特集 災害と新潟

 大愚良寛は1828年(文政11年)三条を中心にした大震災の中で「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」という、有名な手紙を残している。良寛が達した深い悟りの境地を表したものとされるが、彼が生まれ暮らした越後がこれほど多くの災害に見舞われる地でなければ、この言葉は生まれただろうか。地震だけではない。居住地域では世界一といわれる大雪、そして雪崩。雪が解ければ地滑りが襲う。水豊かな大河は毎年のように洪水を引き起こした。愛するもの、築き上げたものを奪われる悲しみに耐えながらも、人々は黙々と大地に向かった。新潟はそうした営為の上に立つ。新潟の災害の歴史をひもとくことは、新潟人の心の奥底に蓄えられた、文化や気質に触れることにつながる。

写真=1963(昭和38)年1月 見附市
季刊 情報文化 2005.SPRING

●前史
 文書に残る新潟の災害の記録は、越後が越の国から分離された7世紀後半にまでさかのぼる。しかし、新潟がなぜ、ここまで災害の多い地になったかを知ろうとすれば、歴史を地質学的単位でさかのぼらなければならない。
 ドラマは2,500万年前、中新世初頭に始まる。広大なユーラシア大陸の東端に、太平洋の地殻プレートの動きが押しつけていた土塊が、「プルーム」と呼ばれる巨大なマグマの上昇流に引き裂かれるように、ゆっくりと大陸から離れ始める。日本列島の誕生だ。

 列島の南西部は、時計回りに回転しながら動き、北東部が太平洋プレートと押し合うことで、列島は逆「く」の字に折れ曲がる。そして、ついに1,800万年前、その折れ目に当たる部分が大きく陥没、列島は二つに分かれてしまう。  「大きな溝=フォッサマグナ」だ。溝の西端は、有名な糸魚川−静岡構造線。東端は確認されていないが、新潟大学積雪地域災害研究センター長の高浜信行教授によると、最も西よりでも魚野川から下越平野の東端、櫛形山脈をつなぐライン(新発田−小出構造線)。おそらくはもっと東で、新潟県はフォッサマグナの中にそっくり入っている可能性が高いという。

 この溝は、40−50万年前から急激な隆起を始める。1,000年で1?の隆起があると第一級の隆起速度とされるが、フォッサマグナの隆起速度はそれを大きく上回る。今回の中越地震の震源に近い小千谷市山本山では1万3,000年で50メートル、1,000年あたりで4?近くという、世界でも超一級の隆起が確認されている。海底にたまっていた厚さ数千?のたい積物が新たな陸地となった。

 新潟の大地を形成しているのは700−100万年前の、比較的「若い」時代の海底たい積物が主だ。そのために、固まりきらずにもろく、崩れやすい。急激な隆起は今なお続き、その活動は地震を招き、崩れやすい地盤は地滑りを誘発する。今回の中越地震の山古志村での被害はその典型だ。

 大地の履歴がもたらす災害は地震や地滑りだけではない。豪雪も、列島とともに生まれた日本海が生み出す膨大な水蒸気を、急激な隆起がつくり上げた険しい脊梁山脈が受け止めることで発生する。大地の褶曲を流れ落ちる大河はしばし大洪水を招く。折れ曲がった日本列島の東西の分岐点に位置する新潟とは、そういう土地なのだ。
写真=2004(平成16)年10月24日午前 小千谷市池ヶ原



●10年に一度
 新潟県の災害記録をまとめたものとしては1931年(昭和6年)、新潟測候所(当時)が創立50年を記念して発行した「気候と天災」誌がある。その中の年表に記載された災害(江戸時代まで)は、洪水55件、飢饉19件、地震14件、大雪11件、疫病3件。しかし、これらは代表的なものに限られるようだ。

 地震では、新潟地震の2年後(1966年)に新潟市がまとめた記録集「新潟地震誌」が、余録として新潟県地震年表を掲載している。それによると、「地大いに震い山川崩れ地裂く」(越後年代記)とある734年(天平6年)から江戸末期までの1,100年余で98件に達する。ならすと10年に一回近く、地震に襲われていることになる。

