シリア
- シリア・アラブ共和国
- الجمهوريّة العربيّة السّوريّة
-
(国旗) 国章 - 国の標語:なし
- 国歌:祖国を守る者たちよ
-
公用語 アラビア語 首都 ダマスカス 最大の都市 ダマスカス 建国
- 宣言
- 承認フランスより
1944年1月1日
1946年4月17日通貨 シリア・ポンド (YTL) (TRY) 時間帯 UTC +2(DST:+3) ISO 3166-1 SY / SYR ccTLD .sy 国際電話番号 963
シリア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく)、通称シリアは、中東・西アジアの共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカス。 「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。
国名[編集]
正式名称は、アラビア語でالجمهوريّة العربيّة السّوريّة(翻字: al-Jumhūrīyah al-ʿArabīyah al-Sūrīyah)で、読みはアル=ジュムフーリーヤ・アル=アラビーヤ・アッ=スーリーヤ、通称 سوريا (Sūriyā スーリヤー)または سورية (Sūrīyah スーリーヤ)。
公式の英語表記は Syrian Arab Republic (シリアン・アラブ・リパブリック)。通称 Syria (シリア)。
日本語の表記はシリア・アラブ共和国。通称シリア。
「シリア」の語源は不明だが、アッシリアの転訛とする説、ティルスの転訛とする説などがある。[2]
歴史[編集]
アケメネス朝[編集]
- アケメネス朝ペルシアが古代オリエントを統一。
セレウコス朝[編集]
- 紀元前305年 - マケドニアのセレウコス将軍が王号を名乗る。首都はアンティオキア(現在のトルコ領アンタキヤ)。
- 紀元前304年 - インド領からの撤退始まる。
- 紀元前301年 - シリア地方獲得。
- 紀元前274年 - ガリア人侵入を撃退。
- 紀元前274年~紀元前168年 - コイレ・シリアをめぐるセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトのシリア戦争
- 紀元前130年 - パルティア軍に敗北。全東方領土を喪失。
ローマ帝国[編集]
イスラム帝国[編集]
661年、ムアーウィヤがカリフとなりウマイヤ朝創設。ダマスカスを首都と定める。750年にウマイヤ朝が倒れると次いでアッバース朝の支配下となるが、アッバース朝が衰退するにつれ、地方政権が割拠するようになる。10世紀には東ローマ帝国が一時北シリアを奪還した。
セルジューク朝[編集]
ファーティマ朝の支配下にあったシリアをセルジューク朝が攻略。シリア・セルジューク朝(1085年 - 1117年)。
十字軍国家[編集]
1098年、第1回十字軍がセルジューク朝の支配下にあったシリア北西部のアンティオキアを攻略(アンティオキア攻囲戦)。地中海沿岸部を中心に、アンティオキア公国を初めとする十字軍国家が成立する。アンティオキア公国は1268年にマムルーク朝に滅ぼされるまでイスラム諸勢力と併存した。
アイユーブ朝[編集]
1171年、サラーフッディーン(サラディン)がアイユーブ朝を建国。
モンゴル帝国[編集]
マムルーク朝エジプト[編集]
オスマン帝国[編集]
- 15世紀ごろ - オスマン帝国の支配下に置かれる(ダマスカス・エヤレト)。
- アラブ反乱(1916年 - 1918年)
OETA[編集]
- 1917年 - オスマン帝国が占領されen:Occupied Enemy Territory Administration(1917年 - 1920年)が成立。
独立・シリア王国[編集]
フランス委任統治領シリア[編集]
- 1920年8月10日 - セーヴル条約によりフランスの委任統治領(1920年-1946年)となる
- 1920年9月1日 - ダマスカス国(ジャバル・ドゥルーズ地区を含む)、アレッポ国(アレキサンドレッタ地区を含む)、大レバノンに分離・分割
- 1920年9月2日 - アラウイ自治地区を分離・分割
- 1921年5月1日 - ジャバル・ドゥルーズ地区を分離・分割
- 1921年10月20日 - アンカラ条約によりアレキサンドレッタ地区が成立
- 1936年9月 - フランス・シリア独立条約交渉でフランスが批准を拒否。
- 1938年9月7日 - ハタイ共和国(1938年 - 1939年、現トルコ共和国ハタイ県)
独立・シリア共和国[編集]
- 1946年 - シリア共和国としてフランスより独立[3]。同年、自治権を求めるアラウィー派の反乱が起きるが、政府により鎮圧。
- 1949年 - 1949年3月クーデターによりフスニー・アル=ザイームが政権を握るが、同年8月に打倒されハーシム・アル=アターシーの挙国一致政権が成立する。
