血の勲章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
1923年11月9日記念メダル2型。綬はボタンホールが無いので、オリジナルではないと思われる。

血の勲章:Blutorden)は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の記章。1923年11月9日のミュンヘン一揆を記念したメダルで、ナチ党の栄章の中でも最上位に位置する[1]。日本では”ブルート勲章”の表記も見られる[2]


制定[編集]

ミュンヘン一揆参加者の顕彰のために1934年3月15日[3]に制定された[2][# 1]

制定当初の正式名称は「1923年11月9日名誉章(Ehrenzeichen vom 9. November 1923)」であったが、1938年5月30日以降には血の勲章(Blutorden)が正式名称となった[2]。血の勲章の名はミュンヘン一揆の際の「血染めの旗(Blutfahne)」に由来する[2]

1938年5月30日の総統令により授与対象者が拡大され、ほぼ同じデザインのものが1938年8月27日に発行された[4]

デザイン[編集]

1934年と1938年に発行されたものでは若干の差異があり、1934年版は1型(1st Pattern)、1938年版は2型(2nd Pattern)と呼ばれている[5]。メダルは直径40.5ミリ[3]のスモーク処理が施された銀製[6]、重量は1型が22.9gで2型が17.5g[7]。メダルの表面には花輪に乗った鷲がデザインされ、右側に「ミュンヘン 1923年‐1933年」(München 1923-1933)の文字、花輪の中には「11月9日」(9.Nov.)の日付が入っていた。日付はミュンヘン一揆の日、年号はミュンヘン一揆から政権を掌握するまでのナチス党の闘争時代を示している[1]。1934年版と1938年版では鷲の尾の長さが違う[3]。裏面にはミュンヘン一揆のデモ行進が警官隊に銃撃された場所であるオデオン広場フェルトヘルンハレen:Feldherrnhalle)がデザインされており、その上に「UND IHR HABT DOCH GESIEGT」(そして貴方達は勝利した)という文字が刻まれていた[1]。フェルトヘルンハレの下には銀の純度表示とシリアルナンバーが刻印されており、1型では純度表示が上だが、2型は逆になっている[3]。銀の純度は1型が990なのに対し、2型は800である[7][# 2]

佩用式[編集]

佩用には幅35ミリの綬(リボン)を使用する[6]。綬は鉄十字章と同じく国家色の黒白赤を基調としているが、鉄十字の物に比べると黒の部分が小さく逆に赤の部分が多い。これは血の色を意識したためといわれている[2]

ボタンホールが空いており、制服右胸ポケットのフラップに綬を巻き付け、そのボタンホールにフラップボタンを通して止めるようになっていた。そして、普段は綬のみを略綬として同様に着用した[6]

胸ポケットのない制服を着用している場合は二級鉄十字章の綬と同様に前合わせのボタンホールから斜めに佩用する[8]

主な受章者[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 後藤譲治 『ヒットラーと鉄十字章―シンボルによる民衆の煽動』(文芸社、2000年)によると1933年3月制定。
  2. ^ 銀の純度は千分率で表示される。すなわち、990は銀99%で800は80%を表している(銀#宝飾品としての利用参照)。

出典[編集]

  1. ^ a b c 山下(2011)下巻 p.131
  2. ^ a b c d e 山下(2011)下巻 p.130
  3. ^ a b c d Alisby(2010) p 11
  4. ^ Alisby(2010) p 13
  5. ^ Alisby(2010) p 11, 13
  6. ^ a b c 後藤(2000) p.24
  7. ^ a b Alisby(2010) p 12, 13
  8. ^ a b 山下(2011)下巻 p.133
  9. ^ 佩用した写真を確認
  10. ^ 佩用した写真を確認
  11. ^ 後藤(2000) p.25
  12. ^ 佩用した写真を確認
  13. ^ a b 山下(2011)下巻 p.132
  14. ^ 佩用した写真を確認
  15. ^ 佩用した写真を確認
  16. ^ http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/DrexlerAnton/index.html

参考文献[編集]