お龍さんの徒然草 '00(前半)

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■■2000年06月28日■■

お龍さんも濡れる街角

 うっかり書き忘れていたが(しかもその後、別の一篇を書いてしまったが ^^;)、今年も誕生日が来た。私は梅雨どきに産まれたせいか、誕生日は毎年かならず梅雨期である。これを英語で、「ハッピーバースデイ、ツーユー」という(…という説は、現在では間違いとされている)。

 誕生日は年中行事である。年中行事とは、毎年同じ事を繰り返すものをいう。ゆえに、私は今年もハタチである。そんな事を、もう十数年に渡って書いていると、周囲の反応もなれたものになる(問題は、ここ2〜3年の間につきあうようになった人なのだが)。友人の中には「相対年齢」という概念を提唱する人まで出てくる。「相対年齢」とは何か。私との年齢差だけを公にする事で、「という事は、私は22だ」とか、「私はまだ18」などと、私に便乗してサバをよむテクニックである。上には上がいるものだと思う(下には下…かもしれない)。

 バイク便をやっていると、この連日の雨がうっとうしい。なにしろ、春先の不安定な気候から、五月雨を経て、いつのまにか梅雨になる。梅雨が長引いた年は、梅雨があけたと思うと台風が来る。冬を除けば、常に雨に降られているような気分になってくる。バイクに乗っていると、この雨にどう対処するかが問題になる。

 一つは運転技術の問題だ。なにしろ、路面がすべる。連日走る仕事だから、減りにくい硬めのタイヤをつけている。これがいけない。同じ雨の日でも、特に気温が低めの日の朝は「もしかしたらこのタイヤはゴムではなく、プラスチック製だったのか?」というくらいすべる。幸いなことに、私はオフロード走行の経験があるから、少々のスリップでは動じない。後輪はもちろん、カーブで前輪が滑ってさえ、「あら、滑ったわい」と思いながら冷静にアクセルを操作している。オフロード経験なしに運転していたら危ないところだったと思う。その上、免許なしで運転していたら、もっと面倒な事になったのではないかと思う。

 もう一つの問題は、装備である。要するに雨具。これは、この十数年の間にずいぶんと進歩した(つまり、私が初めてハタチになった頃から比べての話である)。その最大の原因はなんといっても新素材の開発である。特に、ゴアテックスやそれに類する透湿素材の恩恵が非常に大きい。初めはライディングスーツなどでゴアテックス製のものを使っていた。その後、グローブ等、他の製品にも手を出したのだが、そちらは失敗だった。なにしろ、バイク便は一日に何度もバイクの乗り降りをする。当然、グローブもそのつど着脱する。それを繰り返すと、どうしても内部に雨水が入る。ところが、グローブ全体がゴアテックスで覆われているために、一度こうなると、今度は容易に乾かない。それに懲りて、現在ではグローブはウェットスーツと同じ素材を使ったものを使用している。これまでのところ、真冬以外はこれが一番よい。

 靴は、釣りなどで使うカラフルなゴム長。雨の日は、これを愛用しているライダーが多い。これを履いてバイクを運転すると、シフトチェンジのために左足の甲ばかりが消耗するのが難点だが、この手の靴は、店さえ選べばたいていどこかで安売り(というより、投げ売り)をしている。最大の難点は、バイク用のブーツに比べて脚を保護する機能が皆無に等しい事である。うっかり硬いところに脚をぶつけると、かなり痛い。雨の日の滑りやすさも手伝って、いわゆる「すり抜け」が、ついつい控え目になってしまう。

 昔は、雨具をつけていても半日も走れば雨水が染み込んで来たものだが、現在ではその心配はほとんどない。グローブの素材が素材だから、雨が降れば手はいつも濡れているようなものだが、内部の湿ったゴアテックスのグローブと比べたら、快適そのものである。ただし、それでも濡れるときは濡れる。梅雨から夏にかけての雨は、気温も湿度も高いために、いくら透湿素材のレインスーツだとはいっても、水蒸気の排出が追いつかずに内部が蒸れるのである(もちろん、ゴム引きのカッパに比べれば、はるかにマシではあるのだが)。

 こうなってしまったら、サウナが走っているのも同然である。雨が数日も降り続いたら、かなり減量する事が出来るのではないかとも思うのだが、その前に間違いなく脱水症状を起こすだろう。そもそも、私には減量の必要がない。むしろ、増量した方がよいくらいだ(もし仮に、ボクサーの生活と相撲の力士の生活の、どちらか一方を選べといわれたら、間違いなく両方とも断るだろう)。

 ところで、「流行っている」というほどではないのだが、最近になって私の周囲で風邪をひいている人が散見されるようになった。気候の変わり目で、エアコンなどの調節に不慣れな季節でもあるから、そのためかも知れない。食中毒を起こしやすい季節でもあるから、くれぐれも健康管理に留意したいものである。とりわけ、普段食べ慣れないものを、この季節に摂るのがよくない。おいしいもの、高級なものなどには、特に注意が必要である。

L.Jin-na


■■2000年06月26日■■

技術面から見るDV

 前々回、「暴力」について取り上げると書いた。ところが、というか、やはりというべきか、まだ書きあがっていない。何も書いていないわけではないのだが、それなりの分量は書き進んだにもかかわらず、まだ結論らしきものが見えてこない。この「暴力」という問題も、「性」に負けず劣らず、人間にとってかなり根源的なものなのだなと、しみじみ思う。

 「暴力」を考えるに当たって困るのは、精神的あるいは哲学的な考察だけではなく、何らかの身体運動的なメソッドが必要とされることが、容易に予想出来ることである。そういう意味で、伊藤公雄氏(男性学・メンズリブ)が「非暴力トレーニング」という言葉を用いているのは、暴力の本質をうがった表現だと思う(伊藤氏が実際に「暴力」についてどの程度の見識を持ち合わせているのか、私は知らないが)。

 先日、参考のために『殴られる妻たち 証言・ドメスティック・バイオレンス』(安宅左知子・洋泉社新書 009)という本を読んでみたのだが、この本に描かれている例を見る限りでは、「暴力」の具体的な技術が、「首を絞める」という他はおおよそ打突系で占められていることに気がつく。要するに「殴る蹴るの暴行」である。「殴る夫たち」の中に柔道やレスリングの経験者でもいれば、また違ったのかもしれないが(空手経験者の例は出ている)、投げ技や関節技、占め技が出てこない。これは、普通のケンカ(主に男性同士の)の場合でも同様だろう。

 ただし、男性同士のケンカの場合には、一度組み合うと今度は容易に離れない。なぜかというと、相手との間の距離を取ると相手から打突系の技が出てくるからだ。つまり相手の技に対して警戒している。訓練を受けた者は別だが、素人(少々ケンカ馴れしたようなレベルも含めて)の「殴り殴られ」のケンカでは、これが普通である。だから、女性の側も反撃するような夫婦喧嘩でも、やはり往々にして最後にはこのスタイル(取っ組み合い)になる。DVのように執拗に打突系の技が連続して用いられるのは、空手(会派にもよるのだろうが)の試合のように打突系以外の技を禁止するルールに則った場合を除けば、一方的に暴行を加える場合の特徴だといえる。袈裟固めやアームロックのような技は、(書いていないだけかもしれないが)この本にも出てこない。

 要するに、DVの場合には相手を(つまり男性が女性を)「なめてかかっている」のだ。ただし、この事がただちに「女性差別」であるわけではない。この場合の「なめてかかっている」というのは、女性一般(というカテゴリー)に対するそれではなく、あくまでも自分のパートナーである「この女」に対してのものだからだ。したがって、二人の間にどのような関係が築かれていたのかという問題を無視することは出来ない。一般論化、あるいは原理の抽出という事それ自体に反対するわけではないが、しかしこれを安易に一般論化すると、かえって問題が見えなくなるだろう。そこにこの問題の難しさがある。

 その難しさを承知で、結論から言ってしまえば、DVの特徴はおそらく男性の側のアイデンティティ不安にある。DVはアイデンティティ補償を目的とした他者への不当な実力行使であり、この動機の点において極めて差別的である。繰り返すが、その差別は目の前の「この女」に対するものであって、女性一般ではない。たとえ彼が「女のくせに」といったとしても、それは「女は男よりも劣っている」という性差別的観念を、自分自身の差別行動の正当化のために使っているに過ぎない。

 むろん客観的には、そのような理由で「暴力」が正当化されたりしないことはいうまでもない。しかし、この世に「女は男よりも劣っている」という性差別的観念が存在しなかったとしても、おそらく彼は何か他の理由付けをするであろうだけの話である。社会的な問題としての女性差別がなくなったとしても、それによってDVがなくなるとは思えない。なぜなら、彼は会社で面白くない事があったとか、その他自分の個人的な不遇感(世の中が自分の思い通りに行かないという、不幸の意識)を、身の回りの弱そうな他者に責任をかぶせて(つまり、言い掛かりをつけて)当り散らしているからで、多くの場合、女性一般に対する差別感がDVの動機となっているとは思えないからだ。

 この問題について考えていて、もう一つ思い当たったのは、上の差別の問題とも関係する事だが、これを安直に「社会構造」の問題にしてはならないという事である。DVが問題になっているのは事実だし、また問題にすべきだと思う。前述の本の冒頭に1%という数字が示されていた。この数字だけみると、意外に少ないと思う人もいるかも知れないが、百人に一人という事は、学校でいえば2〜3クラスに一人が、生命の危険を感じるような状況に置かれているという事だ。これは現在の日本の社会では、異常な多さと見るべきではないか。そういう意味で、DVは「社会現象」ではある。

 しかし、「社会現象」と「社会構造」とは基本的に別ものである。むろん両者の間に理論的な関連付けを行う事は可能だが、しかし、DVの原因を個々の男女の関係の外側の、社会という抽象概念に求めてしまっては、見える問題も見えなくなるのが理の当然であろう。DVの解決はDVの解決そのものを目的として行われなくてはならず、何かしらの社会運動が盛り上がるために行うものではない。私達は、この問題について考える場合に、このような倒錯を犯さない事が重要である。

 いわゆる「男らしさ」の中に、女を殴ってはいけないとか、女を殴る男はロクデナシであるという事がある。確かに、女を殴る事それ自体がロクデナシの仕業ではあるのだが、しかしアイデンティティ補償という動機の面から見れば、そもそもロクデナシだから女を殴るのだ、とも言える。いずれにしても、女を殴る男とは、それ自体がロクデナシ(ダメ男)の証明であり、さらに広げていえば、(性別に関係なく)差別という行為は自らのアイデンティティ不安の露呈である。

 こういう男達には、悪い事はやってはいけない。差別は悪い事である。ゆえに差別をしてはいけないというような倫理的な三段論法による説教は、おそらく効果がない。効果があるように見えても、一時的なものであって、結局はDVを繰り返すばかりであろう。それより周囲の男性が、「お前ェ、カッコ悪りィんだよ!」と罵り、さげすんでやることだ。なまじ、おだてて彼の実力に似つかわしくないプライドを持たせれば、彼はいつまでもそのプライドを他者に相対化され続け(実力に見合わないプライドは常に虚像である)、アイデンティティ不安に悩みつづけなければならず、したがってDVも際限なく続くだろう。

 DVの根本的な解決は、その男が自分をごまかすことなく自身を持てるようになる事である。そうすれば、アイデンティティ補償の必要がないからだ。だが、そのために必要な努力を嫌い、怠けるのが、ロクデナシのロクデナシである所以でもある。死者に鞭打つようだが、そういう男とくっつく女も女だと思う。

L.Jin-na


■■2000年06月18日■■

名前という符丁

 今日は、運転免許の更新に行ってきた。先週の日曜に行こうと思っていたのだが、あいにく強い雨だったのだ。つい面倒になってさぼったら、今日が誕生日前の最後の日曜になってしまった。幸い、天気も回復したので、試験場へ行く。本当は新宿警察署でも出来るのだが、そちらは日曜は閉鎖されている。土曜は試験場と警察署、いずれでの更新も閉鎖と来ている。だから、更新期間が一ヶ月あっても、実際に更新のために動ける日はかなり限られてしまうのだ。

 また、どういうわけか、試験場というのは妙に不便なところにある。東京の場合には鮫洲と府中、それに江東試験場だが、鮫洲は京浜急行で各駅停車しか止まらない。新宿からだと乗換えが面倒な上に乗る電車が限られるのである。府中に至っては近くに駅すらない。唯一交通の便がよいのは江東試験場だが、この試験場は運転コースがないというおかしな欠陥がある。だから、実技試験を受ける人や、合格後に「講習」の名目でコースを実際に走る必要のある原付の試験は実施していない。しかたがないから、私も最初に原付の試験を受けたときだけは鮫洲に行った。もっとも江東試験場は南側に第九機動隊が隣接しているので、どこかに用地さえ確保できればそこに機動隊を移転させ、跡地にコースを作る事も可能である。ただし、今のところその予定はない。たぶん、ないと思う。もっとも、当たり前だがコースの有無は免許の更新には関係がない。