- 1951年 - 12月にアディーブ・アル=シーシャクリーによるクーデターが発生し、軍事独裁政権が成立する。
- 1952年 - 再度、自治権を求めるアラウィー派の反乱が起きるが、政府により鎮圧。同年、シーシャクリー政権は全政党を禁止する。
- 1954年 - ドゥルーズ派による反乱が起きるが、政府により鎮圧。同年、1954年クーデターにより、シーシャクリー政権が打倒される。
- 1957年 - ソ連との間に経済技術援助協定が締結される。
アラブ連合共和国[編集]
独立・シリア・アラブ共和国[編集]
- 1961年 - 9月に陸軍将校団によるクーデターが発生し、エジプトとの連合が解消され、シリア・アラブ共和国として再独立
バアス党政権樹立[編集]
- 1963年 - 3月8日革命によりバアス党が政権を獲得
- 1964年 - ハマー動乱 (1964年)、同年、元大統領のシーシャクリーが亡命先においてドゥルーズ派の青年に暗殺される。
- 1966年 - 1966年クーデターが起き、バアス党の若手幹部によって古参幹部が追放され、バアス党組織はシリア派とイラク派に分裂。
- 1967年 - 第3次中東戦争、ゴラン高原を失う
- 1970年 - バアス党で急進派と穏健・現実主義派が対立、ハーフィズ・アル=アサドをリーダーとした穏健派がクーデター(矯正運動)で実権を握る
アサド政権[編集]
- 1971年 - ハーフィズ・アル=アサド、大統領に選出
- 1973年 - 第四次中東戦争
- 1976年 - レバノンへの駐留開始(レバノン内戦)。
- 1981年、ハマー虐殺 (1981年)。
- 1982年、ハマー虐殺。
- 2000年 - ハーフィズ・アル=アサド大統領死去。息子のバッシャール・アル=アサドが大統領就任。
ダマスカスの春[編集]
一般にシリアは前大統領ハーフィズ・アル=アサド時代のイメージから大統領による個人独裁国家であるとみなされる事が多いが、現大統領バッシャール・アル=アサドの就任以降は絶大な大統領権限は行使されず、その内実は大統領や党・軍・治安機関幹部による集団指導体制であり、より厳密には個人独裁ではなくバアス党(及び衛星政党)による一党独裁である。バッシャール・アル=アサドは大統領就任当初には、民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はバッシャールの政策を「ダマスカスの春」と呼んだ。
改革では反汚職キャンペーンなどの面で多少の成果があったものの、基本的には、改革に反対するバアス党内の守旧派や軍部の抵抗で思うように進展せず、また2003年のイラク戦争でアメリカ軍の圧倒的な軍事力で隣国の同じバアス党政権のサッダーム・フセイン体制がわずか1ヶ月足らずで武力で崩壊させられたことを受けて、以後、一転して体制の引き締め政策が行われ、デモ活動や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩む。近年、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなった。理由としては、グルジアなどで、いわゆる「色の革命」といわれる民主化運動により、時の強権的政権が次々と転覆したことに脅威を覚えたからだと見られている。その後、アラブの春へと続く反政府運動を受けて、これまでの引き締め政策は転換し反政府側に融和的な政策を打ち出したものの失敗したことで結果的にはその後のシリア内戦へとつながっていった。
- 2005年 - レバノンより、シリア軍撤退
- 2007年 - バッシャール・アル=アサド、大統領信任投票で99%の得票率で再選、2期目就任。
- 2008年 - 隣国レバノンとの間に正式な外交関係樹立。大使館設置で合意。
シリア内戦[編集]
2011年の反政府勢力としては、「シリア国民評議会」(SNC)、「民主的変革のための全国調整委員会」(NCC)の二つの全国組織が結成されている。反体制派の「自由将校団運動」(Free Officers Movement)のニックネームを持ちトルコ政府が支援している「自由シリア軍」(FSA)というイスラム過激派武装組織もつくられている。さらに、地方でも中央組織に加わっていない組織が作られている。2012年11月にはこれらを統合するシリア国民連合が結成され、政権側との対立が続いている。
