太田資高

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太田資高
時代 戦国時代
生誕 明応7年(1498年
死没 天文16年7月24日(1547年8月9日
主君 扇谷上杉朝興北條氏綱氏康
氏族 太田氏
父母 太田資康
北条氏綱
太田景資太田康資太田輝資

太田 資高(おおた すけたか、1498年明応7年) - 1547年8月9日天文16年7月24日))は、戦国時代武将太田資康の次男[1]太田氏摂津源氏の流れをくむ。妻は北条氏綱の娘。子に太田康資

はじめ扇谷上杉家上杉朝興に仕えていたが、祖父道灌謀殺の恨みか朝興に不満を持ち、その宿敵に当たる北条氏綱と通じて朝興の居城・江戸城を奪った。その後、朝興は二度と江戸城を奪い返すことはできなかった。ちなみに本城には、北条家臣富永政辰、二の丸には遠山直景が入り、資高は香月亭へ配置された。

脚注[編集]

  1. ^ 最近の研究では資高は資康の子ではないという見方もある。
先代:
太田資康
武蔵太田氏歴代当主
太田資高
次代:
太田康資