ハル・ノート

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ハル・ノート(Hull note)は、太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日日本時間11月27日[1][注釈 1])にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。正式にはアメリカ合衆国と日本国の間の協定で提案された基礎の概要(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)と称する。交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。また、ノートと呼ばれるのは「暫定かつ拘束力が無い」という但し書きが明記されており、アメリカ政府正式の文書ではなく、ハルの「覚書」という側面があったためであるが、戦時中に日本で「ハル・ノート」という呼称があったわけではなく、戦後の東京裁判前後に用いられるようになったとする見方がある[2]。米国では1941年11月26日アメリカ提案とも呼ばれている[3]

野村吉三郎駐米大使(1941年2月14日)
来栖三郎特命大使

野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使が提示した日本側の最終打開案(乙案)に対する拒否の回答と同時に、アメリカ側から提示された交渉案である[1]

目次

経緯[編集]

アメリカは中国での権益を確保するため、以前から日本と紛争状態(日中戦争)にあった中華民国蒋介石政権に援蒋ルートなどを通じて多大な軍事援助を送っていた。アメリカのほか、イギリス、フランス、ソ連も中華民国を支援していた。

さらに日本軍の仏印進駐を問題視したアメリカが、国内の日本資産凍結、石油等の対日禁輸といった制裁に踏み切ったことにより、日米間は一気に緊張を高めた。また日米双方の外交担当者は、戦争以外の解決を探って日米交渉を約7ヶ月にわたって続けていた。交渉の背景として、当時の日米両国ともに国内世論が強硬派・穏健派に分かれ、双方の政治的綱引きがあった。

昭和15年(1940年)9月の北部仏印進駐日独伊三国同盟締結により日米交渉は難航していた。1941年日米交渉は2月からはじまり、2月12日の野村大使とハル国務長官の第1回の会談以降、延べ45回の会談が行われた。11月26日のハル・ノート以前に、非公式の日米了解案、日本の甲乙二案が出されていた。アメリカでは暫定協定案とハル・ノート原案(基礎的一般協定案)の二案が作成されたが、日本軍の北部仏印進駐を認めた暫定協定案は廃棄された後でハル・ノートは提出された。

日本はハル・ノートを最後通牒として受け取り[4]太平洋戦争開戦となった。[独自研究?]

日米諒解案[編集]

ウォルシュ・ドラウトの来日、井川・ドラウトによる協定案作成[編集]

1940年(昭和15年)11月25日、アメリカからメリノール宣教会のジェームズ・ウォルシュ司祭とジェームズ・ドラウト神父がクーン・レープ商会のルイス・シュトラウス(戦後、アメリカ原子力委員会の委員長を務める)の紹介状をもって来日し、近衛文麿首相に近い産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事井川忠雄と会い、松岡洋右外相ら日本高官と面談した[5]。両神父の目的は日米関係改善にあり、その背後にはフランクリン・ルーズベルト大統領の側近であるフランク・C・ウォーカー英語版郵政長官がいた[6][注釈 2]

翌1941年(昭和16年)1月に帰国したウォルシュとドラウトは、23日、日本軍の中国からの漸進的な撤収を条件に日米間の会談を行うという「日本提案」をハル国務長官、ウォーカー郵政長官、ルーズベルト大統領に伝えた。しかし、これは正式な日本提案ではなく、両神父が日本高官との面談の内容をまとめたに過ぎないものを日本政府の提案として報告したものだった[6]。この時のルーズベルトの態度は明らかではないが、ハルは懐疑的であり、反対にウォーカーは乗り気であった[8]

訪米した井川は、2月27日、ウォルシュ、ドラウトと再会し、両師とともにウォーカーを訪問した。ウォーカーは「私は陰の男としてルーズベルトやハルに連絡斡旋の労をいとわない」「三者で協議を進めて日米国交を正常化する方法をきめてほしい」と井川を激励した[9]

2月28日、井川は野村大使を訪問して経過を報告し[10]、ウォーカーもまたルーズベルトに覚書を提出し、井川を正式な権限を与えられている日本の全権代表として報告した[11][12]

3月13日、ウォーカーはハルに三国同盟からの日本の脱退、太平洋の平和の保障、中国の門戸開放、中国の政治的安定、軍事的・政治的侵略の不可、共産主義拡大阻止などの内容について作業中との覚書を提出し、あたかも日本政府が井川・ドラウトの協定案に同意しているかのように報告した[13]。しかし、井川は日本政府から何ら権限は与えられておらず、内容も日本政府が同意したものではなかった[14]

3月14日、野村大使とルーズベルト大統領の最初の正式会談が開催され、ルーズベルトは三国同盟への強い懸念を伝え、日本の南進を牽制するとももに、中国の共産化について日本は心配しすぎであると述べた[15]

岩畔豪雄の参加と日米諒解案[編集]

井川・ドラウトの協定案作成に岩畔豪雄が関与するようになった[16]。岩畔は、日米国交調整には支那事変通の人材が必要との野村大使の要請により陸軍から派遣された人物で、それまで軍事課長を務めていた[17]。岩畔は井川、ウォルシュ、ドラウトによる案件の輪郭は承知しており、井川とも事前に打ち合わせをしていたが、陸軍首脳とは何ら協議せず、訓令も求めることなく、3月6日に渡米の途についた[18]。3月31日、ウォルシュ、ドラウトとの会談に入った岩畔は「日本側としては三国条約が存在する現在これを裏切ることは出来ない」として、アメリカ側の目的が日本の三国同盟脱退なら交渉に入る可能性はないと釘をさした[19]。4月5日、三人による草案ができたが、作成中にドラウトは「もし日本が三国同盟から脱退すれば、アメリカは日ソ戦が起きた場合に日本を援助する」という一文を明記するとの提案があったと岩畔は回想している[20]

草案は日米双方が修正を加えた上で、4月9日に一応の完成を見た[20]。この草案を受け取ったハル国務長官は3日間にわたって国務省極東部と検討したが、その内容に「われわれはひじょうに失望した。それはわれわれが考えていたよりもはるかに組みしにくいもので、提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった」と不満であった[21]。しかし、ハルは「一部には全然承諾できない点もあるけれども、そのまま受け入れることのできる点、また修正も加えて同意できる点もある」という結論を下し、これを交渉の糸口にすることとした[21]

その後、国務省極東部での修正、日本側の若干の修正を経て4月16日に「日米諒解案」として完成した[22]。日米諒解案は野村大使も報告を受けており、ハルもウォーカー郵政長官を通じて報告を受けていた。内容的には岩畔の主張がかなり盛られていたが、相互に不満な箇所は今後の交渉で修正していくもので、「なんの拘束力もない」と断り書きがあった。[22]

松岡外相の訪欧とスタインハート工作[編集]

他方、松岡外相は自らがすすめる四国協商(三国同盟+ソ連)構想の実現、日ソ国交の調整等を目的に3月12日から4月22日にかけて訪欧していた[23]。3月24日には松岡はモスクワでソ連のヨシフ・スターリンモロトフ外相と国交調整の予備会談を行い、27日から4月4日にかけてはベルリンドイツアドルフ・ヒトラー総統、リッベントロップ外相と5回にわたる会談を行った[24](ヒトラーとの会談は3月27日、4月4日の2回。リッベントロップとの会談は3月27、28日、29日の3回[25])。

リッベントロップは松岡に独ソ関係が悪化していること、ドイツ軍はソ連を粉砕する用意があることを告げ、日ソ中立条約の問題はモスクワで持ち出さない方が良いと勧めた[26][27](ソ連の三国同盟加入あるいは四国協商の可能性についても、リッベントロップはソ連の加入条件は受諾できないと重ねて否定している[28])。また、リッべントロップは対英戦争の勝利は時間の問題であるとし、日本のシンガポール攻撃を執拗に要請する一方、日本が懸念するアメリカの参戦には否定的な見方を示した[29][30]

この後、松岡は同盟国のイタリアを訪問し、4月7日には再びモスクワに入った[31]

松岡は訪欧のなかで、駐ソ米国大使スタインハートと2度会談して、日米国交調整についてルーズベルト大統領への伝言を依頼している。往路の3月24日には、日本はシンガポールを含めオランダ、英米の領土を攻撃しない、日本は米国と開戦する意図はない、日米戦争は極東の共産化をもたらすことなどを伝え、帰路の4月8日では「厳私信」の手紙でゴム、スズ、石油等でアメリカが南方諸国と貿易ができることを保証する、中国においてアメリカの権益を侵しているような誤りがあれば日中戦争終結後賠償することなどを伝えた。会談の内容はいずれも電報でスタインハートからハル国務長官に伝えられた。[32]

また、スタインハートの報告によれば、松岡はルーズベルトが蒋介石への影響力を行使するならば全ての関係国にとって満足な条件で、いつでも日中戦争を終結せしめうる立場にある…と発言したという[33]

4月13日、日ソ中立条約が調印された。ハルが日米交渉を開始した背景には、この日ソ中立条約の威力があったとの指摘がある[34]

ハルの四原則[編集]

4月16日、ハル国務長官は野村大使と会談し、次の四原則を示した[35]

  1. すべての国の領土と主権尊重
  2. 他国への内政不干渉を原則とすること
  3. 通商上の機会均等を含む平等の原則を守ること
  4. 平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持

ハルは野村に対して、「この四原則を受け入れた上で、さきに日米間で作った非公式の提案を日本政府に送り、日本政府がこれを承認してわが方にに提案すれば、われわれの交渉開始の基礎ができることになろう」と述べた[36]。野村は3.については前提条件とせず、日米会談で討議しても良いではないかと示唆したが、ハルはこれを受け付けなかった[37]。また、野村が4.と日米諒解案の満州国承認問題の関係について問いただしたところ、ハルは4.は満州国については影響せず、将来の問題について適用されると述べている[38]

しかし、野村大使はこの四原則を添付せずに日米諒解案を日本政府に送った[39](後の5月8日の野村の電報では、話が進まないことを恐れて、これを押さえたと釈明している[40])。

日米諒解案[編集]

日米諒解案の要約は以下の7項目からなる[41]

日米諒解案
  1. 日米両国は、相互に隣接する太平洋地域の強国であることを承認し、共同の努力により太平洋の平和を樹立し、友好的諒解を速やかに達成する。
  2. 欧州戦争に対する態度として、日本は三国同盟の目的が、欧州戦争拡大を防止することにあり、その軍事上の義務は、ドイツが、現にこの戦争に参加していない国によって、積極的に攻撃された場合のみ発動することを声明する。一方米国の欧州戦争に対する態度は、もっぱら自国の福祉と安全とを防衛するという見地によってのみ決することを声明する。
  3. 日中戦争について、米国大統領が次の条件を容認し、日本政府がこれを保証したときは、大統領は蒋介石政権に和平を勧告する。A.中国の独立。 B.日中間の協定による日本軍の中国撤兵。 C.中国領土非併合。 D.非賠償。 E.中国の門戸開放方針の復活。 F.蒋介石政権と汪兆銘政権の合流。 G.中国への日本の集団的移民の自制。 H.満州国の承認。
  4. 太平洋平和維持のため、相互に他を脅威する海空力の配備をせず、日本は米国の希望に応じ、自国船舶を太平洋に就役させる。会談妥結後、両国は儀礼的に艦隊を派遣し合い、太平洋の平和到来を祝す。
  5. 両国間通商の確保、日米通商航海条約の復活。米国よりの金クレジットの供与。
  6. 日本の南西太平洋における発展は武力に訴えず、平和的手段によってのみ行われるという保障のもとに、米国は日本の石油・ゴム・錫・ニッケルなど重要視源の獲得に協力する。
  7. 太平洋の政治的安定に関し両国は、A.太平洋地域に対する欧州諸国の進出を容認しない。 B.両国はフィリピンの独立を保障。 C.日本人移民は他国民と同等無差別の待遇を得る。

以上の点について両国が合意すれば、ハワイにおいてルーズベルト-近衛会談を行う。

「アメリカ提案」としての受け取り[編集]

4月18日、日米諒解案の電報が日本に届いた。近衛文麿首相は諒解案をアメリカ政府の公式案と誤解[注釈 3]して受け取り、「アメリカ提案」として閣議に発表した[39]。この提案には、満州国の承認、ハワイでの日米首脳会談が含まれていたので、東條英機陸相は喜び、閣僚は主義上賛成の電報を打とうとなったが、松岡外相の帰国を待ってから返事することになった[39][注釈 4]

東條は武藤章軍務局長に陸軍としての態度決定につき事務的検討を命じ、会議を経て、「ともかく交渉開始に同意」の趣旨が決定された。東條は、事前に何の連絡もなく大風呂敷を広げた岩畔のやり方に不快であり、武藤も「あまりに策が多すぎる」と警戒したが、日米諒解案を支那事変解決の機会と捉えて乗り気となった。[46]

また陸軍参謀本部においても、「三国同盟の精神に背馳せざる限度に於いて対米国交調整に任ずべき大体の方向」で一致し、この線に沿って最終的に陸海軍間で意見が合意した[47]

ただし、諒解案は軍部に無条件で歓迎されたわけではなく、交渉に前向きな軍務局でさえ、中国からの撤兵についてはあり得ないと考えており、日本人の経済活動保護の立場から駐兵は必要と考えていた[48]

帰国した松岡外相は、スタインハート工作の返事ではなかったため不機嫌になり、これはアメリカの悪意七分、善意三分として1週間か1、2ヶ月の猶予を欲しいと述べたにとどまった[49]

松岡三原則[編集]

5月3日、第21回大本営政府連絡懇談会で松岡外相は日米諒解案に対する修正案を提示し、了承された。松岡案は形式的には諒解案の文言、項目の変更であったが、内容は「陸海軍案ヨリ更ニ強硬」(『機密戦争日誌』5月3日)なものであった[50]。また、松岡は先ず試みとして日米中立条約をアメリカに提議したいとした[51]

さらに松岡外相は次の三原則を発表した[52]