2012年の反政府武装勢力の大攻勢により、北部の最重要都市アレッポが孤立し、首都ダマスカスの中心部でも激しい戦闘が発生して、自爆攻撃により国防相や治安機関幹部などの政府要人が殺害されるなど、一時は政権崩壊間近との憶測もあったが、反体制派各派の内紛やロシアやイランによる援助継続の他、ヒズボラを始めとしたシーア派武装勢力による支援もあり、2013年初頭からは政権側が盛り返して、3月には反政府支配地域に孤立していたアレッポへの補給路を切り開き、5月には反体制派の補給拠点であったクサイルを奪還した。政権側が攻勢を強めるなか、8月に何者かによって首都ダマスカス郊外で化学兵器が使用され、一時は米仏を中心にシリアへの空爆が検討されたが、シリア政府が化学兵器禁止条約に加入し、該当兵器の全廃を確約したため、空爆は回避された。2013年末頃からは、レバノン国境地帯で政権側による大攻勢が始まり、翌2014年の4月末日までに要域をほぼ奪還した。また5月9日には停戦交渉に基づき、政権側による厳しい包囲下におかれていたホムス旧市街から反政府勢力が撤退した。これによって政権側は、反政府勢力によって革命の首都と呼ばれていたホムス市における統制を完全に回復した。
しかし、2014年夏以降は、それまでの反政府武装勢力が衰退し、イスラム過激派のISIL(イラクとレバントのイスラム国)が反政府運動の中心に躍り出た。サウジアラビアを中心としたスンニ派湾岸諸国の富裕層の資金が流入しているとされる豊富な資金力やそれまでアサド政権打倒を目指した国々によって反政府勢力に提供されてきた武器・兵器をもとに力をつけたISILによる攻勢が続き、特に、東部のラッカ県・デリゾール県等では政権側が駆逐され、ISILによる非常に残忍で冷酷な方法による独自の支配権を築くようになった。2014年9月にはISILに対する米軍をはじめとした国際社会の有志連合による空爆も開始し、2015年には当初限定されたイラク領内だけではなく、シリア領内においても空爆を行うようになった。その結果、政府軍vs反政府勢力という従来の内戦の様相は、国際社会vsISILvs政府軍vsクルド民兵vsその他のアルカイダ系武装勢力(アル=ヌスラ戦線等)という複雑な構造へ変化しつつありもはや内戦は終わりの見えない泥沼状態となっている。当初の反政府勢力であったシリア国民連合はほとんど力を失った。2015年春にはISILはパルミラ遺跡やダマスカス近郊まで支配権を確立し、支配領土を拡張しつつある。一方、政権軍の管轄地域はダマスカスと地中海沿岸地域のみへと縮小し、北東部はクルド人武装勢力の支配下になった。人類史上まれにみる冷酷で残忍なISIL(イラクとレバントのイスラム国)支配拡張と終わりの見えない内戦は大量のシリア難民を生み国際問題となっている。2015年7月には全人口2200万人のうち国外への難民は400万人に達している[4]。
政治[編集]
シリアは共和制、大統領制をとる国家である。現行憲法である「シリア・アラブ共和国憲法」は2012年に改正されたもので、国家を社会主義、人民民主主義国家とし、バアス党(アラブ社会主義復興党)を「国家を指導する政党」と定めた1973年憲法の条文は、現行憲法では削除されている。
元首[編集]
国家元首である大統領は、バアス党の提案を受け人民議会が1名を大統領候補とし、国民投票で承認するという選任方法を採っていた。大統領の任期は7年で、ムスリムでなければならない。再選の制限は特に無かったが、2011年以来のシリア騒乱の初期に政権側から示された妥協案の一つである憲法改正により、2任期の制限が設けられた(但し、憲法改正以前に遡っての適用ではない為、現職のバッシャール・アル=アサドは実質3任期目である)。また、バアス党の専権であった大統領候補者提案権も削除され、人民議会議員35名以上の文書による支持が新たな候補者要件となった。
行政[編集]
首相は大統領により任命される。内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、大統領が任命する。
立法[編集]
立法府たる議会は一院制で、正式名称は「人民議会」。定数は250議席。人民議会議員は国民の直接選挙(15選挙区)で選出され、任期は4年である。定数250議席のうち、127議席は労働者と農民の代表でなければならないと規定されている。
大統領は絶対的な必要性がある場合は、人民議会の閉会中でも立法権も行使することができ、シリア軍の最高司令官も兼任する。
1973年に制定されたシリア・アラブ共和国憲法では、第8条においてバアス党が「国家を指導する政党」と規定され、バアス党によるヘゲモニー政党制が採られていたが。2011年より始まったアラブの春による一連の改革要求や反政府活動に応える形で2012年に憲法の抜本的改正が行われ、前記の規定は削除された。またこれに先立つ2011年8月に政党法および選挙法が制定・施行され、複数政党制が導入された。ただバアス党は、現在もアラブ社会主義連合党やシリア共産党などの諸政党と協力関係にあり、与党連合「国民進歩戦線」(NPF)を結成している(国民進歩戦線議長はバアス党書記長)。バアス党は五十年以上に亘る一党独裁により、党組織が巨大化して党員は350万人を数え、衛星政党の党員と合算すると400万人に達する。また非公認政党はクルド人勢力を中心に多数存在するが非合法指定を受けた政治組織はムスリム同胞団のみである。なお、ムスリム同胞団はバアス党政権と激しく対立しており、同国の法律によって構成員への極刑が定められている。