 863年(貞観5年)6月の越中・越後地震では圧死者が多く、直江津付近にあった数個の小島が消滅したとある。江戸時代に入ると被害の記録も詳しく、1751年(寛延4年)4月の高田を中心とした大地震(マグニチュード7−7・4)では高田城が大破、同藩領内だけで全壊・焼失家屋6,088戸、1,128人が犠牲となった。

 津波の記録も多く、1092年(寛治6年)、越後国に大規模な海嘯(津波)があり、「角田浜砂山古潟海に没す」と伝えられ、北蒲原郡史には7日も水が引かず、多くの村が消滅し、越後の地形が変わってしまったという言い伝えが記載されている。

写真=1824年、三条大地震の被害を地理学者でもあった小泉其明(今町)が描いた「懲震?鑑」(ちょうしんひかん)の一枚。29枚の絵図は家屋に押しつぶされ、火にまかれる人々の姿や、震災後の救援活動の様子などを生々しく描いている。この絵は地震に伴い発生した山崩れの図。中越震災での山古志村の被害を彷彿させる。其明は序文で「つぎつぎにもつたえてあらかじめ心得おかしめん」と後世への警句のためにこれらの絵を描いたとしている(新津市本間家蔵)

●滑る大地
 一方、もろい地盤の上にある本県は、全国の地滑り指定地面積の四分の一を占める地滑り大県でもある。山古志村や東頚城郡町村に広がる美しい棚田は地滑り地形の典型でもある。

 1998年(平成10年)、県治山林道協会がまとめた「新潟の地すべり」誌の災害年表には92件の地滑り土石流災害が載せられている。1751年(寛延4年)、高田の大地震に伴い発生した西頚城郡名立町の「名立崩れ」は、一村の「人馬、鶏、犬ことごとく海底に没し」(東遊記)、428人の命を奪った。
 戦後では、1962年(昭和37年)11月から翌年にかけての松之山地滑りは、被害面積850ヘクタールと最大規模に達し371戸が倒壊、役場も学校も建て替えを余儀なくされるなど村中心部が壊滅的打撃を受けた。また、1963年(同38年)3月に能生町で発生した「小泊地滑り」は北陸線を日本海に押し出し列車が転覆、死者2人を出した。1985年(同60年)の青海町玉ノ木の地滑り(死者10人)や、1996年(平成8年)の糸魚川市での蒲原沢土石流災害(死者14人)は記憶に新しい。

●白の葬列
 そして豪雪。新潟地方気象台の創立百年誌(1981年)は雪害について「雪国ではむかし雪は災害でなかった」と述べている。毎年の雪はひたすら耐えるものだった。文書に残る記録も「高田大雪、積雪丈余(3?余)に達す」など淡々とし、被害に触れたものは少ない。ちなみに、「この下に高田あり」という有名な高札がはじめて立てられたのは1666年(寛文5年)という(「気候と天災」誌)。

 だが、突然の吹雪や雪崩の被害は別だ。古くは1051年(永承6年)源頼義の軍勢が南魚沼で吹雪に遭い1,000人余が凍死したという記録がある(「日本の雪害史」、日本積雪連合)。「北越雪譜」でも「雪国で恐ろしいのは吹雪と、ほうら(表層雪崩)」として、里帰りの道中、若夫婦が吹雪で行き倒れ、抱かれていた赤子だけが助かった悲話や、村ごと雪崩に飲み込まれた話などを紹介している。
 記録に残る最も多数の死者を出した雪崩は、1918年(大正7年)に三俣村(現湯沢町)で発生。中心街を飲み込んで158人が犠牲となった。その4年後、親不知の北陸線を襲った雪崩は客車3両を埋め、92人の死者を出している。戦後も死者13人を出した能生町柵口雪崩(1986年)や、清津峡温泉(1984年、死者5人)など被害は絶えない。