  • 支那事変への貢献
  • 三国同盟に抵触しないこと
  • 国際信義を破らない

三原則は、アメリカが三国同盟を承認し、またアメリカが蒋介石に圧力をかけて日中戦争解決に貢献することを意味し、国際信義とはドイツへの信義と協調であったため、これはアメリカの方針と真っ向から対立するものであった[52]。松岡の狙いはアメリカの欧州戦争参戦阻止にあり、「米をして参戦せしめざるに在る故、更に強気に参戦阻止に出づるを要す、了解案も参戦阻止に役立つが如きものたるを要す」「独が起った場合には同盟条約によれば日本も当然起つのを正論なりと思う、しかし外交からいえばそうも行かぬ、米を参戦せしめず、また米をして支那から手を引かせる、というのが今度自分がやろうとする考えである」(5月8日連絡会議)とした[53]

松岡オーラルステートメント[編集]

5月3日、松岡はオーラルステートメント(口頭文書)を野村大使に打電した[54]。内容は次の通りであった。

  • ドイツ・イタリアは会談によって和平しない
  • ソ連と枢軸国の関係は良好
  • 米国の参戦は、戦争を長期化する
  • 日本は三国同盟にもとづく。

5月7日、野村大使はハル国務長官と会談し、松岡のオーラルステートメントを読み上げた(野村は松岡の電報を手交することなく、ハルの同意を得た上で手許に保留している[55])。ハルは、ヒトラーの制覇が七つの海に及ぶことを忍ぶことはできない、米国の権益擁護のためには10年でも20年でも抵抗する決心であると野村に語った[56]。また野村が提議した日米中立条約(どういう行き違いかハルは不可侵条約と解している)については「それは4月9日の文書に含まれた提案とは全然異なった事柄である」と一蹴した[57]。なお、ハルは日米交渉の開始について力を込めて督促したという[58]

松岡修正案[編集]

5月12日、野村大使は、松岡外相による日米諒解案に対する修正案をハルに提示した[56]。この修正案は日本の公式の提案となっており、ハルは「日米交渉の基礎はこの5月12日におかれた」としている[59]

松岡修正案では、三国同盟の軍事義務についての了解案での「積極的に攻撃された時のみ」が削除され、また支那事変の「日米両国の容認した条件での和平の勧告をする」という条項の全てを削除、近衛三原則や日満支共同宣言にのっとりアメリカが和平を勧告するという一方的な内容に変更され、さらにハワイでの首脳会談も削除された[60]

ハルは「この提案からは希望の光はほとんどさしていなかった。日本は自分の利益になることばかり主張していた」としたが、これを一言のもとに拒否すれば日米交渉の機会を失うことになるため、「われわれはこの日本の提案を基礎にして交渉を進めることにしたが、それは、日本を説得して三国同盟から脱退させるわずかの可能性でもありそうだったら、その目的だけを追求すべきだと考えたからだ」と回想している[61]

6月21日米国案[編集]

6月21日(日本時間6月22日)、アメリカ側から松岡修正案に対して正式な回答が出された[62](本文には“Unofficial, Exploratory and without Commitment(非公式、予備的段階にして拘束力なし)”のただし書きがあり、アメリカ政府の公式回答とは呼べないものであるとしていた[63])。以後、ハル・ノート提示までアメリカはこの提案に固執することとなる[64]

  • アメリカの欧州戦争参戦は自衛のためであり、日本は三国条約を欧州戦争に適用しないこと[62][65]
  • 中国問題については和平の基本条件(善隣友好、無併合、無賠償、無差別待遇の原則による経済協力、日中間協定による速やかな撤兵、防共駐兵については今後の検討課題とすることなど)を前提として、大統領が蒋介石政権に日本と交渉するようサジェストする[66]
  • 満州国に関する友誼的交渉[67]
  • 新通商条約では必要物資の相互供給は保障、ただし自国の安全と自衛のためには制限が認められる[68]

また、中国問題については、日本の要求した蒋介石への援助停止、南京政府と重慶政府の合流などには触れられず、太平洋では日米は平和的手段により必要資源を得られるよう協力するとあり、ハル四原則の太平洋での武力行使禁止を踏まえたもので、日本軍の南方進出を禁止する内容であった[69]

5月12日の松岡修正案、6月21日の米国案によって日米諒解案は松岡とハルの双方から否定された上、両案は性質上全く相容れないものであったため、松岡は「外交をやれといっても、米との工作はこれ以上続かぬと思う」と述べた[70]

なお、野村大使がこの案を受け取った9時間後の6月22日、独ソ開戦のニュースがあった[71]。このため、日本政府と軍部は独ソ戦への対応に追われ、6月21日米国案への対応は遅れることとなる[72]

ハルのオーラルステートメントと松岡外相の更迭[編集]

6月21日米国案には、ハル国務長官のオーラルステートメントが付属されており、日本の指導者のなかにドイツ支持者がいることは不幸で幻滅すると書かれていた[73]。これは明らかに松岡外相への批判であり、激怒した松岡は7月10日の連絡会議においてオーラルステートメントを取り次いだ野村大使も批判している[73]

7月10日の連絡会議は、6月21日米国案の検討にはじめて着手したものであるが、松岡はアメリカの狙いは三国同盟を冷却させること、南京政府を抹殺し日本に重慶政権が正当な中国政府であることを認めさせること、蒋介石への和平勧告及び日中和平交渉はその基本条件を日本政府から米国政府へ提議させることだと分析した[74]。その上で、オーラルステートメントの受理を峻拒すること、交渉を続けるなら5月の松岡修正案を堅持しつつ少許の米国案字句を取り入れるほかないが、これでは日米交渉の妥結の見込みはないこと、また交渉打ち切りの場合は時期及び方法を慎重に考慮する必要があることを述べた[75]

7月12日の連絡会議においても、松岡は「吾輩はステートメントを拒否することと、対米交渉はこれ以上継続できぬことをここに提議する」と述べた[76]杉山元参謀総長は米国に断絶のような口吻をもらすのは適当ではない、交渉の余地を残してはどうかと松岡に意見したが、松岡はアメリカ人の性格から弱く出るとつけあがるから、この際強く出るべきだとはねつけた[77]

しかし、海軍は少なくとも仏印進駐終了までは対米交渉を引き伸ばすこととし、

  • 日本は欧州戦争拡大の場合、三国条約上の義務及び自国の安全防衛のため独自の立場を執ること
  • 日中和平の基本条件は近衛三原則を基準とし、アメリカは休戦及び和平交渉の勧告をするに止め、和平条件への介入は許さないこと
  • 日本の南方武力行使が掣肘されないこと

の三点を明確にするよう求めた[78]。このような非現実的な交渉の余地を求める声に対し、松岡は「何か余地がありますか、(他に)何を(譲歩に)入れますか、南方に兵力を使用せぬというならば(米も)聞くだろうが、他のことで何か(譲歩が)あるか」と反発し、「交渉をつづけるならば(米から)蹴って蹴って蹴りのめされてから、はじめて交渉をやめるようになるだろう」としたが、会議の結論は、オーラルステートメントは拒否するが、交渉は松岡修正案まで逆転させることを目処として続行することに決まった[79][注釈 5]

7月12日の連絡会議終了後から日本の対案が作成されたが、陸海軍からの督促を松岡がサボタージュしたため、対案が完成したのは7月14日となった[81]。しかも松岡は「先ずオーラルステートメント拒否の訓電を発し、しかる後二、三日たってから、日本の対案を発電すべき」と主張し、オーラルステートメント拒否の訓電だけではアメリカ側の悪感情を招き交渉が決裂する恐れがある、少なくとも拒否の訓電と日本の対案は同時に発電すべきとする近衛首相や陸海軍と対立した[82]

7月14日、松岡は自説を固持してオーラルステートメントの撤回要求のみを打電させたが、翌15日の朝には近衛首相の意を受けた寺崎太郎アメリカ局長が松岡に無断で日本案を追いかけて打電するなど事態は紛糾した。このため松岡と近衛は決定的に対立し、16日、近衛は松岡を罷免させるため内閣を総辞職した。[83]

7月17日、日本の要求に対してハルは簡単にオーラルステートメントを撤回した[77]。しかし、この日の第3次近衛内閣発足で松岡は外相に登用されず英米派の豊田貞次郎がなったため、ハルの要求が結果として通った[84]

対日経済制裁[編集]

日本軍のサイゴン入城

7月19日、豊田外相はヴィシー政府南部仏印進駐に関する最後的な通牒を送り、22日に話し合いが成立、25日には日本軍は海南島三亜を出港し、28日から南部仏印への上陸を開始した[85][86]

日本の南部仏印進駐の措置は、アメリカ側はマジック情報などにより事前に把握しており[87]サムナー・ウェルズ国務次官は7月23日、日米間の話し合いの基盤はなくなったと野村大使に告げた[88]

7月24日朝、ルーズベルト大統領は対日石油供給の問題について次のように言及した。

「もしアメリカが石油を絶っていたら、日本はおそらく一年前に蘭領インドに赴き、アメリカは日本と戦争したであろう。アメリカは自己の利益のため、イギリス防衛のため、海洋自由のため、南太平洋から戦争を締め出す希望をもって、日本に石油を供給した。それは過去二年間役に立った」[89]

24日午後の閣議でルーズベルトは在米日本資産の凍結を決定した[89][90]。その後、野村大使を引見したルーズベルトは、日本への石油の禁輸を強く主張する世論を説得してきたがいまやその論拠は失われつつある、日本が石油獲得のためオランダ、イギリスと戦争をすればアメリカは援英政策をとっているため事態は重大となると述べ、もし日本軍が仏印から撤兵すれば、中国、イギリス、オランダ、アメリカの各政府はその中立を保障する、と仏印の中立化を提案した[91][92](ルーズベルトは各国が自由公平に仏印の物資を入手する方法があれば尽力するとも述べている[92])。

7月26日、アメリカは在米日本資産の凍結を実施した(イギリス蘭印もこれにつづき、日蘭民間石油協定は破棄された)[93][90]。しかし、ルーズベルトにとって資産凍結は石油の全面禁輸を意図しておらず、ハル国務長官や米海軍も全面禁輸の措置をとれば日本の蘭印などへの侵攻を招き、アメリカが極東の戦争に巻き込まれるのを恐れていた[94]

7月27日、本国から大統領提案の通報を受けたジョセフ・グルー駐日アメリカ大使は「これは日本が自称する困難と、これまた日本が自称する自国の安全をおびやかすABCD国家の包囲的手段とからぬけ出す、理屈にあった方法を、日本に提供している」[95]と考え、豊田外相と会談、大統領提案の受け入れを要請した[96]。グルーは、日本がこの提案を受諾するか否かが太平洋の平和を決定するとして懸命に説得を行ったが、豊田はあまりに重大な提案なので即答できないないなどと消極的反応を示した[97]。なお、グルーが、日本の現在の政策はドイツの圧力によって行われていると米国民一般に信じられていることを指摘すると、豊田はドイツは日本の政策決定には無関係だと強く否定したという[98]

8月1日、アメリカは対日貿易制限の具体的内容を発表し、「米国の国防の許す範囲内で、日本が35~36年度に購入したと同量までの低質ガソリン、原油および潤滑油については輸出許可証および凍結資金解除証を発行。その他の通商は、原棉と食糧を除いて、全面的に不許可」とした[99]。しかし、その後に対日石油輸出や石油取引支払いのための凍結資金の解除は実際には許可されず、アメリカは石油の全面禁輸に踏み切ることになった[100]

8月6日、仏印中立化の提案に対する日本の回答が野村大使からハルに提示された[101]

  • (日本政府の確約事項)日本は仏印以上に進駐しない、日中戦争解決後仏印から撤兵、フィリピンの中立を保障、東亜における米国の必要資源獲得に協力
  • (米国政府の確約事項)米国は南西太平洋の軍備拡大中止、日本の蘭印資源獲得に協力、日米通商関係の復活、日中交渉の橋渡しと撤兵後の日本の仏印における特殊地位の承認

この提案にハルは悲観的な見通しを示し、日本の行動に深く失望したことを表明した上で、日本が腕力による征服の政策を捨てない限り、話し合いの余地はないと取り合わず[102]、8日の文書による回答においても、日本の提案は「大統領ニ依リ為サレタ提議ニ対スル応答タルニ於テ、不充分ナリト思考スル」とこれを一蹴した[103]

日本側はアメリカの強硬な態度を想定しておらず、佐藤賢了軍務課長は、日本軍はすでに北部仏印に進駐しており、それが南部に進むだけで日米戦争にはならないと判断していたと述べている[104]。また、7月25日の『機密戦争日誌』には「当班、仏印進駐に止まる限り、禁輸なしと確信す」とあり、資産凍結が伝わった26日にも「当班全面禁輸とは見ず、米はせざるべしと判断す」と記されているが、全面禁輸を受け26日の日誌の欄外に「本件第ニ〇班の判断は誤算なり。参謀本部亦然り」と注記した[105]

8月2日にハルはウェルズに対して、日本は公然たる非友好的行為を装飾するために平和と友好という嘘と詐欺的な言葉を使うが、これは前進の準備ができるまでそうするのであると伝え[88]、「日本の侵略は力以外では阻止できない。問題はいかに長く、ヨーロッパの軍事問題が終結するまで、我々が事態を策でもって動かしうるかにある。日本は仏印問題でアメリカの経済制裁が徹底化するのを覚悟している。アメリカの行為には危険がともなっていることを自覚せねばならない。したがって日本の行動を遅らせるのに適切なだけの程度の措置を常に考えねばならない」[106]との見方を示している。

日本からの首脳会談提案[編集]

8月4日、近衛首相は日米首脳会談の決意を東條陸相、及川古志郎海相に告げた[107][108]。及川は全面的賛成を表明し[109]、東條は会談がまとまらなかった場合にも内閣を放り出さないこと、対米戦の決意をもって臨むことを条件に賛同した[110][111]

8月7日、近衛は昭和天皇から首脳会談を速やかに取り運ぶようとの督促をうけ、野村大使に宛て「(日米国交の)危険なる状態を打破する唯一の途は此の際日米責任者直接会見し互いに真意を披露し以て時局救済の可能性を検討するにありと信ず」として、ルーズベルト大統領との首脳会談を提案するよう訓電した[112]。首脳会談の申し入れは野村大使からハル国務長官に行われたが(ルーズベルト大統領はウィンストン・チャーチル英首相との大西洋会談に出かけていたため不在)、ハルの返事は曖昧であった[110]

8月17日、大西洋会談から戻ったルーズベルトは野村に対日警告を読み上げた[注釈 6]