司法[編集]
司法制度はフランス法およびオスマン帝国法を基礎としている。イスラーム法は家族法の分野で用いられている。大統領を議長とする最高司法評議会が置かれており、裁判所判事の任命に当たる。最高司法機関は最高憲法裁判所である。
軍事[編集]
シリアはアラブの世界ではエジプトに次ぐ軍事大国として知られる。シリアは徴兵制が敷かれており、男子の兵役義務がある。また敵国であるイスラエルの侵攻を防ぐために、旧東側諸国の武器を重装備しており、主に友好国であるロシアから武器を調達している。
シリア軍の総兵力は現役約32万人、予備役は50万人である。陸軍の総兵力は約21万5000人、海軍総兵力約5000人+予備役約4000人、空軍総兵力約7万人、防空軍総兵力約4万人である。 また、これらの正規軍の他にイスラエルの侵攻に備えて、ゲリラ戦を行う為に複数の民兵が組織されている。
シリアの軍事予算に占める割合は国家予算の一割に当たり、膨大な軍事費の為にシリアの財政を非常に圧迫している。またハマース、ヒズブッラー、PFLPなどのテロ組織、ゲリラ組織への資金援助、武器援助などを加えると軍事費は更に膨大なものとなっている。
国際関係[編集]
国家安全保障及び、アラブ諸国の間での影響力の増大、イスラエルからのゴラン高原返還を確実にすることが、バッシャール・アル=アサド大統領の外交政策の主要目的である。シリアは、歴史上の多くの局面においてトルコ、イスラエル、イラク、レバノンなどの地理的・文化的隣国との間の激しい緊張関係を経験してきた。サウジアラビアやカタールを中心とした湾岸地域のスンニ派アラブ諸国とは敵対関係にあり、一貫してイスラム過激派を含めたシリアの反政府勢力への支援を行ってきた。
21世紀に入ると、「アラブの春」とそれに続くシリア内戦以前の段階において、中東地域の複数の国家との関係改善に成功し、現在はイラン、北朝鮮、中国、ロシア、パレスチナ自治政府、イエメン、レバノン、スーダン、イラク、キプロスと緊密な関係を維持している。それらの諸国は、反政府勢力との内戦でシリア政府を支援する数少ない国々となっている[5]。
対外関係では、政権はバアス党の伝統として「アラブの大義」「パレスチナを含むイスラエルによる全アラブ占領地の解放」を前面に押し出した主張をすることが多い。
イスラエルとの関係[編集]
シリアは1981年以来隣国イスラエルが主権を主張するゴラン高原を、シリア固有の領土であると主張している。シリア政府は同領土の返還を要求し続けている。
イスラエルを牽制するため、1976年以降レバノンに軍を進め以後駐留を続けたが、レバノン国内からの反対(杉の革命)と国際的圧力により、2005年3月に軍と情報機関の完全撤退を表明した。軍は4月12日までに完全撤退した。情報機関の撤退については不明である。 レバノンの反シリア派は、同国で頻発する政治テロの犯人はシリアであると非難している。
また、ハマースやヒズボッラー、イスラーム・ジハード等の欧米諸国やイスラエルが「テロ組織」と呼ぶ組織を支援しており、アメリカからは「テロ支援国家」に指定されている。首都ダマスカスにハマースやその他のパレスチナ・ゲリラの拠点があり、武器援助や軍事訓練拠点を提供しているとされる。
イラクとの関係[編集]
隣国イラクを巡っては、シリア・バアス党とイラク・バアス党の政治対立によって、イラン・イラク戦争ではイラン支持に廻り、湾岸戦争ではシリア軍が多国籍軍の一員としてイラクに侵攻するなど、対立の時代が長く続いた。しかし、イラク戦争後アメリカ軍により指名手配された旧イラク・バアス党幹部やイラク国内の混乱から逃れた人々が数多くシリアへ亡命し、受け入れた数は推定120万人を上るとされた。 シリア政府が政治亡命したイラク・バアス党員の引き渡しを拒否したことや、イラクで米軍と戦うアル=カーイダなどのテロリストがシリアを経由してイラク国内に流入したことは、米国政府からの強い非難を引き起こした。イラク治安筋によるとダマスカスとラタキアには、外国人テロリストのイラクへの密入国を仲介する者達がおり、そのほとんどがイラク・シリア国境付近における密貿易で生計を立てていた者であったという。
米陸軍士官学校ウェストポイントはイラク北部のシンジャールで見つかったアル=カーイダの文書を元に報告書を作成した。それによると、現在までにシリアからイラクに入ったテロリストは590人で、約100人のシリア人仲介者がテロリストの密入国を手助けしているという。動機は金銭目的、イスラーム原理主義を支持しているなどの理由であるという。テロリストの出身国は遠くはモロッコ、リビア、アルジェリア、イエメン、近くはサウジアラビアで、彼らは密入国の手数料として2500ドルを支払い、国境付近に到着すると偽造パスポートを受け取り、地元民の協力とガイドでイラクへと越境している。また、外国人テロリストのほとんどがアラブ諸国出身者であり、アラブ民族主義、あるいは侵略された同胞ムスリムを助けるジハードの遂行のためにイラクへ入国したイスラム過激思想信奉者であるとされる。特に、イラク国境地域の住民はイラク北西部に住むスンナ派部族とは親戚関係にあり、ジャジーラ方言のアラビア語(メソポタミア方言のうち、イラク北西部やシリア東部で話されるもの)を喋るなど、イラクとの関係は深く、「外国人の占領下に置かれている同胞」への同情からテロリストを支援しているとされている。