●水の恐怖
 雪と同様、越後平野が大湿地であり川が自由に流れていたころ、洪水が災害ととらえられることは少なかったのかもしれない。しかし、人がさらなる耕作地を求め、「川の領域」に進出し始めると事態は一変する。史料に残る洪水記録は、新田開発が本格化した16世紀以降に集中する。

 阿賀野川の谷を流れ落ち、平野にあふれ出る濁流は「白鬚(はくぜん)の水」と恐れられた。1536年(天文5年)の大洪水が「白鬚太郎」、1631年(寛永8年)のそれは「白鬚次郎」と呼ばれている。濁流の先頭を流れる板の上に白鬚白衣の老人が乗り、洪水の来襲を告げたという伝説によるもの。洪水の逆巻く波頭が老人の姿に例えられたとされる。
 越後平野の母、信濃川の洪水記録も枚挙にいとまがない。南憲一さん(元新潟市歴史文化課長)が、新潟市域にかかわる災害を各種史料から拾い上げまとめた「新潟市域災害年表」(2002年)を見ると、江戸期になると洪水のない年を探す方が難しいほどだ。例えば13年間続く宝暦年間(1751〜1764年)は大洪水が続き、被害記録がないのは2カ月ほどしかなかった元年だけ。続く明和に入っても洪水の年は続き、困窮した牧野藩による新潟町への課税強化は、1768年(明和5年)明和騒動として知られる市民蜂起につながった。

 こうしたあまたの洪水のなかでも、1896年(明治29年)7月、蒲原平野を一面の海に変え、流失家屋1万余、浸水6万、死傷78人(県水災概況)という甚大な被害をもたらした「横田切れ」は、発達しつつあった新聞メディアなどによって広く知られることになり、新潟の水害史の大きな節目となる大河津分水着工の契機となる。


●悲しみの地
 さまざまな災害が繰り返される新潟。その積み重なりは人々を疲弊させ、深い悲しみに沈める。
 良寛の言葉が残る、1,400人以上の死者を出した三条大地震の年(1828年)には信濃川の2度の大水と加治川の出水が重なっている。その5年後には下越一帯を津波を伴う大地震が再び襲い、やはり同じ年に新発田、長岡両藩で6万石余りの減収となる大水害が発生している。
 良寛研究でも知られる作家・水上勉は、著書「良寛を歩く」を、良寛地元の新潟ではなく、遠く群馬県新田町木崎の宿場町に並ぶ飯盛女たちの墓標を訪ねることから始めている。

 「転心妙覚信女 越後国蒲原郡地蔵堂村 俗名ちか 行年廿一歳」。立ち並ぶ墓標の主は、死ぬまで身をひさぐことを強いられた越後蒲原の十代、二十代の娘たち。「良寛様の生きておられた宝暦から天保にかけての七十四年は、娘を売らねば喰えなかった農民が蒲原郡下に充満していた」。
 「ながつけば わはうたひ あがつけば なはうたひ…」という有名な良寛のまりつきの詩がある。まりつく娘の姉たちは売られ、その娘もいずれは売られていくことを良寛が知らなかったはずはない。歌の背後には深い闇があったと水上は書いている。

 この時代だけが特別だったわけではない。1868年(慶応4年)に下越を襲った大水害は戊辰戦争と重なり「兵水の災」と呼ばれた。雪崩被害で知られる能生町柵口集落は1947年(昭和22年)、人家80戸を押し流し川の対岸にも乗り上げたという大地滑りの被害も受けている。毎年の雪も考えるなら二重三重の災害は新潟では当たり前のことだったのだ。  明治の横田切れの惨状を伝える俗謡「くどき」は「これぞ前世の宿縁なるか 生まれし以来の約束事か ひとの身のうえ悲(かなし)ふござる もらい泣きして涙をこぼす」と、繰り返される災厄の地に暮らす悲哀をうたっている。