 幸いな事に(?)私は、今のところ戸籍上の姓名を女性名に変更する必要に迫られていない。普段、本名を意識する必要があるのは運転免許や車両の登録、その他の運転関係に限られている。そちらは「男」で通しているし、姓を呼ばれる事はあっても名を呼ばれる事はまずない。それ以外の場面では、本名自体を忘れている。書類にどんな名前が記載されていようが、その名前を意識する必要がない。保険証も、そもそも病院に行かないから使わない。7〜8年ほど前に歯科にかよったことがあるくらいで、それを除けばもう10年以上も病院のお世話になっていない。風邪くらいは自分で治す。

 最近、性に関して(特にドメスティック・バイオレンスに関して)、やたらと「サバイバー」だの「サバイバル」だのという言葉が使われるようになったが、私などは日常生活がサバイバルそのものだ。日常を離れると、もっとひどいことになる。かつて単独で山に入り、道に迷い、霧にまかれ、豪雨に遭い、日が暮れて、それでも冷静に返ってきたことがある。それで東京に帰ってきてから「危うく遭難するところだった」といったら、「それは既に『遭難した』というんだ」といわれた。それ以来、友人達からは、「おまえは一人で山に行くな」といわれている。この調子だから、一人暮しの自宅で風邪で高熱を出したくらいでは、心細さも何も感じない。歯科だけを例外としているのは、虫歯には自然治癒力がないためである。

 話がそれたが、名前の話である。私は個人的には名前などは単なる符丁だと思っているから、あまり気にしない。ただ、現代ではあまり無頓着すぎても防犯上に問題があるから、管理はそれなりにはするが、自分が「これ」と思っている領域では「神名龍子」で通るから(それと同時に、本名では通らないから)、めったに不便はない。強いていえば、以前いた会社に入ったばかりのころ、T's の友人から電話がかかってきた時に、少々不便を感じた。相手は気を遣って私を本名で指名するのだが、他の社員は私を「神名龍子」の名前で認識していたため、話が合わなくなる。つまり、「そういう名前の社員はいません」といって電話を切ってしまう。かえって気遣いがアダになるのだ。さすがにこれには閉口して、他の社員に対して、私の本名を徹底して教えなければならなかった。

 名前は単なる符丁だ、という感覚は、私の場合には性別の問題ではなく、おそらくは漫画を描いていたために身についたのだと思う。漫画を描くときにペンネームを使う。それも、各サークルごとに異なるペンネームを使っていたので、どの名前を呼ばれるかで、相手がどのサークルの関係者なのかが即座にわかる。どれも自分の名前なのだが、私にしてみれば、それがかえって相手の事がわかる要因になっていた(ただし、あまり名前を増やしすぎると煩雑になりすぎて、これもまた不便になるのだが)。

 だからといって、TGTS に対して、名前の事など気にするな、とは言えない。言うつもりもない。私はむしろ、名前も使いようだと思っているから、その使い方を存分に工夫するといい。

L.Jin-na


■■2000年06月13日■■

暴力ないし実力行使の本質

 昨夜、「ジェンダー素描」に、「48. 『純粋下半身問題』について」を掲載した。そのきっかけとなったのは、『頑張らない派宣言』(発行:京都精華大学情報館、発売:青幻舎)の座談会の記事、『「男」をめざすことをやめた「おとこのこ」たち』(P153〜176)である。「48.『純粋下半身問題』について」の中では、この記事中の発言に対してずいぶんと異論を唱えたが、しかし、この記事自体は考えるべき問題について何かと示唆に富んだ、世相を反映したものではあると思う。

 今回の「48.『純粋下半身問題』について」では私の意見も不充分で、まだこの問題について考え尽くした気がしない。特に今回は『純粋下半身問題』そのものをどう捉え、考えるかについて紙幅の大半を費やしたために、おそらくはこの問題に悩む男性に対して充分な内容になっていないのではないかと思うのだ。その不足の原因は、ひとえに現時点での私の力量不足によるものであり、今後も引き続き、この問題について考えたいと思う。なぜならば、これは男性だけではなく男女関係の、したがって女性にとっても重要な問題であり、つまりは人類普遍の問題だといっても、決して大袈裟ではないと思うからである。

 上に書いた通り、この対談記事には他にも考えさせられるものが数多く含まれている。例えば、この記事中でいう「男の非暴力トレーニング」がそれである。これはおそらくは、DV(ドメスティック・バイオレンス)についての発言だと思われる。

 DVは【EON/W】では初登場だと思うが、男性が、特に家庭内において夫が妻に振るう暴力の意味で使われている。直訳すれば「家庭内暴力」なのだが、この言葉は日本においては既に、子供が親に暴力を振るう問題という意味で使われてきた経緯があるため、男女の問題に関しては英語もしくはその略語で語られるのが通例になっているようだ。

 この問題を考えるに当たっては、まず性別という要因を排除して、暴力(ないし実力行使)について考える事から始めてみたいと思う。「暴力」が判らなければ、「男が女に」とか「家庭内」などの要件を加えたところで、判るはずがないと思うからである。私の考えでは、そもそもこの「暴力」という事について、日本では長いこと目をそらし続けてきたと思う。無条件に「暴力=排除すべき悪」という前提に立ってきたために、その暴力そのものがイメージ化してしまい、これについて考えた人が意外に少ないからだ。役に立たない、悪い意味での観念的な非暴力主義ばかりが幅を利かせているが、その事自体が、むしろ暴力への対処に歯止めをかける働きをしている。いわゆる「平和主義者」の大半が戦争を知らないのと同じ事だ。

 幸い・・・というべきか、不幸な事にというべきか(個人的には後者だが)、私はこの「暴力ないし実力行使」に現実的に関わってきた経験があり、また「実力行使の技術」の体系化ともいうべき武道・武術等に関わり続けてきた。単に「関わり続けてきた」というより、私自身は今でも、自分の本領は「論客」などではなく「剣客」だと思っている。どちらかといえば、「性」について考えるよりも、「実力行使」の方が本業なのだ(むろん現在は、職業としてはまったく関わりがないが)。

 ともあれ、「暴力」の本質が判らないでは、「非暴力トレーニング」の実効的なメソッドなど考えようがないはずである。この課題に対して、私の力がどこまで及ぶか判らないが(したがって、いつ書きあがるかも判らないが ^^;)、これはぜひとも、「私が」挑戦したい課題なのである。

L.Jin-na


■■2000年06月08日■■

女体神社の縁結び

 先ほどメールチェックをしていたら、ちょっと変わったメールが入っていた。といっても、要は「リンクしました」という内容だからその事自体は珍しくもないのだが、リンクの仕方と先方のサイトが、ちょっと変わっている。

 松戸市(千葉県)の Intership (ISP) というところが、松戸市に関する情報の検索サイト (http://www.intership.ne.jp/) を立ち上げた、そこからのリンクなのである。なぜ【EON/W】が「松戸市地域情報」を目的とする検索サイトからリンクされるのか、と一瞬不思議に思ったのだが、メールを読んでみると、【EON/W】の中に神社を紹介しているページがある、その中の「女体神社」の紹介ページへのリンクだった(^^;)。

 この松戸市地域情報の検索サイトを見にいったら、確かに「神社」というカテゴリーが存在していた。ただし、中身は今のところ、【EON/W】の「女体神社」だけである。もしかしたら、これが松戸市の神社に関する唯一のホームページなのかもしれない。私としては、このようなリンクも一向に構わないのだが、先方の検索サイトを経由して見に来た人が、【EON/W】の他のページを見て驚くのではないかと、それだけが心配である。もっとも、「女体神社」が縁結びになって、それで初めて性同一性障害について知る事ができたという人だって、現れないとは限らない。もしそうなれば、まことに「縁は異なもの味なもの」といえる。

 ところで話は変わるが、先日の「りゅこ倫」に続いて、現在は「ジェンダー素描」の新編を執筆中である。先日、書店で『頑張らない派宣言』という「雑誌らしきもの」(なんだかよく判らない ^^;)を手にとって見たら、その中の座談会の記事の中に、男性の「純粋下半身問題」という言葉が出ていた。ただし、言葉が出ていただけで(^^;)、この問題についてはまったく扱われていなかったので、それならと、私が扱う事にした。

 もっともこれは内容的には、以前に「ジェンダー素描」で扱った内容といくぶん重複もすることになる。しかし、それはそれとして、(少なくともこの座談会の記事を見る限り)現在でも無視されている問題ならば、改めてこういう形で取り上げてみるのも意味のあることではないかと思う。男性の、自分自身の性欲との葛藤は、洋の東西と時代とを問わない普遍的な(といっても男性にとってだが)課題であろう。それがなぜ無視されるのか、その理由が記事を読んでもまったく納得できなかった。

 しかし、この問題を実際に考えてみると、様々な問題が複雑に絡み合っている事が判って、なかなか一筋縄では行かない。確かに、これを無視すれば性に関する問題をすっきりした形で述べる事は容易だろうと思う。だが、実際に問題として存在する、それも私の考えではかなり根本的な要因として存在するこの問題を避けて通ることは、私自身にとってはできない相談である。今週中に書きあがるかどうかも判らないが、できればせめて次の週末くらいまでには、何とか形にしたいものだと思う。

L.Jin-na


■■2000年06月04日■■

数学と哲学

 前回の予告どおり、久々の「りゅこ倫」の新編「『私』という確信」を掲載した。やはり前回の予告どおり、直接には T's の役には立ちそうにないのだが、考え残した事、言い残した事がありそうな感じで、個人的にはまだスッキリとしない。それはいずれまた挑戦するつもりである。

 一方、「ジェンダー素描」の方をどうしようか、とも考えている。言いたいことがあるような、ないような…(笑)、海援隊の歌の歌詞を借りれば、「いま心のかたちが言葉にできない」という状態にある。タイトルに反して(?)、セクシャリティについて書きたい気もあるのだが、(ジェンダーについてばかり考えてきたからだろうか)これといった切口が見つからない。

 また、非 T's の人達との関わりについても書いてみたいと思う。T's について、どのような点が理解しやすく、どのような点が理解しにくいのかというのは、重要な事だろう。それを取り出して煮詰めてみたいとも思う。

 半年ほど前に書いた、SOC (ハリー・ベンジャミンの STANDARDS OF CARE)第五版の翻訳は、まったく進んでいない。近いうちに正式なものが出そうだというので後回しにしていたら、いまだに訳語が確定できないとかで、発表のめどが立たないらしい。日本語訳自体はとっくに終わっており、私が最初にその(暫定の)日本語訳を見たのが、昨年3月の「第一回 GID 研究会」だったから、とっくに一年以上を過ぎている。学者の世界というのは、そんなに融通のきかないものなのかと暗澹とするが、そもそも私には内部事情が判らない。直接に日本で適用するものではないから、もしかしたら何か別の用事が生じるたびに、後回しにされているのではないかとも、つい考えてしまう。

 もっとも私だって、傍から見れば「あいつはいったい何をしているのか」と不審がられているかもしれない。哲学の勉強をはじめた時には、それが何の役に立つのかといわれた。T's と哲学とが、頭の中で結びつかなかったのだろう。いまでも私のような事をしている人はいない。たぶん、いないと思う。そもそも、哲学とは何かを知っている人がいない。何か勉強しているのかと尋ねられて「哲学」と答えると、たいていの場合、そこで会話がとまる。中には、何か資格を取るために勉強しているのかと聞いてくる人がいるが、そんな資格はない。それで会話はおしまい。

 最近、ふと思ったのだが、哲学というのは、自然科学における数学のようなものではないか。どちらも基礎中の基礎である。哲学を専攻しても数学を専攻しても、学位を別にすれば、取得できる資格というものがそもそも存在しない。むろん、私は学位とは無縁の存在だから、哲学を学ぶ事で何か資格が取れるという事は絶対にない。私は理数系が苦手だから、数学の研究に一生をささげる人がいると聞くと、いったいどんな変わり者だろうと思う。おそらく先方も同じ事を考えているに違いない。

