ロビンソン・クルーソー

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『ロビンソン・クルーソー』
The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe
初版の扉ページ
初版の扉ページ
作者 ダニエル・デフォー
イギリス.ドイツ
言語 英語
ジャンル 長編小説
刊行 1719年、W. Taylor
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ロビンソン・クルーソー

ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe)は、イギリスの小説家ダニエル・デフォーの小説。主に第1作を指して『ロビンソン漂流記』などともいう。

まず1719年に『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険』(The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe)として刊行された。ロビンソンの誕生からはじまり、船乗りになり、無人島に漂着し、独力で生活を築いてゆく。この無人島には時々近隣の島の住民が上陸しており、捕虜の処刑及び食人が行なわれていた。ロビンソンはその捕虜の一人を助け出し、フライデーと名づけて従僕にする。28年間を過ごした後、帰国するまでが描かれている(第1部)[1]

この小説が好評だったので、さっそく続編(第2部)『ロビンソン・クルーソーのさらなる冒険』(The Farther Adventures of Robinson Crusoe)が刊行された。ロビンソンは再び航海に出て、以前暮らした無人島やインド・中国などを訪れる[2]。さらに1720年にロビンソンの第3部『真面目な省察』(Serious Reflections During the Life & Surprising Adventures of Robinson Crusoe, With His Vision of the Angelic World)が刊行された。

あらすじ[編集]

実在のモデル[編集]

ロビンソン・クルーソーは架空の人物であるが、実際に無人島で生活したスコットランドの航海長アレキサンダー・セルカーク(Alexander Selkirk) の実話を基にしているといわれる。

1704年10月、航海長をしていたセルカークは、船長との争いが元でマス・ア・ティエラ島に取り残された。マス・ア・ティエラ島は、チリの沖合に浮かぶ全長約20km×幅約5kmの島でファン・フェルナンデス諸島では最も大きい島である。セルカークは4年4ヶ月の間、このマス・ア・ティエラ島で自給自足生活をし、1709年2月にバッカニアのウッズ・ロジャーズに救出された。

セルカークの特異な体験談はロジャーズの航海記で紹介されて、それをロンドンのジャーナリスト、リチャード・スティール1713年に新聞で紹介した。この話からヒントを得たダニエル・デフォーが、ロビンソン・クルーソーの物語として1719年に初版を出した。初版本では著者名はなく、あたかもロビンソン・クルーソー自身の航海記であるかのような形式をとっていた。

1966年にマス・ア・ティエラ島はロビンソン・クルーソー島と改名され、今日では約600人が住む島になっているが、実際にセルカークがこの島のどこで生活をしていたのか、具体的な事は全く分かっていなかった。

1992年に日本人探検家の高橋大輔がこの島の調査を始め、実際に現地で自給自足生活を試みるなどしてセルカークの足跡を追った。2001年に高橋はセルカークの住居跡と思われる場所を発見した。2005年1月-2月に考古学者を含む調査隊を率い発掘調査を行った。高橋が最初に住居跡と思っていた所は、セルカークの年代より新しいスペイン人の作った火薬庫の跡だったが、その下からセルカークの年代の焚き火や柱の跡が見つかった。そして土の中から16ミリの金属片を掘り当て、当時の航海用の器具(ディバイダー)の先端部と一致したことが決め手となった。調査結果は2005年9月15日に世界中で同時に発表された。

正式なタイトル[編集]

初版のタイトルは、正式には「自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクという大河の河口近くの無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述」(The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner: Who lived Eight and Twenty Years, all alone in an un‐inhabited Island on the Coast of America, near the Mouth of the Great River of Oroonoque; Having been cast on Shore by Shipwreck, wherein all the Men perished but himself. With An Account how he was at last as strangely deliver’d by Pyrates)である。また「本人自筆による」(Written by Himself)と、あたかも主人公ロビンソン・クルーソー自身が執筆したかのように仮装されている。

受容[編集]

この作品は経済学的な視点からも注目を集めてきた。カール・マルクスは『資本論』の中でロビンソンを引き合いに出して論じており、シルビオ・ゲゼルは主要著書『自然的経済秩序』の中で独自のロビンソン・クルーソー物語を紡ぎ出している。また、マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中でロビンソン物語を取上げ、主人公の中に合理主義的なプロテスタントの倫理観を読み取っている。経済学者大塚久雄も『社会科学の方法』『社会科学における人間』(ともに岩波新書)などで、ロビンソンが簿記をつけ始めることなど新興のイギリス中産階級の勤勉で信仰心に篤い起業家の姿を投影していると力説している。

同時代の文人ジョナサン・スウィフトが代表作『ガリヴァー旅行記』を執筆したのも、本作の影響が大きいと言われている[誰によって?]

同書は単なるキリスト教的な倫理ではなく、キリスト教書籍としても評価されている[3]

日本でも幕末に、黒田麹廬横山保三斎藤了庵によりオランダ語訳書から重訳されている。黒田訳は『漂荒紀事』の題で嘉永3年(1850年)までに訳され写本の形で流布、横山訳は安政4年(1857年)に『魯敏遜漂行紀略』として自費出版され、斎藤訳は明治5年(1872年)に『魯敏遜全伝』という題で刊行された。子供向けの冒険物語として編集されたダイジェスト版で親しんでいる読者も数多い。

脚注[編集]

  1. ^ フランツ・カフカ池内紀編訳『カフカ寓話集』(岩波文庫)でロビンソンが生き延びることができたのは「島の中のもっとも高い一点、より正確には、もっとも見晴らしのきく一点」に留まり続けなかったからだという。全体を眺めて何もなかったら「くたばっていた」と語っている。
  2. ^ 日本には来なかった。ただ、アヘンを売り込んだ日本人商人にさらなる儲け話を提案されるが、日本人は嘘つきだから信じるなという知り合いの情報を断るが、実は正直者だったということが判明。
  3. ^ ケネス・マクビーティ著『「ロビンソン・クルーソー」に秘められた十字架』いのちのことば社

日本語訳[編集]

幕末期に邦訳が、近江国膳所藩儒者、黒田麹慮(行次郎)により「漂荒記事」の題名で出された。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]