幕府海軍
幕府海軍は幕末日本において最も大規模な艦隊である。
幕府海軍に所属する軍艦は帆に帯状の黒い塗装を施し、日本国籍を表す日章旗を掲げている。これらの船は大抵は大坂天保湾か、もしくは江戸品川沖のどちらかに停泊している。また、簡単な修理は江戸石川鳥造船所・横浜造船所・天保山基地・長崎造船所等で行われるが、大規模な修理、特に蒸気機関関係の修理は上海に行って乾ドックを使用する事になる。こうした場所なら何処でも、新選組隊士が公務で訪れれば、可能な限り目的地までの便乗を取り計らってくれるだろう。
あ | か | さ | た | な |
旭日丸 大江丸 |
回天 開陽 観光丸 咸臨丸 協隣丸 黒竜丸 行速丸 |
順動丸 翔鶴丸 昌光丸 神速丸 千秋丸 千歳丸 |
第一長崎丸 第二長崎丸 太平丸 長鯨丸 千代田形 朝陽 |
長崎形 長崎丸 |
は | ま | や・ら・わ | ||
蟠龍 富士山 鳳凰丸 鵬翔丸 |
美嘉保丸 | 該当無し | その他 |
旭日丸 | ||
所属: | 幕府 | |
艦長: | ||
艦種: | バーク級輸送船 | |
材質: | 木製 | |
機関: | 蒸気内輪 | |
マスト: | 3 | |
備砲: | ||
定員: | ||
全長: | 38.4m | |
全幅: | 9.8m | |
排水量: | 750t(推定) | |
出力: | 帆走 | |
速力: | ||
解説: | ||
嘉永六(1853)年、ペリーが来航すると幕府は同年九月に「大船建造禁止令」を撤廃し、十一月には水戸藩に洋式軍艦の建造を命じた。前水戸藩主水戸烈公(斉昭)は自ら指揮を取って計画を進め、安政元(1854)年一月、遂に石川島に於いて洋式帆船の建造を開始した。攘夷を唱える烈公は諸藩に先駆けて洋式船を作って幕府に献上し、国防の強化を促す積りであったらしい。 その熱意有ってかこの船は早くも十一月には完成し、「旭日丸」と名付けられたが、建造に当たって烈公が「女の黒髪はロープより強い」と言い出したり、はたまた進水したと思ったら浸水して着底してしまったりと多難であり、元々武張った事が嫌いで烈公に反感を抱いていた江戸市民は「厄介丸」と嘲笑したり、「動かざる/御世は動きて動くへき/船は動かぬ見と(水戸)も無き哉」等と楽首をもって罵倒されたりした。 しかし、こうした風聞は飽くまで反水戸派の幕臣である勝海舟や沢太郎左衛門らが語った記録(特に勝海舟は口が悪く、「旭日丸は西洋船に外見だけ似せただけ。構造は脆弱で速度も出ず、役に立たない失敗作」と罵っていた)に基くものであり、実際の情景は些か違ったものであったらしい。十一月に完成した旭日丸は、当時としては船体重量が重かった為進水に手間取っていた。その内、十一月二十九日の夜半に風も無いのに突如ドックから滑り出し(進水が完了せず、船体の一部が陸上に残ると云う不安定な状態であったので、潮によって自然に動き出したものらしい)、砂泥の中に 横倒しに擱座してしまった。早速船体を起こして大澪(おおみお。石川島で分流する隅田川の西の流れ)の中央まで引き出す作業が始められたが、その作業の完成には二ヶ月を要してしまった。「厄介丸」の蔑称が付いたのは丁度この時期である。大澪に引き出された旭日丸は、更に一ヶ月を経て多くの廻船の力を借りて浅瀬を脱し、装未了のまま横浜に回航された。旭日丸が儀装を終えて竣工したのは実に一年余後の安政三(1856)年五月であった。 しかし、それ以降は同年八月二十五日に江戸を襲った台風により損傷した以外は不都合も無く運用される。安政四(1857)年、水戸藩より幕府に献上。第二次長州征伐にも輸送船として従軍し、十三代将軍家茂の観閲を受ける。その際特に堅固で儀装もしっかりして居た事から、将軍より「満足至極」の賞賛を与えられた。戦闘中は「富士山」・「翔鶴丸」・「大江丸」に随伴して大島に幕軍歩兵を輸送し、久賀沖に停泊。その際に長州藩士高杉晋作率いるオテントサマ号の夜襲を受け、翌朝退却した。 旭日丸は明治維新後にも使用され、水戸藩の造船技術の高さを示している。 この船は当初の斉昭の思惑とは異なり、帆船は既に時代遅れであったので軍艦ではなく専ら輸送船として使用される事となった。しかしながら石川島造船所での建造第一号であると同時に日本人が最初に作ったバーク級洋式帆船であり、西洋の造船技術を吸収するには十分役に立ったものと思われる。決して勝海舟が云うような失敗作ではなかったのである。 |
大江丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | バーク級輸送船 |
材質: | 木製 |
機関: | 蒸気内輪 |
マスト: | 3 |
備砲: | |
定員: | |
全長: | 55m |
全幅: | 6.4m |
排水量: | 160t |
出力: | 120馬力 |
速力: | |
解説: | |