 そういえば、現象学の祖であるフッサールは、数学の研究もしていた。学問が分化していなかった昔にさかのぼれば、デカルトのように解析幾何学の祖と呼ばれる人もいるし、パスカルはどちらかといえば数学の方で有名なのではないか(ちなみに哲学専門というのは、カントが最初らしい)。さらにさかのぼれば、古代ギリシャでは幾何学が盛んで、プラトンも幾何学を重要視していた。現代でいう代数学もそうだが、数学は計算間違いでもしない限り、誰がやっても同じ結果が出せる唯一の分野だったからだろう。だから、数学の方法をきわめれば、真理に到達できるのではないかと考えたのも無理はない。現在では、その方法で上手く行く分野と、そうではない分野が存在する事が判っている。前者が自然科学、後者が社会・人文科学になった。

 ただし、後者の中には、今でもこの区別を理解できない人がいて、「真理」を求めていたりするらしい。そのうち、「性」を計算する人が出てくるかもしれないが、そこまでやればもう占いと一緒である。易だって計算を使うし(算木というのがあるくらいだ)、「ソロバン占い」というのも聞いた事がある。

 それはさておき、数学と哲学である。他の学問が、いわば成果を「積み上げて行く」のに対して、この2つはむしろ原理を「掘り下げて行く」。哲学では「人間」の基礎を掘り下げる。では、私は何を掘り当てようとしているのか。人間の基礎を掘り下げたところに見つかるであろう、T's と非 T's との共通の根っこである。いかえれば、それが相互理解を築き上げるための基礎なのである。その基礎の上に、誰がどのようなものを「積み上げて行く」のか。それは私にもまだ判らない。

L.Jin-na


■■2000年05月25日■■

思想の基礎としての「無我」

 職業の方はやや落ち着いてきたが、プライベートでは相変わらず思想・哲学三昧の日々である。その割には「ジェンダー素描」「りゅこ倫」が一向に進まないが(^^;)、そちらは来週以降に何か取り掛かれるのではないかと思う(特に「りゅこ倫」は)。

 ただし、現在考えている事は、直接には T's の役には立ちそうにない。少なくともそういう形での新しい知見は、今のところない。その代わり、というわけでもないが、現在取り組んでいるのは、基礎固めである。だから、従来の私の説が大きく変わる事はないが、それがいっそう反論しにくい堅固なものになる(と思う)。つまり、一部の人にとっては、ますます困った事になるであろう(笑)。

 もっともこれは T's だけに寄与するものではなく、思索全般の問題である。だから私が他に興味を持っていること、例えば T's に限らずもっと幅広い問題としての身体論などにも、強く影響するだろう。この場合には、基礎付けだけの問題ではなく、新しい発見がありそうに思う。なぜかというと、これまでたいした見解を私が持っていなかったためである(苦笑)。ただ、従来の身体論(例えばメルロ・ポンティのような)に対して漠然とした違和感を持ちつづけてきた、その違和感が何とか形にできそうな予感がある。

 ここでは、その身体論についてはさておき、基礎付けの話である。考えてみると、実は新しい発見など何一つなくて、単に私の現象学の理解が進んだに過ぎないという事かもしれない。どちらかといえば、その可能性のほうが高い。もっと可能性が高いのは、自分で理解が進んだと思っているだけで、実は勘違いをしているだけという場合である。ただし、その場合にはその勘違いを整然と指摘していただければ、その勘違いを自覚する事ができる。幸いな事に、少なくとも現在の私の周囲には、それを可能にしてくれる人達が何人かいる。

 なぜ私が、このような基礎付けに時間とエネルギーを割くのかというと、反面教師のような思想や意見がたくさんあるからだ。普遍性を持った理路を無視して、自分の都合にあわせて恣意的な論理の展開(もしくは飛躍)をするような見解が、世の中にはたくさんある。例えば、「脱男性の時代」(渡辺恒夫・勁草書房)がそれだ。十数年前にこの本が出た時には、自分達を正当化できる「名著」として受け入れた TV も多かったが、私は当時から、少なくともこの本で展開されている論には賛成できなかった(資料的側面としての価値は認めているが)。

 なぜなら、当時の私でさえ反論可能な内容に過ぎなかったからだ。自分から見ても反論可能な論を、自己正当化の根拠とする事はできない。中には、それでもよいから信じたいと思う人もいるかも知れないし、その気持ちは判らなくもないのだが、しかしそれは所詮は「砂上の楼閣」ではないだろうか。砂上の楼閣なら、覆される可能性がある。まして、その覆し方を自分自身が知っている。そして、いつ誰が実際に覆しにかかるのか判らない(常にその可能性がある)。そんなところに安住できるとは思えないし、また安住できない場所に住もうとは、私は思わない。それなら堅固な橋の下で野宿をする方が、よほどマシである。

 私は、土台のしっかりした安住できる「住みか」が欲しかったのだ。また、私だけでなく他の T's を「砂上の楼閣」に住まわせる事も、できる限りしたくない(ただし、私は押し付けがましい博愛主義など発揮する趣味はないから、本人が望むなら別である。世の中には、あえてそういうところを選ぶロマンチストも存在するという事は、私も知っている)。

 思考の基礎固めとは何か。一切の疑わしい事について、その疑いに反論する事ではなく、デカルトのように、むしろその疑いを徹底してみる事だ(方法的懐疑論)。デカルトの場合には、それでもなぜか身体と精神がどこかから(?)出てきてしまい、心身二元論になった。私は少し前まで、これを一元論化しようとしていた。だが、よく考えてみると、身体も精神も「疑わしいもの」に含まれてしまう。「ある」のは認識=認識内容だけだ。これを推し進めて行くと、唯心論でも唯物論でもない、唯識論になる。だが、現象学はそもそも唯識論なのではないか。

 常識的には、認識があれば、認識する主体がある・・・という事になっている。そうでなければ、「われ思うゆえにわれあり」という事はできない。これが「われあり」という「われ」の存在証明だとしたら、最初の「われ思う」の「われ」はどこから出てきたのか。「われ」の存在を前提に「われ」の存在証明をするのは矛盾である。もっとも、デカルトは日本語で考えたわけではないから、これがラテン語だとどういうことになるのか判らないのだが、とりあえず「われ」も取り払って(エポケーして)みる。「思う、ゆえに思いあり」。これなら、私にも疑いようがない。この次に考えるべき事は、「われ」の存在証明ではなく、おそらく「われ」があるという確信成立の条件を問う事ではないか。

 なぜか、根本を疑えば疑うほど仏教に近くなるような気がする。

L.Jin-na


■■2000年05月18日■■

文を創る、顔を作る

 先月以来、「りゅこ倫」「ジェンダー素描」の執筆がとまっている。まったくネタがないわけではないのだが、思いつくのがたいていは仕事中で、帰宅してパソコンに向かうころには忘れているのである(^^;)。それだけでなく、前回も書いたように、次回の読書会で『性同一性障害』(吉永みち子・集英社新書)を取り上げる事になっていて、そのレジメ担当になっているために、そちらの準備にも時間を割いている。よいものができれば【EON/W】にも掲載したいのだが、今のところは、それはあまり期待できないような気がする。

 この本自体は、私は大変すぐれていると思うのだが、それでもこのままでは不明瞭ではないかとか誤解を招く恐れがないかという事で、補注を加えている。現在までできたところでは、補注が半分ほどを占めるという大変なものになってしまった。その補注は、いちいち調べものをするのが面倒なので、【EON/W】のファイルをブラウザーで開いて利用している。だから、このレジメを掲載するとなると、控えめに見ても半分以上は、既に【EON/W】に掲載されている内容が重複する事になる。だから、改めて掲載する意味がない。

 しかし、このレジメの作成そのものは、私個人にとっても意味のあるもの・・・になる予定である。それは、性同一性障害についての知識を少しでも多くの人に知ってもらう、というような事ではない。むしろ逆である。非当事者からどのような質問を受けるか、それを私が知る事ができるという点にメリットを感じている。非当事者からは、時には当事者が考えもしなかった質問が出てくる事がある。このギャップを知る事は、相互の理解のために不可欠だろう。もしかしたら、その中には的外れな、どうでもよいものも含まれていることもあるかもしれない。しかし、それでも答える事ができるかどうか、これは重要な事だと思う。少なくとも、なぜそれが「どうでもよい事」なのかを納得させられるような説明は必要だからだ。

 私は、GID に限らず他の分野においても、理念の押し付けや言論封じではなく、このような馬鹿誠実の積み重ねだけが相互理解のために有効だと考えている。


 最近、その作業の合間の気分転換にお化粧をしている。ただし、それもパソコン上でやる。最近はそういうソフトがいくつか存在していて、私が使っているのもその一種類だ。やはり前回ここに書いたデジタルカメラで、自分の素顔を撮影する。もっとも、素顔といっても実際にはファンデーションくらいは縫っておいた方が、後の作業が楽だ。ついでにアイラインとマスカラも済ませておく。それを素材として、簡単なメイクをほどこし、他に、髪型や眼鏡なども選ぶ事ができる。これが、単純だが意外に面白い。

 左の図で左列に縦に並べたのが、同じ顔で髪型と眼鏡だけを3種類変えたもの、さらに一番下の顔を合成して作ったのが、右側の写真である。このソフトで作成できるのは正面から見た顔だけなので、合成に使える写真も限られてしまうのだが、暇つぶし程度ならこれで充分だろう。

 意外に便利なのは、自分の顔に合うメイクや眼鏡、髪型などをこれでシュミレートできる点である。特にメイクは、これまでも PhotoShop などのソフトで可能だったが、このソフトではアイシャドウやチークなどをそれぞれ別データとして記憶するため、部分的な修正が楽にできる。PhotoShop でこれをレイヤー機能を使ってやろうとしても、作業を進めて行くうちに、どれが何のレイヤーだか判りにくくなってしまっていたのだ。

 かといって、実際にあれこれとメイクしてみるのも面倒だし、このソフトなら、買うのにちょっと勇気が要るような色の口紅でも、気楽に試す事ができる(そして、たいていの場合、やっぱり買わなくてよかったと安心する事になるのだ)。髪形に至っては、実際に試してみるのはメイク以上に勇気が必要だが、それもかなりの種類のデータが用意されていて、気楽に何通りもの髪型を試してみる事ができる。

 メイクについて説明した本や雑誌記事などでも、イラストで説明しているものは判りにくかったり、また同じメイクでもモデルの写真と自分の顔とでは、かなりイメージが違ってしまう(必ずモデルの方がきれいなのが悔しい)。こんなソフトがあると、そこで説明されているメイクを自分の顔にほどこすとどうなるのか、実験する事ができる。

 今は忙しくて取り組む時間がないが、こんなソフトを使って、メイクについての説明ページを作るのも、面白そうだ。

L.Jin-na


■■2000年05月13日■■

近況

 以前から私は一種の「器用貧乏」なのではないかと思っていたが、ゴールデンウィークが明けてからのこの一週間、それに「貧乏暇無し」が追加された。おかげで哲学の講義も2回続けて休んでしまった。1回目は天候の急変が原因だが、今週は講義のある時間に都内に戻る事ができなかったための欠席である。それ以外にも、今週になってまともな時間に帰宅できたのは1回だけという多忙さである。

 とはいえ、仕事以外にまったく何もしていないというわけではなく、仕事の合間に用事をこなす事もある。「用事」というにはちょっと違う気もするが、シャレでデジタルカメラも買った。「シャレで」というのは、きわめて安価に「どうやら写真らしいものが写る」という程度のものを買ってきたためである。カメラだけの価格で言えば4000円くらい。ストロボがないから夜間や室内では使えないし、液晶は撮影枚数を表示するための2桁の数字が出るだけなので、どんな写真が撮れたのか(撮れなかったのか)も、パソコンに接続して読み込んでみないとわからない。画質も悪く、デジカメを買ったというよりは、「デジカメごっこ」ができると言う方が正確である。価格が価格だからハラはたたないが、実用にもなりそうもない。電源に9Vの角型電池(006P)を使うのには驚いた。この電池を使うのは、確か小学生のころに学研の「電子ブロック」で遊んで以来、四半世紀ぶりではなかったかと思う。

 CDは、少し前にモーニング娘の 3rd アルバムを買ったのに続いて、今日『プッチベスト』を買ってきた。実はこれを書き始めるまで、パソコンでこのCDがかかっていた。数ヶ月前、何人かでカラオケにいたときに、同行した女性の一人がモーニング娘の曲を歌ったのを覚えていたのが、直接のきっかけである。その後、コンビニなどで何回か聞くことがあった。この手の歌にはまったくなれていないためか、実は歌詞が聞き取れないのだが、リズムが気に入った。ただし、音楽等を聴きながらだと考えがまとまらないので、文章を書いている今は、パソコンのキーボードの音しかしない。読書中も音楽はかけない。だから実は、CDを買ってもあまり聞く暇がないのだが、そのうちカセットテープにでも録って運転中にでも聞く事にしようかと考えている。