シリア政府は、2003年の対イラク開戦時には越境する「アラブ人義勇兵」を放置していたが、同年4月以降までに密輸業者を取り締まるなどの対策を講じた。しかし、部族民や地元政府、治安当局者まで業者に賄賂で買収されてしまっており、効果があがっていないとされる。もっとも外国人テロリストの越境数が多かったのは、2004年のファッルージャの戦闘時で、大半がサウジ人であったという。[6]。イラク戦争後、シリア国内で統制が強化されたのは、これらの義勇兵にイスラーム過激派が含まれており、シリア・バアス党の政治思想と厳しく対立していたためでもあり、シリア国内の治安への悪影響を減ずるという意図もあった。しかし、シリアは旧イラク・バアス党政権の残党には庇護を加え、米軍やイラク新政府に対する破壊活動を支援したとされる。
また、イラクでは、元大統領サッダーム・フセインの出身部族がスンニ派であることに加え、サッダーム旧政権時代の与党であったイラク・バアス党の中核支持層もスンニ派に属し、これがイラク国内で多数派の十二イマーム派を押さえる形になっていた。しかし、シリアでは対照的に、アサド大統領の出身部族はイスラームの少数宗派であるアラウィー派に属し、シリア・バアス党の中核支持層はアラウィー派のほか、キリスト教徒・ドゥルーズ派・イスマーイール派などの少数宗派であり、これらが多数派であるスンナ派を抑える形になっている(但し、スンニ派であっても世俗主義勢力の一部はバアス党と協力関係にある)。
このためシリア内戦が勃発した後、イラク国内で反米・反シーア派闘争を継続していた聖戦と解放の最高司令部および ナクシュバンディー軍を率いる旧イラク・バアス党序列第二位のイッザト・イブラーヒーム(サッダーム・フセインの死刑執行後、イラク・バアス党の地域指導部書記長に就任)はアサド大統領の打倒を目指してシリア国内で活動するスンニ派の反体制勢力との連帯を表明した。また、イラク西部のスンニ派多数派地域における自由シリア軍支持者によって自由イラク軍というスンニ派武装集団も結成されている。これらの組織は過激派組織ISILとも協調しており、イラク政府軍と戦闘状態にある。逆に、イラク・バアス党政権の崩壊後、十二イマーム派が主体となったイラク政府は、ISILや同組織と同盟関係あるスンニ派武装集団の戦闘においてシリア政府と協力関係にある。
シリアは旧イラク・バアス党政権の残党に庇護を与えていたが、イッザト・イブラーヒームは、イランと同盟関係にあるシリアに対し深い不信感を抱いており、提携にも消極的であったとされる。また、イラク・バアス党は路線対立によって一部の党幹部がイブラーヒームの下を離脱、元党軍事局員のムハンマド・ユーニス・アル=アフマドを新指導者するグループを形成し、イブラーヒーム派とユーニス派に分裂した。シリア政府との協働に懐疑的姿勢を崩さず、最終的にシリア政府と決別したイブラーヒームとは対照的に、ユーニスはシリア政府と良好な関係を構築した。
現イラク政府の暴力的転覆によるイラク・バアス党の政権奪取を重視している聖戦と解放の最高司令部やナクシュバンディー軍を始めとするイブラーヒーム派に対し、アル・アウダのようなユーニス派は恩赦や国外へ逃れたバアス党員の本国帰還によるイラク・バアス党の政治的再建を重視している。また、イブラーヒーム派は闘争の過程で宗派主義的傾向を強めたが、ユーニス派は世俗主義的傾向を強め汎アラブ主義に回帰した。これによりユーニス派は十二イマーム派が多数を占めるイラク南部における支持獲得に成功し、上位の指導層はスンニ派が占めているとはいえ、組織の中間層にはシーア派が多く存在するなど、旧来の支持基盤であるスンニ派多数地域での構成員獲得を目指すイブラーヒーム派とは対照的である。シリア政府はユーニス派を通じてイラクへの影響力拡大を図っていたのだった。また、恩赦を呼びかけるユーニスらに対してヌーリー・マーリキーは拒否する姿勢を崩さなかったが、マーリキーの退陣後、イラク首相に就任したハイダル・アル=アバーディは、穏健派であるユーニスとの和解に対して妥協的であるという見方もある。
イラン・イスラーム共和国との関係[編集]
イラク・バアス党政権との対立関係やシリアは他のアラブ諸国と異なり非スンナ派政権である事から、イラン・イラク戦争ではイラクと戦争状態にあり、かつシーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した背景があり、イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、反米・反イスラエル、国際的孤立化にあるなど利害が一致する点が多い。最近は政治面の他、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。