1861年アメリカ・ニューヨーク建造。原名「ターキャン(太江)」。元治元(1864)年8月横浜で12万$で購入。 第二次長州征伐にも参加。「富士山」・「旭日丸」・「翔鶴丸」らと共に幕兵を乗せて大島に出撃、一旦は島を占領する。しかしその夜、久賀沖に停泊している隙に長州藩士高杉晋作率いるオテントサマ号に奇襲され、翌朝退却した。 長州征伐終了後、「快速御用達」として仙台藩に貸与された。 しかし、仙台藩が官軍に降伏すると、松島湾に停泊していた榎本艦隊がこれを押収。人見勝太郎ら遊撃隊が箱根襲撃を企画した際には、輸送船として提供され、和船二艘に分乗した歩兵500を房総から伊豆まで輸送した。 その後、榎本艦隊に復帰。兵員輸送船として新選組・伝習士官隊・歩兵工兵隊・歩兵工兵士官隊等をギュウ詰めに満載して蝦夷地に渡った。しかし、老朽艦だったので艦隊編成からは外され、五稜郭政府の手でフランス商人ファーブルに1万$で売却。ファーブルは大江丸を海運業者バチェルダーに転売し、バチェルダーはこの船をタイポ号と名付けた。 一方、船を下りた乗組士官20名は「大江丸士官隊」を編成して箱館防衛に参加し、水兵はそのままバチェルダーに雇用されて大江丸を運用した。しかし青森港に入港した際に官軍に拿捕され、政府軍所属の艦船となった。 |
回天 | |||||
所属: | 幕府海軍 | ||||
艦長: | 柴誠一→甲賀源吾→根津勢吉 | ||||
艦種: | スクーナー級砲艦 | ||||
材質: | 木製 | ||||
機関: | 蒸気外輪 | ||||
マスト: | 3 | ||||
備砲: | 13門
|
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定員: | 153名 (士官1名/士官見習18名/水夫134名) |
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全長: | 68.4m | ||||
全幅: | 10.6m | ||||
排水量: | 710t | ||||
出力: | 400馬力 | ||||
速力: | 12ノット | ||||
解説: | |||||
1855年にプロシア・ダンツィヒで建造されたプロシア軍艦。ダンツィヒの守護神であるケダニヤの女神像の船首像が据えられていた。その船首像はプロイセン王が太尼(?)の彫刻家に大金を支払って作らせた非常に精巧な物であったと云う。 後に廃艦となったが、イギリス商人に修理され「イーグル」と改名。その際、船首像は粗末な鷲の彫像に変えられたらしい。 1866年、アメリカの商社を経由して長崎奉行所が18万6千ドルで購入。長崎奉行服部長門守常純は当初から蒸気外輪船が旧式である事を承知していたが、回天の浅い喫水線は長崎の近海での航海に適しており、長崎付近での密貿易取り締まりには有効と判断した結果、購入した。艦長には長崎奉行所支配組頭柴誠一を任命し、乗組員には長崎海軍伝習所で学んだ地役人を充てた。以後、幕府海軍に編入されたが、乗組員はそのままで、主力艦として第二次長州征伐にも参加した。また薩摩藩邸焼き討ちにも参戦し、たまたま艦長が不在の儘出撃。脱出する薩艦翔凰丸を追跡して追いつめるが、捨て鉢になった翔凰丸は回天に突撃した。慌てた回天が右往左往する内に取り逃がしてしまった。 函館戦争には榎本艦隊として参加。榎本の腹心と目される海軍奉行荒井郁之助が座乗、艦隊の基幹として活躍した。江差沖で榎本艦隊旗艦「開陽」が沈没すると、代わって旗艦となり、艦長も甲賀源吾に交替した。 宮古湾海戦には新選組等によって構成された斬り込み隊を積載して明治政府軍旗艦甲鉄に接舷攻撃を行った。此の攻撃に際しては、僚艦が荒天ではぐれたり、回天の動きが右寄りだったり、回天の甲板が高すぎて、甲鉄に乗り込むときに足を挫く兵士が続出したり、様々な悪条件が重なって失敗に終り、艦長甲賀源吾は戦死した。以後、艦の指揮は荒井が取って箱館に帰還した。 箱館では乗組員の補充は無く、軍艦頭並の根津勢吉が艦長に昇進して艦の指揮を執った。函館湾海戦では蟠龍と共に最後まで戦い抜き、実に八十発もの命中弾を受ける。それでも屈せずに戦闘を続けたが、明治二年五月七日午前八時、機関部に被弾したので弁天台場付近の海岸に人力で座礁させられた。以後、「浮砲台」として砲撃を行うも、函館山に明治政府軍が進出すると、退路を断たれる事を危惧した荒井は大砲の火門を破壊、艦に火を放ち、乗員をボートに乗せて撤退した。 |
開陽 | |||
所属: | 幕府海軍 | ||
艦長: | 榎本武陽→沢太郎左衛門 | ||
艦種: | シップ級フリゲート | ||
材質: | 木製 | ||
機関: | 蒸気内車 | ||
マスト: | 3 | ||
備砲: | 24門
|
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定員: | 303名(士官7名/士官見習31名/水夫265名) | ||
全長: | 72.80m | ||
全幅: | 13.04m | ||
排水量: | 2590t | ||
出力: | 400馬力トランク・スチーム・エンジン (最大1200馬力まで可能) |
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速力: | 10ノット | ||
解説: | |||