 他にやっている事といえば、これまでの自分の考えをどうやってまとめるかの算段である。これは昨年から考えているのに、いまだに形にならない。考えているうちに、新しい思いつきがあって、なぜかその都度白紙に戻る。自分のこれほど文章能力がないとは思わなかったが、考えてみれば、これは短距離走と長距離走の違いのようなものかもしれない。ここで書いている文章や、「ジェンダー素描」「りゅこ倫」の各一編ごとは、いわば短距離走のようなものである。作業が進まないのは、短距離ランナーである私がフルマラソンに挑んで、いまだに完走できないようなものではないか。そうはいっても「もう走れません」というわけにもいかないから、まだあがいている。

 どう言う内容をどう言う順番で書くかという案は何度か作ったのだが、作業が途切れ途切れなので、そのたびに読み返す必要がある。困るのは、同じ案を何度も読んでいるうちに、それが陳腐なものに見えてくる事で、そのたびに構成を変える。だから作業が進まない。今回は、ゴールデンウィーク中に、それを文章ではなくチャートで表してみた。これはなんとなく上手く行きそうな気がするのだが、どの案も作った当初はそう見えたのだから、あまりアテにならない。答えは相変わらず、時の経過のかなたにある。

 また今月は、月に一回、有志で行っている読書会のレジメの担当にもなっている。そろそろ私に順番が回ってくるころだと思って、本を3冊くらい候補に上げたら、なぜか出席者全員が『性同一性障害』(吉永みち子・集英社新書)を推した。レジメ担当が私だからかもしれない。私としても、実はこれが一番楽なのだが、現在の多忙を考えると早めにまとめにかかった方がよさそうである。

 リンクの申し込みもいくつかあったのだが、「登録してください」というタイプの申し込みは、だんだん対処が面倒になってきた。特に内容説明とジャンルの選択が面倒だ。以後、「自由にリンクしてください」で通そうかとも考えている。アダルトサイトとして登録してくれというオファーがきたかと思うと、アダルトサイトお断りのところからオファーがくることもある。世間にの目にはこの【EON/W】がどういうサイトに見えているのか、理解に苦しむところである。判断のしようがない。

 フェミニズムだのジェンダーフリーだのを主張しているとしか思えないようなサイトからも、オファーがくる事がある。こういうときは、また別の意味で悩む。私としては、そのようなサイトであっても「自由にリンクしてください」は同じ事なのだが、果たして先方がこちらの考えを理解しているのか、その上でのオファーなのかが、よく判らない。もっとも、先方からの申し入れは「リンクさせてください」だったが、そのサイトを見てみたら、既に【EON/W】へのリンクが張られていた(笑)。それなら返答の必要もないだろうと思い、放っておく事にした。なんだか知らないが好きにしてくれ。そういうしかない。繰り返すが、忙しいのである。

 他に、リンク以外の問い合わせのメールもある。中には、ゲイバー(ニューハーフバー)の消息を尋ねるメールもあった。これもなぜ私のところにきたのか、よく判らないのだが、ではそう言う質問は誰に訪ねればよいのかというと、私にもよく判らない。だから、実は質問の答えもほとんど判らなかったのだが、こういうのはとりあえず、私の知る範囲のことだけ答える。ただし、こういう質問で迅速な回答を期待されても無理である(回答しないまま忘れる事さえありえるのだ)。また、答える意思はあるにもかかわらず、じっくり考える時間が必要なケースもある。この場合には、それによって私の側にも新しい気づきが得られることもあるから、かなり真剣に考える。考える時間が長い上に、1日では書きあがらないのが普通だから、これもやはり、迅速な回答を期待されても無理である。

 これらの事をしていると、つい日常がおろそかになりやすい。ここでいう「日常」とは、雑事といいかえてもいい。ついバイクの整備がおろそかになってあとで後悔したり、気がつくとかなり髪がのびていたりする。仙人が山にこもりたくなる気持ちが、こういう時に理解できるようになるのだ。

L.Jin-na


■■2000年05月06日■■

『戦後日本<トランスジェンダー>社会史』

 前々回の「戦後 TG」で紹介した、三橋順子さんの、戦後の TG (=トランスジェンダー)に関する調査のまとめを、先週お送りいただいた。正確には、

『戦後日本<トランスジェンダー>社会史I −基礎研究・資料編−』
 (戦後日本<トランスジェンダー>社会史研究会)

とあるので、「三橋順子さんの」というのは不正確ではないかという気もするし、巻頭の矢島正見・中央大学教授の言に従うならば、「三橋順子、杉浦郁子両氏の」と書く方がより正確なのかも知れない。しかし、私が大学もしくは大学院の「研究」についての制度を知らないため、どのような表現が妥当なのか、実はよく判らない。

 体裁としてはA4版の、コミックマーケットでよく見かけたオフセット印刷の平綴じの同人誌とよく似ている(ただし、当たり前だが漫画はおろか、挿し絵一つない、文字ばかりの本である)。

 内容は、まず全体の印象からいうと、これだけのことを調べるのに一体どれだけの手間と時間がかかったのか、それを考えるだけで気が遠くなる。

 資料を大別した中に、「三橋順子氏からの資料提供されたもの」というのがあり、その下になぜか、三橋順子さんへの資料の寄贈者の一人として私の名前が挙がっている。ただしこれは実際には、「太田碧氏(故人)から三橋氏に遺贈」とある、その一部が私を経由したというに過ぎない。それで私が資料提供者の一人に数え上げられるのは、なんとも義理堅い話で、やや面映ゆい気がする。もっとも、本書はそのおかげでお送りいただけたのだが、これに関して私になんら功績があるわけではない。

 また、本書の中でも触れられているが、MTF 関連の情報が圧倒的に多く、雑誌や新聞記事に掲載された情報を別にすれば首都圏の情報への偏りが見られる。ただしこれは、編集方針に偏向的な傾向があったわけではなく、ニュースソースの問題だろう。私の考えでは、MTF の場合には古くから TV の活動があり、例えば『くぃーん』『ひまわり』のような専門誌も存在したが、FTM にはこのような条件が欠けている。FTM の場合、その存在が比較的最近、性同一性障害ということが注目を浴びるようになってから顕在化した観があり、それだけ一次資料が少ないであろう事は容易に推測できる。

 また地域的な偏りの解消のためには、例えば本書の中に「新宿の女装コミュニティ」という概念が登場するが、それに対して「大阪の女装コミュニティ」ともいうべき世界の歴史を知る人の存在が不可欠であろう。ここ10年くらいの間のことであれば、大阪のパソコン通信【スワンの夢】の過去の書き込みに丹念に当たることで、ある程度は判るだろう。しかしそれ以上過去のことや、またここ10年ほどの出来事についてもネット上で語られていない事情などが裏にあったりして、必ずしも明確に判るとは言い難いものがある。この点、ぜひとも関西方面にも研究者の登場を期待したいところである。大阪や京都などの大都市には、終戦直後から現在に至るまで、このままでは消え去ってしまうしかない「戦後関西<トランスジェンダー>社会史」があるはずなのだ。

 第2章の「戦後日本トランスジェンダー社会の歴史的変遷の素描」で私の目に留まるのは、何といっても、やはり1990年以降に登場する「電脳女装世界」の概念である。ここでは具体的なネット名としては【EON】だけが出てくるので他のネットには気の毒なようだが(笑)、もともと【EON】はその開設当初から「電脳女装空間」をサブタイトルにしており、一種のバーチャル空間としての「場」であることを最後まで堅持し続けて来たという自負は、私自身持っている。本書では「電脳女装世界」の意義について過剰な賞賛もなく、きわめてニュートラルに語られている点が、かえって私の目には好ましく思われた。

 続く第3章の「戦後日本トランスジェンダー社会史年表」は本書の目玉ともいうべきで、ざっと見ても本書の過半のページ数をこの章が占めるのではないかと思う。それにしても、性転換や、女装系スナック、あるいは女装での旅行など、意外に古くから存在していることに、改めて驚かされる。その合間々々に、女装しての犯罪(特に性犯罪)が多いことにはうんざりさせられるが、事実は事実である。こういう問題からも目をそらすべきではない。

 ちなみに、ここでの私(神名龍子)の登場は、1990年の【EON】の運用開始、1995年の「女装の精神誌」、1996年の「女装の身体誌」と【EON/W】の開設、それに1999年の【EON】の閉鎖の5件である(私が見落としていなければ、小松原留美としての登場はない)。マスコミ嫌いの私にはこの年表に特筆されるような実績がほとんどないことがよく判る。ただし巻末の資料集には、この他に『S&Mスナイパー』でのインタビュー記事が掲載されている(実はその他に、1990〜1991年頃に、『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)の「スピリッツネット」というコーナーで一度インタービューを受けている)。他に私が(神名龍子名義で)書いた雑誌記事といえば、『マニア倶楽部』(三和出版)での「パソコン通信入門」と、『PC+One』(笠倉出版)というパソコン誌でデータベースソフトの紹介という、2つの連載を持ったことがあるくらいで、もちろんこれらは本書の方針とは無関係である。

 この年表については、ここではこれ以上の言及はしない。膨大な項目があまりに多岐に渡っているため、語ろうと思えば何日でも語れるが、実際に見ていただくに越したことはない。きりがないのだ。

 第4章は雑誌掲載資料で、一般誌と専門誌に大別されている。この膨大がまた凄まじい。

 さて、ざっと内容を紹介したのはよいが、本書の意義についての私の見解は、既に前々回の「戦後 TG」で述べてしまっている。強いて言えば、その時に「期待している」と書いた、その期待を裏切らないものであるばかりではなく、予想を遥かに凌駕していたといっていい。しかも今回はまだ「基礎研究・資料編」に過ぎないのだから、なおさらに驚かされる。

 書き忘れたが、表題の「トランスジェンダー」はおそらく、三橋さんの用語でいう「広義の TG」、つまりこの【EON/W】でいう T's とほぼ同義だろうと思う。本書はいわば、T's に関する初めての専門的研究といえる。この膨大な資料は過去の、「いささかそれらしい研究」を一気に色褪せたものにしてしまったといえるだろう。

 今後の問題は、この膨大な資料を踏まえていかなる見解が導き出されるかという点にあると思う。

 この社会学という視点は、私のような哲学的な視点とは、いわば向きが逆である。私が哲学的視点から個人(主観)を出発点とするのは、最も根本的な問題として認識の問題があるためだ。そこから出てくる結論は、反対に社会の側から問題を捉えた場合に導き出される結論とは(少なくともこれまでの思想に関していえば)、まず相容れないのが通例のようである。この点が気にかかるといえば気にかかる。

 しかし、このことは「社会」を見る必要がないという事ではない。基本的にはあくまでも考える順序の問題であって、最終的にはどちらの見解も必要とするのである。私の場合でいえば、だからこそ「個人(主観)を出発点とする」という事になるのであって、主観の内部に閉じこもって独我論に終始してはならない。逆に、先に社会を見たとしても、それをどのように解釈するかという点において、やはり独我論に終始する可能性が存在している。どちらの考え方(順序)を取るにしても、何が注意すべき点であるかは、結局は同じ事である。どちらの方法を取るにしても、途中経過が悪ければロクな結論は出ない。当たり前である。この事は私自身も、よくよく自戒しておく必要がある。

 実際には今後もお互いの間で、意見の相容れない部分が出てくることもあるかも知れない。その事自体は構わないし、またそれを恐れてはならないと思う。数学ならば、同じ問題を異なる解き方で解いても、その答は最初から一致しないと困る。そうでなければ、どちらかが間違えている事になる。しかし、私達が扱っているのは社会あるいは人間の問題であって、そこには数学のような意味での正解(=真理)は存在しない。逆にいえば、それでもなお、異なる見方から同様の答(=妥当)を導き出す事が出来れば、これは大変に心強い解答になるだろう。願わくば、共に妥当と認められるような解答に到達したいものである。

L.Jin-na


■■2000年05月05日■■

新しいパソコン

 先月、新しいパソコンが自宅に届いてからというもの、この一ヶ月ほどホームページの更新のペースが落ちた。

 別に新しいパソコンでゲームに没頭しているわけではなく(笑)、セッティングに追われつづけていた。作業は大きく分けて、以前に使っていたパソコンから新しいパソコンへのデータの転送、それとソフトのインストールである。もっとも、現在のパソコンは使わないソフトが最初からふんだんに入っている。「どうせ使わないから」とワープロや表計算ソフトが入っていないものを買ったのだが、要するにワープロと表計算が入っていないというだけで、いらないソフトがたくさんあった。もしかしたらインストールしたソフトよりも、アンインストールしたソフトの方が多いかもしれない(^^;)。