「もし日本政府が武力ないし武力の威嚇によって隣接諸国を軍事的に支配しようとする政策または計画にしたがい、今後なんらかの手段をとるならば、米政府は、アメリカおよび米国民の正当なる権利と利益を保護し、アメリカの安全を保障するために必要と思われる一切の手段を、直ちにとらざるをえないであろう」[114]

その一方で、ルーズベルトは首脳会談の提案には好意的で、ホノルルに行くのは無理だが、アラスカジュノーではどうかと返事をした[110]

8月26日、大本営政府連絡会議の可決を経て、近衛は「先ず両首脳直接会見して必ずしも従来の事務的商議に拘泥することなく大所高所より日米両国間に存在する太平洋全般に亙る重要問題を討議し、時局救済の可能性ありや否やを検討することが喫緊の必要事にして細目の如きは首脳会談後必要に応じ主務当局に交渉せしめて可なり」との「近衛メッセージ」を発出した[115]。28日に野村から「近衛メッセージ」を手交されたルーズベルトはこれを大いに賞賛し、3日位会談しようと述べた[116][117]。しかし、同夜に行われた野村とハルの会談において、ハルは首脳会談で話がまとまらなければ真に憂慮する結果を来すとして、予め大体の話をまとめてから首脳会談で最終的に決定する形式としたいとの意向を示した[118]

9月3日、アメリカ側は覚書を手交し、首脳会談には原則的に賛成だが、協定の根本問題について予備会談を設けること、ハル四原則および6月21日米国案により討議を行うべきことを主張した[119]

9月27日、日本側はドイツとの関係に誤解を生じる犠牲を払っても日米首脳会議を行いたいと打電し、輸送の船舶と随員も決定済みで、時期は10月10日または10月15日が好都合と提案した[120]。しかし、10月2日のハルより手交された回答案はアメリカの原則論を崩さないもので、日米両政府が予め了解に達していない以上、首脳会談は危険であるとこれを実質的に拒否した[121]。ハルは「太平洋の平和維持のためには一時の取繕いの了解では不可で明快な協定を欲する」と述べ、10月2日米国案において、日本が「日支和平条件」で不確定期間にわたる特定地域への駐兵を主張していることに異議を唱え、三国条約については日本の立場をさらに鮮明にするよう求めた[122]。これを受け野村は日本政府はさぞかし失望するであろうと述べて引き取り、「日米交渉は遂にデッド・ロックとなりたる観あるも打開の道は必ずしも絶無でもなかろう」と状況報告せざるを得なかった[123]

日米首脳会談について、豊田外相は「行けば必ずやりとげる積りで(中国からの)撤兵の件も何も出先で決めて御裁可を仰ぐ覚悟であった」と回想しており、海軍省の岡敬純軍務局長は「近衛がルーズベルトに会ってしまえばその場で始末をつけるだろうから、ともかく行けばなんとかなるだろう」との考えであった[124]。豊田や近衛から首脳会談開催への尽力を依頼されたグルー駐日大使は「日米間の無益な戦いへの明らかに増大し行く可能性を回避する機会がここに提出された」として、ハルおよび国務省に具申を重ねたが、グルーの進言はほぼ相手にされなかった[125]

一方、アメリカ側では、国務省政治顧問のスタンレー・ホーンベックが首脳会談に強く反対した[120]。ホーンベックは「たとえ会談が開かれたとしても、近衛公はなにもできないか、まったくぼんやりしたコミットメントしかできないであろう」と見ていた[126]。ホーンベックの対日認識は、日本は4年にわたる支那事変で消耗しており大規模な戦闘に入るだけの能力を保持していない、日本のリーダーたちは仲間争いをしており不安定で、故に「日本に関しては危険はない」というものであった[127]。また、日本に対して経済的、軍事的な圧力を加える力の外交を続ければ「時をかせぐ最良の機会となり、太平洋の領域に交戦状態を拡散させることを防ぐ最良の可能性をもっており、それは結局三国同盟の崩壊を期待できる」「短期的にも長期的にも戦争への可能性は減るであろう」との持論を展開していた[128]

帝国国策遂行要領[編集]

8月16日、海軍側より「戦争を決意することなく戦争準備を進め、この間外交を行い、外交打開の途なきに於いては実力を発動」するという「帝国国策遂行方針」が陸軍側へ提示された[129]。参謀本部の田中新一作戦部長は「戦争を決意することなく…」に反発し、「即時決意」を明記した参謀本部案が作成されることになる[130]。陸軍省では武藤軍務局長が「即時決意」に難色を示し、陸軍省案は海軍案に近いものであったが、折衝の結果、25日の田中と武藤の会談で「対英米戦争を決意しておおむね十月下旬を目途にして戦争準備を完成する」「この間、外交交渉を行い、九月下旬に至っても要求を貫徹できない場合は戦争を決意する」ことで意見が一致した[131]。しかし、この案が陸海軍局部長会議にかけられると、海軍の岡軍務局長が「決意」に強硬に反対したため、主に田中との折衝が続き、結局、「戦争を辞せざる決意の下に」と修正され、戦争決意の時期は10月中旬に引き延ばされた[132]

9月3日、「帝国国策遂行要領」の陸海軍案が大本営政府連絡会議に提出されたが、「外交交渉により十月上旬頃に至るも尚我が要求を貫徹し得ざる場合に於ては、直ちに対米開戦を決意す」に及川海相が異議を唱えたため「…貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米開戦を決意す」に改められた[133]。『機密戦争日誌』には「之により本案骨抜きとみるべし。十月上旬に於て更に大なる議論となるべし」と記されている[133]。また、連絡会議では外務省案「日米交渉ニ関スル件」も採択され[134]、翌4日豊田外相からグルー駐日大使に対米新提案として手交された[135]

帝国国策遂行要領」は9月6日御前会議において決定されたが、昭和天皇は異例の発言を行い明治天皇の四方の海の御製を読み上げ、統帥部に外交が主であることを確認させた[136][137][138]

9月3日の連絡会議で永野修身軍令部総長が日本は物資が減りつつあり、これに反し敵側はだんだん強くなりつつある、いまならば戦勝のチャンスがあるが、時とともになくなる恐れがあると述べたように、政府、軍部には「ジリ貧論」があった[139]。「九月六日御前会議質疑応答資料」によると戦争準備を10月下旬とする理由は、

  • 貯油の問題。その自給力は多くも2年で、時日の経過とともに戦争遂行能力が低下すること
  • 米国の海空軍が時とともに飛躍的に向上すること、特に来年秋以降は米海軍の軍備は日本海軍を凌駕すること
  • 北方作戦は冬期の大きな作戦は至難で、この期間に速やかに南方作戦を終え、明春以降の北方作戦に備える必要があること

の三点で、直ちに戦争準備に着手しても戦略要点に兵力を展開するのは10月下旬頃になるとした[140]

また、戦争の見通しについて「九月六日御前会議質疑応答資料」には次のようにある。

「対英米戦争は長期持久に移行すべく、戦争の終末を予想すること甚だ困難にして、とくに米国の屈服を求むることは先ず不可能と判断せらるるも、我が南方作戦の効果大なるか、英国の屈服等に起因する米国世論の大転換により、戦争終末の到来必ずしも絶無にあらざるべし。」[141][142]


帝国国策遂行要領では「対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項」として、

  • 米英は日本の支那事変処理に容喙又は妨害しないこと
    • 日支基本条約及び日満支三国共同宣言により事変を解決せんとする企図を妨害しないこと
    • ビルマ公路を閉鎖し且蒋政権に対し軍事的並に経済的援助をしないこと
  • 米英は極東において軍事的増強を行わないこと
  • 米英は日本の所要物資獲得に協力すること

これらの要求が応諾された場合は、

  • 日本は仏印を基地として支那を除く其の近接地域に武力進出しない
  • 日本は公正なる極東平和確立後、仏領印度支那より撤兵する
  • 日本はフィリピンの中立を保証する
  • (附)欧州戦争に対する態度は、防護と自衛の観念により、又米国の欧州戦争参戦の場合の三国条約に対する日本の解釈及び行動は専ら自主的に行う。ただし、三国条約に基く日本の義務は変更しない

ことが決定された。[143][144][145]

9月6日(米時間)、野村大使は9月3日連絡会議決定の対米新提案(9月6日付日本案と呼ばれた)をハル国務長官に手交し、米国側が高度の「ステーツマンシップ」を発揮して首脳会談の速やかな実現の為協力することを要望したが、10日のハルの回答は日本の新提案は「今迄の話合いの点を非常に『ナロウダウン』し居る様」と不満を示した[146]

第3次近衛内閣は9月25日、修正了解案をアメリカに提出した。しかし、次の懸案三問題が問題となった。

懸案三問題
中国における通商無差別問題、三国同盟問題、中国からの撤兵問題を指し[147]、日米交渉の三難点と言われた。特に撤兵問題は交渉の最大難関とされた。

東条内閣の外交交渉[編集]

10月14日、帝国国策遂行要領での条件であった10月上旬になっても打開できないため、近衛は総辞職した。木戸幸一内大臣は、9月6日の御前会議決定の白紙還元を条件として東条陸相を後継首相に推挙した[148]。最後の元老である西園寺公望が死去し、以後の後継首相選定は木戸幸一内大臣を中心に、首相経験者らで構成される重臣会議の合議の形がとられた[148]。木戸は、東條が天皇への忠誠心が強いため、東條を指名したといわれ、東條は天皇の意思を受けて非戦方針に変更している[149]。新内閣は9月6日の決定を再検討して、日米交渉を継続させた[148]。10月18日に成立した東条内閣は戦争決意の下に作戦準備と外交を並行させることとした。

東条内閣は対米戦争に踏み切った内閣として悪名高いが、記録を詳細に調べれば、むしろ近衛内閣よりも積極的に対米交渉を行い、東條も非戦論に傾いており、外務大臣には平和主義で知られた東郷茂徳を迎えた[150]。東條の主戦論から非戦論への方向転換については「東條変節」と表する声さえ聞かれたが、これは東條が人一倍昭和天皇への忠誠心が強かったため、天皇の非戦論の意思が伝えられたためであるとされる[150]

東條は10月2日のハルの回答でもまだ交渉の余地はあると判断し、交渉継続の方針を野村大使に打電した[151]

11月5日の御前会議において「武力発動の時期を12月初頭とし作戦準備を行うこと」「甲案、乙案による対米交渉を行うこと」「12月1日午前0時までに交渉が成立しなければ、対米英蘭戦争に踏み切ること」を柱とした帝国国策遂行要領を決定した。

前日の11月4日、甲案と乙案は送電された[152]

11月7日、ハルに甲案が提示された[153]

甲案[編集]

甲案は以下の通りであった。

甲案
  1. 通商無差別問題に関しては、日本は無差別原則が、全世界に適用されるにおいては、太平洋全域、即ち中国においても、本原則の行われることを承認する
  2. 三国同盟問題に関しては、日本は自衛権の解釈をみだりに拡大する意図なきことを明瞭にする。同盟条約の解釈及び履行は日本の自ら決定するところにより行動する
  3. 撤兵問題に関しては、(A)中国においては華北内蒙古の一定地域、並びに海南島には日中和平成立後所要期間駐兵、その他の軍隊は日中間協定により2年以内に撤兵。所要期間について米側から質問があった場合、概ね25年を目処とする旨をもって応酬すること。(B)日本は仏印の領土主権を尊重する。仏印からは、日中和平成立又は太平洋地域の公正な平和確立後撤兵
  4. ハル四原則に関しては、日米間の正式妥結事項に含めることは極力回避する

甲案は9月6日の帝国国策遂行要領懸案三問題に関し、日本の主張を緩和したものであった[154]

東郷茂徳外相から野村大使にあてた公電726号によると「要之甲案ハ懸案三問題中二問題ニ関シテハ全面的ニ米国ノ主張ヲ受諾セルモノニテ、最後ノ一點タル駐兵及撤兵問題ニ付テモ最大限ノ譲歩ヲ為セル次第ナリ」とあり[147]、特に撤兵問題については「撤兵ヲ建前トシ駐兵ヲ例外トスル方米側ノ希望ニ副フヘキモ…国内的ニ不可能ナリ」「国内政治上モ我方トシテハ此上ノ譲歩ハ到底不可能ナリ」とも記されている[147]

これまでの交渉では日本は駐兵期間について明示していなかったが、甲案ではじめて25年となった。これは甲案作成時、東郷外相が「他国の領土に無期限に駐兵するの条理なきこと」を説き、駐兵期間5年を主張したのに対し、陸軍参謀本部が「駐兵を期限付とする時は支那事変の成果を喪失せしむる」として強硬に主張するなど反対論が相次いだためであり、激論の中で99年案や50年案も出たが、結局、25年で話がまとまったという経緯があった[155]

乙案[編集]

乙案の作成において、陸軍参謀本部は南部仏印からの撤兵(日本の南進断念を意味する)に「絶対に不可なり」と強硬に反対するとともに、乙案原案が中国問題に触れていないことを批判した。このため参謀本部の要求により援蒋の停止を求める項目(第4項)が追加された。その後も、なお南部仏印撤兵反対、乙案不可を主張する参謀本部とそのような条件では外交はできぬと主張する東郷外相との間で激論となった。しかし、乙案を拒否すれば東郷が辞職し倒閣に発展する恐れがあること、また援蒋停止の要求があればアメリカは乙案を呑まないだろうということから、参謀本部はやむなく乙案に同意した[156][157]

乙案[158]
  1. 日米は仏印以外の東南アジア及び南太平洋諸地域に武力進出を行わない
  2. 日米は蘭印(オランダ領東インド)において必要資源を得られるよう相互協力する
  3. 日米は通商関係を資産凍結前に復帰する。米は所要の石油の対日供給を約束する
  4. 米は日中両国の和平に関する努力に支障を与えるような行動に出ない

(備考一)本取決が成立すれば日本は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させる用意があること、日中戦争解決または太平洋地域の公正な平和が確立すれば、日本軍は仏印から撤退することを約束してよい (備考二)必要があれば甲案の通商無差別待遇、三国条約に関する規定を追加挿入する

ただし、東郷外相から野村大使へ送られた乙案の電報ではアメリカ側の傍受・解読を避けるため、「南部仏印からの撤兵」の部分は落として打電されていた。交渉の最後の切り札となるこの部分はアメリカに派遣されることになった来栖大使に持たせていた[159](来栖のワシントン着任は11月15日)。

