写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ ※禁無断転載

2012年8月『図解・カメラの歴史』(講談社ブルーバックス)、2011年『特攻の真意~大西瀧治郎 和平へのメッセージ』(文藝春秋)、2010年『祖父たちの零戦』(講談社)刊行! ジャーナリズムの現場から単行本出版、大学の教壇まで、写真家&ノンフィクション作家の日々。

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 かつて、「カメラ毎日」という雑誌があった。
 1954年創刊、創刊記念にロバート・キャパを日本に招聘し、結果的にそのことがキャパがインドシナで命を落とすことにつながるのだが、ともあれ、独自のアクの強い誌面作りで、真面目に新しい写真表現を追究する層の写真家から強い支持を受けていた。

 「アサヒカメラ」が保守的な旦那芸なら「日本カメラ」は純アマチュアリズム、「カメラ毎日」はアバンギャルド、というような棲み分けが当時はあったように思う。

 公募ページの「アルバム」のグラビアを飾ることは、プロアマ問わず写真表現者としての一種のステイタスであり、また登竜門でもあった。

 私が大学4年生になる1985年4月号で休刊。じつは、ちょうどその頃、JPS展に入選した私の「トラキチバンザイ!」と題した作品が、5月号の「アルバム」に掲載されるとのことで、作品を預けていたのだが、その前月に突如、雑誌がなくなってプリントは結局返却されずじまいであった。そう、私はいわば幻の「アルバム」作家なのである。
 (……ということを、私は毎日新聞社の知人に会うたびに訴えているが、責任の所在さえはっきりしないらしい。編集部から届いた採用通知は探せばあるはずだ)


 ところで、「カメラ毎日」には、一冊丸ごと名作といえる号がいくつもあり、拙宅には1965年以降休刊までの号はたいてい揃っている。抜けがあるのは、写真家の稲越功一さんがご生前、ご所望になったので差し上げたり、恩師の作品が載っている号をゼミのOB会に巻き上げられたりしたものである。


 手元にある中で気になっているのが、この1979年11月号。

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 この年の夏、愛媛県沖で大戦中の三四三空の紫電改が海中から引き揚げられ、その模様は全国に報じられ、NHKが特集番組まで作った。


 
この紫電改の引き揚げを、三四三空の元整備員が撮った作品が、「紫電改・再会」と題して掲載されているのだ。

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 作者は川崎重信氏
 プロフィールには、1922年香川県生まれ、会社員35年、写歴25年、堺市在住。元三四三空戦闘三〇一飛行隊整備兵、とある。
 しかし、私の手元にある三四三空「剣会」の名簿に、川崎氏の名前はない。ご存命なら今年91歳だが、早くに亡くなられたのだろうか?この作品が掲載された1979年には57歳の壮年だが……。

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 撮影データは、ニコンF2、ニッコール20ミリF3.5、105ミリF2.5、200ミリF4、トライX、とある。


 作品に付された本文には、昭和19年12月、高等科整備術練習生として相模野海軍航空隊の隊門をくぐったところ、
 「その日が、君との出会いだった。すなわち、ぼくの分隊は『紫電改』専攻となる。」
 と、「君」と呼ぶ紫電改との出会いから別れまでが詩的な表現で綴られている。

 「君のエンジンの調子は?操縦装置は?空戦フラップの作動に異常はなかったか?」
 と、語りかけるような文章に、思わず目頭が熱くなる。



 この号は土門拳「越前甕墓」、白川義員の「聖書の世界・旧約編」といったカラーグラビアを始め、岩合光昭さんや野町和嘉さんの若かりし日の作品、のちにカメラ塗装で有名になる高橋正明氏、ライバル誌のカメラマンとなる某氏など、いまのカメラ雑誌よりも作品ページが数段充実していて、見ていて飽きない。

 恩師・三木淳先生の連載記事も。当時私は、数年後にこの著名な報道写真家の先生の教えを受けることになろうとは、思ってもみなかった。

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 終戦から紫電改が引き揚げられた1979年まで34年。そしてそれから現在までが34年。
 この「カメラ毎日」を境に、ほぼ等しい時間が流れていることを思えば、引き揚げに立ち会った三四三空の元隊員たちの心中、そんなに昔のこととは感じられなかったのではないか。
 
