5時30分くらいからニッポン放送にダイヤルを合わせて、毎日「ショウアップナイター」を聞いてましたね。

──もう、ニッポン放送漬けですね。

洗川 でも、アルバイトは文化放送で、アナウンサーの隣でプロ野球のスコアをつけるバイトをしていたんですけど(笑)。でも、球場に行くと文化放送の隣のブースがニッポン放送なんですが、そのニッポン放送ブースからは女子大生の声がキャッキャキャッキャと聞こえてきて。文化放送のアルバイトは男所帯だったので、ますます「ニッポン放送、いいなぁ」と(笑)

──「アナウンサーになりたい」という夢を持っていて実際にアナウンサーになる人でも、自分が一番志望する局に入れるって、そうあるもんじゃないですよね。

洗川 ないと思いますね。でも「入るならニッポン放送」という強い思いがあったので、やっぱりその会社のことを調べるじゃないですか。そうすると、ニッポン放送はプロ野球を全球場から中継している唯一の放送局で、野球だけじゃなくサッカーにも力を入れていて、競馬中継もやっていて、と「スポーツアナウンサーにとって、こんなに恵まれた環境はない」と憧れがさらに強くなりましたね。でも、大学3年の冬にニッポン放送の入社試験を受けたら……落ちましたよ。面接を受けたら、普通に、あっさりと。まぁ落ち込みましたね。

──他の局は?

洗川 もちろん、ニッポン放送じゃなかったらアナウンサーを諦めるかと言えば、それよりも「スポーツアナウンサー」になりたかったので他も受けたんですけど……ことごとく、最終面接とか、いいところで落ちるんです。他局を受けてもダメで、東京ダメ、大阪ダメ、名古屋もダメ、地方局も手当り次第に受けまくって、もうスポーツアナウンサーじゃなくてもいい、まずはアナウンサーにならないと何のチャンスも掴めないと思って、気がついたら、のべ80社くらい、アナウンサーだけで受けていました。全部ダメでした……。気がついたらもう大学4年の秋になっていて。

──80ってすごいですね。

洗川 同期で一緒にアナウンサーを目指していた人間も、徐々に他の業界にシフトして就職を決めていたんですけど、僕は幸か不幸かほとんどが最終面接近くまで残ることが多かったので、「いつかは採用されるんじゃないか」と思っていたのが逆にドツボにはまった原因ですね。気がついたらもう採用する会社そのものがなくなって4年生の冬を迎えてしまい、仕方がなく就職浪人しようと。今だと“第二新卒”という、別に新卒じゃなくても就職できる環境が生まれていますが、当時はそんな制度がなくて新卒第一主義で、「卒業してしまったらもっと就職できない」という焦りがありました。アルバイトで貯めたお金があったので、「これで一年間の学費は親に迷惑をかけずになんとかなる」と思ってもう一度就職活動を始めたんですけど、さすがにこれ以上親にも心配かけられないので、最初の東京キー局がダメだったら、もうアナウンサーを諦めて他の職種も受けようと思っていました。

──本当に、背水の陣ですね。

洗川 それで、まずテレビ局のアナウンサー試験から始まる訳ですが、また全部ダメ。「去年も来た子だよね」と言われながら……。2年目もダメかぁと思いながらラジオのアナウンサー試験が始まったんですが、最後がニッポン放送だったんです。そこで……決まっちゃったんです。ずっと一番憧れていた局だし、これでダメだったらアナウンサー諦めようと思った最後のチャンスで、アナウンサーになることができたんです。人生、わかんないもんだなぁと思いますね。

──1年目がダメで、2年目に採用されたのは何か理由があるんでしょうか?

洗川 採用方針もあると思うんですよね。2年目は、“一般アナウンサー”と“スポーツアナウンサー”と採用コースが2つあって、そのどちらか選んで受験するスタイルでした。前年はそれがなかったので「スポーツアナウンサーが欲しいんだな」というのはわかりましたね。だから、自分がどうこうじゃなくて、たまたまスポーツアナが欲しい時期に当たった、という気がしています。

──でも、それはもう一年やったからこそですよね。

洗川 そうですね。でも、タイミングに恵まれたのはやっぱり大きいですよ。実際、学生時代に撮っていた録音テープを聴いても、当時の自分の声はアナウンサー向きじゃない、声だけで勝負しなければならないラジオのアナウンサーには不向きな、今よりももっと高くて細い声でしたから。それで、ニッポン放送に入った後に「何で僕って採用されたんですかね?」と聞いたら、「だって、ウチにない声だから」と言ってもらいました。それまで、自分の高くて細い声はコンプレックスだったんですけど、「あ、そっか。自分しか持っていない声ってあるんだ!」というのに気がついたんですよね。どちらかというと自分はネクラで、普段も思い詰めると自己否定に走りがちなんですけど、ちょっとそれに救われたところはありましたね。「コレでいいんだ!」って。



実況描写をする上で一番大事なのがタイミング


洗川アナの表情:驚き編 1

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洗川アナの表情:驚き編 3

洗川アナの表情:驚き編 4

カメラマンに「こんなに表情豊かで撮りやすい人ってなかなかいない!」と言わしめた洗川アナの表情:驚き編


──「学生時代の方が声が細かった」ということですが、それは会社に入ってからのトレーニングで改善されていったということですか?