 【EON/W】(このホームページ)のデータは、可能なものはまとめてサーバーにアップされているものをダウンロードした。私はMOなどのメディアを持っていないので、その方が早い。他に、圧縮して自分宛にメールで送ったものもある。フリーウェアの類いは、適当な雑誌を買ってきて、その付録のCD−ROMからインストールする。これだけは、便利な世の中になったものだと思う。雑誌のページを開いて、そこに掲載されているベーシック言語のプログラムリストを一晩掛りで入力したのが、一昔以上前のことに思える(十数年前の話だからだろう)。

 以前のシステムを運用しながら、一方で新しいシステムを使い、次第に新しいシステムの使用率のほうが増してきた。本当は、この連休中に、以前使っていたパソコンを移動して、そこに新しいパソコンを設置しようとしていたのだが、それは次回の給料日後にすることにした。もう少し買い足したい機材があり、それを考えるとパソコン本体の背面を自由にいじる事のできる現在のほうが、作業が楽だからだ。そのため現在は時々、下見のためにショップに行っては、必ず手ぶらで帰ってくるという生活をしている。

 HDDの大容量化(といっても現在では常識程度の容量に過ぎないが)と高速化、それにCD−ROMドライブの高速化で、辞書を使うのが楽になった。CD−ROMで持っている広辞苑や六法全書などである。他に、哲学辞典があればよいのだが、これは少なくとも日本では売っていないのか、一度も店頭で見かけたことがない。辞典に限らず、哲学関係は『ソフィーの世界』のCD−ROM版以外に、CD−ROMを見たことがない。

 英語の辞書は研究社の中辞典だが、これはいずれはリーダースとリーダース・プラスが欲しい。中辞典程度では、私の用途に照らして絶対的に語彙が不足している。そのくせ、使う本人は日常会話程度の英語も判らないときている。翻訳ソフトは、現在では当てにしないことにした。下手をすると、翻訳された日本語が、元の英語よりも理解不能になるのだ。

 他に、フォントと辞書が欲しい言語としては、ドイツ語と中国語がある。もしかしたら使わないかもしれないが(少なくとも中国語やドイツ語よりはかなり使用頻度が落ちるはずだが)、フランス語もあれば安心である。英和辞典と違って、ドイツ語の辞書のCD−ROMは割高感がない。英語と比べると、もともと辞書の価格が高いので、CD−ROMになってもあまり金額の違いを感じないのである(ちなみに現在は、古本屋で安く買い叩いた独和辞典が一冊あるきりである)。

 だいぶ話がそれたが、買い足す必要のあるものを除いては、今日でパソコンの一通りのセッティングをとりあえず終えた事になる。これで幾分かは、更新のペースも戻るのではないかと思う。


 ところで、今回のタイトルからは離れるが、一昨日から昨日にかけては東京を離れていた。例によって(?)信州へ行っていた。どういうわけか、私の旅の大半は信州である。私自身は東京で生まれ育ったが、父が信州の出身であり、子供のころは毎年の家族旅行の旅先でもあったから、そのためかも知れない。それに加えて、信州に友人がいる(現在は時期によって、いたりいなかったりするが)。なにかとなじみが深いために、気楽な旅になる。

 今回、帰途は今までとは別ルートを取ってみた。この時期は、日が落ちてからの峠越えはまだ寒い。それで従来の甲斐路ではなく、早く平野に出る事のできるよう東信から上州路を選んでみた。私にとってははじめてのルートなのだが、昔でいう中山道であるため見なれた地名が多く、あまり迷う心配がない。今回は単なる通過になったが、いずれこの方面もじっくり回ってみたいと思う。

L.Jin-na


■■2000年04月03日■■

戦後 TG 史

 このホームページにとっても重要な情報であるにもかかわらず、【EON/W】への掲載を忘れたまま1ヶ月が経過してしまった。むろん他の誰でもない、私の落ち度なのだが、思い出すきっかけを得たのを幸い、今度こそ忘れないうちに書き留めておく。

 三橋順子さんが、1ヶ月ほど前に戦後の TG に関する調査をまとめられたそうである。この案自体は私も何年も前から持っていて、当時の私の考えでは、「戦後」について調査するにあたり、特に「証言」を集めるという作業に関して、人間の寿命というものを考えると今が限界期だというのが、その主な理由であった。

 もっとも、このような私の考えはきわめて漠然としたものに過ぎなかったのだが、この点、三橋さんの調査は、私などの構想を遥かに凌駕するような精緻さを持つものとして期待している。

 「期待している」という言い方をしたのは、三橋さんが今回まとめられたその成果を、私がまだ見ていないためである。見てはいないが、私がここ数年間の彼女の活動を漏れ聞いた、その内容から考える限り、上のような結論しか出てこないのだ。まさに適任者として成すべき事を成した。そう確信している。

 三橋さんは「証言」だけでなく、さまざまな文献情報についても、ほとんど「発掘」といえるような発見・収集をされているし、またその成果の一部を漏れ聞く事もあった。また、彼女のこうした情報収集能力については、おそらく、残念ながら昨年解散した自助グループ・TSGに参加した経験の持ち主であれば、誰もが納得するのではないか。毎月、TSGの集会では T's 関連の情報(主に新聞・雑誌の記事やテレビ番組など)をまとめた資料が配布されたが、あれを作成していたのが、やはり三橋さんである。この点、ものぐさな私は遠く及ばない。

 また先日、三橋さんに久しぶりにお目にかかる機会があった時に、戦後 TG 史に関して「新たに判明した事実」をいくつか教えていただいた。実際、いずれも私が知らなかった新事実ばかりで、しかも興味深い事ばかりであり、我を忘れてお話を伺った。考えてみると、ニューハーフの世界について、彼女の方から私が一方的に教えてもらうなど、おそらくは初めての事ではなかったか。知っているつもりでも、業界の詳しい話が意外に失伝していたのだという事を思い知らされた。例えが適当ではないかも知れないが、アメリカ人から日本の伝統文化の指導を受けているような心持ちだった。なんとなく「くやしい」のだが(笑)、知らない事は知らない。それが事実だから、どうにもならぬ。

 一度だけ「青江」のママとお会いした事はあるが(3〜4年ほど前だったか)、私の場合には、まさか自分が勤める店の営業中に「取材」を始めるわけにも行かなかったから、「緊張」はしても「謹聴」には至らなかった。ただ「お会いした事がある」というに過ぎない。今回のここでのテーマに関する限り、私はこれまでに何一つ役に立つ事はしていない。正確には「出来ない」というべきか。

 つい話が私事に渡ったが、三橋さんの調査の成果についてはまとまった形で発表される予定があるそうなので、ここでは具体的には触れない。しかし、いずれ発表予定について告知されるはずなので、興味のある方は折りに触れて彼女のホームページ(http://www4.wisnet.ne.jp/~junko/)をチェックする事をお勧めする。私自身、待ち遠しく・・・というよりは、待ちきれない思いでいる。

 ところで、これは以前にも書いた事があるかも知れないが、個人的に気になっている事がある。青江のママが、学徒出陣で満洲の戦車連隊に配属され、中尉で終戦を迎えたという、その経歴である。司馬遼太郎氏が、まったく同じ経歴の持ち主であった事と、当時の陸軍がそれほど大量の戦車を持っていなかった事などを考えると、もしかしたら両者は同じ連隊の所属していなかったか。直接に「戦後 TG 史」に関わる問題ではないのだが(しかもこれは「戦後」の話ではないのだが)、これが気になって仕方がない。青江のママが所属していた連隊は、終戦時にどこにいたのか。もし、本土決戦を控えて満洲から佐野(栃木県)に移動していたのであれば、青江のママと司馬遼太郎氏とは、同じ連隊の「戦友」だったはずである。

L.Jin-na


■■2000年04月02日■■

訂正とお詫び

 昨日のこの欄の『エル・アルコン−鷹−』において、

小谷真理氏のお名前を、誤って「小谷真理子」と表記しておりました。

 お詫びして訂正させて頂きます(本文訂正済み)。

 また、ご指摘頂きました方々には、併せてお礼申し上げます。

L.Jin-na


■■2000年04月01日■■

『エル・アルコン−鷹−』

 漫画家・青池保子の作品は、かれこれ20年以上前から読んでいる。しばらく前から、久しぶりに彼女の『エル・アルコン−鷹−』という作品を読みたくなっていたのだが、見つからず終いだった。それが1ヶ月ほど前に、秋田書店から文庫化された。作品そのもののよさは、20余年を経ても変わらずに感じられる。強いていえば、これは作者の責任ではないが、巻末の解説(小谷真理)だけが物足りなかった。

 小谷は、ここで主人公・ティリアンが生きる世界の、二つの二重性を指摘する。一つは彼がイギリスとスペインの混血であること。もう一つは、陸と海の論理(法や倫理)の違いである。確かにこの二つの二重性は、この作品の背景ではあるが、私の考えでは、それらについて指摘するだけでは、今一つ作品の本質に迫っていない。

 では、この私が捉えたこの作品の本質的なテーマは何かといえば、それは端的に「力」である。もちろん、この「力」は腕力のような単純な力では有り得ない。そうではなく、ここではマキアベッリが『君主論』で示した「徳」(ビルド)と同義である。

 こう言い換えても、判らない人はおそらく誤解する。この「徳」や「力」とは、社会的な道徳ではなく、個人的価値観としての「よい」を求めるために必要な能力や、その他の諸条件を意味する。ティリアンが「陸上の通常の法とモラル」に縛られないのは、彼の活動の舞台が「海という無法の地」だからでも、また彼が「スペインとイギリスというふたつの価値観を往復する」立場にあるからでもない。そうではなくて、彼が「陸上の通常の法とモラル」とはまったく別原理の「徳」によって行動しているからなのだ。彼の活動の場が「海」なのは、作者が彼に「徳」を発揮できる格好の舞台を与えたに過ぎず、それが陸上であっても、実は「徳」の発揮にはまったく差し支えないのである。

 ここで小谷が「徳」なり「力」なりという発想を取らないのは、別に彼女が女性だからではない(もしかしたらフェミニストでもある彼女が、「徳」や「力」を男性原理だと価値付けて嫌ったということは有り得るかも知れないが、それを断言できるほど、私は彼女について知らない)。私がそう言いきるのは、この作品が青池保子という女性の手によるものであり、さらにその背後には塩野七生(ななみ)という女流作家の存在があって、青池保子とマキアベッリを接続しているという事実があるからである(実は私自身、20年前にこの経路をたどって、マキアベッリを知った)。

 ティリアンのイメージモデルは、マキアベッリが『君主論』でも取り上げているチェーザレ・ボルジアであり、ついでに言えば『エル・アルコン〜』所収の『テンペスト』に登場する女海賊、ギルダ・ラヴァンヌのイメージモデルも、塩野七生の『ルネサンスの女たち』(中公文庫)に見出すことが出来る。興味のある方には、ぜひ一読をお勧めしたい一冊だ。

 ティリアンの活動の場が陸上であっても「徳」の発揮に差し支えないというのも、そのイメージモデルのチェーザレ・ボルジアという実例が存在するためである。小谷が指摘するように、この『エル・アルコン〜』という作品にカタルシスを感じるのは私もまったく同感だが、しかしそれは「陸上の通常の法とモラルにがんじがらめになった世界と人間を問い直しているから」というより、むしろ陸も海も含めた社会のルールに「馴れている」ような世人の在り方を問い直しているためだろう。

 スペインとイギリス、陸と海という、小谷が指摘する二重性がそれほど重要なものではないと私が思うのは、ティリアンがそれらの間を「往復」しているのではなく、超越していると見るからだ。「往復」と見えるのはあくまでも表層的な見方であって、マキアベッリがチェーザレ・ボルジアを「善悪の彼岸をゆく」と評したのと同様、ティリアンもいわばそれらの諸価値に対して、メタレベルに在ろうとする。ニーチェの表現を借りていえば、ティリアンにせよチェーザレにせよ、彼等にとって重要なのは、社会的な価値観としての善(グート)や悪(ベーゼ)ではなく、彼自身にとっての「よい」(グート)と「わるい」(シュレヒト)なのだ。この事は、何度強調してもし過ぎるという事はない。


 ただし、その上でいう。ティリアンは後に別の作品で(実はその作品の方が先に描かれたのだが)、チェーザレと同様、破滅する。彼等は「自分自身の価値観」というものをしっかりと自覚していた。そして社会的なルールの存在も知っており、なおかつそれを利用しさえした。彼等のもう一つの共通点は、彼等にとっての「他者」が、滅ぼすか、「おそれ」によって従えるかの、いずれかでしかなかったことである(ティリアンの野望を知ってなお彼に憧れ従う少年ニコラスでさえも、彼に対する「おそれ」をおぼえている)。