東郷大臣は乙案を「若シ米側ニ於テ甲案ニ著シキ難色ヲ示ストキハ事態切迫シ遷延ヲ許ササル情勢ナルニ鑑ミ何等カノ代案ヲ急速成立セシメ以テ事ノ發スルヲ未然ニ防止スル必要アリトノ見地ヨリ案出セル第二次案」であると説明し[160]、その狙いは日米関係を資産凍結前の状態に復帰させること、南部仏印からの撤兵により日本の誠意を見せることであった[161]

アメリカの「最後通牒」としての受け取り[編集]

マジック情報[編集]

米国側は、事前にまとめていた日本に関する詳細なレポート(日本の内情に関するレポートや日清・日露戦争の経緯と経過、そして交渉が決裂した場合の日本側の行動予測などに関するレポート)と暗号解読機による日本政府(外務省)の暗号電文(パープル暗号)の解読によって、日本政府が戦争に踏み切るだろうと事前に予測していた。解読された情報は米政府では「マジック」と呼んでいた。

11月7日、日米交渉において甲案が提示されたが、当時、アメリカは暗号解読電報マジックによってすでに内容を知っており、乙案が別にあることも知っていたので、甲案に対してハル国務長官はほとんど問題としなかった[153]。乙案が最終提示であり、最終期限が11月25日から29日に延長されたという情報は、マジックによってすでに11月5日に知っていた[162]

戦後の東京裁判では、このマジック資料をもとに、日本の提案がアメリカにとって最後通牒であったと主張された[163]。裁判では、11月4日の東郷説明文で原文では「最後的譲歩案」と書かれていたものが、マジック情報では「最後通牒」と翻訳されたことなどが問題となり、東郷も東條もアメリカ側が譲歩すれば日本も譲歩する用意があったと述べている[164]。しかし、「最後」「最終」という言葉が使用されている以上、譲歩の余地があったと考えるのは相当に無理があると須藤真志は述べている[165]

開戦準備[編集]

その後、ハルは11月10日、全般的な問題について、12日には口頭で中国問題について確認をおこない、15日には通商無差別の原則に関する口頭と日米共同宣言の提案をしたが、これらはアメリカの開戦準備のための時間稼ぎであった[166]

11月14日に野村大使は、アメリカは日本に譲歩するよりも戦争を選ぶ決意であり、交渉期限はつけずに長期的な構えをする方がいいと日本政府に伝えた[166]。しかし、東郷大臣は交渉期限は絶対に変更不可と答えた[166]。東郷大臣も期限付交渉に賛成していなかったが、統帥部の塚田参謀次長は期限厳守を頑強に主張していた[166]

野村私案[編集]

11月18日、甲案交渉が不調のため、野村は根本問題を限られた時間で解決することは困難なこと、情勢は極めて緊迫していることを説き、独断で「日本は仏印南部より撤兵に対し、米国は凍結令を撤去す。…其の上にて更に話を進むることと致した度し」と申し入れた[167]。これは東郷の訓令を待って提示することになっていた乙案を狭めた私案であり、来栖大使は「出先としては思ひ切った提案であるが、自分もかねてから同意見であるし、現地の空気及び野村大使の立場及び心境としては寧ろ当然といひ得ること」[168]としている。ハルはなかなか承服しなかったが、日本が平和政策を明確にすることを条件に検討を約した[169]

11月18日夜、野村と来栖はウォーカー郵政長官を訪問。ウォーカーは大統領及び大多数の閣僚は日米諒解に賛成であること、日本が仏印撤兵など現実の行動で平和的意図を示せば、アメリカの石油供給もあることを述べたという[170]。19日には某閣僚の旨を受けたウォルシュ司教が大使館を訪れ、日本が今日にも仏印撤兵の意図を表明すれば、ハルは即座に石油輸出を約束し、これをきっかけに急速に問題を解決したい意向との情報が伝えられた[171]。またこの日、野村・来栖と会談したハルの対応も好意的だったという[170]

しかし、11月20日発の公電で東郷外相はアメリカがさらに煩雑なる条件を持ち出してくる余地があること、我が国の国内情勢では乙案程度の解決案を必要とすることを述べ、「貴大使ガ当方ト事前ノ打合セナク貴電報腹案ヲ提示セラレタルハ国内ノ機微ナル事情ニ顧ミ遺憾トスル所ニシテ却テ交渉ノ遷延乃至不成立ニ導クモノト云フ外ハナシ」として野村の私案提示を叱責するとともに、日本の最終案である乙案の提示を指示した[172]

現在の研究でも、須藤真志は野村の提示は明らかに越権行為であったとし[173]、また森山優は「日本の譲歩を最大限のものに見せようとした東郷の努力を結果的に水泡に帰すものであった」としている[174]

乙案の提示[編集]

11月20日、野村と来栖は乙案をハルに提示した。東郷は11月4日の乙案打電から11月20日の乙案交渉開始まで、幾度となく乙案の修正を訓令している。その間、備考一の仏印からの撤兵の項目は第5項に、備考ニの通商無差別待遇と三国条約はそれぞれ第6項と第7項となったが、最終的には乙案は第5項に南部仏印からの撤兵の項目を挿入し、第6項と第7項は取り上げない(これらと中国からの撤兵問題を合わせると懸案三問題は棚上げになる)こととなった。さらに実際にアメリカ側に提示された乙案では、野村・来栖の独断により第5項は第2項へと移動された。[175]

乙案
  1. 日米は仏印以外の東南アジア及び南太平洋諸地域に武力進出を行わない
  2. 日本は日中和平成立又は太平洋地域の公正な平和確立後、仏印から撤兵。本協定成立後、日本は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させる用意があることを宣す
  3. 日米は蘭印(オランダ領東インド)において必要資源を得られるよう相互協力する
  4. 日米は通商関係を資産凍結前に復帰する。米は所要の石油の対日供給を約束する
  5. 米は日中両国の和平に関する努力に支障を与えるような行動を慎む

乙案についてハルは第5項(援蒋の停止を意味する)に強い難色を示した。ハルは、アメリカはドイツのとどまるところを知らない武力拡張政策に対抗してイギリスを援助しており、援英政策が打ち切り困難なのと同じように「日本の政策が確然と平和政策に向かい居ることが、明確に了解せらるるに至らざる限り、援蒋政策を変更すること困難」であるとした[176]。そして、ハルは沈痛な面持ちで乙案を「同情的に検討する」と述べたという[177]。ハルは乙案の内容よりもそれがアメリカにとって「最後通牒」であったことであった点に苦慮しており、日本との間になんらかの暫定協定案を結ばない限り開戦になるかもしれないという最終的な選択を迫られていた[178]

11月24日、ワシントンでの交渉と並行して東京で行われていた東郷外相とジョセフ・グルー駐日アメリカ大使との会談において、東郷は南部仏印からの撤兵が日本にとって最大の譲歩であると説明し、援蒋停止の問題については、アメリカの橋渡しで日中和平交渉が開始されれば援蒋政策は不要になるではないか、という論法で理解を求めた[179]

アメリカからの協定案[編集]

アメリカ側でも日本の甲案に相当する基礎協定案、乙案に相当する暫定協定案が検討された。基礎協定案はヘンリー・モーゲンソー財務長官による私案が叩き台になっており[180]、暫定協定案はフィリピン防衛の遅れをカバーするため、時間稼ぎを求める軍部の要請に応えるものであった[181]。基礎協定案は、暫定協定案につけ加える恒久的な協定という位置付けになっている[182]。国務省で基礎協定案と暫定協定案が作成されたのは11月22日であるが、最終的には暫定協定案が廃棄され、基礎協定案のみがハル・ノートとして日本に提示されることになる[183][184]

基礎協定案[編集]

モーゲンソー私案[編集]

11月11日に国務省極東部は対日協定案を作成し、ハル長官に提出したが、具体性に欠けたものであった[185]。一方、11月17日にヘンリー・モーゲンソー財務長官が国務省の頭越しに、対日協定案を私案として直接大統領に提出した[185](この私案は、ソ連のスパイである[186]財務省特別補佐官ハリー・ホワイトが作成したものであった[185])。ハルはモーゲンソーを不快に思ったが、私案には良い点もあったので国務省案に取り入れられた[182]

モーゲンソー案の題は「日本との緊張を除去しドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」で全体で三部、内容は以下の通りであった[187]

アメリカ政府が提案するもの
  1. 太平洋から米海軍の大部分の撤収
  2. 日本と20年間の不可侵条約
  3. 満州問題の最終解決
  4. イギリス、フランス、日本、中国、アメリカの合同委員会でインドシナ権益の確保
  5. 中国におけるすべての治外法権の放棄
  6. 日本人移民法の廃止
  7. 対日貿易での輸入上の譲歩
  8. 20年間にわたり年利2%にて総額20億ドルの借款提供。
  9. ドルと円の為替レートの安定のために5億ドルを日米で拠出
  10. 在米日本資産凍結の解除
  11. 日本と隣国の潜在的な摩擦の原因を除去すべくアメリカは影響力を十分に発揮すること
日本政府が提案するもの
  1. すべての陸海空軍、警察力を中国(1931年の境界で)、インドシナ、タイからの撤収
  2. 国民政府以外の政府への援助停止
  3. 中国で流通している軍票、円、かいらいの紙幣を、中国日本英米の財務省で合意したレートで円貨幣に交換する。
  4. 中国におけるすべての治外法権の放棄
  5. 中国再建のために年利2%にて10億円の借款提供。
  6. ソ連が相応の残留部隊を除き、軍を撤収させるという条件で、警察力として必要な2、3個師団を除き満州から日本軍を撤収させる
  7. 現在の戦争資材の生産量の4分の3を限度として米国に売却すること。価格は原価+20%。
  8. すべてのドイツ人技術者、軍職員を退去させる
  9. 日本帝国全域において米国と中国に最恵国待遇を与えること
  10. 米国、中国、英国、オランダ領インドシナ、フィリピンと10年間の不可侵条約

第四部ではこの協定の利点として、アメリカにとっては太平洋艦隊を他の地域へ向けることでドイツに対して連合国の地位を飛躍的に強化でき、また対日戦を回避できることが挙げられた[188]。また日本にとっての利点は、深刻な戦争および終局の敗北に直面せずに平和を確保でき、満州建設にその勢力や資本を充当できるとされた[189]

このうち「中国(1931年の境界で)」は、満州を含むのかという問題については第六項の満州からの撤退と矛盾するため、満州は中国とは別の地域を意味していたとされる[189]

しかし、国務省極東部で検討・修正が重ねられた結果、原案にあった日本軍の満州駐兵を認める項目[注釈 7]、太平洋の米海軍力の削減、「1924年排日移民法」の廃止を議会に請願する、日本への20億ドルの借款などの融和的な項目は削除され、中国、仏領インドシナからの全面撤退などの非妥協的な面八項目のみがすべて受け継がれ、原型を留めないかたちとなって、最終案ハル・ノートは作成された[191][192]

なお、ルーズベルトはホワイト作成のハル・ノートを日本に渡せと言った際、「我々は日本をして最初の一発を撃たせるのだ」と言った[193]とするような見方もあるが、ホワイトが作成したのは原案であって、ハル・ノートを作成したのはあくまで国務省極東部である[194]

ソ連の「スノウ(雪)」作戦[編集]

独ソ戦を戦っていたソ連のスターリンにとっての悪夢は、ドイツと三国同盟を結んでいる日本が背後からソ連を攻撃することであった。当時、二正面作戦をとる国力に欠いたソ連は、日本からの攻撃があるとドイツとの戦線も持ちこたえられずに国家存続の危機に陥ると考え、日本の目をソ連からそらせるためのあらゆる手を打った。米国に親ソ・共産主義者を中心に諜報組織網を築き、その一端はホワイトハウスの中枢にも及び、ハル・ノートの原案のモーゲンソー私案を作成したハリー・ホワイト財務次官補もソ連内務人民委員部と接触している。なお、日本国内でもゾルゲ尾崎秀実らの諜報組織網を築き、関東軍特種演習などの情報を収集した。[要出典]

モーゲンソー私案を作成したハリー・ホワイトは、ソ連のスパイであるエリザベス・ベントレイの告発でスパイ容疑をかけられたが、非米活動委員会で疑惑を否定し、翌月に死去した[195](死因は服毒自殺によるとも言われる)。死後、ソ連のスパイであったウイタカー・チェンバーズも、ソ連のスパイであったことを証言し、さらに、1999年にソ連の暗号文書を解読した「ベノナ文書」にて、ソ連の内務人民委員部NKVD(のちのKGB)工作員ビタリー・グリゴリエッチ・パブロフがホワイトと接触し、アメリカの交渉戦略に関する情報等を提供していたことが明らかとなった[196]。ソ連側ではホワイトの名前から「スノウ(雪)作戦」と呼ばれていた[197]。パブロフがホワイトと会ったのは1941年5月で、それ以前はアフメロフがホワイトと接触していた[198]

モーゲンソー・ホワイト私案にはソ連の計画も反映されており[189]、関東軍の脅威のなかでソ連極東地域を日本の攻撃と侵攻から防衛することがソ連の目的であったとパブロフは述べている[199]。ただし、ソ連は日米戦争を望んでいたわけではなく、独ソ戦に際して満州の関東軍撤退を望んでおり、モーゲンソー私案にもそれが明確に現れている[200]

暫定協定案[編集]

11月22日暫定協定案[編集]

11月22日にハルは、イギリス大使ハリファックス、オーストラリア大使カセイ、オランダ公使ロウドン、中華民国大使胡適を招き、暫定協定案を説明した[201]。内容は以下のようなものとなった[202]

  1. 日米は太平洋に領土的野心を持たない
  2. 日本は南部仏印から撤兵し、北部仏印の兵力を1941年7月26日時点の兵力に制限し、その兵力は25,000人以下とする
  3. 米国は在米日本資産の凍結を撤廃する。日本は在日米国資産の凍結を撤廃する
  4. オランダ、イギリス政府に対しても同様の処置をとるよう説得する
  5. 米国は日中和平解決を目的とした当事者間の交渉を非友好的な態度をもってみない
  6. この協定は臨時的なもので、3ヶ月間を越えて有効としない

