かつて、「カメラ毎日」という雑誌があった。
1954年創刊、創刊記念にロバート・キャパを日本に招聘し、結果的にそのことがキャパがインドシナで命を落とすことにつながるのだが、ともあれ、独自のアクの強い誌面作りで、真面目に新しい写真表現を追究する層の写真家から強い支持を受けていた。
「アサヒカメラ」が保守的な旦那芸なら「日本カメラ」は純アマチュアリズム、「カメラ毎日」はアバンギャルド、というような棲み分けが当時はあったように思う。
公募ページの「アルバム」のグラビアを飾ることは、プロアマ問わず写真表現者としての一種のステイタスであり、また登竜門でもあった。
私が大学4年生になる1985年4月号で休刊。じつは、ちょうどその頃、JPS展に入選した私の「トラキチバンザイ!」と題した作品が、5月号の「アルバム」に掲載されるとのことで、作品を預けていたのだが、その前月に突如、雑誌がなくなってプリントは結局返却されずじまいであった。そう、私はいわば幻の「アルバム」作家なのである。
(……ということを、私は毎日新聞社の知人に会うたびに訴えているが、責任の所在さえはっきりしないらしい。編集部から届いた採用通知は探せばあるはずだ)
ところで、「カメラ毎日」には、一冊丸ごと名作といえる号がいくつもあり、拙宅には1965年以降休刊までの号はたいてい揃っている。抜けがあるのは、写真家の稲越功一さんがご生前、ご所望になったので差し上げたり、恩師の作品が載っている号をゼミのOB会に巻き上げられたりしたものである。
手元にある中で気になっているのが、この1979年11月号。
この年の夏、愛媛県沖で大戦中の三四三空の紫電改が海中から引き揚げられ、その模様は全国に報じられ、NHKが特集番組まで作った。
この紫電改の引き揚げを、三四三空の元整備員が撮った作品が、「紫電改・再会」と題して掲載されているのだ。
作者は川崎重信氏。
プロフィールには、1922年香川県生まれ、会社員35年、写歴25年、堺市在住。元三四三空戦闘三〇一飛行隊整備兵、とある。
しかし、私の手元にある三四三空「剣会」の名簿に、川崎氏の名前はない。ご存命なら今年91歳だが、早くに亡くなられたのだろうか?この作品が掲載された1979年には57歳の壮年だが……。
撮影データは、ニコンF2、ニッコール20ミリF3.5、105ミリF2.5、200ミリF4、トライX、とある。
作品に付された本文には、昭和19年12月、高等科整備術練習生として相模野海軍航空隊の隊門をくぐったところ、
「その日が、君との出会いだった。すなわち、ぼくの分隊は『紫電改』専攻となる。」
と、「君」と呼ぶ紫電改との出会いから別れまでが詩的な表現で綴られている。
「君のエンジンの調子は?操縦装置は?空戦フラップの作動に異常はなかったか?」
と、語りかけるような文章に、思わず目頭が熱くなる。
この号は土門拳の「越前甕墓」、白川義員の「聖書の世界・旧約編」といったカラーグラビアを始め、岩合光昭さんや野町和嘉さんの若かりし日の作品、のちにカメラ塗装で有名になる高橋正明氏、ライバル誌のカメラマンとなる某氏など、いまのカメラ雑誌よりも作品ページが数段充実していて、見ていて飽きない。
恩師・三木淳先生の連載記事も。当時私は、数年後にこの著名な報道写真家の先生の教えを受けることになろうとは、思ってもみなかった。
終戦から紫電改が引き揚げられた1979年まで34年。そしてそれから現在までが34年。
この「カメラ毎日」を境に、ほぼ等しい時間が流れていることを思えば、引き揚げに立ち会った三四三空の元隊員たちの心中、そんなに昔のこととは感じられなかったのではないか。
この本を開くたび、ちょっと不思議な気持ちになる。
1954年創刊、創刊記念にロバート・キャパを日本に招聘し、結果的にそのことがキャパがインドシナで命を落とすことにつながるのだが、ともあれ、独自のアクの強い誌面作りで、真面目に新しい写真表現を追究する層の写真家から強い支持を受けていた。
「アサヒカメラ」が保守的な旦那芸なら「日本カメラ」は純アマチュアリズム、「カメラ毎日」はアバンギャルド、というような棲み分けが当時はあったように思う。
公募ページの「アルバム」のグラビアを飾ることは、プロアマ問わず写真表現者としての一種のステイタスであり、また登竜門でもあった。
私が大学4年生になる1985年4月号で休刊。じつは、ちょうどその頃、JPS展に入選した私の「トラキチバンザイ!」と題した作品が、5月号の「アルバム」に掲載されるとのことで、作品を預けていたのだが、その前月に突如、雑誌がなくなってプリントは結局返却されずじまいであった。そう、私はいわば幻の「アルバム」作家なのである。
(……ということを、私は毎日新聞社の知人に会うたびに訴えているが、責任の所在さえはっきりしないらしい。編集部から届いた採用通知は探せばあるはずだ)
ところで、「カメラ毎日」には、一冊丸ごと名作といえる号がいくつもあり、拙宅には1965年以降休刊までの号はたいてい揃っている。抜けがあるのは、写真家の稲越功一さんがご生前、ご所望になったので差し上げたり、恩師の作品が載っている号をゼミのOB会に巻き上げられたりしたものである。
手元にある中で気になっているのが、この1979年11月号。
この年の夏、愛媛県沖で大戦中の三四三空の紫電改が海中から引き揚げられ、その模様は全国に報じられ、NHKが特集番組まで作った。
この紫電改の引き揚げを、三四三空の元整備員が撮った作品が、「紫電改・再会」と題して掲載されているのだ。
作者は川崎重信氏。
プロフィールには、1922年香川県生まれ、会社員35年、写歴25年、堺市在住。元三四三空戦闘三〇一飛行隊整備兵、とある。
しかし、私の手元にある三四三空「剣会」の名簿に、川崎氏の名前はない。ご存命なら今年91歳だが、早くに亡くなられたのだろうか?この作品が掲載された1979年には57歳の壮年だが……。
撮影データは、ニコンF2、ニッコール20ミリF3.5、105ミリF2.5、200ミリF4、トライX、とある。
作品に付された本文には、昭和19年12月、高等科整備術練習生として相模野海軍航空隊の隊門をくぐったところ、
「その日が、君との出会いだった。すなわち、ぼくの分隊は『紫電改』専攻となる。」
と、「君」と呼ぶ紫電改との出会いから別れまでが詩的な表現で綴られている。
「君のエンジンの調子は?操縦装置は?空戦フラップの作動に異常はなかったか?」
と、語りかけるような文章に、思わず目頭が熱くなる。
この号は土門拳の「越前甕墓」、白川義員の「聖書の世界・旧約編」といったカラーグラビアを始め、岩合光昭さんや野町和嘉さんの若かりし日の作品、のちにカメラ塗装で有名になる高橋正明氏、ライバル誌のカメラマンとなる某氏など、いまのカメラ雑誌よりも作品ページが数段充実していて、見ていて飽きない。
恩師・三木淳先生の連載記事も。当時私は、数年後にこの著名な報道写真家の先生の教えを受けることになろうとは、思ってもみなかった。
終戦から紫電改が引き揚げられた1979年まで34年。そしてそれから現在までが34年。
この「カメラ毎日」を境に、ほぼ等しい時間が流れていることを思えば、引き揚げに立ち会った三四三空の元隊員たちの心中、そんなに昔のこととは感じられなかったのではないか。
この本を開くたび、ちょっと不思議な気持ちになる。