洗川 そうですね。まず、会社に入る前の2月くらいから週に何回かアナウンストレーニングは受けていたんですが、入社するとそれが週5日! 月曜〜金曜、朝9時〜夕方5時まで、お昼の1時間以外はずっと発声・発音の練習。量がハンパないでしょ。それが7月まで続きましたね。たぶん、精神力が弱い人は耐えられないんじゃないかと(笑)

──体育会の世界ですね。

洗川 「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ」とか「外郎売」(※3)とか、ああいう滑舌練習文をひたすら。学生時代、アナウンス研究会でも発声練習はやっていた訳ですが、最大の違いはやっぱりラジオのアナウンサーだから「音」だけで勝負できるよう、ちゃんと一音一音ハッキリ、丁寧に出すということを徹底して教えられました。

※3
外郎売:歌舞伎十八番の一つだが、今日ではその劇中に出てくる「拙者親方と申すは〜」で始まる外郎売の長科白を指すことが多い。俳優やタレントなどの養成所で発声練習や滑舌の練習に使われている。


──プロとしては聞きやすいことが大事だと。

洗川 そうですね。学生時代は早口言葉を早く言うことに気を取られていましたから、そこがすごく違いましたね。5月6月になるとニュース原稿を読んだり、1分間レポートの練習をしたりフリートークをしたりと、だんだん科目が増えていきました。ただ、僕の場合あとひとつ大変だったのは、スポーツアナウンサーとして採用されたので、夕方5時まで発声発音をやったその後に、6時からのナイター中継に合わせて球場に行って、実況の練習(笑)。試合が終わるのって、9時10時じゃないですか。もう毎日へばりそうになりながらやってましたね。土日はもうひたすら寝るだけで、それを7月までずっと。まあ、ガリガリに痩せていきましたね。

──野球実況は子どもの頃からやっていたわけじゃないですか? 評価はどうだったんですか?

洗川 もう、ケチョンケチョンですね。学生時代まではモノマネで上手くできているような感じだったんですけど、結局それってオリジナリティもないし、もっと言うと基本的なテクニック・技術が全然なかったですね。例えば、実況描写をする上で一番大事なのがタイミングなんです。投げた時に「投げた」、打った時に「打った」、捕った時に「捕った」っていうのがないと、まるで実況としては成立しなくて、ただの説明になっちゃうんです。なぜプロのアナウンサーが実況すると臨場感が伝わるのかというと、そこが大きい。

──そんなに違うものですか?

洗川 僕もアナウンサーが書いた本を色々読んでいたので、「ピッチャーがボールを離す瞬間に「投げた」と言うとキレイに聞こえる」ということは知っていました。だから、「投げた」「打った」はできていたんですが、問題はその後の、例えばショートゴロで「捕った」という実況が、プロになるまでできていなかった。

──「ショート捕って一塁へ送球」という流れを、後追いで言っている。ということですか?

洗川 たぶん、学生時代は「打った。打球はショートへ。ショートが捕って……」と言った瞬間にはもう送球してるんですよね。それでは臨場感が生まれない。「打ちましたショートゴロ。高いバウンド、点々と転がってショートが今“捕った!” 一塁へ送球、アウト!」って言うと、テンポやリズムが出てきて、捕ってからすぐに一塁へ投げたんだな、っていう雰囲気が伝わってくる。「ちゃんと動きに合わせて、素早く言葉を選んで、タイミングを合わせて言葉を出しなさい」っていうのを先輩アナウンサーには何度も指摘されましたね。実況をするというのはどういうことなのかというベースの部分、テクニックを教わるというよりは考え方ですね。それはプロになって、会社に入ってステーションアナウンサーになって始めて教わったことですね。

──「実況の練習」というのは、球場に行って、使っていない放送ブースでしゃべるんですか?

洗川 これは贅沢だなって思ったんですけど、ニッポン放送の野球中継の場合、まず中継されているメインの球場があります。そして、中継されていない「予備」と呼ぶ球場があるんです。試合は6ゲームあるので第5予備まで通常あるんですが、その全球場に必ずアナウンサーが行っていて全部実況しています。「経過送り」と言いますが、それをニッポン放送の本社でモニタリングして、得点が入ると本番でしゃべっている球場の中継に情報として渡ります。それが「ニッポン放送ナイター速報」という形でON AIRされています。かなりアナログなシステムですが、パソコン画面を見るよりも結局それが一番速い! そんな風に、ON AIRがなくても全部の試合の音は録音されていて、例えばノーヒット・ノーランがあった場合はそれがニュース素材になる訳ですが、そういう時の第5予備の球場に行って、送り作業を兼ねながら毎日練習をしていましたね。練習兼本番。

──ちなみに、サッカー実況の練習は?