この暫定協定案では、ハル4原則のほかに、日本軍の北部在留兵力の限度は2万5千を限度とする項目があり、事実上、日本軍の仏印駐留を承認したものであった[201]。また暫定協定案は3ヶ月間の引き延ばしを意味しており、当時軍部が要望していた対日戦準備までの交渉による引き延ばしにかなった案であった。

この暫定協定案の報告を受けて中国大使胡適は平静さを失っていたが、中国問題が話題になると常に彼が示す態度だった[201]。胡適はこれは三ヶ月間、日本軍が中国侵略しないよう縛るものかと質問すると、ハルはそうではないと回答している[203]

暫定協定案について中国は強硬に反対したが、オランダは支持、イギリスは当初は消極的だったものの最終的には支持に回っている[204][174][205]

中国の反対[編集]

蒋介石はアメリカが暫定協定案を結ぼうとしていることに猛烈に反対し、在米の宋子文や胡適大使、重慶にいた顧問のオーウェン・ラティモアに依頼した[206]。またアメリカの閣僚数名、職員多数におびただしい数の電報メッセージを送り付けてきたとハルは英国大使に向かって述べ、蒋介石は問題の真相に接していないにも関わらず介入してきたと非難しながら述べた[206]

ラティモアからは、日本への経済制裁解除は、中国にとって日本の軍事的優位を危険なほど増大させ、いかなる暫定協定案も、中国の対米信頼に対して悪影響を及ぼすもので、援蒋ルート(ビルマ公路)の閉鎖に類似するもので、ビルマ公路の閉鎖は英国の威信を永久に破壊するものとなり、このときに見捨てられたとする感情は将来の援助増額によっても償いえるかどうか疑問であるという報告がなされた[206]

蒋介石から宋子文に対して、11月25日にヘンリー・スティムソン陸軍長官とフランク・ノックス海軍長官に伝えるべき内容として、対日制裁の緩和があれば、中国人民はみな犠牲にされたと思うだろうし、こうして世界におけるもっとも悲劇的な時代が開始し、中国陸軍は崩壊し、日本の計画は遂行され、ひとり中国にとっての損失に留まらない、と電報を寄せた[207]

蒋介石の日記には「不安と怒りが心のなかを激しく交錯した」「我々の国は、この絶体絶命の危機から生還できるだろうか」と記されている[208]なお、蒋介石夫人の宋美齢も自身の英語力を生かしてロビイストとしてルーズベルトにさまざまな手段で働きかけていた。[要出典]

暫定協定案が日本に提示されなかったのはこうした中国の猛烈な反発があったためとされる[209]が、ハルは中国の抗議をさほど重視していなかった[210]。またルーズベルト大統領も中国の反対に対して「私が彼らを黙らせてやる」ともハルに向かって発言していた[210]

11月24日暫定協定案[編集]

11月24日に国務省はさらに修正した暫定協定案と基礎案を作成した[211]。とくに通商問題に関して細かく言及され、また3ヶ月間の有効期限は削除され、解決の目途がたてば期間延長を協議できるという項目が追加された[212]

再び四国大使が招かれたが、中国大使はインドシナへの日本軍駐留に反対したため、ハルは「マーシャル将軍は2万5千の兵力は脅威ではない」という見解を紹介し、この臨時的合意が必要なのは、米軍にとって戦争準備が必要であるためと説得した[213]。しかし、中国大使は5千に引き下げるべきだと強く主張した[214]

11月25日暫定協定最終案[編集]

11月25日までこの暫定協定案が検討されていたが、政府内で議論されている間に条件が加重され[215]、11月22日案と11月24日案をまとめて整理して暫定協定案の最終案ができあがった[216]

最終決定された内容では日本が切望していた石油の供給については「民需用の石油」のみに限定された[217][218][219][220][注釈 8]

11月25日朝、ハルはスティムソン陸軍長官とノックス海軍長官に暫定協定案の最終案を示した。スティムソンの日記には「彼(ハル)は今日か明日のうちに日本側に提案するつもりであった」「それは米国の利益を十分に保護したものであることを一読してすぐに知ったが、しかし、提案の内容はひじょうに激烈なものであるから、私には、日本がそれを受諾する機会はほとんどないと思われた」[222]と記されている。

スティムソン報告[編集]

11月25日午後、スティムソン陸軍長官に米陸軍情報部(G-2)から日本軍の船団が台湾南方にあるという情報が届いた[223]。報告書によると「十隻ないし三十隻からなる船団」、兵力は「五万を意味する可能性もあるが、より少数の可能性が大きい」として、日本政府とヴィシー政府との協定に基づく「通常の行動」としており、この情報は日本軍の特別な移動を伝えるものではない。しかし、スティムソンの日記では「三十隻か四十隻、または五十隻」の船団に「五個師団」の兵力と数が大きく膨らんでおり、スティムソンが事実と異なる報告を大統領にしていた可能性がある[224]

スティムソン陸軍長官の日記によると、11月25日の会議の内容を「大統領は、“日本人は元来警告せずに奇襲をやることで悪名高いから、米国はおそらくつぎの月曜日(12月1日)ごろに攻撃される可能性がある”、と指摘して、いかにこれに対処すべきかを問題にした。当面の問題は、われわれがあまり大きな危険にさらされることなしに、いかにして日本側に最初の攻撃の火蓋を切らせるような立場に彼らを追いこむか、ということであった。これはむずかしい命題であった」と書いている[225][注釈 9]

アメリカは傍受電報から日本が交渉期限を11月25日まで(後に29日まで延長)としたことを掴んでおり、ハル曰く「日本はすでに戦争の車輪をまわしはじめている」という状況だった[226]

11月25日午後、ハルは国務省会議に参加していたが、列席していたH・ファイスによれば会議の最中にハルが何度も外部からの電話で呼び出され、電話の相手は誰かわからないが、電話の後にハルは暫定協定案に消極的な態度をとるようになった[227]。しかし、この会議では放棄するとは言明しなかった[227]

暫定協定案の放棄[編集]

11月26日早朝、ハルはルーズベルト大統領に対して、中国の反対、およびイギリス、オランダ、オーストラリア政府の冷淡な支持または事実上の反対、およびこれ以上の反対のなお広がる可能性を受けて暫定協定案の撤回を具申した[228]。しかし、中国の反対は事実であったが、それ以外の国の対応については事実ではなく、また「これ以上の反対のなお広がる可能性」も内容が不明である[228]。ハルの回想によると中国の反対及び、日本と暫定協定を進めることが中国の戦意を崩壊させる危険性を考慮して暫定協定案を放棄したような記述となっている[229]

11月26日午前、ルーズベルトはスティムソンからの日本軍の船団が台湾の南方にあるという電話に際し、「興奮し、烈火のごとく怒った」とスチムソンは日記にかいている[230]。ルーズベルトは「日本は全般的休戦の交渉を行いつつも他方では、インドシナに向かって軍の南下を行っていることは、日本が全然信用できない何よりの証拠であるから、いまや情勢はすっかり変ってしまった」と言ったという[231][230]。ルーズベルトはもともと時間稼ぎのために暫定協定案に賛同しており、自らも6ヶ月休戦案を書いたほどであった[227]

この電話報告でもスティムソンは日本軍の動向をオーバーな言い方をしていたのでないかと見られており、またマジック情報はすでに大統領に報告されており、日本とヴィシー政府の協定に基づく移動に「烈火のごとく怒った」のかは不明とする見方もある[232]

オランダ公使にハルが説明したところによれば、ハルが暫定協定案の放棄を決定したのは11月26日早朝だったという[233]

26日午後、暫定的協定案を削除した第二部に相当する[227]基礎的一般協定案とオーラルのみが野村来栖大使に提示された[216]

11月26日日米会談におけるハル・ノート提示[編集]

1941年11月26日(アメリカ現地時間16時45分から18時45分、日本時間11月27日6時45分から8時45分[1])に行われた野村・来栖・ハル会談で、ハルは「乙案」の拒否を伝え、ハル・ノートを手交した。

なお、ハル・ノートの提示は陸海軍の長官にも知らされておらず、アメリカ議会に対しても十分説明されていなかった。

ハル・ノートの内容[編集]

日本に提示されたハル・ノート最終案「日米協定として提案する基本方針の概略 」の内容は以下の通りである。

冒頭前段には「極秘文書。試案にして法的拘束力無し (Strictly Confidential, Tentative and Without Commitment)」と記載された。外務省では「極秘 一時的且拘束力ナシ」と翻訳された[234]

第一項「共同宣言の方針案」には、ハル四原則が書かれている。第二項は10項目から成る。

前段

極秘。試案にして法的拘束力無し

第一項「共同宣言の方針案」
  1. 一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
  2. 他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
  3. 通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
  4. 紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則
第二項
  1. イギリス中国・日本・オランダソ連タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
  2. 仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
  3. 日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵[注釈 10]
  4. 日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
  5. 英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
  6. 最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
  7. アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
  8. 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
  9. 日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない。(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)
  10. 本協定内容の両国による推進

日本大使の反論[編集]

ハル・ノートを受け取った野村・来栖両大使は一読の上、反駁を加えた。しかし、ハル国務長官は難色を示す両大使に「何等力強い反駁を加えることなく」「何れも立ち入つては何等説明も主張も」せず、「全体の態度が殆ど問答無用という風」であり、「取り付く島のない有様であった」という[235]

多辺的不可侵条約の締結(第二項1)については「(日本に)ワシントン会議以来の苦い経験があるにも拘らず、又々九カ国条約と同じような機構を復活せよというのは、過去四年間の日華事変を全然無視せよということになる」と反対した[236]

第二項3の全面撤兵及び第二項4の南京国民政府(汪兆銘政権)否認については「全く出来ない相談にして、四の重慶政府承認の如き、米国が恰も支那即ち蒋政権を見殺しにするを得ずと称せらるるが如く、我国としては断じて南京政府を見殺しにするを得ずときっぱり言い切る」というと、ハル国務長官は「南京政府は…到底支那を統治するの能力なし」と述べ、また日本側が「三国条約の問題に至りては米国は日本をして出来得るだけの譲歩を為さしめんことを希望せられつつある一方、支那問題に対しては殆ど当方をして重慶に謝罪せよと称せらるるに等」しいもので、先日ルーズベルト大統領が日中和平の橋渡しをしたいと述べたのはまさかこのような趣旨だとは思わなかったと抗議すると、ハルは黙して答えなかった[237]

会談の最後に来栖はこのノートをこのまま政府に伝達するのは深い疑念があるとまでいい、野村は米国としてはこの案の外考慮の余地なしかとして、ハルに大統領との会談を要請した[238][239]

翌日の日米会談[編集]

11月27日、両大使と会見したルーズベルト大統領は、態度は明朗だが案を再考する余地はまったくないように思われたという。ルーズベルトは「自分は今尚大いに平和を望み、希望を有している」と述べたが、野村の「今回の貴国側提案は日本を失望させるべし」との言に対しては、「自分も事態がここまでに至ったのはまことに失望している」と応じた。さらに「日本の南部仏印進駐により第一回の冷水を浴びせられ、今度はまた第二回の冷水(日本のタイ進駐の噂)の懸念もある」「ハルと貴大使等の会談中、日本の指導者より何ら平和的な言葉を聞かなかったのは交渉を非常に困難にした」「暫定協定も日米両国の根本的主義方針が一致しない限り、一時的解決も結局無効に帰する」と述べた。同席していたハルも暫定協定が不成功になった理由について「日本が仏印に増兵し、三国同盟を振りかざしつつ、米国に対して石油の供給を求められるが、それは米国世論の承服せざる所である」と付言し、日本の指導者が力による新秩序建設を主張したことを遺憾とした[240]。またルーズベルトは、日本の利益はヒトラーの攻撃の進路に追随することからは出てこない、我々が今般の会談で概要を伝えた進路にあるとして、もし日本が前者をとるならば、「一片の疑いもなく、日本は終局において敗者となることを私は確信している」とも述べている[241]

ハルによる外交交渉終了宣言[編集]

11月26日の会談後、ハルはスティムソン陸軍長官に対して「自分は日本との暫定協定を取りやめた。私はこのことから手を洗った。今や問題は貴方及びノックス海軍長官即ち陸海軍の掌中にある」と伝えたとされる。同日、ルーズベルトはスティムソンに対して「日本は打ち切ったが、しかし、日本はハルの準備した立派な声明(ハル・ノート)によって打ち切ったのだ」と言ったという[242]

11月27日、ハルは軍事評議会においてハル・ノートを説明した際、「日本との間に協定に達する可能性は事実上なくなった」と述べ、太平洋艦隊及びアジア艦隊各司令官に対し「ここ数日内に日本が侵略的行動を採るものと予想される」として「戦争警告」が発せられている[243]

ハル・ノートの提示翌日11月27日にハリファックス駐米イギリス大使が抗議している[244]が、日本軍の南下で納得したという[210]

11月28日、ハルはイギリス大使に「日米関係の外交部面は事実上終了し、今や問題は陸海軍官憲の手に移ったこと、アメリカその他の太平洋関係諸国は、日本が突然不意に行動をとり、あらゆる態様の奇襲を行う可能性を算入せずして、抵抗計画を立てる事は重大な誤りであること」を述べ、オーストラリア公使の日米間の調停の申し出も、外交上の段階はすでに過ぎたと拒否している[245]

また駐日イギリス大使クレーギーは本国に「もし、暫定協定案について何らかの妥協が成立し、三ヵ月間の猶予期間が得られたとするならば、季節風の条件で日本軍のマレー上陸作戦は困難になっただろう。また独ソ戦の様相も変化する。対独潜水艦戦の成功といった新しい要素も加わり、日本政府が対米戦の決断に達することは極めて困難になるだろう」と報告したが、チャーチル首相を激怒させ、「日本がアメリカを攻撃し、そのためアメリカが国を挙げて勇躍参戦してきたことはまさに天の恵みであった。大英帝国にとって、これ以上の幸運はそうざらにはない。日本の対米攻撃は、いずれが我が国の友であり敵であるかを、白日のもとにさらした」として報告書は厳秘扱いとなった[246]。イギリスは対独戦に苦戦していた。親日派で知られたチャーチル首相は対日融和工作を進めていた[247]が、日本がドイツと同盟を締結して以降は戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。

日本側の反応[編集]

天佑としての受け取り[編集]

野村大使の報告と前後して打電された在米武官からの要旨報告電報では次のように記されている(原文カナ)[248]