●もう一つの米百俵
 しかし、その中で越後の民はただ泣き暮らしていただけではない。自らの暮らしを守るため、力を合わせ災害に立ち向かってきた。災害年表をまとめた南憲一さんによると、江戸時代の新発田藩は水害が発生すると「お救い米」という支援米を放出する一方、現代の仮設住宅に当たる「お救い小屋」を建て、炊き出しを行うなど、想像されるよりずっと行き届いた体制を取っていた。しかし防災の主役はあくまでも住民だったという。「堤防組」とよばれる住民の自営組織があり、各所に設けられた資材小屋には常に土俵やくいなどが準備されていた。増水により「危難場」と呼ばれる危険個所が発生すると、村々に回状が回り人と資材が動員された。普段の堤防の補修も、地元の大庄屋が責任を持って計画を立てて実施していたのだ。

 この自助の気風は明治以降も引き継がれる。1890年(明治23年)の水害で、和田村(現新潟市両川地区)の庄屋小野家は、蔵にあった米俵数百俵を土のう代わりに使って破堤を食い止め、県から感謝状を受け取っている。もう一つの米百俵ともいえる逸話だ。
 1909年(同42年)に着工、13年の歳月をかけて完成した大河津分水は、新潟の水害の歴史を区切る大事業だったが、これも江戸期から建設計画を提唱し実現を働き掛け続けた多くの地元有識者の努力の結晶としてあるものだった。

 自助、共助の取り組みは水害にとどまらない。1830年(天保元年)、50戸を押し流す地滑りに見舞われた松之山町中尾集落の住民は、地滑りの誘因となった集落間近の中尾川対岸に、江戸時代だけで5本の水路トンネルを掘り抜いて川の流れを変え、さらに建物敷地に丸太を打ち込む抑止工など高度な対策工事を自らの手で行った。「掘るまいか」の精神は中山隧道の山古志村だけのものではなく、災害と闘い続けた越後人に通底するものなのだ。


●豊かな実り
 しかも、越後の人々は単に災害と闘うだけでなく、その中にも実りを求めて懸命に生きた。
 新潟大学の高浜教授は、地滑り後の土地に農民たちが積極的に開墾に入ったと語る。「崩れた土地にはミネラルなどの養分が豊富。しかもわき水があり、排水も楽だったんです」。

 水害でもそうだ。北方文化博物館のある横越町沢海集落は史料に何度も登場する阿賀野川決壊の常習地だが、長芋や雪下かんらん(キャベツ)など、評価の高い野菜作りでも知られる。この集落の農民が「阿賀野川の(洪水の)おかげ。いい砂の厚い層があるんだ。よそではまねができない」と自慢するのを聞いたことがある。

 思えば、越後平野の実りの大本は、毎年の大雪に耐えた代償としての豊富な水資源に支えられているのだった。
 洪水史研究で知られる五百川清さん(信濃川大河津資料館館長)は「災害に耐え、時に受容する中で新潟の農民は、武士道に匹敵する農民道ともいえるものを身につけたのではないか」と語る。

自然を敵とせず、しなやかに、したたかに―。新潟と災害の歴史は、今の時代の私たちが忘れがちな、天と地と人の営みに欠かせないものを思い起こさせてくれる。

※日本海やフォッサマグナの成因や時期についてはなお謎が多く、ここで紹介したストーリーは一つの説
(鈴木聖二/与口幸子)



****別項
【新潟県の過去の大地震】「新潟地震誌」などから

 734年 地大いに震い山川崩れ地裂く。
 841年 頚城郡大地震、一夜に94度の余震。  863年 越中、越後両国。民家倒壊し圧死者多し。
 887年 越後国地震。津波伴い、溺死者数千人。
 887年 信濃国大地震。越後まで多数の男女、牛馬の死体流れ来る。

1092年 越後国海嘯、角田浜砂山古潟海に没す。
1293年 諸国大地震。魚沼山岳崩れ多く死す。
1665年 高田など。死者1500人
1751年 高田など。死者2000人
1762年 佐渡国。順徳天皇御陵崩れる

1828年 三条大地震
1833年 新潟、新発田など。各地で津波被害。震源は山形沖。
1847年 善光寺地震。高田付近も大きな被害。
1964年 新潟地震

【猿供養寺の人柱伝説】
 地滑り常襲地帯として知られる旧板倉町(現上越市)猿供養寺地区には、800年もの昔、村を地滑りから救うために人柱になったという旅の僧の悲しい伝説が残る。