 この本を開くたび、ちょっと不思議な気持ちになる。






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 あれからちょうど一年になるのか・・・と感無量で、再掲する。


黒澤丈夫少佐 黒澤家・上野村合同葬。

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 元海軍少佐で戦闘機隊指揮官、戦後は群馬県上野村村長を務めた黒澤丈夫さんの、「黒澤家・上野村合同葬」に参列させていただいた。

 黒澤さんは大正2年、上野村に生まれ、旧制富岡中学を経て海軍兵学校に63期生として入校。昭和13年5月、第29期飛行学生を卒業して戦闘機搭乗員となった。

 昭和16年12月8日、対米開戦初日には、台湾・高雄基地の第三航空隊先任分隊長として零戦隊を率いてフィリピン・クラークの米軍基地空襲に参加。以後、日本軍緒戦の破竹の進撃の先駆けとなって聯合軍戦闘機を圧倒、「無敵零戦」神話の立役者の一人となった。
 遠くはインドネシアのチモール島から、オーストラリア・ダーウィンの空襲にも参加している。

 昭和17年末にはいったん内地勤務となるが、18年9月、第三八一海軍航空隊飛行隊長となり、昭和19年3月7日、ボルネオ島バリクパパンに進出し、油田地帯防空の任にあたった。同年9月30日を皮切りに、バリクパパンは米重爆撃機B-24、途中から戦爆聯合による度重なる空襲を受けるが、381空はその都度、当時の海軍戦闘機隊としては出色の戦果を挙げ続けた。

 ……と戦歴を挙げていくときりがないので、詳しくは拙著『零戦最後の証言』(光人社NF文庫)、『零戦隊長~二〇四空飛行隊長宮野善治郎の生涯』(光人社)、『特攻の真意』(文藝春秋)、『祖父たちの零戦』(講談社)あたりをご参照いただければ幸いです。

 戦後、昭和40年より平成17年までの40年間、上野村村長として、地方自治の発展に尽くした。
 昭和60年、日航ジャンボ機が村内の御巣鷹の尾根に墜落したときの救難活動における的確な陣頭指揮ぶりは、いまも関係者の間で語り草になっている。


 私は、志賀淑雄少佐に黒澤さんを紹介され、黒澤さんが全国町村会の会議などで東京に出てこられるとき、そして上野村でのべ10数回インタビューさせていただいた。
 いつも、おそらく丁々発止の真剣勝負だったであろう会議が終わった直後は恐ろしい形相をされていたが、私がご挨拶をして、零戦について、搭乗員たちについて、あるいは地方自治について、質問の口火を切るととたんにくつろいだ笑顔に変わられるのが印象的だった。

 海兵で一期先輩の志賀さんの紹介ということで気安く会ってくださっていたが、今日の合同葬では、改めて大きな人だったんだなあ、と実感した。

 焼香の列に並んだ時、真後ろにいた村の人が、
 「これで、上野村の一時代が終わってしまったということだな」
 としみじみ話されていたのが心に残った。


 上野村は、全国でも稀に見るほど交通不便な土地とされる。
 「最寄駅」というものがないから、西武秩父からレンタカーで国道299号線を行くことにする。
 NPO法人「零戦の会」事務局長と二人旅。拙宅からは片道4時間ほどだ。夏場なら、自宅から車で関越藤岡回りで行くのだが、スノータイヤでないと危ないので、このようにした。

 国道299号線は、上野村を通る基幹道路を、黒澤村長の尽力で国道に昇格させたものだ。
 

 途中の村々には失礼だが、上野村は沿線の他の村よりも豊かに見える。
 村に入ったところから、黒澤家・上野村合同葬の案内が。
 

 このトンネルも黒澤村長時代の遺産だそうだ。
 

 村内の広場という広場は参列者向けの駐車場に。我々は日航ジャンボ機墜落事故の「慰霊の園」に駐車。
 

 慰霊の園。
 


 合同葬は、上野中学校の体育館で執り行われた。列席者は、体育館に用意された450の椅子では足りず、二階にも人があふれていたので、500人は超えていただろう。
 


 来賓には、父・赳夫氏が黒澤さんの盟友だった福田康夫元総理の顔も。
 福田氏は、「黒澤村長の功績は他に比肩しえない大功績」と。
 


 地方自治における多年にわたる功績により、平成16年に授与された旭日重光章(勲二等)は、市町村長に授与された勲章としては最高位だという。
 黒澤さんは、海軍時代の昭和18年には、勲五等瑞宝章を授与されている。
 