果然、米武官より来電、米文書を以て回答す、全く絶望なりと。曰く 1四原則の無条件承認 2支那及仏印よりの全面撤兵 3国民政府(汪兆銘政権)の否認 4三国同盟の空文化」「米の回答全く高圧的なり。而も意図極めて明確、九カ国条約の再確認是なり。対極東政策に何等変更を加ふるの誠意全くなし。交渉は勿論決裂なり。之にて帝国の開戦決意は踏み切り容易となれり、芽出度芽出度。之れ天佑とも云ふべし。之に依り国民の腹も堅まるべし、国論もー致し易かるべし

作戦幕僚らに代表される開戦派にとっては、開戦決意を最終的に固める上でも、また国論の一致に貢献する意味でも、ハル・ノートは「天佑」であった[249]。実際、和平派であった東郷外相や賀屋蔵相も開戦に反対せず、海軍も戦争の決意を固めさせ、全員一致で開戦の決意がなされた[3]

最後通牒としての受け取り[編集]

日本政府はハル・ノートを事実上の最後通牒、または宣戦布告であると受け取った[250]

東郷外相

東郷外相は日本側が最終案として提示した乙案が拒否され、ハル・ノートの内容にも失望し外交による解決を断念した。東郷は「自分は目もくらむばかりの失望に撃たれた」「長年に渉る日本の犠牲を無視し極東における大国たる地位を捨てよと言うのである、然しこれは日本の自殺に等しい」「この公文は日本に対して全面的屈服か戦争かを強要する以上の意義、即ち日本に対する挑戦状を突きつけたと見て差し支えないようである。少なくともタイムリミットのない最後通牒と云うべきは当然である」[251]と述べている。当時、外務省は中国やアメリカの暗号を解読しており、東郷がアメリカ側で暫定協定案が検討されている事を知っていた可能性が指摘されている。東郷の失望はそうしたものも合わせたものとも考えられる[252]

当時、東郷から相談を受けた外務省顧問佐藤尚武は「たとえハル・ノートのようなものが来たからといって、絶望せずに何とか危機を脱する方法を見つけねばならぬと考え、前後三回にわたり、茂徳と、息詰まるような議論を交わした」[253]という。開戦論に転じた東郷の「日米交渉は成立せず、戦争は不可避にして又避くるを要せず、長期戦の必敗は予想するに及ばず、との態度」に対し、佐藤は「戦争は国運顛覆の虞れあるものなれば飽く迄之を避けざるべからず、又避け得」と主張して衝突し、物別れに終わった[254]

グルー大使

グルー大使は、ハル・ノートは日米間で認められた協議の基礎を明示したもので決して最後通牒ではないことを東郷外相に説明したいと、吉田茂を介して会談を申し入れたが、東郷は応じなかった[255]。後にグルーは東郷に会ったが、「自分は甚だしく失望している」と告げられたという[256]

吉田茂

また、吉田茂はハル・ノートに「試案」や「日米交渉の基礎案」との記述があることに着目し、「実際の腹の中はともかく外交文書の上では決して最後通牒ではなかったはずだ」として、東郷に対してその趣旨を強調し、「私は少々乱暴だと思ったが、東郷君に向かって『君はこのことが聞き入れられなかったら、外務大臣を辞めるべきだ。君が辞職すれば閣議が停頓するばかりか、無分別な軍部も多少反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか』とまでいった」という[257]。しかし、東郷は辞職することはなかった。

なお、東郷が昭和天皇に上奏した内容は明らかではないが、『木戸幸一日記』には11月28日の欄に「東郷外相参内米国の対案を説明言上す。形勢逆転なり」[258]と記されている。

12月1日の開戦決議[編集]

12月1日の御前会議において、東條首相は日米交渉に努力してきたが「米国は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、更に米英蘭支聯合の下に、支那より無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の死文化を要求する等、新なる条件を追加し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。若し帝国にして之に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果と相成る」とした。そして、米英蘭支は経済的、軍事的圧迫を強化しており、特に作戦上、これ以上時日の遷延は許されないとして「帝国は現下の危局を打開し、自存在自衛を全うする為、米英蘭に対し開戦の已むなきに立ち至りましたる次第」と説明した[259]

東郷外相もハル・ノートに対して「通商問題(第二項6、7、8)及支那治外法権撤廃(第二項5)」は容認できるとしたものの、「支那仏印関係事項(第二項2、3)、国民政府否認(第二項4)、三国条約否認(第二項9)、及多辺的不可侵条約(第二項1)等は、何れも帝国として到底同意し得ざるものに属し、本提案は米側従来の諸提案に比し著しき退歩にして、且半歳を超ゆる交渉経緯を全然無視せる不当なるものと認めざるを得ぬ」「提案を基礎として此上交渉を持続するも、我が主張を充分に貫徹することは殆ど不可能というの外なし」と説明した[260]

会議の結果、対米英蘭開戦が決議される。ハル・ノートが提示される以前にハワイオアフ島真珠湾に向けて出航していた機動部隊へ12月2日午後5時30分、連合艦隊司令部から真珠湾攻撃の命令が発せられた。

杉山元参謀本部総長は、開戦の聖断を下した昭和天皇を次のように記している。

「本日ノ会議二於イテ、オ上ハ説明ニ対シ一々頷カレ、何等御不安ノ御様子ヲ拝セズ、御気色麗シキヤニ拝セラレ、恐懼感激ノ至リナリ。」[261]

ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電[編集]

ハル・ノートで交渉が絶望的になってもなお開戦阻止の動きがあった。来栖大使は寺崎英成一等書記官を呼び、「こうなったら戦争を防ぎ得るのは天皇陛下以外にはない」「大統領から天皇に御親電を打って戴くようとりはからって貰ひたい」「それが唯一の戦争を防止し得る路だ」と工作を依頼した[262](ただし、親電を打つ案はアメリカ側にもあった。また、11月26日には野村・来栖両大使連名で乙案全ての通過は困難であることを報告するとともに、事態打開策としてルーズベルト大統領と昭和天皇の間で親電を交換して「空気を一新」する案を東郷外相に進言している[263])。

12月6日、ルーズベルト大統領から昭和天皇に親電が発せられた[264]。親電の趣旨は、もし日本軍が仏印から撤兵してもアメリカは同地に侵入する意図はない、周辺政府にも同様の保障を求める用意がある、南太平洋地域における平和のため仏印から撤兵してほしいというものであった。ハル国務長官の原案では「日中の90日停戦、太平洋関係諸国の軍隊の移動禁止、在仏印日本軍の縮小、日中両国の和平交渉の開始」など既に放棄された暫定協定案の再現のような内容であったが[204]、ルーズベルトはこれを採用しなかった。親電を送ることについてのルーズベルトの真意は明らかではないが、ハルは「それを送ることは記録を作る目的以外にはその効果は疑わしい」[265]と否定的だった。

親電は中央電信局で10時間以上留め置かれ、最終的に昭和天皇のもとに届いたのは12月8日の午前3時(ハワイ時間では午前7時半で真珠湾攻撃予定時刻の30分前)であった。昭和天皇は戦後、「この親電は非常に事務的なもので、首相か外相に宛てた様な内容であつ[た]から、黙殺出来たのは、不幸中の幸であつたと思ふ」と回想している[266]。親電について東郷は「此危局を救い得るものとは認め難い」とし、東条も「そういうものは何にも役立たぬではないか」と言ったとされる[267]

なお、2013年3月に公開された外交文書によれば、連合国軍総司令部(GHQ)は戦後、外務省に対して、伝達が遅れずに「電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることができたに違いない」との見解を示していたことが明らかになっている[268]

開戦後[編集]

日本時間1941年12月8日未明、真珠湾攻撃が開始された。

ルーズベルトは暫定協定案でも日本がハル・ノートを受諾する可能性はあまりないとイギリスのウィンストン・チャーチル首相に伝えていたが、しかし攻撃を受けた翌日、開戦を決議するための議会演説(屈辱演説英語版)ではハル・ノート等により交渉を進めていたと演説をしている。

チャーチルは日米開戦の知らせを受け勝利を確信し喜んだ[269]。日米開戦が即アメリカのヨーロッパ戦線への参戦となるわけではなく、独ソ戦に日本が参戦しなかったように日独伊三国軍事同盟の規定では、加盟国側から仕掛けた戦争に関しては他の加盟国の援助義務は発生しなかった。そのため、アメリカは他の枢軸国からの宣戦布告を待つ方針であった[270]。真珠湾攻撃を知ったナチス・ドイツがアメリカに対して宣戦布告を行ったため、アメリカはヨーロッパ・アフリカ戦線に参加することとなった。

解釈と評価[編集]

日本の乙案について[編集]

ハーバート・ファイスは、日本の乙案に対するハルの評価(「日本の提案を受諾することによって米国が負う義務は全く降伏に等しいものであった」)については、「ハルのこの判断の若干の点については多少の疑問がないことはなかった。ハルが提案乙の若干の項目について読み取った意味は、必ずしも正しい解釈であったかどうかは確かでない。また日本が後退を開始すると申し出たことについてのハルの全体的推定が正しかったかどうかも確かではない」と疑問を呈している。しかし、米国が乙案に同意したとしても「日・米両国が行なっている軍事行動について必ず紛議がおこったであろう」「石油についての紛議が重大化して協定を危うくするであろう」として、「太平洋における戦争は避けられなかっただろう」としている[271]

ハル・ノートに満州国は含まれたのかについて[編集]

ハル・ノートにおける支那(中国)には満州国が含まれるかどうかがしばしば問題になる(ハルノートで言うところの「中国」には満州は含まれていないとする説がアメリカ側の研究者から出ている[272]))。ハル・ノート原案のモーゲンソー案でも満州は中国とは別の地域を意味しており[189]、11月22日案・11月24日案においても「中国(満州を除く)」と明記してあった。しかし、11月25日案(ハル・ノート)では「(満州を除く)」という挿入句が外されていた[273]。24日から25日のわずか数時間に間にこの重要な修正がなぜなされたのかは現在も不明である[274]

12月1日の御前会議での東條首相及び東郷外相の説明では、ハル・ノートの解釈について「汪兆銘政権の否認」を挙げていても満州国の否認は挙げていないこと、そして東郷が米国案を受諾すれば「其の結果満州国の地位も必然動揺を来すに至るべく」とも述べていることから、当時はハル・ノートにおける支那の中に満州国は含まれていないと解釈していたことが認められる)[275]。御前会議において原嘉道枢密院議長がこの点について質問しているので、以下に原と東郷のやりとりを引用する(原文カナ)[276][277]

原 特に米が重慶政権を盛り立てて全支那から撤兵せよといふ点に於て、米が支那といふ字句の中に満州国を含む意味なりや否や、此事を両大使は確かめられたかどうか、両大使は如何に了解して居られるかを伺い度い。

東郷 26日の会談(ハルノート提示時の野村・来栖-ハル会談)では唯今の御質問事項には触れて居りませぬ。然し、支那に満州国を含むや否やにつきましては、もともと4月16日米提案(日米諒解案)の中には満州国を承認するといふことがありますので、支那には之を含まぬわけでありますが、話が今度のように逆転して重慶政権を唯一の政権と認め汪兆銘政権を潰すといふ様に進んで来たことから考えますと、前言を否認するかも知れぬと思ひます。

須藤真志はこの時点で東郷外相が日米諒解案を米提案だと思い込んでいるのは「信じがたいものがある」が、この答弁は論理的にも意味不明であり、質問に対して何の回答にもなっていないと評して、この問題について米側に確認をとらなかったことにも疑問をもたざるをえないとしている[278]

東條は東京裁判での宣誓口述書において、ハル・ノートの難問の中に「支那全土(満州を含む)からの無条件撤兵」「満州政府否認」を挙げ、田中新一作戦部長の回想によるもハル・ノートを「全支(満州を含む)からの撤兵」「満洲国政府の否定」と解釈し、また佐藤賢了陸軍省軍務課長も「満州を含む中国からの全面撤退」と解釈しているが[279]、これらは全て戦後の証言である。原の質問から当時、満州を含むとの流言があったことは間違いないが、ハル・ノートで満州撤兵の要求も米国からあったと公然と言われるようになったのは戦後のことで、戦前の一次資料からは確認できない[280]

須藤は、満州国は日本の勢力下にあったことは厳然たる事実であるが、もしアメリカが現状の変更を積極的に求めていれば満州問題は交渉の重要な対立点となっていたはずであり、ハルにとって満州問題は交渉において優先順位が低かったのであるとしている[281]。またジョン・トーランドは日米間に悲劇的な誤解があったとして、ハルのいう中国に満州は含まれていなかったし、第一ハルは日本に満州国の放棄を要求することなどは考えてもいなかったと述べている[282]。また、ハル・ノートは此の点を明瞭にしておくべきであったし、そうしていれば日本も絶対に呑めないとは考えはしなかっただろうと指摘している[282]

アメリカ暫定協定案の破棄について[編集]

入江昭は「この段階に至ってもABCD陣営の存続が最優先視されたのであり、したがって米国としても単独で日本と取引するわけにはいかなかった。たとえ、三カ月でもABCD陣営を対日譲歩の犠牲にするわけにはいかないという決意のために、暫定協定案は日本側に提示されることはなかった」「ABCD陣営維持が最優先だとされた以上、日本と米国が交渉する意味はなかった」とした[283]

森山優は「日本側は、ハル・ノートをアメリカが日本に突き付けた「条件」と解釈した。中国・仏印からの撤兵にしろ、無差別原則の適用にしろ、例外なしに実現を迫っているように読めるからである。それは、お互いの条件のすりあわせをはかる外交交渉の常道から懸け離れていた。」 「日本側が衝撃を受けたのは、第一にその唐突さと不可解さであった。それを補う役割を担うはずだったのが、暫定協定案であった。もし暫定協定案が付随していれば、ハル・ノートが即座に日本に実行を迫るものではなく、未来に向けて提言された原則論であることが、比較的正確に理解されて筈だからである。(中略)暫定協定案がはずされたことで、際立ったのはアメリカの頑な態度と交渉放棄の姿勢だった。」 「しかし、将来構想としても、日本側が全てを鵜呑みにすることは不可能であろう。陸軍とアメリカという強大な敵の狭間で二正面作戦を強いられていた東郷が条件闘争を展開するには、ハル・ノートはあまりに不寛容であった。」と述べている[174]

細谷千博佐藤元英との対談で、佐藤の「日米トップ会談や、「乙案」あるいはアメリカの「暫定協定案」には、交渉妥結の可能性があったのではないか。(中略)ハルやホーンベックなど国務省の問題になるのでしょうか」という質問に対して、「戦争を回避する機会が昭和十六年の八月以降もまだあったということです。しかし、国務省、特にハルやホーンベックらの反対によって、小さいながらも残されていた戦争回避の機会を失ったことは遺憾と言わざるを得ません。ハル・ノートは、日本に仏印や中国からの全面撤兵と汪兆銘政権の否認を求め、日本の「新秩序外交」の全面的否定を明らかにし、いわば日本に満洲事変前に戻ることを求めた厳しい内容であり、日本にとって受け入れがたいものでした。(中略)もとより、一九三〇年代、日米戦争に向けての歴史の潮流を推し進めていったのは、日本の中国大陸に対する侵略政策であり、あるいは「東亜新秩序」建設を目指した日本の外交です。(中略)このことを前提としても、ここで考察した時期のアメリカ国務省の対応ぶりにも問題があったことを指摘せざるを得ないのです。」と述べている[159]

ハル・ノートは「最後通牒」だったのかについて[編集]

1907年開戦に関する条約第1条では「条件付開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する、明瞭かつ事前の通告」がないまま戦争を開始すべきではないとあり、条件と期限が示され提示した条件が指定された期限までに受け入れられなかった場合、交渉の打ち切りを明示するとされる。

ハル・ノート文書冒頭部には「Strictly Confidential, tentative and without commitment 極秘、暫定かつ拘束力が無い」旨の注釈がつけられていた。しかし、この文書が日米交渉の最終局面で手交されたもので、日本側の最終案である乙案の拒否と同時に提示されたこと、かつ内容が日本側にとって受け入れがたいものであったため最後通牒と日本政府は解釈した。[独自研究?]

