【注目インタビュー 私のターニングポイント Vol.50】升 毅『劇団活動の中で「飲みの席」って実は重要な学びの場なんです』(掲載開始日:2009年2月26日)

升 毅(ます・たけし)
1955年12月9日生まれ。東京都出身。関西を拠点にして活動し、演劇ユニット『売名行為』を経て劇団『MOTHER』の座長として活躍。90年代後半からは実力俳優として様々な作品に出演。最近は、ドラマ『オーバー30』(TBS系)、『神の雫』(日本テレビ系)や映画『忍―SHINOBI―』『UDON』などに出演。舞台でも2007年に『ザ・ヒットパレード~ショウと私を愛した夫~』にオリジナル俳優として出演するなどさまざまなジャンルで活躍している。

G2という演出家との出会いは飲み会の席だった (升 毅)

高校のときの進路相談で、大学受験をしたくないというだけの理由で「俳優になります」って言っちゃった。それが最初のきっかけです。先生、キョトンとしてましたね。

親に相談したら、さすがに話が極端すぎるというので、とりあえず「大学に入って4年で卒業する」ことを条件に演劇活動をすることを許されるわけですけど、大阪のNHKが主宰する俳優養成所に入ったのが2年生のころで、1年後に卒業公演をしたあとは、そのまま劇団員となり、気がついたら10年たっていました。

もともと僕は幼少から飽きっぽい性格だったので、親としては「途中であきらめるだろ」という算段だったようなんですが、僕自身もそれだけ長く続くとは思ってもいませんでした。

1970年代中盤の大阪の演劇シーンというのは、新劇系の劇団がいくつかあった程度で、「劇団そとばこまち」もまだ大学内の演劇サークルだったし、「劇団☆新感線」(1980年に結成)もなかった時代。

そんな中で、新劇にはない、コメディ色の強い公演を中心にやろうと舞台役者を集めて「劇団売名行為」をはじめたんです。

僕はそのとき、30歳。大阪で活動しながら、いつか東京に出て一旗あげてやろうと思いつつ、いざとなるとビビってしまい、ズルズルと現状に甘んじていたのがそのころの僕。「売名行為」という劇団名も、「演劇」という笠をかぶっていながら、もっと広い客層に自らの存在をアピールしていこうという確信犯的な気持ちが表れていて、当時の僕の気分にはピッタリでした。

それでも、最初の2年は演劇くささがなかなか抜けなくて、苦労しましたね。当時、読売テレビのディレクターだったG2に飲みの席で「このままじゃダメですよ」なんてボロクソに言われたりして。「じゃあ、お前、演出やってみろよ」なんてことになって「売名行為」は彼に演出家デビューのきっかけを与えることになったわけです。

36歳で「劇団MOTHER」の座長に。思ってもいなかった展開でした (升 毅)

そのころ、公演でやっていたのは、中島らもさんをはじめとする方たちに短いコントを書いていただいて、それを1時間30分の間に20本近くもちりばめる、オムニバス形式の上演形式でした。途中に映像も挟み込んだりして、かなり斬新な公演だったと思いますが、5年が過ぎ、6年目になるとだんだんメンバーのやりたいことに差が出てきたりして、結局、僕とG2で「劇団MOTHER」を立ち上げることになるんです。

新しい劇団を立ち上げるにあたって決めたことは、それまで追求してきたものをさらに押し進めることはもちろん、「すべての公演を大阪だけでなく、東京でも行う」こと。ここでようやく、それまでできなかった「東京進出」を目標にすることができたわけですね。

まさか36歳になって座長になるなんて、これまた思ってもいなかったこと。だけど、「劇団MOTHER」の場合は特殊で、G2という座付き作家の存在がありましたから、公演ごとの芝居作りという点ではずいぶんと楽をさせてもらったと思っています。その反面、毎年、新人を入れて、彼らに演技指導をすることはもちろん、あいさつや礼儀作法から教えていく雑用係を押しつけられた形で、これは結構しんどかったですね。オーディションで「彼はいい!」と思っても、実際はそれほどでもなかったり、「しょーがないから入れとくか」と思った補欠要員が意外に活躍したり、オーディションで誰が優秀なのかはまったく読めないというのが10年間、座長をやり続けた結果の結論ですね。

あと、G2を含め牧野(エミ)なんかも、稽古や公演が終わったあとは酒を飲みに行くのが日課なんですが、「オレ、酒は好きじゃないんで」なんて平気で断る若い劇団員を説得したりね(笑)。こうした酒の席というのは「第二稽古場」ともいえる大事な場で、「あのときの指導は、実はこういうことだったんだよ」なんて腹を割った話をしたり、将来の夢をお互い語り合ったり、そういうことを含めたすべてが劇団における公演活動のすべてだと僕は思っているんですけどね。