 信濃からの旅の僧が山越えの途中、大蛇たちが大きな地滑りを起こす相談をしているのを聞いてしまい、口外しない約束で命を助けられた。しかし、地滑りに苦しむふもとの村の惨状に、約束を破って「栗の木の杭木で四十八タタキをして人柱を立てる」という防止策を村人に教えた。さらに「話したからには命はない」と自ら人柱を買って出て、村を救ったという。

 伝説は真偽も分からないまま語り継がれてきたが、1937年(昭和12年)3月、地区の人が客土作業中にカメをかぶった人骨を見つけた。骨はおよそ800年前の鎌倉時代のもので、50代くらいの男性であるなど、伝説を裏付けるような事実が次々と明らかになった。その後、同地区では僧の霊を慰めるため人柱供養堂を建立、人骨とカメを丁寧に祭っている。

元区長の三浦伸作さん(72)は「村のために犠牲になってくれたありがたい人。今も、人柱や伝説について知らない住民はいない」と語る。感謝の思いもまた、世代を超えて受け継がれている。
 県内では松之山町杢坂などにも、地滑りを止めるために人柱を立てたという同様の伝説が残っている。

【雪害に挑む】
 雪のメカニズムを解明することで、宿命でもある雪害をなんとか抑えたい。そうした雪害研究は戦前に始まる。

主舞台はもちろん新潟だ。1936年(昭和11年)には、国の林業試験場(現森林総合研究所)十日町試験地が雪崩な>どの研究に着手。1939年(同14年)には旧国鉄の新潟鉄道局に雪害対策調査委員会が設置され、雪崩、吹雪対策や電線の着雪予防など幅広い研究を開始した。国内輸送の根幹を支えていた旧国鉄の取り組みは雪害研究でも中心を担うことになる。戦後1948年(同23年)には塩沢町に鉄道技術研究所直属の雪実験所(現在の鉄道総研塩沢雪害防止研究所)が開設され、本格的な研究が始まった。初代所長は北大で中谷宇吉郎に学び卒業したばかりの青年、荘田幹夫。雪深い現地での研究に打ち込んだ荘田は「雪崩博士」と呼ばれ、その人柄もあり、鉄道にとどまらず道路関係など多くの雪研究者や技術者が塩沢に集まった。

 現在では新潟大学の積雪地災害研究センターをはじめ、防災科学技術研究所長岡雪氷防災研究所、土木研究所新潟試験所(新井市)など、多くの研究所が県内で雪に挑んでいる。
【横田切れの水位が残る「考える柱」】
 新潟市槇尾にある曹洞宗法光院の本堂の柱は、床から40?ほどを境に上下で色が違う。新潟平野6万?が水没した1896年(明治29年)の大水害「横田切れ」で水に浸ったなごりだ。横田から40?も下流のこの地点で、水位の跡は地上2?40?、海抜だと4、5?ほどになる。寺では災害の歴史などを学ぶきっかけにと「考える柱」と名付け、本堂の改修の際も取り壊さずにそのまま残してきた。近隣の小学生などが地域学習の授業などで訪れることも多いという。
 また、中之島町には、横田切れで水没した高さまで白壁がはげ落ちた状態のままの水倉(洪水を避けるため土盛りの上に立てられた倉)があるほか、分水町の農家にも当時の浸水跡が残されている。


【災害考古学】
 新大積雪地域災害研究センターの高浜センター長らが取り組んでいる、災害考古学という学問分野がある。古代遺跡に、地割れや液状化など地盤災害の痕跡を探る。県内では古くは奥三面の縄文前期遺跡で液状化や地滑り跡が確認されているほか、「沼垂城」と書かれた木片の発見で知られる八幡林遺跡(和島村)など、数多くの遺跡から目に見える災害のあかしが見つかっている。考古学資料などと照らし合わせることで過去の災害史をより明確化する一方、旧紫雲寺潟が9世紀の地震に伴う地殻変動で生まれたことを証明するなど、興味深い成果を挙げている。




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