なお、ハル・ノート以前の日本の乙案に対してアメリカ側もこれを「最後通牒」と解釈していたと東京裁判で主張された[163]

当事者の回想・評価[編集]

日本側当事者

来栖大使は「この文書の冒頭の欄外に (Tentative and without commitment 暫定且無拘束)としてあり、且つ先方は一案(a plan )であると説明したのであるが、その内容からすれば、米国側は従来の主張から一歩も引いていないことが判る。のみならず、全然交渉の始めに戻ったと云う方が適当な点が多い」「乙案の受諾は出来ないから、更に議論しようというのである」「乙案提出の際に、「右ニテ米側ノ応諾ヲ得サル限リ交渉決裂スルモ致シ方ナキ次第ニツキ」と訓令されている上に、二十九日までに調印をも完了というタイム・リミットを課せられている我々の失望は甚大なものであった」と回想している。また、ハル・ノートを最後通牒かと思ったか否かについては、「最後通牒とまでは思わなかつたが、当時の事情の下に於いてはそうも思える」としている[284]

野村大使はルーズベルト大統領とハル国務長官について、「米国の信条とする対外政策の諸原則に膠着し、一歩もその埒外に出ることなくgive and takeは少しもなかった」「両者とも非常に世論を顧慮する。これがけだしデモクラシーの正体であろう」と回想している[285]

東郷外相は日米交渉の経過について、「日本の提出した要求の過大なることは勿論であるが、米国の態度が四月所謂日米諒解案の頃とは変調を見せ、六月末の提案を固執して些の譲歩をも示さず、殊に七月末資金凍結以来は極めて非妥協的で、只時日の遷延を図つて居るとしか思へなかつたことである。米のこの態度は交渉の決裂延いては戦争を辞せざるの決意なくしては執れないとの印象を強く受けたのである」と回想している。また、撤兵問題について「支那に於ける日本の駐兵が不都合であると言い乍ら、外蒙(現在のモンゴル国)に於けるソ連軍隊の駐在に抗議せざるは不公平である」としている[286]

重光葵はハル・ノートについて「仮令、尚、試案なりと銘打ってあっても談判の最後的階段に於て提出したものであるから、甚だ非妥協的なものである。日本側が公然述べて居る大東亜共栄圏の確立、支那事変の完遂、三国パクトによる枢軸政策とは大凡縁の遠いものである。日本の提案と此米国の試案とを調和せしむることは絶望とは云はずとも至難なことである」と手記に書き残し、また「此の提案に接した日本政府は殆ど交渉継続の熱意を喪失」したとも記している[287]

有田八郎元外務大臣はハル・ノートを交渉材料にすればよかったと戦後述べている[288]

佐藤賢了は「『暫定協定案が十一月二十六日のハルノートの代わりに来ていたら、あなた方は戦争を決心したか、せんか』ということを東條総理・東郷外務大臣・賀屋大蔵大臣・武藤軍務局長・嶋田海軍大臣・岡軍務局長等、関係者にきいてみた。さすがに東條さんは、『うん、これがくればむろん……』、といいかけられたが、まさかこの期におよんで『これがくれば戦さしなかった』ともいえない、というような顔つきで『ウーン』といって、後は黙ってしまわれた。それから後の人は全部、『これさえ来とりゃ戦さするんじゃなかった』といった。しかし、果たしてそうかどうかは、質問した場合が、戦いはもう負けて、捕われの身になってからの感じであるので、もしも、そんなものが実際十一月の二十五日か四日に来たら戦さをしなかったどうかは、非常に疑問である」と回想している。その理由を「暫定協定案で雀の涙程の石油をくれても、それでは当時、日本の石油問題は無論解決しなかった。」「交渉を延ばせば日本の海軍はもう足腰たたなくなるということを、アメリカはソロバンにおいているのだから。それならやっぱり、ただ日本の言い分が少し通ったというだけで、実質は結局、何にもならないのである。だから、やっぱり戦争になったのじゃないかと思う」としている[289]

米国側当事者

ハル国務長官は「私が一九四一年十一月二十六日に野村、来栖両大使に手渡した提案(十ヵ条の平和的解決案)は、この最後の段階になっても、日本の軍部が少しは常識をとりもどすこともあるかも知れない、というはかない希望をつないで交渉を継続しようとした誠実な努力であった。あとになって、特に日本が大きな敗北をこうむり出してから、日本の宣伝はこの十一月二十六日のわれわれの覚書をゆがめて最後通告だといいくるめようとした。これは全然うその口実をつかって国民をだまし、軍事的掠奪を支持させようとする日本一流のやり方であった」[290]と日本を批判している。

当時国務省・陸軍省の顧問であったハーバート・ファイスは「米国のこの提案(ハル・ノート)に述べられている極東の政治的・社会的秩序は、日本がこれまで夢みてきたものと真っ向から衝突するものであった。米国の構想は、相互の独立と安全を尊重し、相互に平等な立場で相接し通商を行う秩序ある平等の諸国家間の国際的社会であった。日本の構想は、日本が極東の安定的中心となるというのである。(中略)米国の提案は、日本が戦略や武力で実施しようとした右のような一切のことを拒否しようとするものであった。」「しかしそれにしても、この米国の提案を最後通牒と見なすのは、政治的にも軍事的にも妥当ではないように筆者には考えられる。」「米国の提案に同意してその政策を転換する。南・北いずれにもこれ以上武力進出は行わないが中国における戦争は極力これを続ける、軍隊の撤収を開始してこれに対し中国・米国・英国から如何なる反応があるかを待ってみる、あくまで勝利をうるための政策を強行する、というのが日本に許された四つの手段であった。日本はこの最後の方法を選んだ。」とした[271]

東京裁判での言及[編集]

東京裁判で、東郷担当の弁護人ベン・ブルース・ブレイクニーは、「本法廷において「最後通牒」ということに付多くが語られた。ハル・ノートが「最後通牒」と認められるべきや否やは全く関係ない問題であつて、問題は覚書の効果である」として米国人現代史家アルバート・ノックの『回想録』から次の一節を引用している。「本次戦争に就いて言えば真珠湾の前夜国務省が日本政府に送つた覚書を受け取ればモナコルクセンブルクでも米国に対し武器をとつて立つたであろう」[291]。後に、ラダ・ビノード・パール判事もこの一節を個別意見書に引用している[292][293]。また、パールは6月21日付の米国案とハル・ノートを比較した上で、これまでの交渉で一度も言及されたことのない条項があることや従来の米国の主張を超えるような要求をしていることを指摘し、「日本の内閣は、たとい『自由主義的』な内閣であろうと、また『反動的』なそれであろうと、内閣の即時倒壊の危険もしくはそれ以上の危険を冒すことなしには、その覚書の規定するところを交渉妥結の基礎として受諾することはできなかったであろう。」「ルーズヴェルト大統領とハル国務長官が東京の日本政府はこの覚書の条項を受諾するだろうとか、またこの文書を日本に交付することが、戦争の序幕になることはあるまいと1941年11月26日の遅きに至って考えるほど、日本の事情にうとかったとは、とうてい考えられないことである」という米国歴史家の一節も引用している[294]

研究者による評価[編集]

入江昭は「十一月中旬から同月末までという短期間に、日本か米国かどちらかが立場を変更するということはまずあり得なかった。そのような状態にあって、米国が原点に戻り、その対外政策の基本原則をハル・ノートとして十一月二十六日に日本側に手渡したのもそれなりの必要性を持っていた。ワシントンの日本外交団及び日本政府はハル・ノートによって日米の立場の開きを思い知ったのであるが、彼等がハル・ノートを米国の最後通牒と受け止めたのは当を得ていなかった。このノートの言わんとしたことは、米国は中国、英国、蘭印を支援するが、日本にもこの陣営への参加を呼びかけた上でアジア・太平洋地域の秩序再編を目指したいということだったのである。しかし、日本がこれを拒む以上、両国間に妥協のあり得なかったのも確かである。」と評している[283]

中村粲は「ハル・ノートはそれまでの交渉経過を無視した全く唐突なものだった。日本への挑戦状でありタイムリミットなき最後通牒であると東郷が評したのも極論とは言えまい」「この提案の中にはいささかの妥協や譲歩も含まれておらず、ハルもルーズベルトも日本がこれを拒否するであろうことは十二分に承知していた」「ルーズベルトは対日戦争を策謀していた、11/25の会議で議題としたのは和平ではなく、戦争をいかにして開始するかの問題だった」と述べている[295]

歴史学者の秦郁彦はハル・ノート等の外交的挑発により日本は開戦を強いられたという主張を「広義のルーズベルト陰謀説」として(「狭議の陰謀説」はルーズベルトが事前に真珠湾攻撃を知っていながらハワイに伝えなかったという真珠湾攻撃陰謀説)、ハル・ノートはルーズベルトからの「挑戦状」であるが、日本もそれ以前に真珠湾に向けて機動部隊を出発させているので、どちらが先に挑発したかは水掛け論だとしている[296]。日米開戦の第一撃である真珠湾攻撃のための機動部隊が択捉島単冠湾を出発したのは、ハル・ノートが提示される1日前である(日米交渉が成立した場合は、「機動部隊ハ即時帰還集結スル如ク行動スベシ」[297]と命令されていた)。また秦は「アメリカは、満州事変に対するスティムソン・ドクトリン、日中戦争に対する「隔離演説」など満州事変以後の日本の行動について承認しないことを表明し続けていた。ハル・ノートで要求した満州事変以後の既成事実の全面放棄は、実力による阻止行動を取って来なかった日本の行動についてその清算を求めたに過ぎない」とも述べている[298]

アメリカ政府の意図について[編集]

ハル・ノートでアメリカ政府が何を意図していたか明確ではない。オーラルステートメントでは「太平洋全地域に亙る広汎乍ら簡単なる解決の一案」「六月二十一日附米国案と九月二十五日附日本案の懸隔を調整」と説明されているが、実際には日本側の要望はすべて無視したものであった[204]。6月の米国案では、日中和平の条件として日本の立場に理解を示す文言(共産主義運動に対する防衛のための日本軍の中国駐兵を今後の検討対象とする、「満州国に関する友誼的交渉」といった項目)もあったが、ハル・ノートは条件をつり上げたことになる[299]

アメリカ側は日米交渉を「正式な交渉」ではなく「非公式な予備的会談」と位置づけていた。ハルノート以前の外交文書6月12日附米国案、10月2日附米国案には“Unofficial, exploratory and without commitment(非公式、予備的段階にして拘束力なし)”と記されている。ハルは野村大使に対し、両人の討議は「非公式」なもので、交換文書も「非公式」と明記されている、と説明している[300]。ハルは11月の段階においても予備的会談であると言及し、その理由は先ず日米間が交渉の基礎に到達しなければ、イギリス、中国、その他これらの問題に正当な利益をもつ諸国に話を持ち込むことができないからだと述べている[301]

またハルは、アメリカの交渉の目的について「ヨーロッパに戦争が勃発し、特にフランスが陥落してから、アメリカは日本とのすべての関係において2つの目的をもっていた。その一は平和であって、その二はもし平和がえられなければ、アメリカの防衛を準備するために時間を稼ぐことであった。アメリカは平和をかちとりえなかったが、無限の価値ある時間を稼いだ」「日本がもし六ヵ月早く真珠湾を攻撃していたならば、世界戦争の全貌が変っていたかも知れない」と開戦準備にあたっての時間稼ぎでもあったことを明言している[302]

チャーチルもまた1941年12月26日のアメリカ上下両院合同会議における演説で「もしドイツが一九四〇年六月フランス崩壊後にイギリス本土侵入を企て、またもし日本がそれと同じ時期に、イギリス帝国とアメリカに宣戦したとすれば、われわれの運命がどんなに災厄と苦悶とであっただろうことは、何人も知りえない」と述べている[303]

日米交渉について[編集]

P.カルヴォコレッシーらは「どちらかというと日本人と同じく、力ずくでなければ日本人には通じないと思いこんだ米国は、交渉への取り組みが異常なほどかたくなで、日本が納得しうる妥協を切望しているのを判断し損なった」「米国政府が中国の陳情とチャーチルの発言通りにするや、真の暫定協定の可能性も消えうせてしまった。日本は、壁に背を向けて、これ以上の話し合いは全く無益であると悟った」と論じ、「とりわけ強調すべきなのは、米国が加えた対日経済制裁と、適度の強さ、柔軟性、想像力で外交交渉を行うのに米国が失敗したため必然的に生じた結果が、日本としてみじめな降伏に屈しないためには、太平洋戦争しか代案がなかったということだ。問題の核心は、あの戦争を避けられたかもしれない対日政策をとるのは、米国と英国の権力者の手中にあったのである」としている [304]