 海軍時代に従六位に叙せられていたが、亡くなった昨年12月22日付で正五位(旧海軍では少将クラスが叙せられる位階)に追叙された。
 


 焼香の列。
 

 黒澤さん、長い間ありがとうございました。
 合掌――。





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 私が代表を務めるNPO法人「零戦の会」掲示板より、「元搭乗員を囲む会」のお知らせです。


 NPO法人零戦の会では、2月16日(土)元零戦搭乗員堺周一さんを囲む会を開催いたします。


 堺さんは大正14年東京出身。昭和17年5月に第18期乙種飛行予科練生に採用されて土浦空に入隊、昭和19年3月に予科練教程を卒業、福島県郡山航空隊での中練教程を経て同年9月大村航空隊に配属されました。昭和19年12月に実戦の洗礼を受け、在支米陸軍航空隊B29約40機が大村空襲に飛来した際は大村空の全機が出撃して三号爆弾で戦果を挙げて佐世保鎮守府長官より部隊感状が出されたそうです。

 昭和20年3月に三五二航空隊に転入、6月に制空隊に編入され五島列島に来襲した米マーチン飛行艇の攻撃命令にて出撃、初めての少数機での交戦で戦果を挙げたと思われるものの確認できず。20年6月末戦闘三〇九飛行隊に、次いで7月に二〇三空戦闘三一一飛行隊に編入され、終戦まで本土防空に従事されました。


 開催要領は下記のとおり。奮ってのご参加をお待ちいたします。

 日時:平成25年2月16日(土)午後1時30分~4時
 場所:航空会館(東京都港区新橋1-18-1、地図は
http://www.kokukaikan.com/tizu.htm

 会費:3000円(会場費、飲み物代ふくむ※今回、講演会形式で食事は出ません)当日、受付にて集金。
 定員:20名・なお定員に達し次第締め切らせていただきます。

 (皆様、くれぐれも遅刻なきよう、5分前までに集合でお願いします。念のため、服装は、男性の場合、なるべくネクタイ着用、女性もこれに準じた服装でお願いします。)


 ご参加いただける方は、年齢・性別・会員であるなしを問いません。参加ご希望の方は、NPO法人「零戦の会」・「囲む会」専用メールアドレス

 zerosennokai@yahoo.co.jp


 (担当:井上副会長。「囲む会」以外のご用件については対応いたしかねます) に、ご参加ご希望の旨とともに、①ご住所②お名前(フルネーム)③お電話番号(携帯もしくは固定)④ご年齢・ご職業および⑤飲み物の希望(コーヒー・ミルクティー・レモンティーいずれもホットのみ)を明記の上、電子メールでお申し込みください。 (これまでご参加いただいた方はお名前とご住所だけで結構です)

 折り返し、受付確認のメールを送らせていただくとともに、ご案内ハガキ(概ね開催1週間前までに送付します)を郵送いたしますので、当日、このハガキを受付にお持ちください。
 なお、同伴者がある場合は必ずその方の住所、氏名、電話番号、年齢・職業も明記してください。 飛び入りでのご参加は不可ですのでご注意ください。


 申込み受付期限・平成25年2月9日(金)※ただし定員に達し次第締め切らせていただきます。


 ※ご高齢ゆえ、不測の体調不良等による予定変更、あるいは中止もあり得ます。その場合は当掲示板で随時お知らせいたします。ご参加確定の方には当会よりご連絡差し上げますが、念のため当日お出かけの前に本掲示板をご確認ください。

 ただし、「零戦の会」掲示板で「荒らし」行為をするなどかつて当会とトラブルのあった方、(いわゆるオフ会ではありませんので)実名、住所、職業を明かさない方はお断りいたします。
 大勢が参加予定の限られた時間ですので、あまりにもマニアックなご期待にも沿いかねます。「取材」を目的とされる方も、原則としてお断りいたします。



 また、今後、年に一度の靖国神社における慰霊昇殿参拝や総会など、当会の各種活動のお手伝いをいただける若い世代の方は特に歓迎いたします。


 当会の「元搭乗員を囲む会」は今後も開催してゆく予定で、実施の際はこの掲示板でお知らせいたします。