1866年に幕府がオランダに発注、J.W.L.ファン・オールトの設計により、同国ドルヒレイトのヒップス・エン・ゾーネン造船会社で翌年完成。価格40万ドル。当初、アメリカに発注されたのだが、アメリカは南北戦争に突入して建造する余裕が無く、改めてオランダに発注されたと云う経緯を持つ。其の建造には、同時に派遣された幕府海軍の士官学生も関与し、幕府からの注文ではライク滑腔砲24門であったのを、士官学生達の尽力によってクルップ砲に改められた。後に海上で試射すると、クルップ砲の最大射程は3,900mに達し、一方のライク滑腔砲の最大射程は2,700mであったから、彼らの慧眼と云えよう。但し、幕府閣僚の面子を保つ為に滑腔砲も残された。日本らしい妥協の産物である。 回航後、当時の日本に於ける最強艦と目され、幕府海軍旗艦となった。鳥羽・伏見の戦いの直前に薩摩軍艦春日と遭遇、海戦になったが逃走された(阿波沖海戦)。鳥羽・伏見の戦いの後、将軍一橋慶喜の命で密かに将軍を乗せて逃走した。その後榎本艦隊の旗艦となったが、蝦夷江差で暴風雨の為に一夜にして沈没した。 砲の有効射程はライク滑腔砲が1,300m、クルップ砲は1,500m。特にクルップ砲の有効射程は水平射撃が可能な距離を表しており、此の距離を切ると命中精度が格段に向上する。 ガトリング砲の装備に関しては、柏倉清『軍艦開陽丸』に依った。此の書籍では、此の砲は甲鉄に装備されていた二丁のガトリング砲の内の一門であったらしい。甲鉄が横浜に入った際、品川に居た榎本は甲鉄の回収は国際法上不可能でも、せめてガトリング砲だけでも欲しいと開陽乗り組み士官山内六三郎に命じて折衝させた。山内は英語が達者で、甲鉄を回航した米軍の軍曹を買収してまんまとガトリング砲を回収したという。現在、開陽の残骸の中からガトリング砲の銃弾が発見されて居る事から、当時の日本にはガトリング砲が四挺有った事になる(司馬史観には反するが……再現日本史・第7号『幕末明治10 1869-1870』P.23より( ̄▽ ̄;)ゞ)。つーか、二挺とも回収できたら、宮古湾海戦の結果も異なり、戦局も変わっていたと思うのは筆者だけであろうか? 余談だが、幕府は此のオーダーメイドの船に、間違いなく徳川家の物であるという証として、軍艦としては異例の葵の御紋を船首に付ける事を計画していた。その図面は確かに造船所に送られ、現在もオランダ海事博物館に保管されているのだが、何故かオランダは葵の御紋を「ハート」マークと勘違いし、船首にハートマークを付けてしまった。かなり萎える姿である。他の欧米列国ならいざ知らず、オランダは幕府とは昨日今日の付き合いでは無かった筈なのだが……謎である。 |
観光丸 | ||
所属: | 幕府海軍 | |
艦長: | ||
艦種: | スクーナー級コルベット | |
材質: | 木製 | |
機関: | 蒸気外輪 | |
マスト: | 3 | |
備砲: | 15門 | |
定員: | ||
全長: | 51.5m | |
全幅: | 10m | |
排水量: | 400t | |
出力: | 150馬力 | |
速力: | ||
解説: |
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1850年オランダ・フレッシンゲン建造。原名は「スムービング」で、1855年にオランダ国王から幕府に寄贈された。 |
咸臨丸 | ||
所属: | 幕府海軍 | |
艦長: | 小林文次郎 (副長:春山弁蔵) |
|
艦種: | バーク級武装商船 | |
材質: | 木製 | |
機関: | 蒸気内車 | |
マスト: | 3 | |
備砲: | 16門
|
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定員: | 76名 | |
全長: | 49.68m | |
全幅: | 8.53m | |
排水量: | 630t | |
出力: | 100馬力 | |
速力: | 6ノット | |
解説: | ||
オランダ・カンデルクで1857年完成、10万ドルで幕府に売却された。原名「ヤッパン(日本)」号。当時流行のクリッパー型のスマートな船首を持ち、運動性良好。外見は「開陽」に類似し、幕府「朝陽丸」と佐賀藩の「電流」「延年」とは姉妹艦に当たる。艦長勝海舟の指揮下に太平洋を横断した快挙は有名。その後、軍艦の籍から除かれ、機関を取り外して帆船に改装され、輸送船として使用された。 幕府崩壊後、榎本艦隊に参加したが、蝦夷に脱走する途中に暴風雨に遭って艦隊から脱落。駿河湾清水港に逃げ込み、艦長の小林は責めを負って駿府城に出頭した。駿府藩では小林を謹慎としたが咸臨丸には手を出さなかったので、業を煮やした官軍は一ヵ月後に幕府軍艦富士山を派遣。咸臨丸の接収を試みたが、副長春山以下の乗組員は激しく抵抗した。その結果、副長以下十数名が戦死し、陸上に逃れた残兵は投降しようとしたにも関わらず官軍方の大村藩兵に虐殺されてしまった。その死体はそのまま放棄されたので、腐乱して酷い臭いをばら撒いたと言う。清水の侠客清水次郎長は彼らを悼み、死体を回収して墓を建てた。今でもその石碑は残っている。咸臨丸は翌日曳航されて東京に向かい、以後官軍の一翼を担った。 函館戦争後、北海道開拓史に交付された。北海道沿岸で物資輸送に活躍したが、明治四(1871)年に座礁して全損した。 なお、「咸臨」とはその語源は『易経』に発し、「咸」・「臨」共に六十四卦の一つで、それぞれ咸は陰陽の交感する象、臨は進んで物に迫る象、とされている。咸は感に通じ、「感臨」は「上の知遇に感じ、よく下民に臨む」即ち「君臣互いに親しみ厚く、情あまねきの至りなり」(浅井将秀『日本海軍艦船名考』より)と言う意味か。軍艦なのに「丸」が付いているのは、この艦が幕府海軍に来た時にはまだ軍艦の名から「丸」を取り除く風習がなかったからである。 |
協隣丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | 輸送船 |