ジョージ・ケナンは「もしハルが、東アジアの政治的現実にもっと関心を示し、さらに他国民もすぐれて法律的かつ道徳的な原理にたいし口先だけでも好意をしめすべきだということにハル自身があまり執着しなかったら、太平洋戦争はたぶん避けえたろうと思われる。」「しかしながら、アメリカ国民はこの事実を当時も理解しなかったし、現在にいたるまで理解していない。自分たちは攻撃され挑発された、したがって防御しなければならない、だからこの戦争の目的は自分たちを攻撃した勢力を打倒することにある。こういう単純な印象のもとにアメリカ国民は太平洋戦争に乗りこんでいったのである。それで彼らは本当のところ、自分たちが何のために戦っているかについて、第一次大戦や第二次大戦のヨーロッパ戦線の戦争目的以上に明確な目的を持ちえなかったのである。」と述べている[305]

大杉一雄は「ハル・ノートの性格は、基本的に米国六月二十一日案および十月二日案の延長線上にあり、その反復にすぎず、原理原則論から一歩も譲歩していないということである。その理念は米国が構想した戦後の自由主義国際体制の素案であり、…その理念は日本軍部ですら否定できないものが含まれており、…問題は、日本が要求している現実的処理方法に、なぜ配慮してくれないのかということであった。撤兵問題(文面上「即時」「無条件」という語はなく、ハルも「即時実現」を主張しているものではないと説明している)も二ヵ所の駐兵要求のうち一ヵ所(たとえば華北・内蒙)だけでも認めてくれれば、日本の譲歩は、期間の点を含めて、十分あり得ただろう。…とにかく米国が相手国のプレステージに配慮しようという姿勢はまったく認められなかった。」と評している[204]

須藤真志は「日本側は松岡を除いて、確固たる対米観が存在しておらず、十分に説明すれば、日本の立場を理解してくれるはずという楽観的見方が支配的で、(日本に対して)悪しきイメージをアメリカ当局者達が抱いているとは想像もしていなかった。一方、アメリカ側は、日本は説明してもわからない国であり、制裁という態度で示すのが最も効果のある説得方法であると確信していた。それは日本に対する不信感に裏打ちされていた。」と述べ、松岡の強硬論や近衛の楽観論、また、ホーンベックの力による封じ込めで日本は屈服するという合理主義の予測は、日本には弱いものでも時には強いものに立ち向かうという非合理主義があるということを予測できなかったとして、結局、日米相互に誤ったイメージの上に作られた政策の行き違いが悲劇を生む結果となったと指摘している[306]

歴史教科書での記載[編集]

日本の高等学校用の教科書には以下のように記載されている。[148]

「〔1941年(昭和16年)〕9月6日の御前会議は、日米交渉の期限を10月上旬と区切り、交渉が成功しなければ対米(およびイギリス・オランダ)開戦にふみ切るという帝国国策遂行要領を決定した。・・・木戸幸一内大臣は、9月6日の御前会議決定の白紙還元を条件として東条陸相を後継首相に推挙し<注1>、首相が陸相・内相を兼任する形で東条英機内閣が成立した。新内閣は9月6日の決定を再検討して、当面日米交渉を継続させた。しかし、11月26日のアメリカ側の提案(ハル=ノート)は、中国・仏印からの全面的無条件撤退、満州国・汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の実質的廃棄など、満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通告に等しいものだったので、交渉成立は絶望的になった。12月1日の御前会議は対米交渉を不成功と判断し、米英に対する開戦を最終的に決定した。12月8日、日本陸軍が英領マレー半島に奇襲上陸し、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃した。日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告し<注2>、第二次世界大戦の重要な一環をなす太平洋戦争<注3>が開始された。」
<注1>:最後の元老である西園寺公望が死去し、以後の後継首相選定は木戸幸一内大臣(木戸孝允の孫)を中心に、首相経験者らで構成される重臣会議の合議の形がとられた。
<注2>:アメリカに対する事実上の宣戦布告である交渉打ち切り通告は、在米日本大使館の不手際もあり、真珠湾攻撃開始後にずれ込んだ。その結果、アメリカ世論は「リメンバー・パール・ハーバー」(真珠湾を忘れるな)との標語のもとに一致し、日本に対する激しい敵愾心に火がついた形となった。カリフォルニア州をはじめ、西海岸諸州に住む12万313人の日系アメリカ人が各地の強制収容所に収容された。ドイツ系・イタリア系のアメリカ人に対しては、こうした措置はとられなかった。アメリカ政府は、1988年になって、収容者に対する謝罪と補償をおこなった。
<注3>:対米開戦ののち、政府は「支那事変」(日中戦争)をふくめた目下の戦争を「大東亜戦争」とよぶことに決定し、敗戦までこの名称が用いられた。

アメリカの高等学校用の教科書(『アメリカン・ページェント―共和国の歴史』(2002年版))では以下のように記載されている。[307]

「1941年半ば、合衆国国内における日本の資産を凍結し、ガソリンなど軍事物資の輸出をすべて停止した。…日本の指導部は苦渋に満ちた二つの選択肢を突き付けられた。アメリカに屈従するか、あるいは石油資源やその他資源が豊かな東南アジアに窮余の一策として攻撃に出ることで、輸出停止の包囲網を打ち破るか、のどちらかだった。」
「日本との最後の緊迫した交渉が、1941年11月から12月初めにワシントンで行われた。国務省は日本の中国からの撤退を主張し、その代わりに限られた規模での貿易再開を申し出た。中国との4年以上にわたる苦しい戦いを続けてきた日本の帝国主義者は、合衆国の要請で退却するのは面子を失うことだとして同意しようとはしなかった。アメリカに屈従するか、中国での侵略を続けるか、の選択に迫られ、彼らは剣を選んだ。」
「ワシントンの政府高官はだれ一人として、日本軍がハワイを攻撃するほど強力であり、あるいは向こう見ずであるとは思ってもみなかったようだ。」
「しかし、攻撃は、東京が意図的にワシントンでの交渉を長引かせているあいだにパールハーバーで行われた。…1941年12月7日の朝、『暗い日曜日』に、警告なしに攻撃した。ルーズベルトが議会で声明したように、その日は「屈辱の日」として記憶された。」

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 以降日付は現地時間を採用し、必要に応じてアメリカ時間または日本時間を併記する
  2. ^ ウォルシュ、ドラウト、そしてウォーカーはアイルランドカトリックという繋がりがあった。ウォーカーはルーズベルトの選挙事務長を勤め、また全米カトリック教会財務委員としてカトリック票を左右できたため、ルーズベルトに対して影響力があった。[7]
  3. ^ こうした誤解がなされたのは、野村大使の電報文に責任があるとする説がある[42]。また岩畔豪雄の報告電には「情勢大なる変化なき限り、日本側の意思表示あり次第、其大綱は一、二日中に決定する事確実なり」との誤った見通しがあるほか、「了解案の主旨はハルの提案による」との日本政府内の同意をまとめるための対内謀略的な一文があり、それが政府の判断を誤らせたとの指摘がある[43]。諒解案は日本文で発信されたが、英原文とは重要な点で相違する訳文になっており、後日、松岡外相をして「驚くべき杜撰なる、否故意に我方に不利益なる点は我方に応諾し易からしむる為ごまかし訳文を作成したりとより外思考せられざる節の多々ある…」と憤慨させた[44]
  4. ^ 野村大使は日米諒解案について松岡外相に何ら請訓しておらず、このため外務省では、諒解案はアメリカを利用して日中戦争解決を図る陸軍外交ではないか、松岡不在中を狙って三国条約の骨抜きを既成事実化する謀略ではないか、との疑惑を深めた[45]。後者については、岩畔がそのように回想したという話もあるが、松岡は既に満州まで来ており、少しうがった見方に過ぎるとされる[42]
  5. ^ 後に外相に就任した東郷茂徳は、6月21日の米国案を検討した際、「これでは松岡が交渉不成立を見越してその打ち切りを主張した理由がわかる、むしろ内閣で我が要求条件を緩和しないでただ交渉成立を楽観していた理由が不可解だ」と述べたという[80]
  6. ^ この対日警告はチャーチルとの約束を元に行われ、米政府内では最後通牒的性格を持つものと考えられていた。なお、対日警告の原案は「紛争を結果する可能性であっても」との語句を含むものであったが、ハルが「強すぎて挑戦と誤解される危険」があるとしてこれを削除するとともに全体の表現を緩和した[113]
  7. ^ 「ソ連が極東の前線から相応の残留部隊を除き、全ての軍隊を撤退するという条件で、警察部隊として必要な少数師団を除き満州から全日本軍は撤兵する」。また、原案には「(アメリカ政府が)満州問題の最終的解決を推進する」という項目もあった。なお、国務省の二十二日案では前者は削除され(ただし、日本軍の全面撤兵の項目には「中国(満州を除く)」と明記している)、後者は「日中両政府に対して、満州の将来の地位に関し平和的交渉に入るべく示唆すること」となった。しかし、最終の十項目の要求事項案ではこの項目も削除され、さらに括弧付きの「満州を除く」という文言も削除された[190]
  8. ^ 対する日本の石油輸入の希望量は米国より400万トン(米国から昭和13~15年に輸入された石油の平均量)、蘭印より200万トン(従前の日蘭交渉で蘭側が同意した年180万トンを基礎としている)であった。なお、これは11月26日の連絡会議で「乙案妥結の場合における保障措置」として決定したものであるが、この時点で決まったのは石油の対日供給量に関する事項だけである。『機密戦争日誌』には「燃料六〇〇万屯ノ件ハ明確ニ決定セルモ、他ハ外相俺ニマカセテ呉レノ態度ニテ依然トシテハッキリゼズ」とある[221]
  9. ^ 英語原文は英語版ウィキペディア「w:Henry L. Stimson#Secretary of War (2nd term)」を参照
  10. ^ 英文:The Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indochina. (日本国政府は、支那及び印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及び警察力を撤収すべし)

出典[編集]

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  1. ^ a b c インターネット特別展 公文書に見る日米交渉 ダイジェスト”. アジア歴史資料センター. 2013年7月18日閲覧。
  2. ^ 須藤 1999, pp. 174-175.
  3. ^ a b 須藤 1999, p. 175.
  4. ^ 須藤 1999, pp. 175-176.
  5. ^ 須藤 1999, p. 14-15.
  6. ^ a b 須藤 1999, p. 16.
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  9. ^ 日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部編著 『太平洋戦争への道 -開戦外交史〈新装版〉7 日米開戦』 朝日新聞社、1987年、139頁
  10. ^ 日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部編著 『太平洋戦争への道 -開戦外交史〈新装版〉7 日米開戦』 朝日新聞社、1987年、139頁
  11. ^ 日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部編著 『太平洋戦争への道 -開戦外交史〈新装版〉7 日米開戦』 朝日新聞社、1987年、139頁
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  13. ^ 須藤 1999, p. 19.
  14. ^ 須藤 1999, pp. 17-20.
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  16. ^ 須藤 1999, p. 23.
  17. ^ 野村吉三郎 『米国に使して -日米交渉の回顧』  岩波書店、1946年、51頁
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  19. ^ 日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部編著 『太平洋戦争への道 -開戦外交史〈新装版〉7 日米開戦』 朝日新聞社、1987年、149頁
  20. ^ a b 須藤 1999, pp. 24.
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  22. ^ a b 須藤 1999, p. 25.
  23. ^ 大杉一雄 『日米開戦への道(上)』 講談社〈講談社学術文庫〉、2008年、320-321頁
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参考文献[編集]

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  • 須藤真志 『ハル・ノートを書いた男―日米開戦外交と「雪」作戦』 文藝春秋社文春新書〉、1999年(平成11年)。
  • 田村幸策 『太平洋戦争外交史』 鹿島研究所出版会、1966年
  • 関榮次 『チャーチルが愛した日本』 PHP研究所PHP新書〉、2008年ISBN 978-4569693651
  • ウィンストン・S・チャーチル 『第二次世界大戦 <3>』 佐藤亮一訳、河出書房新社〈河出文庫〉、2001年ISBN 4309462154
  • 産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班 『ルーズベルト秘録〈上〉』 産経新聞ニュースサービス、2000年ISBN 9784594030155
  • 産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班 『ルーズベルト秘録〈下〉』 産経新聞ニュースサービス、2000年ISBN 9784594030162
  • 中村粲大東亜戦争への道』 展転社、1991年ISBN 978-4886560629
  • コーデル・ハル 『ハル回顧録』 宮地健次郎訳、中央公論新社〈中公文庫〉、2001年
  • ハーバート・ファイス 『真珠湾への道』 大窪愿二訳、みすず書房、1956年
  • 日暮吉延「国際法における侵略と自衛 : 信夫淳平「交戦権拘束の諸条約」を読む」 、『法学論集』45(2)、鹿児島大学、2011年、 pp. 1-41、 NAID 40019193506
  • P.カルヴォコレッシー、G.ウイント、J・プリチャード 『トータル・ウォー 第二次世界大戦の原因と経過〈下巻 大東亜・太平洋戦争編〉』 八木勇訳、河出書房新社、1991年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯<5>』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1974年
  • 細谷千博・佐藤元英「発掘 日米交渉秘録 戦争回避の機会は二度潰えた」、『中央公論』2007年12月号、中央公論新社
  • 毎日新聞社訳・編 『太平洋戦争秘史―米戦時指導者の回想』 毎日新聞社、1965年
  • 森山優 『日本は何故開戦に踏み切ったか「両論併記」と「非決定」』 新潮社、2012年
  • 加藤陽子 『昭和天皇と戦争の世紀』 講談社、2011年
  • 波多野澄雄 『幕僚たちの真珠湾』 吉川弘文館、2013年
  • 石井進; 五味文彦; 笹山晴生; 高埜利彦 『詳説日本史B』 (改訂版) 山川出版社2007年ISBN 978-4634702400 
  • 越田稜 編著 『アメリカの教科書に書かれた日本の戦争―アメリカ/カナダ/オーストラリア/パプアニューギニア/ブラジル/ペルー/パナマ (教科書に書かれなかった戦争)』 梨の木舎、2006年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]