長崎市松山町の原爆落下中心地。被爆当時は、高見和平氏の別荘テニスコートだった(撮影者は不詳。1946年から48年ごろの撮影とみられる)
浦上と市街


 八月。長崎が「ナガサキ」になる。世界から人々が訪れ、被爆の惨禍を知り、平和の実現を願う。だが、この町には、原爆と平和をめぐっていくつかの断層が横たわる。被爆五十七年を経てもなお引きずり、埋め切れずにいる深いもの―それは何か。 (地域報道センター・馬場周一郎)

 ■死の同心円
 一九四五(昭和二十)年八月九日、米国は長崎に原爆を投下した。炸裂(さくれつ)した浦上地区松山町の上空五百メートルから広がった「死の同心円」の中には、さまざまの生活者がいた。
 信仰の側面でとらえれば、浦上には一万二千人のカトリック信徒が暮らし、八千五百人が命を奪われた。一方、南約一キロには、被差別部落民千三百人が住んでいた。ここでは二百三十戸が全て焼け落ち、四百三十人が亡くなった。
 浦上の信徒と部落民は敵対の歴史を刻んできた。禁教令以後、部落民はキリシタン監視の役割を担わされ、幕末の「浦上四番崩れ」では信徒弾圧の先頭に立つ。
 ともに差別される側にいながら、相手を敵視し、憎み合う。そうした状況を原爆はさらに悲劇的なものにした。被爆者はだれもが少なからぬ差別を受けたが、信徒と部落民は過去の差別に被爆者という新たなスティグマ(焼き印)が加重されたのである。
原 爆 は ど こ に 落 と さ れ た か
 ■異教徒差別
 原爆文学の記念碑的作品である井上光晴の「地の群れ」は、こうした差別の多層性に迫ったものである。井上はこの作品に被爆者、部落民、在日朝鮮人を登場させ、差別される者が互いを差別し合う日本社会のメンタリティを描き出した。
 原爆の対日投下に関する米国の「暫定委員会」資料によれば、もともと長崎市への投下目標は浦上ではなく、人口が密集した市街―眼鏡橋が架かる中島川付近だった。それが、一瞬の天候条件によって浦上上空で炸裂したのだった。
 これを一部の市民は「市街に落ちなかったのは、お諏訪さん(秋の大祭「くんち」で知られる諏訪神社)が守ってくれたおかげ」と言ってはばからなかった。そして「浦上に落ちたのは、お諏訪さんに参らなかった“耶蘇”への天罰」との悪罵(あくば)を浴びせた。それは長いキリシタン迫害の歴史のなかで醸成された長崎の一般民衆の異教徒への信仰差別が吐かせたものであった。
 この状況は、井上の「地の群れ」が投げかけるテーマにも深いところでつながるのである。つまり、平時は「心優しき善人」が、非日常の極限状況に遭遇した途端、「悪魔の化身」のような差別性を剥(む)き出しにするという点で…。

 ■被害と加害
 同じ被爆都市ながら、広島は河口に発達した比較的平坦(へいたん)な地形であることから被害は万遍(まんべん)なく広がった。これに対し、長崎市は市街と浦上地区が山で遮られていることで被害は軽重を分けた。
 加えて、カトリック(浦上)と神道(市街)の宗教的、文化的異相…。「原爆は長崎に落ちたのではなく浦上に落ちた」。長崎でよく口にされるこの言葉こそ、原爆がどのようにとらえられているかを如実に示すものといえる。
 長崎の反原爆運動が広島ほど全市的な怒りの熱気を帯びないのも、こうしたことに淵源(えんげん)がある。反文明の究極兵器の使用に対して、立場や地域を超えた運動の構築が求められるのに、「俺のところには関係ない」といった他者意識が連帯を分断する。
 自ら被爆しながら救護活動を続け、「この子を残して」などのベストセラーを世に送った永井隆。その代表作のひとつに「長崎の鐘」がある。連合国軍総司令部(GHQ)は出版を許可する代わりに、巻末に「マニラの悲劇」を併録させた(初版のみ)。「マニラの悲劇」は、日本軍が現地で行った残虐行為の証言集である。
 日本の残虐行為を明らかにすることで、原爆投下を正当化しようとする米国の意図が透けて見えるが、それは置くとして、大切なのは〈ナガサキの被害者〉は、実は〈マニラの加害者〉という相関性だ。
 戦争においては被害者と加害者は常に裏返しの関係であり、第三者など存在しない。長崎原爆は浦上でも市街でもなく、人類全体の頭上に落とされたことを知るべきなのである。 (文中敬称略)

2002.08.07掲載