 彼等の破滅の原因を、私は最後に挙げたこの一点にあると考える。自分の望みを実現するために、自分の個人的な「力(=徳)」を高めるのはよい事である。しかし、それには限界がある。より効果的なのは、自分自身の「力」を高めると同時に、他者の協力が得られるような「徳」をも身に付ける事である。そうすれば自分の「力」と他者の「力」の相乗効果によって、単なる足し算以上の「力」を共有する事が出来るだろう。彼等に欠けていたのは、この種類の「徳」である。

 他者と協力し合うためには、他者との間にルールを必要とし、そのルールを守ることを必要とする。ただし、他者と協力し合うためにそのルールを守るという事と、世の中のルールに「馴れて」自分自身の価値観を忘れ「世人」として埋没する事とは、まったく似て非なる事だ。その区別を失うと、社会のルールというものに対して閉塞感を抱き、ルサンチマンにとらわれる。あるいは逆に、ティリアンやチェーザレのような破滅的な結末を(そのほとんどは彼等のような「仕事」も出来ない内に)迎える事になるだろう。

 かくいう私も、マキャベリストである。ただし、ルールの価値を知るマキャベリストである。少なくとも、そうあろうと努めているマキャベリストなのである。もしかしたら、そう思っていても少しも実現しないマキャベリストなのかも知れないが・・・。

L.Jin-na


■■2000年03月31日■■

散逸な思考

 最近やけに道路が混んでいると思ったら、年度末である。そう言えばそんなものがあったと思い出したのだが、正月さえ意識しない私には、「年度」という概念はさらに縁遠いものである。むろん、ここで「縁遠い」というのは、あくまでも私の意識の上での話であって、この社会で暮らしている以上、まったく無縁なわけではない。例えば、オートバイにかかる税金。これは年度末現在で所有しているバイクに対する課税である(ただし、125c.c.以下のバイクは別扱いで、これは年末で計算する。またいずれも登録時には税金がかかる)。

 だからといって通常は、それを意識する必要は私にはない。これが3月の半ば頃にバイクを買おうかというような状況になれば、話は別である。3月半ばの登録時に税金を払って、さらに半月後の課税。そう考えれば、これは何日か待って、バイクを買うのは4月になってからにしようかと考えるかもしれない。だが、今のところ私にはそういう心配をする必要がない。月日に関係なく、バイクを買う経済的余裕がないからである。

 よく、「私達は自分でも知らない間に文化や歴史の規定を受けいている」という話がある。現代思想にありがちな話で、フェミニズムだのセクシャルマイノリティだのという話の中にも、時々登場する。ただし、これは半分間違いで、残りの半分は当たり前の話だ。

 まず「間違い」の部分についていうと、「私達は自分でも知らない間に文化や歴史の規定を受けいている」というのは、実は、そう主張する人の「人間と文化の関係」についての解釈に過ぎない。つまり、自分が人間と文化を関連付けて、そのように解釈しているに過ぎない。しかし、文化というのは人間の存在なしには成立しないのだから、「私達は文化や歴史を規定している」という人がいてもよさそうである。それが、そうならないのは、そう考える人がいないからではなく、人間が文化を作っているという事があまりにも当たり前すぎて、いまさらそんな事を指摘する必要を感じる人がいないからだろう。

 残りの半分、つまり「私達は自分でも知らない間に文化や歴史の規定を受けいている」というのが当たり前の話だというのも、これと関係している。人間は文化を作り、その中で暮らしている。文化が人間にとって「環境」の一部である以上、それは気圧や重力と同様、人間の在り方を規定しているといえる部分が、探せば必ず見つかるはずである。逆に言えば、人間に影響を与えないものは、人間にとっては「存在しない」。なぜなら、人間の意識に上るものは最低限、その存在への気付きや、それについての知識などを人間に与えるからである。これも人間の在り方を規定する要因ではないか。だから人間の知りうる限りの範囲で言えば、万物は人間に何らかの影響を与えている。このような世界観は、例えば仏教ならば華厳経から大日経に至る系譜に顕著に見られるもので(いわば曼荼羅の世界観であって)、目新しいものでも何でもない。

 また、このこと自体は、是非の価値を以って論じる事は不可能である。人間は、万物の影響の下にある。それがなぜ悪いのか。逆に、他からいかなる影響も受けないような人間の在り方が有り得るかどうかを、徹底的に考えてみればよいのである。他からいかなる影響も受けない在り方というのは、ある意味では「自由」である。人間は本来「自由」であるとか、「自由」であるべきだという場合、この意味での「自由」を考えると、それ自体が実現不可能な要請になる事は、誰でもちょっと考えれば判るだろう。

 実現不可能な要請を前提に置く、あるいは目標として設置したら、その思想は行き詰まるに決まっている。ちょうど、近代哲学が「主観と客観の一致」という難問を抱えたのと同じように、現代思想もまた解決不可能な難問を抱えているわけだ(まだ考察が不充分なのだが、もしかしたら現代思想のこの難問は、結局は「主観と客観の一致」のバリエーションではないかという気もする)。

 さらにいう。「私達は自分でも知らない間に文化や歴史の規定を受けいている」という主張が正しいのであれば、その主張も「文化や歴史」に規定されて成立したものに過ぎないはずである。また、そういう主張(思想)も「文化」として人間を規定する。「私達は自分でも知らない間に文化や歴史の規定を受けいている」という事が、文化や歴史への批判として主張されるのであれば、この主張者は同じ理由で、自分自身の主張をも批判しなければならない。これは、明らかに矛盾した思想である。

 実は「りゅこ倫」で、この事をさらに詳しく追求するつもりだった。具体的にはまず、「文化」とは何かという、「文化の本質直観」をするつもりだった。ところが、たまたま別の着想を得たために、「経験と信念」の方が先になってしまった。自分の思考の散逸さを持て余している。

 私がこれから取り組もうとしている考察は、「文化」や「世界分節」という話を経て、もしかしたら私自身が現象学を知る以前に「ジェンダー素描」で用いようとしていた、ソシュールの言語学への批判にまで届くかも知れない(届かないかも知れない ^^;)。

L.Jin-na


■■2000年03月05日■■

虚無の存在

 ふと、何の前触れもなく虚無感がやってくることがある。気のきいた言葉を選ぶ人なら「アンニュイ」とかいうのだろうが、私に関しては、やはり「虚無」と漢字で書いた方が似合いそうである。こういう事は、昔から時々ある。特に理由はない。むしろ、理由があるなら解決の方途を見出せるだけ気が楽かも知れない。

 実は、今日あたりはどこかに飲みに出ようかと考えていたのだが、どうしてもその気にならない。こんな気分の時に自宅に一人でいるから、なおさらに気が滅入るのかとも思うが、こういう時に人のいる場所に行っても、ただうっとうしく感じられるだけなのは、経験上判っている。お互いのためにならないから、結局はうちにいる。

 洋画などでは時々、バーテンがいるだけのバーが出てきたりする。一人でカウンターについてアルコールだけ頼み、あとは本でも読みながら過ごす。こういう事は、私の行きつけのお店では、ちょっと出来そうにない。平日の空いている時なら、居合わせたお客さん次第では可能な場合もあるかも知れないが、歓迎はされないだろう。

 ここでいう「虚無」は、ニーチェがいうようなニヒリズムとは違う。たぶん違うと思う。ここで取り上げているのは、あくまでも気分的なものだからだ。「不安」は気分的なものだが、それとも違うようである。そういえば、ハイデガーが何かこのような事について書いていなかったか。そう思って、彼の『存在と時間』を手にとって見ると、こんな事が書いてあった。

しばしば持続する、起伏のない、くすんだ無気分は、不機嫌な気分と取りちがえられてはならないのだが、そうした無気分も何ものでもないものではないどころか、現存在は、まさにそうした無気分のうちでおのれ自身に飽き飽きしているのである。(第二十九節)

 ここでいう「現存在」とは、要するに人間の事である。この引用部分からは判らないが、この節では、人間が気分を持つ存在であり、その「気分」とは「気付いた時には既にその気分になってしまっている」という性格を持つという事、そしてそれは自己のその都度の有り様を告げ知らせる(開示する)ものであること等について語られている。だから、直接的には最初に書いたような、「虚無感」について解説しているわけではない。

 だがこの「虚無感」も、「何ものでもないものではないどころか」、やはり自分のある状態を私に告げ知らせるものであり、それによって、私という「現存在は存在しており、存在しなければならないという」不可避な事実と、「おのれ自身に飽き飽きしている」自分とが開示されている。

 なるほど、私がいま感じている「虚無感」とはつまり「何もする気になれない気分」であり、それはおそらくは、私にとってのあらゆる事についての「意味」の、したがって私の「存在可能性」の、一時的な喪失なのだ(正確にいえば、自分にとって意味があると感じられるような存在可能性の喪失、ということか)。そして、存在可能性を一時的とはいえ喪失したとしても、なお存在し続けている、自分という存在の「重さ」を感じてもいる(体重は軽いので、念のため)。

 ただしここでは、今現在の私の「気分」について書いている。だから実は、ここであれこれと考える必要もなく、もしかしたら食事をしたら気分が変わるかも知れないし(と、ここまで書いて思い出したが、そう言えば朝起きてからこの18時間ほど、まだ食事をしていなかった。最後に食べたのは3日の夕方、つまり30時間ほど前だったか…)、一杯のアルコールで変わるかも知れない。ただ、せっかくの機会だから、この不可解な「気分」に挑んでいる。こんな時には、とにかく何でもいいから、少しでも取り組む気になったことから取り組むしかない。

 現在、やるべき事がないかといえば、そうではない。予定の一つや二つくらいドタキャンになっても、幸か不幸か、やるべき事はたくさんある。むしろ、私の今現在の意味喪失は、そのための混乱に起因しているのではないかと思う。今月と来月の予定が錯綜して、一日に何度かシステム手帳でスケジュールを確認しないと落ち着かなくなっている。意識が来月の問題にとらわれていて、つい目前のスケジュールがおろそかになる。もしかしたら、それが「気分」に反映しているのだろうか(せっぱ詰まっての現実逃避というのとは、今回は違うようなのだ)。

 一度、スケジュール全体の見直しをして、どれからどのように片づけて行くか、その手順を決めた上で、改めて頭に叩き込むことにしよう。いや、私の記憶はアテにならないから、それもシステム手帳に書いておいた方がよさそうである。そういえば、来週末の電車の時刻も調べなくては。それとその前に仕上げなくてはならない課題を一つかかえている。どうやら、今シーズンもスキーは無理そうだ。

 しかし、哲学的に考えなければスケジュールの整理も思い付かないというのは、これはこれで一つの問題ではあるかも知れない…(^^;)。

L.Jin-na


■■2000年02月16日■■

読感:『夏の約束』

 これは、「性同一性障害」と報道された著者、藤野千夜の芥川賞受賞作として現在話題の作品である。普段の私なら、直木賞や柴田錬三郎賞ならともかくとして、芥川賞の対象になるような「純文学」は読まない。この本を読んだのは、ひとえに上記の作者の性質によるのであって、こういう「文学」を読み慣れない私に、どれほどの事が判るのかという気もする。なにしろ、芥川賞の受賞が決まってすぐに出版されたためか、おそろしくシンプルな本で、作者のあとがきもなければ、解説もない。今のところは、他でこの本の書評なりも見たことがなく、そのために作者の意図といったものも、純粋に作品だけから読み取るしかない。

 あらかじめお断りしておくが、以下のこの文はそういう条件で書いてる。ただ、日頃は文学というものに馴染まない私でも、この作品が、性同一性障害だのセクシャルマイノリティだのというような、狭い視野を通してのみ読むものではない事だけは、読み進む内に判って来た。

 この本を読み進む内に、何度か私の中に浮かんで来たのは、「なんだこれは?」という違和感である。これは作品そのものに対してではない。そうではなくて、この本を読むに連れて、みぞおちのあたりに何かがひっかかるような感じがして来た、その事に対する疑問である。

 あとから考えてみると、その違和感の内の二割ほどは、作品に対する私の先入観が間違っていたことに、直接的に由来する。作者は性同一性障害、登場人物は MTFトランスセクシャルホモセクシャルと来れば、どうしたってその世界の問題を主題にしたものだと、つい考えてしまう。だが、読み進んで行く内に、そのような先入観がいかに卑小なものであるかを思い知る。ここで扱われているのは、現代の社会において、というよりはおそらく、現代の都会の生活においての、もっと普遍的なテーマなのではないかと思えて来た。違和感の残り八割の正体は、おそらくはこれが一層重くのしかかって来たことによるものではないかと思う。