材質: | 木製 |
機関: | 蒸気外輪 |
マスト: | |
備砲: | |
定員: | |
全長: | |
全幅: | |
排水量: | 361t |
出力: | 90馬力 |
速力: | |
解説: | |
1863年米より購入。原名「サントン(山東)」。 |
黒竜丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | 輸送船 |
材質: | 木製 |
機関: | 蒸気内車 |
マスト: | |
備砲: | 2門 |
定員: | |
全長: | 51.8m |
全幅: | |
排水量: | |
出力: | 100馬力 |
速力: | |
解説: | |
原名「コムシング(金星)」。1865年福井藩より献上。小型で装備も貧弱だが一応正式の軍艦である。 |
行速丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | 輸送船 |
材質: | 木製 |
機関: | 蒸気外輪 |
マスト: | |
備砲: | |
定員: | |
全長: | |
全幅: | |
排水量: | 250t |
出力: | |
速力: | |
解説: | |
1860年アメリカで建造、原名「フイセン」。1866年に長崎に於て7万5千$で購入。明治維新後も静岡藩徳川家に付属していたが、1870年明治政府に献上された。 なお、「行速」とは『春秋左氏伝』成公十六年の「其行速(その行くや速やかなり)」による。 |
順動丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | 輸送船 |
材質: | 鉄骨木皮 |
機関: | 蒸気外輪 |
マスト: | |
備砲: | 不明 |
定員: | |
全長: | |
全幅: | |
排水量: | 450t |
出力: | 350馬力 |
速力: | |
解説: | |
1863年幕府が英国より15万ドルで購入した新造輸送船。原名「ジンキー(仁記)」にちなんで「順動」と命名された。 十四代将軍徳川家茂が上洛する際には御座乗艦として家茂を大坂に運ぶ予定であったが、大奥の反対でその任を外され、家茂は陸路行列を仕立てて上洛した。 順動丸もこれに従って大坂に進出。家茂の近畿巡察や江戸への帰還の際にはその乗艦として活躍した(また、この近畿巡察には勝海舟も加わっており、家茂に軍艦の有用さを説き、神戸に海軍操練所をする事を具申した。その甲斐有って、家茂は操練所の設立を許可した)。 戊辰戦争に際しては、大坂で新選組永倉新八らの敗兵を収容して江戸に退却した。 維新後は榎本艦隊に参加。官軍の「第一丁卯」・「乾行」が越後に進出すると、奥羽越列藩同盟は対抗して榎本艦隊に支援を要請、この順動丸が派遣された。 越後に到着した順動丸は越後中部の港・寺泊(てらどまり)港に寄港したが、順動丸を迎撃する為に襲来した「第一丁卯」・「乾行」を味方と誤認(両艦とも外国船の多い越後での作戦行動に備えて日章旗を掲げていた為らしい)し、のこのこと港外に出たところを挟撃された。両艦から砲撃を受けて始めて彼らが敵であると気が付いた順動丸は、二隻を相手に奮闘するが、不利を悟って自ら座礁し、拿捕を逃れる為に自爆した。 |
翔鶴丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | 肥田 浜五郎 |
艦種: | 仮装軍艦 |
材質: | 鉄製 |
機関: | 蒸気外輪(煙突2本) |
マスト: | 2 |
備砲: | 4門
|
定員: | |
全長: | 60.4m |
全幅: | 7.3m |
排水量: | 350t |
出力: | 350馬力 |
速力: | |
解説: | |
1857年アメリカ・ニューヨークで建造。「ヤンツーツェ(楊子江)」と言う中国語が訛った「ヤンツェ」と言う原名を持つ。1863年11月イギリス商人キングトンから幕府が購入。買い取りに当たった勝海舟は、最初キングストン側が17万5千ドルの値段を提示した物の、仲買人や税関を通さないと言う離れ業で14万ドルまで値引きさせた。 蒸気機関が好調で快速を得た為、本来は輸送船として建造されたが武装して仮装軍艦として使用された。また将軍家茂の二度目の上洛に際しても、座乗船として往復に使用される名誉を受けた。 第二次長州征伐にも参加。「富士山」・「旭日丸」・「大江丸」らと共に幕兵を乗せて大島に出撃、一旦は島を占領する。しかしその夜、久賀沖に停泊している隙に長州藩士高杉晋作率いるオテントサマ号に奇襲され、翌朝退却した。退却の際には砲撃支援を行い、敗兵の収容に活躍した。 一風変わった乗組員として、運用方の橋本久太夫がいる。 |
昌光丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | 輸送船 |
材質: | 鉄製 |
機関: | 蒸気内輪 |
マスト: | |
備砲: | |
定員: | |
全長: | |
全幅: | |
排水量: | 50t |
出力: | 81馬力 |
速力: | |
解説: | |
1862年英国より購入。原名「ナンキン(南京)」。 |
神速丸 | |
所属: | 纂府 |
艦長: | 西川真蔵 |
艦種: | 輸送船 |
材質: | 木製 |
機関: | 蒸気内車 |
マスト: | 2 |
備砲: | 12p施条カノン砲2門 |
定員: | 35名 |