劇団を離れて「初めまして」の修羅場に。でも毎日が楽しい (升 毅)

そんな「劇団MOTHER」も、東京でも名を覚えていただけるようになり、さらに「劇団そとばこまち」や「劇団☆新感線」の面々らとの横のつながりで企画公演も行えるようになっていたころ、1995年、阪神・淡路大震災がやってきまして。

ちょうどそのときは稽古中で、公演も危ぶまれたんですが、「お客さんがひとりでもいるなら」と最後まで取り組みましたが、さすがに関西を拠点に活動をする俳優にとって、この災害は大打撃でした。

ところがちょうどそのころ、東京からドラマの出演など、いろいろなチャンスをいただいて東京に居を移すことになり、僕にとっての大きな転機へとつながっていきました。

劇団も東京に拠点を移し、同じように頑張っていこうという気持ちはあったんですが、なかなかそっちのほうに時間をとれないようになっていきました。実は、「座長辞任」をG2に相談したこともあるんですが、「それはあり得ない」という返答で、10周年を迎える2001年に解散することを決断しました。

というわけで46歳にして僕は、「劇団員」とか「座長」といった立場ではない、ある意味で故郷のない一俳優として活動することになったわけですけど、それは新鮮な体験でした。

とにかく、すべての公演が俳優をはじめ、スタッフと「初めまして」のあいさつから始まります。実は、僕は幼少から人見知りする性格で、そういう活動は向いていないんじゃないかと思っていた面もあるんですが、酒好きの性格が味方をして、いろんな人脈が広がっていきました。今回の『ヒットパレード』は、そんな人脈から戸田(恵子)ネエとは『ショムニ』の飲み会で懇意にしたし、瀬戸カト(リーヌ)もおなじみの仲でした。2年後の再演ということで、オリジナルメンバーとしてお呼びがかかった喜びとプレッシャーと、そのふたつでわくわくしていますね。

升 毅さんへQ&A

Q:最近、ハマってることは?
A:20代にちょっとかじって、そのままになっていたゴルフ。石川遼くんや女子プロの活躍に励まされて奮闘中です。
Q:初めて感動したお芝居は?
A:劇団四季のこどもミュージカルか、そのしばらくあとに観た劇団雲の山崎努さん主演の『メナム川の日本人』です。
Q:もし、俳優になっていなかったら?
A:居酒屋店主。ブログ「大衆居酒屋ますや」でもわかるでしょう。大学時代、ひとり暮らししてからいろんな料理を試しています。

これから演劇を楽しもうと思っている人へ

最初の出会いって、大事ですよね。だから、趣味の合いそうな「演劇好きな友達」に助言をあおぐのはひとつの手です。ひとくちに演劇といってもコメディからシリアスなものまで、あるいはストレートプレイからミュージカル、ダンスまで、ありとあらゆるものがありますから、ものすごい感動を与えてくれる舞台は国内でも必ずあると思うんです。僕自身は中高生のころからいい出会いをしてきたと思うんですが、みなさんにも同じ体験をして欲しいですね。

これから演劇をしようと思っている人へ

僕自身の体験でしか語れませんが、多くの俳優は、「あの役を演じたあの役者さん」を目標にすると思うんです。実はそれはとても重要なことで、最初は単なる「モノマネ」に過ぎなくても、目標に対する思いが強ければ、きっと自分にしかできないオリジナリティは、そうした試行錯誤の中から生まれてくるものだと思うんです。目標が高ければ高いほど、越えるのは大変ですが、どうか最後まで頑張ってほしいですね。

升 毅さんの次回公演情報

「『ザ・ヒットパレード』~ショウと私を愛した夫~」の画像画像を拡大する
ミュージカル『ザ・ヒットパレード』
~ショウと私を愛した夫~

焼け跡の東京からショービジネスを築き上げた渡辺プロダクション創業者の渡辺晋、美佐夫妻をモデルに、生演奏による昭和歌謡の名曲をちりばめたヒットミュージカルが再演される。2007年の初演では、22日間全25回公演18000人を超える観客動員数を誇る名作。渡辺夫妻を演じる原田泰造戸田恵子とともに、「ザ・ピーナッツ」を演じる瀬戸カトリーヌ池田有希子、それからコメディからシリアス芸までこなす升毅の演技を含めた円熟した舞台に注目だ!

東京公演 大阪公演
2009年3月5日(木)~3月25日(水) 2009年4月1日(水)~4月5日(日)
ル テアトル銀座 by PARCO シアターBRAVA!
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取材・文/ボブ内藤(方南ぐみ) 撮影/石井和広(TFK)

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