写真家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ ※禁無断転載

2012年8月『図解・カメラの歴史』(講談社ブルーバックス)、2011年『特攻の真意~大西瀧治郎 和平へのメッセージ』(文藝春秋)、2010年『祖父たちの零戦』(講談社)刊行! ジャーナリズムの現場から単行本出版、大学の教壇まで、写真家&ノンフィクション作家の日々。


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 ちょっと必要があって、また戦時中の資料や自分が書いた文章を見直している。


 一昨年、文藝春秋から上梓した『特攻の真意』で、編集段階で落としたエピソードに以下のようなものがあった。フィリピン・マバラカットの神風特別攻撃隊慰霊碑のこと。



〈〈 誰にも話していないことだが、門司親徳(元海軍主計少佐・第一航空艦隊副官)はまた、毎月十万円強、支給される軍人恩給の全額を、フィリピン・ルソン島マバラカット東飛行場跡に建てられた特攻隊慰霊碑を管理する「カミカゼ・メモリアル・ソサエティ」(KAMESO)のダニエル・ディソンをはじめ、特攻隊の慰霊に関わる各団体に寄付し続けた。

 軍人恩給は、海軍に十二年間奉職しないと受給資格が生じないが、戦地に出ると期間が三倍に換算される。門司は、足かけ五年の海軍生活だったが、ずっと第一線を渡り歩いていたせいで受給資格が発生していた。

 フィリピン人有志が建ててくれた慰霊碑だが、その維持管理にかかる費用を、彼らの善意だけに任せるわけにはいかない。門司は、ディソンのことはいつも気にかけていて、できる限りの援助を続けた。

 ところが、平成三年六月十五日、ピナツボ山が、二十世紀最大規模ともいわれる大噴火を起こし、クラーク・フィールドをはじめ山麓の一帯は、激しい降灰と火砕流とで大きな被害を受けた。
 いまだ回収されない多くの日本軍将兵の遺骨は火山灰の下に永久に沈み、ディソンの建てた特攻隊慰霊碑も、噴火に続いて起きた土石流で跡形もなく流されてしまった。


 平成五年八月、門司は、八十六歳の元第二十六航空戦隊参謀・吉岡忠一中佐、元特攻隊員の鈴村善一、ほか特攻隊の遺族らとともに、慰霊祭を兼ねて現地を視察に行った。このときのことを、門司は、
 「着いてみると、クラーク・フィールドは一面の火山灰で砂漠のような風景になっていて、驚いたことにあの頑丈そうな記念碑がきれいさっぱりなくなっていました。バンバン川原の、大西中将が関大尉以下敷島隊、大和隊の七名の搭乗員と別盃を交わしたススキの生えた小さな広場も灰に埋もれ、地形がすっかり変わっていました」
 と語る。門司は鈴村と、
 「まあ残念だけど、自然には逆らえない。記念碑も一緒に天国へ行ってせいせいしたね、訪れる人がいなくなれば荒廃するのが目に見えているから、それを見ずにすんだのはよかったのかもしれない」
 などと話し合った。

 だが、話はこれで終わらない。こんどはマバラカット市が、復興にあたって、日本からの慰霊団や観光客を呼ぶために「特攻隊」に目をつけた。かつてディソンが碑を建てたマバラカット東飛行場跡に、市が記念碑を建てたいという。平成十年のことである。

 はじめ、マバラカット市から支援要請の手紙とともに送られてきたデザイン案を見て、門司は驚いたという。
 「それというのが、搭乗員が爆弾を抱えている像なんですよ。これはピントがずれてるな、と思い、こんなものをつくっても日本人は誰もお参りしませんよ、と申し入れました」

 門司のアドバイスが奏効したのか、マバラカット市はデザイン変更に応じ、横長の鳥居を入口に配した妙ちくりんなスタイルながら、四年後に新たな記念碑は完成した。この記念碑には、
 〈Kamikaze EAST AIRFIELD PEASE MEMORIAL〉
 と刻まれ、その下に碑文が書き連ねられている。しかしここに、最初に碑を建てた功労者であるはずのダニエル・ディソンの名はない。門司がディソンに問い合わせたところ、どうやらディソンとマバラカット市の間には思惑の違いがあり、両者の仲はうまくいっていないらしい。客寄せの経済効果のためにつくるような碑なら、つくってくれなくてもいい。これが門司の意見だった。



 昭和十九年十月二十一日、関大尉以下の神風特攻隊が最初に飛び立ったのは、「マバラカット西」飛行場で、敷島隊が最初に突入に成功した十月二十五日に離陸したのは「マバラカット東」飛行場である。

 ディソンが昭和四十九年、最初に特攻隊の記念碑を建てるとき、ほんとうは「最初に飛び立った」マバラカット西飛行場跡につくりたかったのだが、当時その場所は米軍基地の敷地内だったので断念し、やむなくマバラカット東飛行場跡に建てたという経緯がある。

 マバラカット市に無視された形のディソンは、ピナツボ山噴火後、米軍が開放したマバラカット西飛行場跡に、自分の手で新しい碑を建てた。前よりも小ぶりで簡素だが、日本人の慰霊団がお供え物を置きやすいよう台を設けるなど、心のこもった記念碑である。
 案内標識には〈Kamikaze WEST AIRFELD〉と書かれ、新しいディソンの記念碑には、前にマバラカット東に建てたのと同様、
 〈第二次世界大戦に於て日本神風特別攻撃隊が最初に飛立った飛行場〉
 と、上のほうに大きな字が彫られ、祭壇をはさんだ左右に碑文が刻まれている。

 だが、ディソンの碑に、「特攻隊が最初に飛び立った」とやられると、マバラカット市が困る。正しくは、「最初に出撃した」のは、ディソンが建てた西飛行場で間違いないが、敷島隊が「最初にに突入に成功した」ときに出たのは市が建てた東飛行場である。

 どうも、老舗の店や土産物屋がよくやるように、特攻の始まりはウチだと言わんばかりの、「元祖」と「本家」の争いになっているようだった。

 門司としては、観光客目当ての町おこしである「東」よりも、いままで付き合いもあり、ほんとうに特攻隊を尊敬してくれるディソンがつくった「西」のほうを、手厚く援助することにした。


 二つの記念碑は、いまも道路とフィリピン国鉄の線路を隔てて三百メートルほどのところにあり、慰霊祭は同じ日に別々に行なわれている。
 「慰霊顕彰してくれるのはありがたいけど、『元祖』と『本家』がいがみ合うようになっちゃ、おもしろくない。なんでもそうだけど、心の問題にお金や商売がからんでくるとみっともなくなっちゃうね」
 マバラカットの記念碑のごたごたについて、門司は心外でならないといったふうに、ため息をついた。〉〉



 皆が善意であっても、善意と善意がぶつかり合えばそこに対立が生じる。難しいものだ。