全長: | 40m |
全幅: | 6.5m |
排水量: | 250t |
出力: | 45〜90馬力 |
速力: | |
解説: | |
1861年アメリカ・シャムロで建造。原名「メテオ(隕石)」。1864年7月20日、アメリカから横須賀に回航された。勝海舟は、其の真意は不明ながら、此を幕府海軍に受領させた。既に江戸城は開城され、榎本艦隊の北走は明らかとなった此の時点での引き渡しは一種の利敵行為とも思えるが、此は勝なりの榎本への贈り物だったのかも知れない。 神速丸は木造ながら頑丈で、操作性・機動性に富んで神速の名に恥じなかったが、その機動性を見込まれて江差沖で擱座した「開陽」を救出に向かったところ、暴風雨に遭って開陽共々沈没してしまった。 |
千歳丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | バーグ級商船 |
材質: | 木製 |
機関: | 帆走 |
マスト: | |
備砲: | |
定員: | |
全長: | |
全幅: | |
排水量: | 256t |
出力: | |
速力: | |
解説: | |
「ちとせまる」じゃなくて「せんざいまる」。 原名「アーミステス」。長崎−上海間の交易に従事していた英国人の船主船長ヘンリー・リチャードソンから購入した、艦齢二十余年のボロ船。 文久二(1862)年、勘定方は上海・長崎間で交易を行う計画を立てた。此の計画は幕府自身が交易に当たるのみならず、西国諸藩の有志を同乗させ、開国の必要性と先進技術の習得を目指した画期的な物であった。 しかし計画を任された長崎奉行高橋美濃守は無能で、交易の為にアーミステス号を購入する際には船価34,000$に対して邦貨で十九万両を支払う等、外国商人と長崎商人の傀儡に等しかった。結局、長崎から上海にもたらした商品も長崎商人の意向を反映した俵物・諸色・人参等の旧来の貿易品目ばかりで、何ら交易の実を挙げ得なかった。 此の航海後、交易の不振と航海の経費に驚いた高橋は貿易事業を差し止め、千歳丸は外国商館に捨て値で売り払われた。 なお、此の上海航海には長州藩士高杉晋作、佐賀藩士中牟田倉之助、薩摩藩士五代才助らが幕臣の従者として参加した事でも有名である。 |
千秋丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | 浜口卓右衛門 |
艦種: | バーク級輸送船 |
材質: | 木製 |
機関: | 帆走 |
マスト: | 3 |
備砲: | |
定員: | |
全長: | |
全幅: | |
排水量: | 263t |
出力: | |
速力: | |
解説: | |
1850年アメリカ・ボストン建造で原名「ダニエル・ウェブスター」。文久元年に幕府が1万6千ドルで購入。値段が示すとおりさすがに古く、所々ペンキが剥げていたと言う。 同艦は一時仙台藩に貸与されたが、戊申戦争時には海賊に乗っ取られると云う不名誉な事もあった。榎本艦隊は此を仙台近海で拿捕、回春丸と命名して艦隊に加えた。 |
第一長崎丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | 輸送船 |
材質: | 鉄製 |
機関: | 蒸気外輪 |
マスト: | |
備砲: | |
定員: | |
全長: | |
全幅: | |
排水量: | 94t |
出力: | 60馬力 |
速力: | |
解説: | |
1863年、幕府はイギリスから三隻の蒸気船を購入、それぞれ「第一長崎丸」・「第二長崎丸」・「長崎丸」と名付け、輸送艦として使用した。 その内の一隻である第一長崎丸は原名「ビクトリア」といい、元治元年十二月二日八丈島で難破した。 |
第二長崎丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | スクーナー級輸送船 |
材質: | 鉄製 |
機関: | 蒸気内車 |
マスト: | 3 |
備砲: | |
定員: | |
全長: | |
全幅: | |
排水量: | 341t |
出力: | 120馬力 |
速力: | |
解説: | |
1863年、幕府はイギリスから三隻の蒸気船を購入、それぞれ「第一長崎丸」・「第二長崎丸」・「長崎丸」と名付け、輸送艦として使用した。 その内の一隻である第二長崎丸は、原名「ジョンリー」。最後に造られただけ有って、長崎丸シリーズ中最高の鉄製船体にスクリュー装備である。幕府崩壊時、静岡藩徳川家に下賜されたが、脱走。榎本艦隊に合流した。 榎本艦隊では千代田形・大江丸と共に陸兵を積載して庄内藩の支援に向かった。しかし、既に庄内藩は官軍に降伏していたので、酒田港の沖合いで水と薪を補充する事にした。ところが不運は続くもので、補給作業中に天候が悪化。第二長崎丸は押し流されて暗礁に乗り上げてしまい、大破・沈没した。 |
太平丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | 輸送船 |
材質: | 鉄製 |
機関: | 蒸気外輪 |
マスト: | |
備砲: | |
定員: | |
全長: | 66.6m |
全幅: | |
排水量: | 370t |
出力: | 355馬力 |
速力: | |
解説: | |