 主な登場人物は、ホモセクシャルのカップルである松井マルオと三木橋ヒカル、トランスセクシャルの美容師の平田たま代、それにOLの岩淵のぞみと、売れない小説家の田辺菊江という二人の女性である。この5人ともが、それぞれが自分の生き難さを抱えていたり乗り越えたり、あるいは過去を引きずっていたりする。特に大事件が起きるわけでもなく、お互いの関係(友人、知人、恋人)が壊れるといった危機もないが、しかしそれらの関係がいつ「なんとなく」終わってしまったとしても不思議ではないような、そんな生活を送っている。

 私が「普遍的なテーマ」と述べたのは、ここに描かれているのが、いわゆるセクシャルマイノリティに特有の問題といったものではなく、むしろ作者は、この5人を用いて、現代の都会の若者の在り方を凝縮して見せることに成功していると思うからである。深い絶望や悲しみといったものもなく、かといって将来に対する輝くような希望や夢もなく、そのかわり、といっては何だが、人間関係のトラブルのようないわば日常的な問題や悩み、ちょっとした喜びなどにまみれるようにして日々を送る彼等の姿は、とてもリアルだ。

 例えば、このホームページを見ている人の中には、登場人物の一人にトランスセクシャルの女性が登場することで、この作品の中で、医療や戸籍上の性別、その他こうしたホームページで扱われるような問題について触れられているのではないかと期待する人がいるかも知れない。そういう期待をした人には、この作品は物足りないものに感じられるだろう。だが、この事は決してこの作品の、トランスセクシャルについての描写の不足を意味しするものではない。ただ、そういう読者の「思い込み」に応えていないというに過ぎない。

 「彼女」は叔母が経営する美容院で働き、その店と地続きの家で、叔母と従妹と3人暮らしをしている。他に、アポロンという名のマルチーズを飼っている。マルオが彼女(たま代)に髪を切ってもらったあと、一緒に出かけるために、たま代が店じまいをするのを家の方で待っているシーンがある。たま代の叔母は、マルオがホモセクシャルであるとは知ってか知らずか、「ご飯たべていけばいいのに」と誘う。この部分だけを見ても、いかにも「気のいいおばさん」という感じがするし、この叔母からも従妹からも、たま代がやっかい者扱いをされたと言うような事も書かれていない。

 しかしそれにも関わらず、たま代は孤独を感じている。彼女の心の支えになっているのは、一緒に生活し働いている叔母や従妹でもなければ、友人達でもない。マルチーズのアポロンだけだ。「私、結構アポロンに助けられてるんだ」、「私が人を殺してもアポロンは私を好きなんだろうな、って思ったときにはちょっと泣いたね」、「でも、もうアポロンと絶対離れられないから、あんまり悪いことは考えないんだ」(以上引用、128〜129ページ)。

 彼女がこうした考えを持つのは、別に誰かに差別されたからだとか、まして同居の叔母や従妹に邪険に扱われたからではない。そういう条件がなくても彼女には、どこか自分を負の価値を帯びたものと感じているような引け目があって、それが自分を孤独に追い込んでいる。こうした孤独の在り方を T's に割り当てるのは絶妙なキャスティングだが、しかしこれは T's だけに限った話なのではない。

 自分という存在の価値は何か、もしかしたら自分は価値のない人間なのではないか。私にも時々生じるのだが、都会の中で日常にまみれて生きていると、ついそういう不安を感じてしまう。ここには、そういう気持ちがよく現れているし、また、それだからこそ、この作品は「セクシャルマイノリティと差別」というような特定の条件を離れて、もっと普遍的なテーマを扱っていると言えるのである。断言してもよいが、もし政治的な思惑でこの作品を評価しようとすれば、かえってここに現れている「現代」像を見落としてしまうだろう。

 2人のホモセクシャルのカップルについても、同じ事が言える。その内の一人、松井マルオに関して一番印象に残ったのは、彼が腹をこわして会社のトイレに入っているシーンだった。トイレに入ると、「松井ホモ」という落書きが彼の目に入る。彼は、その落書きの存在を既に知っており、その上でその個室を選んでいる。中学校以来、このフレーズでイジメられ続けて来た彼は、もはやそこから「人生が今すぐにも終わってしまうような怯え」を受け取ることはない。それどころか「社会人になってもそんな幼稚な落書きをする人間がいるのかと思うと、マルオは不思議と生きる力が湧いてくるのを感じる」のである(70ページ)。

 言うまでもなく、彼のこの自信は「幼稚な落書きをする人間」に対する差別によっている。そして、おそらくは彼自身もその事を知っている。ヒカルと一緒に手をつないで歩いているところを、数人の小学生からはやし立てられても、かれはヒカルと違って腹を立てない。それどころか、「でも、たぶんヒカルだって、人を差別したり見下したり笑ったりなんてしょうっちゅうしているくせに」と「少し意地悪く思」ったりもする。それに続いて書かれているように、マルオ自身も同じ事をしているわけだ。

 こうした差別的な心性それ自体は、おそらく人間の内から消滅することはない。それどころか、むしろそれによってバランスを取っていることさえ、しばしばある。例えば、自分はお金はないけど由緒ある家柄に生まれたと思って金持ちを差別的に見る貧乏貴族もいれば、逆に自分は出自こそ賤しくとも自らの才覚でこれだけの身代を築いたのだと、貧乏貴族を差別的に見る金持ちもいるだろう。そうすることによって精神の(自我の)安定を図っている面が人間にはある。この差別的心情それ自体をなくそうとすれば、かえって無理が生じるのである。

 ここで大切な事の一つは、上に挙げたような「由緒ある家柄」とか「金持ち」だとか、世間で価値があると思われている基準が複数存在するという事である。この価値基準が一つだけだと、動かし難いヒエラルキーが出来てしまうからである。もう一つ大切なのは、これはマルオと、「幼稚な落書きをする人間」や小学生の集団との違いでもあるのだが、自分の内に生じた差別的心情をあくまでも自分の内面にとどめておけるか、それとも何らかの行為として表現してしまうのかという点にある。もちろん後者は他者の目にとまり、誰もがそれを不当と考える。具体的になくすべきなのは、このような差別的行為であって、差別的心情それ自体ではない。作中の両者の対比は、その事をよく表わしている。

 一方のヒカルの方は、いわばこの作品におけるトリックスターで、マルオの生活に何かと新鮮な驚きを与える。そのいちいちは、作品を読む時の楽しみが減るといけないので、ここでは挙げないが、子供っぽいところがある分だけ、生の楽しみ方を知っているという感じがする。

 ひとつだけ例を挙げておくと、例えばセクシャリティに関する文献を読みあさって、性役割について否定的な見解を示しはするものの、特にそれを信じているわけでもなく「おねえ」になったりする。マルオにその事を指摘されても、平然として、「いいの。ポリシーとファンタジーはべつものなの」と答えたりする(87ページ)。むろん、彼の一連の行動を見れば、ここでいう「ポリシー」を言葉の通りに解釈することは出来ない。実は作中では、性役割について否定的な見解を示すという説明が一ヶ所あるだけで、具体的にはそのような言動は一度も描かれてもいないのだ。

 一つ気になったのは、これは他のホームページで見かけたのだが、日頃から事ある毎にジェンダーフリーだのといっているくせに、一向に自分の性別に対するこだわりを捨てようとしない人物が臆面もなく、このセリフを引いて自分の弁解に使っていた事である。だが、この人物が本気で「ポリシーとファンタジーはべつもの」だと思っているとは、私には到底考えることはできない。「べつもの」だと思っていないからこそ、T's の問題とジェンダーフリーをくっつけて論じているのではないのか? 上に挙げたようなヒカルのキャラクターと、こうした厚顔なイデオロギストを同列に論じる事など、出来るはずがない(反論があれば承る)。

 とはいえ、ヒカルが逆に「性役割固定論者」であるわけでもない。主義主張としては、彼は否定も固定も論じてはいないし、そもそもそういった政治的な性格の人物としては、まったく描かれていない。彼の「おねえ」の態度は、あくまでもマルオと共に過ごす時間に添える、エロス的な彩りである。

 ここでいうエロスとは、性的な意味での「エロティック」に限った意味ではなく、その方が華やかで楽しい時間が持てるというような、「生を味わう」ために必要な態度とでもいえばよいだろうか。彼にとっては主義主張などは重要事ではなく、多くの読者は、彼がこの作品中で最もエロス性を重視する、憎めない「いたずらっ子」として描かれていることに気付くだろう。

 ところで、この作品のタイトルである「夏の約束」とは、最初に挙げた5人の登場人物の「夏になったらキャンプに行こうね」という、計画とも言えない漠然とした未来のことを指している。いわばこれだけが、彼等にとっての日常ならざる「将来」であるといってもよい。ただし、この5人に共通の唯一の「将来」に対してすら、必ずしも全員が積極的であるわけではない。

 そのキャンプは、提案者であるたま代が怪我をしたことで行けなくなった。ただ、かえってそのために、その次の夏にはキャンプが実現するのではないか。なんとなく、そんな予感を漠然と残して、この作品は幕を引く。その来年の夏まで、彼等の「日常」が今までとは少し変わるのではないか。そんな事はまったく書かれていないのだが、しかしそのために、その事がこの作品の読後の余韻として、思い浮かんでくるのである。

L.Jin-na


■■2000年02月14日■■

買道(かいどう)をゆく

 先日、「Visitor's Room」に、睫毛をカールさせるアイラッシュ・カーラーを、化粧品店や大型店舗の化粧品コーナーへ行かずに、どのように手に入るか、という質問があった。通常、こういうものは化粧品店や大型店舗の化粧品コーナーで扱っているに決まっている。まちがっても、玩具店のエアガンのコーナーには置いていないだろう。だから、こういう質問は非常に難しい。

 ただ、その時は気付かなかったが、東京や大阪、名古屋、札幌、福岡といった都市に住んでいる、あるいはこれらの都市に行くことがあるのであれば、女装用品を扱っている店に行けばよい。「化粧品店や大型店舗の化粧品コーナー」以外の回答を臨むのであれば、おそらくはこれが唯一の答えだろう。少なくとも、まだ神田に存在していた頃のエリザベスでは、扱っていた覚えがある。

 もう一つは、これはとりあえず東京の、それも新宿に限るが、《デュエット》というブティックを尋ねることをお勧めする。当たり前だが、ここはブティックだから、化粧品やアイラッシュ・カーラーのような器具は扱っていない。これらを扱っているのは、その斜め向かいにある、《まるみや》という化粧品店である。

 《デュエット》は、私が数年前から買い物をしているお店で、確か水商売に復帰した直後、衣装がなくて困っていた時期に発見した。水商売に向くデザインのスーツ等が、驚くほど安い。その後、一昨年だったかにこのお店のホームページを発見して、この【EON/W】からリンクを張ったら、女装者のお客が増えた。お店側が心得ていてくれると、女装者は買い物がしやすい。ブティックなどの場合、試着の際に気楽なのが特にありがたい。

 上記の《まるみや》さんへは、実は私は入ったことがないのだが、ここは《デュエット》さんから話が行っていて、やはり女装することを明かして買い物をすることが出来る。《デュエット》で買い物をして、ここから《まるみや》へ紹介してもらうと、衣装と化粧品が買える。これは女装者にとって、それも特に初心者にとって、ありがたいシステムである。

 実はこのシステムは、かつて私が《デュエット》さんへ提案したことがある。女装者にとって一層便利なお店になれば、お店の私達もお互いに助かると思ったのだが、この提案は既に遅く、《デュエット》さんから《まるみや》さんへ話が通っていたあとだった。

 新宿に限らず、既に顔のつながっているお店があれば、お店同士のつながりによって、同種のシステムを作る事が可能だろう。お店からお店へと紹介されて一回りすれば、一通りのものが手に入る。そういう環境を自分達で作り上げておけば、便利なことこの上ない。

 お店同士のつながりというのではないが、最近では他に、三鷹(武蔵野市)にある、《モア・セカンド》というお店にも出向いた。こちらは、コスプレやセクシーランジェリーを扱っている。コスプレといっても、アニメ系のそれではなく、レースクイーンや看護婦等の衣装などがある。詳しくは同店のホームページで直接確認されたい。

 ここは今のところ、いきなり店舗に行っても、ほとんど衣装を置いていない。ただし、あらかじめ希望の商品を伝えておけば、商品の確認と試着は可能である(ただし、店頭売りだと消費税がつく上に最寄り駅からでも距離があるので、確認の必要がなければ、消費税がつかない通販のほうが得かもしれない)。ここでも事情を説明して、【EON/W】の URL と私のメールアドレスの入った名刺も渡してある。

