東ヨーロッパ
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東ヨーロッパ(ひがしヨーロッパ、英語:Eastern Europe)は、東欧ともいい、ヨーロッパ東部の地域を指す。
基本的にヨーロッパを東西に分けるのはあくまで便宜的なものである。この分類法に明確な定義はなく、時代や主観によって大きく変遷する。現在の民族的な分類では東スラヴ人が大半を占める地域を示すことが多いが、これもあいまいである。中世の文化や地勢学的にはエルベ川以東をさしていたが、これもすでに用いられることはない。このように時代や主観によって「東欧」の地理的概念 と政治的概念 は大きく変わってきた
1989年頃まではヨーロッパの共産主義圏と中立国かつ緩衝国だったオーストリアおよびフィンランドを指して「東欧」と呼んでいたが、最近になってそれらの国々の一部は中欧に含まれている。国際連合の統計局では冷戦時代の古い概念をいまだに適用しておりこれら旧共産圏の国々は「東欧」に含まれているが、アメリカなどではこれらの概念が古すぎて現代的な意味をなさないことから既にこれらの国々のうち一部(具体的にはポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーのヴィシェグラード国家連合構成国の4カ国、ドイツ、オーストリア)を「中欧」に含めている。
地理的分類[編集]
狭義[編集]
これらの地域にはキエフ・ルーシをはじめとするルーシの国々が誕生した。やがてこの地域一帯はロシア帝国の一部となり、ロシア革命によりソビエト連邦のヨーロッパ部分を構成するようになった。ソビエト連邦崩壊後は独立国家共同体が誕生した。
これらの国々は第一次世界大戦時のロシア帝国崩壊に伴って独立を果たし、政治的自治の自由を味わった。しかしまもなく、ドイツとソビエト連邦による密約・モロトフ=リッベントロップ協定に基づいてソビエト連邦の構成国となった。三国ともソビエト連邦崩壊の混乱のさなかに独立を回復し、その後NATOや欧州連合への加盟を果たしている。しかし国内には全人口の数割に及ぶ多数のロシア系住民をかかえており、反ロシア的な民族主義者とロシア系住民の間で政治的・文化的な緊張が続いている。
広義[編集]
東ヨーロッパにバルカン半島諸国を含む場合もある。
アナトリア半島が国土の大半を占めるが、以下の国を含む場合もある。
南東ヨーロッパとも呼ばれる。これらの地域の多くは東ローマ帝国やオスマン帝国の支配を受け、その影響(特にビザンティン文化)を受けている。また、東ローマ帝国やオスマン帝国と、神聖ローマ帝国、オーストリア帝国など西方の勢力との衝突点であり、宗教でも正教会、イスラム教とカトリックが混在している。19世紀から20世紀にかけて、多民族を包含する巨大な帝国が失われた後、民族混住の地であったこの地域はバルカンの火薬庫と呼ばれ、両世紀を通してバルカン戦争や両世界大戦、一連のユーゴスラビア紛争などの多くの争いを経験した。これらの国々はNATOや欧州連合の加盟国であるか加盟を目指す国々であり、また南東欧協力プロセスや中欧自由貿易協定を結び、あらたな地域統合の道が模索されている。
また、ソビエト連邦に属した以下の国々を含む場合もある。
これらの国々はCISの加盟国か元加盟国となっている旧ソ連邦の国々であり、その領土の一部が地理的にヨーロッパにあるか、ヨーロッパと歴史的に深いつながりのある国々である。それぞれ別の時代にロシア帝国あるいはソビエト連邦の一部へと組み込まれていった。現在でも経済的にロシアとのつながりが深いが、政治的には親ロシア的なアルメニアから、NATO加盟を目指す西側志向で反ロシア的なグルジア(ジョージア)まで立場はさまざまである。
また、冷戦時代に鉄のカーテンの東側に属した中央ヨーロッパの以下の国々を含む場合もある(次項「冷戦時代」参照)。
ハンガリー以外はスラブ系民族が多数を占める国家でもある。
中世から近代にかけて、これらの国々は神聖ローマ帝国やオーストリア帝国などのドイツ系の国々の一部であったり、その影響を受けたりしている。オーストリア帝国末期からその崩壊後にかけては、帝国からの自由とスラヴ人同士の連帯を希求した汎スラヴ主義運動の中心地であった(いずれの汎スラヴ主義からも明確な距離を置き、汎スラヴ運動には一切関わらなかった多民族混血社会のポーランドを除く)。両世界大戦においてはドイツとロシア帝国、ソビエト連邦の衝突の地となり、戦後は東側諸国の一員としてソビエト連邦の影響下に置かれた。冷戦終結後は西側志向を強め、NATOや欧州連合への加盟を果たしている。ハンガリーは財政危機による経済不振にあえいでいるが、ポーランドとチェコは力強い発展を続けており、この2カ国にスロバキアが続いている。これらの4カ国はヴィシェグラード・グループ(ヴィシェグラード4箇国、V4)という地域協力機構を作っており、地域間交流は年々活発化している。
冷戦時代[編集]
冷戦における鉄のカーテンの東側(=共産国)という意味で「東ヨーロッパ」(東欧)とされていた国。多くはワルシャワ条約機構に加盟していた。
- ワルシャワ条約機構加盟国
- 中立国
- アルバニア社会主義人民共和国 (ワルシャワ条約機構を1968年に脱退)
- ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
- オーストリア共和国
- フィンランド共和国
東欧から中欧へ[編集]
- 中央ヨーロッパ(中欧)
かつてはソビエト連邦の下で共産主義に属した国々を「東欧」と呼んだ。しかし1989年にベルリンの壁が崩壊し東欧革命によって各国の共産党政権が連鎖反応的に倒れると、こうした地域は「中央ヨーロッパ」(中欧)に入り、現在ではこの概念が広く定着している。
- 冷戦後に中央ヨーロッパ(中欧)に入った国・地域
現在外務省で中央ヨーロッパを管轄しているのは「欧州局中・東欧課」である(ドイツ、オーストリア、スイス、リヒテンシュタイン、ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、マケドニア共和国、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ギリシャ、キプロス、セルビア、モンテネグロ、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバがこの課の管轄)。
関連項目[編集]
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