1863年英より購入。原名「ライモン(鯉魚門)」。ちなみに鯉魚門とは香港の地名で、九龍半島の東側に有る小さな漁港である。現在はレイユームン等と呼ばれており、海鮮料理の美味しい観光地……らしい。 購入後も「鯉魚門」の名で暫く使われ、小笠原長行のクーデターに際しては、陸兵1500名を輸送した。 その後、「太平丸」に改名。 |
長鯨丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | 輸送船 |
材質: | 鉄製 |
機関: | 蒸気外輪 |
マスト: | |
備砲: | |
定員: | |
全長: | 75.8m |
全幅: | 10.9m |
排水量: | 996t |
出力: | 300馬力 |
速力: | |
解説: | |
1864年イギリス・グラスゴーで建造。原名「ドムバルトン」。1864年、第二次長州征伐に備えて「奇捷丸」と共に幕臣の小野友五郎が横浜で購入したが、実戦には間に合わず、終戦後の和平交渉に向かう勝海舟を安芸に送り届けるのみであった。その後、第十四代将軍家茂の遺体を大坂から江戸に運んだ。 以後は江戸に駐留し、榎本艦隊に参加した。榎本が動静を見極めるあいだ羽田沖に停泊していたが、上野戦争が終結すると上野寛永寺を脱出してきた彰義隊の主将輪王寺宮を迎え入れ、榎本艦隊に先んじて出航。榎本の命令を受けて常陸国多賀郡平潟に送り届け、輪王寺宮を奥羽越列藩同盟に引き渡した。 函館戦争において官軍に拿捕されるが、軍艦としての使用は困難として最初大蔵省、次いで民部省に譲渡された。 |
千代田形 | ||
所属: | 幕府海軍 | |
艦長: | 森木弘策 (副長:市川慎太郎) |
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艦種: | スクーナー級砲艦 | |
材質: | 木製 | |
機関: | 蒸気内車 | |
マスト: | 2 | |
備砲: | 3門 | |
定員: | 42名(士官見習7名/水夫35名) | |
全長: | 31m | |
全幅: | 4.5m | |
排水量: | 138t | |
出力: | 60馬力 | |
速力: | 5ノット | |
解説: | ||
「千代田」とは江戸城の別称。「形」とは「級」を意味し、当初計画では同型艦二十隻を建造する予定であった。また排水量に似合わない大口径砲を持つ。此の同型艦建造計画と大口径砲の装備は「大型の戦艦を持たずとも、小型でも大口径の砲を持つ軍艦を多数配備し、大型艦を取り囲んで攻撃すればよい」と言う勝海舟の用兵思想による。しかし実際には完成の遅延から時宜を逸し、一隻のみの建造に留まった。 文久二(1862)年、日本人の設計・建造する最初の蒸気船として着工された。船体の建造は江戸石川島で小野友五郎、春山弁蔵が担当し、蒸気機関は長崎製鉄所で肥田浜五郎が担当、ボイラーは佐賀藩の三重津製作所で担当と日本の最先端技術が結集された蒸気船……になる筈だったのだが、肥田がオランダに留学してしまった為に蒸気機関の取り付けが出来なかったり、ボイラーの完成が遅れたりと不都合が続いた。結局、当時の政情が急を告げていた事為に先ず文久三(1863)年に帆船として進水した。此の千代田形に蒸気機関が付けられたのは慶応二(1866)年の事であった。 函館戦争には榎本艦隊に参加。明治二(1869)年五月一日夜半、弁天台場沖を巡回中に座礁してしまい、脱出不能と判断した森木艦長は機関を破壊して退艦した。しかし、翌朝になって潮が満ちてくると千代田形は暗礁を離れ、復活したので明治政府軍は一発の砲弾も使わずこれを拿捕する事に成功した。この失策により森木艦長は一兵卒に降格の上禁固刑となり、また責任を感じた市川副長は、荒井郁之助の制止を振り切って「回天」艦上で切腹した。 明治維新後は砲艦として使用され、明治二十一(1888)年廃艦。 |
朝陽 | ||
所属: | 幕府海軍→明治政府 | |
艦長: | 伴 鉄太郎(幕臣)→中牟田倉之助(肥前) | |
艦種: | スクーナー級コルベット | |
材質: | 木製 | |
機関: | 蒸気内車(引揚式) | |
マスト: | 3 | |
備砲: | 12門(24ポンド砲) | |
定員: | 84名(士官2名/士官見習15名/水夫67名) | |
全長: | 49m | |
全幅: | 7m | |
排水量: | 250t | |
出力: | 100馬力 | |
速力: | 6ノット | |
解説: | ||
1856年に幕府が咸臨丸と共にオランダに10万ドルで発注、1858年に完成した。佐賀藩の「電流」「延年」とも姉妹艦に当たる。 「朝陽」は朝日の意。朝陽は1858年に長崎で引き渡されると、江戸の海軍操連練所に移籍した咸臨丸の後を襲って長崎海軍伝習所の練習艦となり、翌年一月には伝習所々長の勝らと共に江戸に練習航海に出た。しかし、その直後に長崎海軍伝習所は廃止されてしまう。その代わりに降って湧いたのが、遣米使節に日本人の手によって運用される随行船の計画である。此の計画の最有力候補に朝陽は選ばれていたのだが、運悪く航海中だったため、咸臨丸にその座を奪われてしまう。その後、文久二(1862)年と文久三(1863)年には二回に渡って小笠原島に派遣され、同年五月の小笠原長行のクーデターに際しては陸兵1500名を輸送する等、幕府艦隊の主力として活躍した。 但し不名誉な歴史もある。同年六月十八日、下関で攘夷戦争を始めた長州藩奇兵隊が「下関を通る外国船を挟み撃ちにしよう」と企図して対岸の小倉藩領の借用を申し出、拒否されると攻撃して占拠してしまうと云う事件が起きた。