近年では、イランの他、ベネズエラ、スーダン、キューバなどの反米路線の国との関係を強化している。
トルコ共和国との関係[編集]
シリアは隣国トルコ共和国のハタイ県を固有の領土であると主張している。エルドアン政権はアサド政権と激しく対立し、トルコ政府はアサド政権打倒目的で自由シリア軍に積極的に支援するなど対立関係にある。
ソビエト連邦及びロシアとの関係[編集]
ロシアは、ソ連時代の1980年にシリアとの間にソビエト・シリア友好協力条約締結しており、伝統的な友好国である。この同盟関係はソ連崩壊後もロシア連邦が引き継ぎ、ロシアは新鋭の防空兵器や弾道ミサイル等さまざまな武器・兵器を販売するなどシリアにとって最大の武器援助国となっている。また独立国家共同体(CIS)諸国以外で唯一のロシアの軍事施設がある[7]。
シリア危機に際し、2013年9月9日にプーチン政権は米国によるシリア侵攻を回避するべくロシアのセルゲイ・ラブロフ外相を通してシリアの化学兵器を国際管理下に置き、シリアの化学兵器禁止条約批准を提案した[8]。そして、9月12日にシリアのアサド大統領はさらに批准後の一ヶ月後に化学兵器情報を提供することにも同意した[9]。
朝鮮民主主義人民共和国との関係[編集]
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とはハーフィズ・アル=アサド政権時代からの伝統的友好国であり、軍事交流や弾道ミサイルなどの北朝鮮製兵器の買い手でもある。共同の核開発計画も行っているとされ、2007年にはイスラエル空軍が核開発施設と見られる建物を爆撃した。
シリアは北朝鮮との友好関係を考慮し、大韓民国と国交を有していない。
中華人民共和国との関係[編集]
中華人民共和国(中国)はシリア国内の資源開発や投資分野で関係を深めている。
アメリカ合衆国との関係[編集]
アメリカ合衆国はシリアが1990年の湾岸戦争で多国籍軍に参加し、1991年にアメリカ合衆国政府が主催した中東和平 マドリード会議以後、アメリカ合衆国政府が提案する中東和平プロセスを支持し、アメリカ合衆国政府が主導した国連安保理決議に基づいて2005年にレバノンから軍を撤退させたが、アメリカ合衆国政府はシリアがレバノンに軍を進駐させた1976年当時からシリアを「テロ支援国家」と認定し、2004年以後は経済制裁を実施し、2005年以後は在シリア大使を帰国させている[10]。
2013年9月5日にアメリカ合衆国上院外交委員会はシリアの化学兵器使用を理由に軍事行動を承認したが、議会承認なきままアメリカ軍はシリア侵攻の攻撃態勢に入っていた[11][12][13]。
日本国との関係[編集]
シリア戦争の危機に際し、安倍晋三政権は日本の同盟国である米国のシリア侵攻に対しては反対を表明はしてはいない。[14]、菅官房長官は8月29日の記者会見で、シリア政府による化学兵器を使用の根拠を問われ「さまざまな具体的情報があるが、関係国とのやり取りなので控える」としている[15]。
地方行政区分[編集]
シリアには13の県がある。
- ダマスカス
- リーフ・ディマシュク県(ダマスカス)
- クネイトゥラ県 (クネイトゥラ)
- ダルアー県(ダルアー)
- スワイダー県 (スワイダー)
- ホムス県(ホムス)
- タルトゥース県(タルトゥース)
- ラタキア県(ラタキア)
- ハマー県(ハマー)
- イドリブ県(イドリブ)
- アレッポ県(アレッポ)
- ラッカ県(ラッカ)
- デリゾール県(デリゾール)
- ハサカ県(ハサカ)
地理[編集]
東地中海に面する一部を除いて、国土は隣国と地続きであり、北部ではトルコと、東部ではイラクと、南部ではヨルダンと、西部ではイスラエルやレバノンとそれぞれ国境を接している。
国土の内、西部の地中海沿岸部には平野が広がっており、南部は肥沃な土地が広がっており、国内農業のほとんどを負担している。北部は半乾燥地帯、中部はアンチレバノン山脈が連なり、山岳地帯が大半であるが、乾燥地帯の延長上には、アラビア半島に続くシリア砂漠がある。国内最高峰はヘルモン山(2,814m)。国土を北から南にユーフラテス川が、南から北にオロンテス川が流れている。
気候は地中海沿岸部は典型的な地中海性気候(Cs)で、夏季は高温乾燥、冬季は温暖多雨である。内陸部に入るに従い乾燥の度合いが激しくなり(BS)、イラク国境周辺は砂漠気候(BW)となっている。この地域では冬季には氷点下まで下がり、降雪による積雪も見られ、時に数十センチに達する大雪となることもあるるなど季節毎の差が激しい。ダマスカスの年平均気温は5.8℃(1月)、26.5℃(7月)、年降水量は158.5mm。
