特集1:中国とどうつきあうのか? 

 尖閣諸島問題について
              下條 正男(拓殖大学国際学部 教授)

 最近、尖閣諸島の領有権を巡って、日・中・台は緊迫した状況にある。釣魚島、久場島等、八つの島嶼からなる尖閣諸島は、日本の八重山群島(沖縄県)から北西に約175キロ、台湾の北東約195キロに位置し、現在、沖縄県石垣市登野城に属している。その尖閣諸島が日本領となったのは1895年1月14日、今から百年ほど前に溯る。

 この尖閣諸島に対し、中華民国(台湾)が外交部声明によって領有権を主張したのは1971年6月11日、中華人民共和国(中国)は12月30日に領有権を主張し、今日に至っている。台湾と中国が尖閣諸島の領有権を主張した背景には、国連アジア極東経済委員会の協力で東シナ海一帯の海底調査がなされ、1969年に「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」と報告されたことがある。
 それも中国政府の場合、尖閣諸島は中国の一部である台湾省の附属島嶼であるとして、その領有権を主張するといった特殊な立場にある。その中国が領有権を主張する根拠は、琉球国(現在の沖縄県)が明や清の冊封を受けていた時、中国の冊封使が琉球国に渡る際に尖閣諸島を航路の目印としており、中国側では早くから尖閣諸島を認識していたこと。さらに清朝の徐葆光が著した『中山伝信録』では、尖閣諸島を琉球三十六島には含めていなかことなどを理由に、尖閣諸島は、中国領であるとしてきた。

 これに対して、日本は1895年に「無主の地」であった尖閣諸島を日本領としており、それは国際法上も正当であるとしている。だが問題は、日本側が尖閣諸島は国際法上も日本の固有領土とするのに対して、中国側は歴史的に中国の領土であったとし、日本による尖閣諸島領有を帝国主義的侵略行為とするなど、歴史理解が大きく隔たっている点にある。中国漁船が尖閣諸島付近の日本側領海内で平然と漁労活動を続け、中国側が既成事実を積み重ねてきた背景には、尖閣諸島は中国領とする歴史認識があるためである。

 この9月7日、日本の海上保安庁の巡視船に中国漁船が衝突し、公務執行妨害の容疑で逮捕されても、追突行為を正当化する理由がここにある。この状況で、日本政府が尖閣諸島は日本の固有領土と繰り返し主張し、強硬策をとっても中国側が承服するはずもない。
 にもかかわらず日本の民主党政権は11月21日、「防衛計画大綱案」を検討する中で、尖閣諸島近くの与那国島に「沿岸監視隊」約100名を配備し、中国の艦船や航空機をレーダーで探知するという。これに対して中国側は、さっそく漁業監視船二隻を尖閣諸島周辺に派遣し、日本側の接続海域に沿って航行させるなど対抗措置をとっている。

 だがこの種の反応は、賢明な選択とは言えない。日中双方が感情的になる前に、中国側の歴史認識をもう一度検証しても遅くはないからだ。それは歴史的根拠がないまま竹島の不法占拠を続ける韓国と同様、中国側では尖閣諸島が中国領であったとする歴史的根拠を示していないからである。

 確かに中国側では、琉球国を冊封する際に冊封使を派遣し、そのつど尖閣諸島近くを航行している。周煌の『琉球国志略』(「針路図」)には尖閣諸島の一部が描かれ、徐葆光の『中山伝信録』が伝える琉球三十六島の中に、尖閣諸島は含まれていない。
 だがそれだけでは、尖閣諸島が中国領であった根拠とはならない。なぜなら明代の台湾は先住民の住む「東蕃地」とされ、中国の統治が及んでいなかったからだ。それも乾隆九年(1744年)刊行の『大清一統志』では、台湾は「天啓中(1621年~1628年)日本に属す」とされ、一時、オランダに占拠されていたからだ。その台湾に、清朝が台湾府を設置したのは康煕二十三年(1684年)、それも統治が及んだのは台湾の南西部に限られていた。清朝の勢力が台湾の北端にまで伸張するのは雍正元年(1723年)、彰化縣と淡水縣が設置されてからである。

 それでも清朝時代、台湾府の疆域は台湾全島に及ぶことはなかった。それは高拱乾等による『台湾府志』(康煕三十五年刊)と、范咸等による『重修台湾府志』(乾隆十二年刊)によって確認ができる。『台湾府志』の「台湾府総図」では、台湾山脈を含む東側半分を空地とし、清朝の支配が及んでいなかった事実を示しているからだ。
それに「台湾府総図」では台湾府の北限を「鶏籠城界」とし、『台湾府志』の「封域志」では台湾府の疆域を「北至鶏籠山二千三百十五里、為界」(北、鶏籠山に至ること二千三百十五里。界と為す)として、鶏籠山を台湾府の疆界と定めている。尖閣諸島は、この「鶏籠城」と「鶏籠山」から東北に約195キロも離れており、尖閣諸島が台湾に帰属していなかったことは明白である。

 この事実は、乾隆帝の勅命で編纂された地理書の『大清一統志』【写真1】でも確認することができる。同書の「台湾府図」では、『台湾府志』と同じく「鶏籠城界」を台湾府の疆界とし、その北限を「北、至鶏籠城」(北、鶏籠城に至る)としているからだ。
 台湾府の北限を「鶏籠城界」とした『台湾府志』の「台湾府総図」は、その後『欽定古今図書集成』(1728年刊)の「台湾府疆域図」に踏襲され、その疆界は1912年に建国した中華民国でも変更がなかった。それを示しているのが清朝末期の『淡水庁誌』(1871年)と、中華民国時代に編纂された『皇朝続文献通考』(1912年)や『清史稿』(1927年脱稿)等である。
 これら中国側の文献から言えることは、尖閣諸島は歴史的に一度も中国の領土となった事実がなく、日本政府が「無主の地」として尖閣諸島を領有したことは、国際法上も妥当であったということである。それを中国側は、歴史的に尖閣諸島は中国固有の領土であったとし、日本による尖閣諸島の領土編入を帝国主義的侵略行為と批判してきた。
 だがそれは無知によるものとはいえ、竹島問題の韓国や北方領土と千島列島等を侵略したロシア同様、歴史を歪曲した領土的野心と言わざるをえないのである。

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 【写真1】『大清一統志』巻335、「台湾府図」(光緒辛丑秋上海寶善斎石印本)


下條 正男(しもじょう まさお)

略歴:國學院大學大学院文学研究科博士後期課程修了。1983年、韓国の三星グループ会長秘書室勤務。1994年、市立仁川大学客員教授。1999年から拓殖大学国際開発研究所教授。


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下條正男