幕府は七月十五日、問責使として使番の中根市之丞を派遣した。中根は朝陽に乗って長州に向かったが、台場は殺気立っており、いきなり砲撃を受けて拿捕されてしまった。結果、中根は奇兵隊により斬られ、船も危うく長州藩に借用されてしまうところであった。 江戸城占領時には、明治政府に引き渡される。明治政府では榎本艦隊討伐艦隊に編入され、森木艦長が遺棄した「千代田形」を拿捕する殊勲を建てた。 明治二年五月十一日三時頃より丁卯と共に弁天台場を艦砲射撃し、迎撃に出てきた蟠龍と交戦。蟠龍から二三発の直撃弾を受けるが朝陽も負けずに突進して反撃、蟠龍に四発の命中弾を与えた。しかしその後蟠龍からの攻撃が弾薬庫に被弾、七時三十五分に撃沈された。その時の戦死者は五十四名、艦長の中牟田は辛うじて救出された。 最後まで、不運に祟られた船であった。 |
長崎形 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | カッター級輸送船 |
材質: | 木製 |
機関: | 帆走 |
マスト: | |
備砲: | |
定員: | |
全長: | |
全幅: | |
排水量: | |
出力: | |
速力: | |
解説: | |
1857年国産。佐賀藩の晨風丸は長崎形を手本に建造された。 |
長崎丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | 輸送船 |
材質: | 木製 |
機関: | 蒸気外輪 |
マスト: | |
備砲: | |
定員: | |
全長: | |
全幅: | |
排水量: | 138t |
出力: | 60馬力 |
速力: | |
解説: | |
1863年、幕府はイギリスから三隻の蒸気船を購入、それぞれ「第一長崎丸」・「第二長崎丸」・「長崎丸」と名付け、輸送艦として使用した。 その内の一隻である長崎丸は原名「シュアルツ・アーリスファルブ」と云い、木製の船体で、船腹に鉄板を張り付けている。 元治元年四月、薩摩藩に貸与中に下関で外国船と間違われて長州藩に砲撃され、破壊された。 |
蟠龍 | ||
所属: | 幕府海軍 | |
艦長: | 浜口卓右衛門(幕臣)→根津勢吉(幕臣)→松岡磐吉(幕臣) | |
艦種: | スクーナー級コルベット | |
材質: | 木製 | |
機関: | 蒸気内車 | |
マスト: | 3 | |
備砲: | 6門
|
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定員: | 58名(士官2名/士官見習12名/水夫44名) | |
全長: | 42.2m | |
全幅: | 6.4m | |
排水量: | 125t | |
出力: | 60馬力 | |
速力: | 7.7ノット | |
解説: | ||
蟠龍とはうずくまって天に昇る機会を待っている竜の事。「ばんりゅう」ではなく「はんりょう」が正しい読み方らしい。 1856年に英国ブラックウォールのグリーン造船所で建造された。原名「エンペラー」。英王室所有の遊覧船。 1858年7月4日、日英修好通商条約に調印する為にやってきた英国使節ジェームズ・エルギン伯爵により、ビクトリア女王の名に於いて将軍に寄贈された。小型でスマートな快速遊覧船ながら構造が頑丈だった。王室座乗船だけあって、内装は豪華であったらしい。 幕府はこの船を砲艦に改造し、海軍に編入。維新史に於ける特筆すべき功績の一つに、小笠原長行のクーデター部隊の移送が挙げられる。 また、函館戦争では榎本艦隊の基幹として活躍した。最後には函館湾内で回天と共に明治政府艦隊を引き受けて奮戦し、箱館湾内に突入して来た政府艦「朝陽」を撃沈すると云う大殊勲を建てた。 五月十一日午前九時、甲鉄艦と交戦して機関部を損傷して航行に支障を来たすようになった。また砲弾も撃ち尽くしたので、艦長松岡磐吉は弁天台場近くの海岸に座礁させた。以後、乗組員は弁天台場に逃げ込み、陸兵となって戦った。なお、取り残された蟠龍は同日午後二時、侵攻して来た明治政府軍によって火を放たれた。しかしこの時炎はマストを包むのみで船体には引火せず、マストが倒れると船体もバランスを失って海中に倒れ、火災は鎮火してしまった。 戦後、英国商人がこの焼け残りを再生して「雷電」と名付けて北海道開拓使に売りつけた。この時、大幅に改装され、出力128馬力、備砲4門、マスト2本(写真の蟠龍のマストが二本なのはその為)、乗員52名となった。明治政府はこの船を北海道開拓使から取り上げて軍艦として横須賀に配備したが、間も無く廃艦とした。その後土佐人の漁業家の手に渡って捕鯨船となり、更に愛知の汽船会社に買い取られて商船となり、明治30年に解体された。 |
富士山 | ||
所属: | 幕府海軍→明治政府 | |
艦長: | 望月大掾(幕臣)→柴誠一(幕臣) | |
艦種: | シップ級コルベット | |
材質: | 木製 | |
機関: | 蒸気内車 | |
マスト: | 3 | |
備砲: | 12門
|
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定員: | 200名(士官5名/士官見習21名/水夫174名) | |
全長: | 68.3m | |
全幅: | 10.1m | |
排水量: | 1000t | |