経済[編集]
現在のシリア経済は、バアス党の強力な計画経済により農業、商工業、鉱業ともに偏りがなくバランスが取れた形となっており、石油資源にも恵まれているが、米国による禁輸措置もあり経済は低迷状態が続いている。2004年現在の政府発表の国内失業率は20%を超えている。現在、中華人民共和国の改革開放を手本として市場経済の導入を計っており、外国企業の投資受け入れやインターネット導入を進めている。
国民[編集]
人口2200万人のうち、2015年時点では約400万人が難民として国外へ流出している。シリア難民の最多流出国はトルコ(213万人)、次いでヨルダン(140万人)、レバノン(119万人)となっている。
民族[編集]
住民は、アラブ人が90%で、クルド人が8%ほど、その他にアルメニア人、ギリシャ人などがいる。アラブ人の中にはシリア語を母国語とする部族もいるため民族性も多様化している。少数民族としてネストリウス派(アッシリア人)、北コーカサス系民族、南トルコ系民族もいる。
言語[編集]
言語は現代標準アラビア語が公用語である。その他にもアラビア語の方言(レバント方言、イラク方言、ナジュド方言、北メソポタミア・アラビア語)、シリア語(典礼言語として)、クルド語、アルメニア語、アゼルバイジャン語、現代アラム語(アッシリア現代アラム語、現代西アラム語)が使われる。さらにフランス委任統治領時代の影響でフランス語も使われているが、隣国レバノンと異なり一部エリート層の使用に限られるなど通用度は高くない。
宗教[編集]
宗教は、イスラム教スンナ派が約70%。他のイスラム教の宗派(アラウィー派、ドゥルーズ派、イスマーイール派、十二イマーム派などが併せて約20%、これらの少数宗派は全てシーア派と看做す場合もあるが、アラウィー派とドゥルーズ派をシーア派に含めない場合もある。
系統不明瞭なアラウィー派が現在、シーア派の一派として扱われるのは、1970年代にシリアの大統領ハーフィズ・アル=アサドの働きかけにより、レバノンの十二イマーム派のイマームであったムーサー・アッ=サドルが、アラウィー派をシーア派の一派と看做すファトワーを発したことによる。またドゥルーズ派はイスマーイール派から分派した宗派である。しかし、アラウィー派とドゥルーズ派の教義はグノーシス主義や神秘主義の強い影響を受けており、イスラーム教とさえ看做されない場合もあるなど、スンニ派や十二イマーム派からの厳しい異端視に晒されてきた。
キリスト教(非カルケドン派のシリア正教会、東方正教会のアンティオキア総主教庁、東方典礼カトリックのマロン典礼カトリック教会など)は約10%である。
その他には、アレヴィー派やヤズィード派などの少数宗派があり、アレヴィー派はトルコマン人によって、ヤズィード派はクルド人によって信仰されているが、併せて約1パーセントほどである。シリア国内の人口比で約8%を占めるクルド人のほとんどはスンニ派を信仰しており、ヤズィード派を信仰するものはごく一部である。
元来、都市部に住む富裕層にはスンニ派が多く、これらの名望家層はオスマン帝国時代から政治エリートとして大きな影響力を誇っていたが、第一次世界大戦後、新たな支配者としてシリアを委任統治したフランスは、スンニ派有力者たちの影響力を押さえ、統治を円滑化するために、少数宗派を優遇し、スンニ派以外の諸宗派に政治や軍事への門戸を開いた。 また、同じスンニ派であっても都市部の有力者達は相互に姻戚関係で結びつき、その特権意識から農村部に住む人々や貧困層を「大衆」と呼んで蔑むなど、大きな格差が存在していた。 都市部に住むスンニ派エリート層によって政治から排除されてきた人々は、シリア独立後、バアス党や共産党などの左派政党の政治運動へ支持・共鳴を示した。左派政治組織の支持拡大に対して、保守的な人々はムスリム同胞団との結びつきを強めた。
教育[編集]
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アラブ諸国の中では高水準の教育制度がなされてきた。
交通[編集]
- 鉄道・・・シリア国鉄が運行されており、路線総延長は2,423 kmに及び、アラブ諸国の中では数少ない鉄道網が整備されている国である。だダマスカス鉄道駅からトルコのイスタンブールへの直通列車も運行されていた。しかしながら2012年以降は内戦で運行停止状態となっている。
- 空港・・・ダマスカス国際空港、アレッポ国際空港、バーセル・アル=アサド国際空港(ラタキア空港)などの国際空港があり、シリア・アラブ航空によって運航されている。
文化[編集]
古代より文明が栄えた土地のため、また各文明の交流地点のため高度な文化が発達した。国内の各地にアッシリア帝国時代の遺跡が点在する。また西洋風の町並み・服装が浸透している。
また、反米・反イスラエル国家であるが、首都ダマスカスにはケンタッキーフライドチキンの店舗が存在する[16]。
世界遺産[編集]
シリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する[17][18]。
スポーツ[編集]
オリンピックシリア選手団は1948年ロンドンオリンピックから参加した。以後、中東戦争なども起こり、参加と不参加が続いたが、1980年モスクワオリンピック以降は参加を続けている。ただし、冬季オリンピックへの参加はまだない。
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | عيد راس السنة الميلادية | |
3月8日 | 3月8日革命記念日 | ثورة الثامن من اذار | バアス党による権力掌握を記念する |
3月21日 | 母の日 | عيد الأم | |
4月17日 | 独立記念日 | عيد الجلاء | フランス軍のシリア完全撤退の日を祝う |
グレゴリオ暦のイースター | عيد الفصح غريغوري | 新暦のイースター。移動祝日 | |
ユリウス暦のイースター | عيد الفصح اليوليوسي | 移動祝日 | |
5月1日 | メーデー | عيد العمال | |
5月6日 | 殉国者の日 | عيد الشهداء | 1916年、オスマン帝国のアフメト・ジェマル・パシャが シリア民族主義者多数を処刑した記念日 |
10月6日 | 10月解放戦争記念日 | حرب تشرين التحريرية | 第四次中東戦争の開戦記念日 |
12月25日 | クリスマス | عيد الميلاد المجيد | |
犠牲祭 | عيد الأضحى | 移動祝日 | |
断食明け大祭 | عيد الفطر | 移動祝日 | |
預言者生誕祭 | المولد النبوي | 移動祝日 |
脚注[編集]
- ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ 牧英夫編著 『世界地名の語源』 自由国民社 1980年12月20日発行 12ページ
- ^ “Report of the Commission Entrusted by the Council with the Study of the Frontier between Syria and Iraq” (1932年). 2013年7月8日閲覧。
- ^ “シリア難民、400万人を突破”. 国際連合難民高等弁務官事務所. (2015年7月9日) 2015年9月5日閲覧。
- ^ http://sana.sy/eng/21/2012/11/26/454262.htm
- ^ http://www.guardian.co.uk/uslatest/story/0,,-7946319,00.html
- ^ 安蒜泰助『今のロシアがわかる本』三笠書房 知的生きかた文庫、2008年4月10日発行(147ページ) ISBN 978-4-8379-7668-4
- ^ “シリアに化学兵器禁止条約参加を要請 ロシアのラブロフ外相”. ハフィントン・ポスト. (2013年9月10日) 2013年11月3日閲覧。
- ^ “シリア、化学兵器引渡しは軍事介入撤回後に─アサド大統領=通信”. Reuters. (2013年9月12日) 2013年11月3日閲覧。
- ^ 外務省. “各国・地域情勢>シリア”. 2008年8月26日閲覧。
- ^ “【シリア情勢】介入、地上軍投入せず最大90日 米上院委が条件付承認決議案採択”. 産経新聞. (2013年9月5日) 2013年11月3日閲覧。
- ^ “米大統領がシリア軍事行動に向けた姿勢崩さず、G20内の溝浮き彫り”. ロイター. (2013年9月6日) 2013年11月3日閲覧。
- ^ “ロシアでG20開幕、シリア介入各国の対立鮮明に”. CNN. (2013年9月6日) 2013年11月3日閲覧。
- ^ 毎日jp. “菅官房長官「情勢悪化責任、アサド政権に」”. 2013年11月3日閲覧。
- ^ 毎日jp. “シリア:化学兵器使用疑惑 菅官房長官「情勢悪化責任、アサド政権に」”. 2013年11月3日閲覧。
- ^ http://commons.wikimedia.org/wiki/File:KFC-Damascus.JPG
- ^ http://whc.unesco.org/ja/list/?iso=sy&search=& 世界遺産センター-シリア
- ^ http://www.unesco.or.jp/isan/list/list_3/ 世界遺産一覧-五十音順国別リスト(サ行)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 日本政府
- 日本外務省 - シリア (日本語)
- その他
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