 われながら、やっていることが地味だとは思うが、こういう活動も楽しいものである。

L.Jin-na


■■2000年02月01日■■

私がオバサンになっても

 書店で先日、『30前後、やや美人』(岸本葉子・文春文庫)という本を見つけて買ってみた。女性のエッセイ集である。面白くて一気に読んでしまい、もう一冊、『幸せな朝寝坊』という本が同じ文春文庫から出ていることが判って、そちらもすぐに買って読んでしまった。

 面白いのだが、どこか身につまされる部分がないでもない。私の場合には毎日フルに女性として過ごしているわけでもないのに、この本を読んでいると、「ひょっとして私もオバサン化したかしら」と思わされる部分に、間々出会うためである。傍から見てどのように見えるか判らないが、少なくとも私自身の感覚としては、これは決して筆者に対する過剰な思い入れ、もしくは同化願望の類いではないと思う。

 どの辺でそう思うかというと、例えば、若い人に対してどのような視線を持ち合わせているかという点である。「着せ替え人形」というエッセイでは、デパートにリクルートスーツを買いに来ている母娘が登場する。母親の言いなりになって自分の意見を言わない娘に対して、「いい年して、自分の服くらい自分で買いにこいよな」と思う。結局、服で採用試験に落とされちゃたまらないと無難な紺のスーツを選んだ母親(本人ではない)に、「お宅の娘の場合、そういう問題じゃないだろ」といいたくなる。

 そう言いたくなる気持ちは、よく判る。しばらく前になるが、友人が経営するお店に、若い子がニューハーフ志願の面接を受けに来た。これは私が居合わせたわけではなく、あとから聞いた話だが、なんと母親同伴だったらしい。

 私も、これには驚いた。あの業界に入るといえば、一昔前なら下手をすれば家出同然、家族と縁を切って「現代の無縁」「昭和の漂白の民」になる覚悟を必要とする事さえ珍しくなかったからである(面接や、昭和は遠くなりにけり)。しかも私の友人、つまりそのお店のママが質問するたびに、本人ではなく母親が答えたという。むろん、こういう人物に接客業が勤まるとも思われず、不採用になった。もしかしたらこの母親も、自分の娘(?)が落ちたのは服のせいだと考えただろうか。少なくともこういう母親は、自分がついて来たためだとは考えないに違いない。

 「地下鉄トイレの生態」というエッセイもある。むろんここでいう「地下鉄トイレ」とは、女性用のそれである。文中にもある通り、女性用トイレはとにかく手を洗う場所が混む。理由はそこに鏡があるからで、要するに手を洗うために混むのではなく、化粧直しのために混み合う。詳しくは『幸せな朝寝坊』を読んでいただくとして、筆者自身も化粧をしたい時、髪の手入れに長々と時間をかける女子高生の後ろに並んで

いらいらし、
「いっくらとかしたって、変わんねーよ」
といいたくなる。しかし、
「そんならお前は変わるのか」
といい返されるとシャクなのでこらえている。ただでさえ、若いというだけで彼女らの方が分がいいのだ。

と葛藤する。この点については、私はまだ恵まれてはいる。

 たまに飲みに出ると、最近また急に見知らない顔が増えたような気がする。それがたいてい若い。さすがに高校生はいないが、大学生くらいは見かけるようになった。ほんの数年前までだったら、「新人」さんは私とほぼ同年輩だった。当時の相場からいえば、私のデビューが早過ぎたからである。少し前までは、20代半ばから30代にかけての時期にデビューする人が多かった。大学を出て働くようになってから数年を経過して、経済的にも時間的にもそれなりに余裕が出来るようになってからデビューするのが普通だったからである。

 私の場合には、大学に行っていない分だけデビューが早かった。しかも、デビューしてから名を知られるまでが、また早かった。デビュー早々に、女装誌に漫画を連載していたためである。だから、年季はともかく年齢については、「新人」さんとたいして変わらなかったのである。「にも関わらず」というべきか、「だから」というべきか、同年輩の「新人」さんがあふれる中で、私だけが「古株」扱いされたのが、当時の不幸といえば不幸だったかもしれない・・・。

 それが現在ではいつの間にか、私よりも若い人が従来よりも早めに、つまり20代の初期にデビューするようになっている。同じような年齢でデビューしても、私の場合にはそれが「早いデビュー」だったのだが、今ではあまり珍しくなくなった。まずい事に、私は「正当に」古株扱いされつつある。おそらく、この変化は不可逆であろうと思うと憂鬱な気もするが、こればかりはどうにもならない。また、彼女たちが悪いわけでもない。いずれ彼女たちにも、同じ憂き目を見る日が来るに違いない、と思って自分を慰めてみたりもするが、その頃には今度は私は「古老」か。

 もっとも、高校生どころか中学生が携帯電話を持っているのも珍しくなくなった昨今である。早くから経済的余裕を持てるのかもしれない。そう考えると、現在の日本が不景気だというのは、実はアメリカとの経済摩擦を避けるために不景気なフリをしているだけなのではないか、とさえ疑いたくなる。就職の難しさを悩みの種にしている T's がいる一方で、アルバイトをしながらトランス生活を満喫している大学生が存在する、という事実を、どのように受け止め、考えればよいのだろうか。

 こういう状況だから、上に「私はまだ恵まれてはいる」と書いたのは、もちろん年齢的な問題では有り得ない。エッセイ中の「地下鉄トイレ」と違って、そういう場所で出会う若い人達は傍若無人なふるまいをしないという、その事である。

 考え様によっては、いたわられているような気もするし、もしかするとその内、席を譲られるようになるかも知れないとも思う。しかしもし今後、若い人達の中から傍若無人なのが出てきたらと考えると、一概に現状を否定することは出来ない。現在の状況を「昔はよかった」と思い出す日が来ないとも限らないのだ。そうなればおそらくは、「オバサン」期をも通り過ぎてしまった証拠である。幸いにして、今のところその兆候はない・・・と思う。

 せめて、今は今の時期だけに味わえることを味わい、出来ることをやっておこうと思う。『30前後、やや美人』を名乗る資格も怪しくなって来たが、『30代、まだ美人』くらいは名乗っても、罰は当たるまい。若いときには「花」がある。若さと共に「花」が失われても、精進によって「艶」は出る。奥深さが出る。ただしこれらは、若いときの「花」と違って、歳をとれば「もれなく」ついてくる、というわけではなさそうである。

 女も、それなりの年齢になったら自分の顔に責任を持つべきか。

L.Jin-na


■■2000年01月13日■■

平地に生きる

 つい忘れがちだが、新年である。だからといって、どうという事もない。既に他でも書いたが、今回は年末年始にも仕事をしていたため、年明けというより、週明けという感覚しかない。もっとも、クリスマスにせよお正月にせよ、人並みに年中行事をやる習慣が、既にない。だから、かえって違和感を感じなくて済んだともいえる。

 そういえば、まだ顔を出すつもりで出していないお店がある。今回に限っては、経済的な理由よりも、まずそのヒマがない。もうすぐ月半ばだというのに、《Duo》に一度顔を出しただけである。ただしこれは、前回の続きのイラストの納品を兼ねているから、純粋に遊びに行った回はまだない、という事になる。

 それで大丈夫なのか、そんなことすらなしに T's について考えたり書いたり出来るのか。そんな声が聞こえて来そうな気もするが、それについては問題ない・・・と思う。まず第一に、私自身が T's であるから、取材をしなければ判らないというものでもない。第二に、ある程度は他の T's の意見はインターネットを通じて得ることも出来る。第三に、私が自分の考えの基底においているのは、T's ではなく人間そのもの、あるいは世間一般の性別の在り方である。どんな仕事であれ、この社会の中で暮らしている以上、それは嫌でも目に付くから、改めてあれこれと調べる必要は必ずしもない。いわば、日々の暮らしがそのままフィールドワークでもある。陽明学風にいえば、「事上磨錬」とはこの事であろう。

 そういえば、『伝習録』(王陽明の言行録)にこんな話があった。弟子のひとりが街から戻って、陽明に「今日、不思議なことを見ました」という。「街ゆく人がみんな聖人に見えました」というと、陽明は「そんなことはいつものことであって、何も不思議ではないよ」と答えるのである。また、こんな話もある。別の弟子のひとりが、「ひとの人格を見きわめるのは簡単です。例えば、先生(陽明)は目の前に泰山がそびえているようなものですから、先生を仰ぎ見ない人は目がないようなものです」という。陽明はそれに対してこう答える。「泰山だとて、広大な平地には及ばない。平地には何も目に入るものはない」と(参照:『伝習録 「陽明学」の真髄』、吉田公平)。

 「街ゆく人」とはつまり平凡な人々であり「平地」である。だが、真理はその中にあるのであって、形而上的な別世界にあるのでもなければ、難しい学術書の中にあるのでもなく、ましてフィールドワークと称して区切られた世界の中から見出すものでもない。人の世を見ずに、世の事は判らない。ならば、答えは常に目の前にあるはずである。それに気づかなければ、「街ゆく人がみんな聖人に見える」ということなど、起こるはずもない。

 T's だけに都合のよいような意見を主張する人がいるのは、世の中に生きていながら世の中を見ず、T's だけを見ているからだろう。なにも T's だけの話ではなく、これはあらゆる対抗主義について言えることだと思う。だから、おかしな所から「真理」を引っ張り出してきては、それが世の人々に認められないといって、さらにルサンチマンを重ねる。

 世の中に生きて常に目の前の世の中を見ている人は、その中からある本質(共通項)を取り出す。つまり、多くの人にとって「妥当」だと了解されうるような「共通了解」を見出す事が出来るだろう。それこそが、その時代のその社会における「真理」であり、「真理」を永遠不変のものだと考えるのも、「真理」はないと考えるのも、いずれにせよ目の前の世の中を見ていない証拠である。「真理」は平地に生きる人々の間に、その都度の「妥当」という姿で、実は私達の目の前に転がっているのではないか。

 そして私達は、「世の中」の単なる観察者ではなく、その世の中を生きる者でもある。それはつまり、「妥当」を「知る」と同時に「実践する」という事でもある。陽明が「知って、後に実践せよ」といわずに(しばしば誤解されるがこれは朱子学の考えであって、陽明学の思想ではない)、「知ることと行うこととは、本来(もともと)一つの事である」と喝破したことの真意は、おそらくここにある。これが「知行合一」の意味である。

 「知」と「行」を別のものと考えると、朱子学のように「知って、後に実践せよ」という話になる。これは今でも「学者」兼「運動家」のような人の中にいる(左翼思想やフェミニズムに多そうだ)。こういう「朱子学の徒」は、非現実的なことを考えても、現実を自分の非現実的な思想に合わせようとする。いくら実践を重んずるといったところで、「知」と「行」を別のものと見た上で「知」を偏重している、逆に言えば現実を軽視しているのだから、それで破綻しないほうが不思議である。

 多くの人に受け入れられる意見とは、どんな意見か。それは「当たり前」の積み重ねであろう。「当たり前」の事であればこそ、皆が納得する。ただし、ここでいう「当たり前」とは、必ずしも世の中の常識を意味しない。「当たり前」を積み重ねた結果として、世の中の常識を覆すような結論に至ることもあるだろう。だが、その結論に至る途中で「当たり前」から外れて突拍子もない要素が入ったり、論理の飛躍があれば、それは単なる「常識はずれ」の説でしかない。時々、自分の望む結論を出すために、こういう不誠実なことをする人もいるかもしれないが、これはそもそも考える順番が逆であって、「自分に正直になる」という事とは区別されなくてはならない。

 「当たり前」の積み重ねが、まれに世の中の常識に反するような結論に至るのは、その前に人々の心(価値観)が、それを「当たり前」だと納得するような在り方に編み替わっているからであって、知識人が「創作」するわけではない。人々の中の「当たり前」の編み替わりを見抜いて言葉に置き換えた人物が、その思想の「創始者」と呼ばれるに過ぎない。したがって、正確には「創始者」ではなく「発見者」と呼ばれるべきであろう。だから、そこに至るまでの思考による探索を「思索」という。奇をてらった創作者ではなく、誠実な探索者こそが、思想人と呼ばれるに相応しい。

 T's といえども、「平地に生きる人」である。だからこそ他の「平地に生きる人々」と共に生きることを考える必要がある。その方法は、目の前の平地からしか出てこない。どんなに熱心に天空を眺めても、そこに「平地の生き方」が記されているはずがないからである。それが出来なければ、天空に生きる者となって、平地の人々の中から浮き上がるしかなかろう。だが、人は天空に住むことは出来ない。

 少なくとも私は今後も、「この大地」に足を付けて生きてゆきたい。

L.Jin-na


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