出力: | 350馬力 | |
速力: | 8ノット | |
解説: | ||
1864年に幕府が南北戦争中のアメリカに27万1千$(内、回航費用は3万1千$)で発注、ニューヨークで建造され、1865年に完成した最新鋭大型艦。原名「エド(江戸)」号。当時の幕府海軍の花形で、将軍の座乗艦にもなった。 慶応二(1866)年の第二次長州征伐に参加し、六月七日には大島郡の占領に従事。戦中は備砲のパーロット砲が破裂して負傷者が出たり、長州藩士高杉晋作のオテントサマ号に夜襲を受けたりと良いことがなかったが、大島郡から幕府軍が撤退する際には翔鶴丸と共に支援砲撃を行い、敗兵を収容した。また七月三十日には小倉口にも出陣し、小倉城から逃走する幕府軍司令官・小笠原長行を乗船させた。 戊辰戦争に際しては、大坂で新選組近藤勇ら負傷兵を収容して江戸に退却した。その際、新選組隊士山崎烝が戦傷死したので、日本初の水葬にしたとされている。 後、明治維新に際して新政府に引き渡され、慶応四(1868)年六月には平潟砲撃に参加した。その際、磐城平藩軍事方山田省吾がただ一人沿岸に四斤山砲を持ち出して反撃を行った。その砲弾により富士山は機関部を損傷、以後修理の為戊辰戦争終結まで戦場に立つ事は出来なかった……と、中村彰彦氏は『軍艦「甲鉄」始末』で述べているが、実際には同年九月二日に駿河国清水港に逃げ込んだ咸臨丸を捕獲する為に派遣される等、東京湾の警護に活躍した。 |
鳳凰丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | パーク級輸送船 |
材質: | 木製 |
機関: | 帆走 |
マスト: | 3 |
備砲: | |
定員: | |
全長: | 38m |
全幅: | 9m |
排水量: | 600t |
出力: | |
速力: | |
解説: | |
幕府が建造した、日本で最初の洋式艦船。浦賀奉行所の与力である中島三郎助が指揮を取り、安政元(1854)年5月浦和で竣工した。慶応2(1866)年に石川島造船所で改造を受け、「豊島形」と改称する。明治維新に際して新政府に接収されるが、まもなく除籍された。 |
鵬翔丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | |
艦種: | バーク級輸送船 |
材質: | 木製 |
機関: | 帆走 |
マスト: | 3 |
備砲: | |
定員: | |
全長: | 36.6m |
全幅: | 7.6m |
排水量: | 340t |
出力: | |
速力: | |
解説: | |
安政四(1857)年イギリス製。安政五(1858)年長崎にて購入。原名「カタリナ・テレサ」。 当初は長崎海軍伝習所で使用される予定であったが、幕命により伝習所卒業生を乗せて江戸に回航した。 万延元年七月二十三日、下田沖で台風に遭って沈没した。 |
美嘉保丸 | |
所属: | 幕府 |
艦長: | 宮永扇三 |
艦種: | バーク級曳航船 |
材質: | 木製 |
機関: | 帆走 |
マスト: | |
備砲: | |
定員: | |
全長: | 52.7m |
全幅: | 10m |
排水量: | 800t |
出力: | |
速力: | |
解説: | |
プロシャで建造。原名「ブランデンブルグ」。1865年長崎で購入。 榎本艦隊に輸送艦として参加し、大量の軍需品と幕府軍六百十四名を積載して蝦夷に向かった。しかし、開陽に曳航されて北上する途中で鹿島灘で台風に遭遇。開陽との間を繋いでいたケーブル二本が切断され、房州沖の犬吠埼夫婦ヶ浜で暗礁に乗り上げてしまう。あわや全滅と云うところであったが、士官石塚銃太郎が大荒れの海に飛び込んで近くの漁村に助けを求めたので、溺死者は十三名に留まった。 脱出した乗員は散り散りとなってしまい、五十名は土浦藩に自首し、辛うじて追捕を逃れた十数名も江戸で捕縛されている。但し、伊庭八郎だけは協力者の手引きで横浜に潜伏し、箱館行きのアメリカ船に乗って脱出した。 美嘉保丸には、座礁の報告を受けて到着した高崎藩兵が押収した大砲三門・元込銃三十挺・弾薬多数の他にも、大坂城から運び出した一分金十八万両が積み込まれていたと云われている。 この黄金伝説に惹かれて、昭和に入って幾度か引き上げ業者が捜索を行ったが、現在に至るまで金目の物は発見できていない。 |
以上、 軍艦 8隻 観光
咸臨丸
蟠龍
朝陽
富士山
回天
開陽
千代田形西洋製船舶 25隻 鵬翔丸
千秋丸
健順丸(原名「アルテア」、1861年米より購入、バーク帆船、木、378t)
千歳丸
順動丸
昌光丸
第一長崎丸
協隣丸
長崎丸
第二長崎丸
エルシールス(1863年英より購入、鉄製スクリュー汽船。25馬力、85t)
翔鶴丸
神速丸
黒竜丸
大江丸
美嘉穂丸
鶴港丸(原名「マッテリリュース」。1865年米より購入、木造バーク帆船、305t)
竜翔丸(原名「マルクリー」、1866年英より購入、鉄製スクリュー汽船)
長鯨丸
奇捷丸(原名「タバンニュー」、1866年、第二次長州征伐の為に長鯨丸共々英より購入。鉄製スクリュー汽船。150馬力、517t)
行速丸(原名「フィセン」、アメリカ製。木造蒸気外輪船、250馬力)
飛竜丸(原名「プロミス」、小倉藩より譲渡、木造スクリュー船、90馬力)
太平丸(原名「鯉魚門」)
旭日丸(病院船)他和製船舶 11隻 千代田形
長崎形
鳳凰丸
昌平丸他計44隻