洗川 それが全く……。さんざん研修では野球をしゃべって、本番はJリーグという(笑)。学生時代も野球実況の練習しかしたことがなかったので、サッカー実況ってどうやったらいいのかもわからなくて。ましてやラジオでやるサッカー実況ですよ。だから、研修期間が終わってから、中継されていないJリーグのスタジアムに行ってひたすら練習しましたね。プロ野球はベテランのアナウンサーがたくさんいらっしゃるから、最初に出るチャンスがあるのはJリーグだろうなぁというのは自分でも感じていたので、もうひたすら練習、練習。



最終的にリスナーの心に残って欲しいのは「スポーツのシーン」


洗川アナの表情:喜び編 1

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洗川アナの表情:喜び編 3

洗川アナの表情:喜び編 4

カメラマンに「こんなに表情豊かで撮りやすい人ってなかなかいない!」と言わしめた洗川アナの表情:喜び編


──「まだ自分のスタイルができていない」という話がありましたが、具体的に目指すスタイルがある、もしくは「これが洗川スタイルだ」という目標設定はありますか?

洗川 んー……。ステーションアナウンサーをやっていて思うのが、「自分が生きていた証が残る仕事だな」と。プロ野球で言えば古田さんと石井琢朗選手、2人の2000本安打を運良くしゃべらせてもらったんですけど、何かあるとそのシーンが流れる訳です。「この時の俺、声酷いなぁ」って思いつつ(笑)。だから、この時代に俺、生きていたんだっていうのが死ぬ間際にわかれば、それでいいかなぁと。でも、受け手のリスナーのことを考えると、まあ僕の名前は憶えてくれなくてもいいし、僕の言葉までも憶えてなくていいから、「ニッポン放送のあの時のあの中継を聴いて、そのシーンを憶えている」、そういう中継ができるアナウンサーになりたいですね。

──アナウンサー個人ではなく、シーンを憶えて欲しい、と。

洗川 しゃべり手ってみんな、何か名文句を残したいというエゴがあると思うんです。でも僕は、最終的にリスナーの心に残って欲しいのは「スポーツのシーン」。だって、自分が偉い訳じゃなく、やっているのは選手だから。いいゲームやいいシーンに巡り会えたらたまたま“名アナウンサー”と言われる可能性があるだけの話で。だから、目指すアナウンサー像としては、言葉が一人歩きするよりは、たまたまその中継を聴いたリスナーがそのシーンを憶えていて、もしそのリスナーさんと会えてその話題になった時に、「あれ、僕ですよ」という会話ができればそれでいいかなと。それがコンスタントに出せるアナウンサーになれればいいなぁと思っています。

──思い出を共有できるのもスポーツの持つ素晴らしさですもんね。

洗川 そのためには、良いシーンに出会えた時に美辞麗句を使うんじゃなくて、ちゃんと人の記憶に残るように素直に実況をしてあげること。それが究極の目標です。リスナーも僕もスポーツが好きな者同士なんだから、そこはちゃんとそのスポーツと選手にリスペクトを持ってやりたいですからね。あと、これは目標とは違うかもしれませんが、これからアナウンサーを目指したい方にぜひ知って欲しいことがあります。それは「若手スポーツアナウンサーが不足している」ことです。

──以前、TBSの初田アナウンサーにインタビューしたことがあるんですが、同じようなことをおっしゃっていました。なりたい人って、たくさんいるのかと思っていたのですが。

洗川 ステーションアナウンサーで言えば、今回お話ししたように徒弟制度のごとき研鑽を積む世界でありながら、実際の放送では選手と解説者に敬意を払って黒子として徹する職業ですので、昨今の学生にとっては敬遠しがちなものなのかもしれません。現にニッポン放送でも、いまだにステーションアナウンサーの最年少は私、洗川で今年35歳。他局を見ても同じような状況だと思います。特にラジオのスポーツアナウンサーはこのままだと「天然記念物・絶滅危惧種」になりかねません。僕自身もこの仕事は「道半ば」。まだまだ極めているレベルには達していません。それだけ厳しい世界です。でもお話した内容の通り、魅力ある職業だと思うのですが……。だから、僕が深澤弘アナウンサーに憧れてスポーツアナウンサーを目指したように、僕自身も憧れられるアナウンサーになりたいと思います。そしていつの日か、この道を目指す若い人が現れることを願ってやみません。



次号予告


洗川アナ、明日(6月16日)が35歳の誕生日です。おめでとうございます!

洗川アナ、明日(6月16日)が35歳の誕生日です。おめでとうございます!


アナウンサーになりたくて、80社をうけて全部落ちて、でも、翌年いちばん入りたかった放送局に。なんとも元気の出るお話をいただきました。そしてどんなにスポーツ実況というジャンルを愛し、日々の研究を欠かさないか、仕事って情熱だなあと改めて感じるインタビューでした。
さて次回(7/1更新予定)は田島太陽のターン。とびきりイキのいいあの雑誌の編集者が登場する予定! お楽しみに!

「お前の目玉は節穴か」では、おもしろい取材企画を募集しています。ブログなどで具体的に企画をはじめているかた、道場破りもありです、ぜひお問い合わせください。プロアマ問いません。編集担当のツイッター @kaerubungei までどうぞ。

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