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日本労働年鑑 第25集 1953年版
The Labour Year Book of Japan 1953

第二部 労働運動

第一編 労働争議


第二章 主要な争議

第一〇節 三越の争議

 一、争議の背景
 歳末の華やかなデコレーションを赤旗でかざりなおした三越の争議は、たしかに「講和の春」を迎えるにふさわしい平和と独立への底流の一つを示すものであった。
 三越は徳川時代の越後屋から三百年の伝統をほこり、名実ともに百貨店の先端を切っていることは余りにも有名であるが、表面の華やかさ、「天下の大三越」を支えて来たものは実に三井資本の「堅実」な「ルール」−−名こそ異なれ「旦那、手代、大番頭、小番頭、小僧」(労政時報一一七二号)といった封建的な収奪関係であった。これによって三〇〇年の伝統の「のれん」を神棚にかかげ「お店者」に精神的支柱を与え、「少しの不平の声も起らぬように仕組」(新女性五二・二、藤田さんの手記)んできたのである。現在の社長は、日経連あたりからもその手腕を高くかわれているといわれる岩瀬英一郎。側近は「みな彼の鼻息をうかがうことに憂身をやつして」いるといわれ、三越の三田学閥は徹底している(前掲、労政時報)。従業員は東京三店、地方六店、合計で四、〇〇〇名を越えこの外常時数百乃至千名以上の実習生、臨時雇、学生が「任意」の賃金で働いている。女子は約六・五割を占める。賃金は基本給の二五%から七五%の能率給があるといわれ、給与の大半を占める賞与とともに経営者の一方的な査定によって決められて来た。職場の状態はどうか。職制は部長の下に主任だけという「簡素」なものだが主任は一部の良心分子を除いて完全に経営支配権力の末端としての役割を果している。更にその周りに中堅の男女従業員が「担当」として主任の補助をつとめている。だから「それだけに一人当りの売上げは他社をひきはなし」一九五一年八月期で三一万円以上、利益金二億七千万円以上もあげ七割配当が可能であった(東洋経済新報一九五一・二・一七号)。この職制が「サービス強調週間」「実務能率向上週間」といったものと共に極度に運用され、「昼食にゆくにも気がひける」という状態をうんだ。労組機関紙「全三越」二六号は次のような職場の声を報じている。

(1)休憩に本なんかよむよりもっと店内のことを知るようにしろ……と部長からいわれた。
 (2)定時出勤以来、部長さんは九時一五分に出勤、私達は止むを得ず九時に店に着くようにしなければなりません。でないと顔と時計を見くらべられます。
 (3)Mさんは担当者を通じて部長より給料をもらう態度が注意された。
 (4)某売場ではAさん、Bさん、Cさんが背中が痛いという。毎日一八人中六人位背中が痛くなったり、肩がひどくこってくる。
 (5)某売場女子「生休をとりたくとも、いやみをいわれるので我慢している……」等々。

 二、争議までのあらまし
 一九四五年八月の解放後急激にもり上った労働組合結成の波は翌四六年四月には三越をも覆い各支店とも次々に結成、一一月には全三越が統一された。しかしこの時分はまだ「会社指令による役員選挙が行われたと信ぜられる程で」(労働調査月報第四号)「部長、主任クラスで牛耳られ、完全な御用組合であった」(前掲、藤田さんの手記)。けれども芦田内閣の物価改訂による国民窮乏化への道は、商品のニュールックとはおよそかけはなれて古臭いといわれた従業員をして、七月には夏期突破資金の要求を徹夜交渉をするほどまでに成長させた。驚いた経営者は同年一〇月の主任部長会議の席上、終戦後その活動を停止していた「三越愛護会」の復活をもち出して来た。愛護会というのは一九一五年頃、当時の社長野崎氏が作ったもので、会社が出資し従業員の福利厚生を主眼に「家族的にという三越の伝統をおしつけるといった組織」(前掲、藤田さんの手記)なのである。

 会社はこれによって組合の解散を策し、愛護会幹部、組合の御用幹部を使って工作を開始した。その後部長を中心とした組合脱退署名運動などというのもおこした。当時の組合長は愛護会の福祉部長になり組合解散を指導した。一一月二五日の全国中執委では東京三店内の一部が組合解散に反対したのみで地方支店はいずれも賛成で結局中執委として是認したが、独善的だとの声もあり、良心的幹部の必死の奮闘で同日の定期大会では大衆投票で決定するところにまでこぎつけた。一九四九年一月一八日の本店の投票結果は八〇〇対二〇〇で解散は否決された。さらに狼狽した会社は、執行委員である早川氏を、二ヵ月前の些細なことをもち出して突然馘首した。彼は二三年間も忠実に勤め来た店員なのである。そして更に組合への干渉を激しくして来た。これに憤激した組合の有志(現組合の委員長斎藤氏らが中心)は会社の組合干渉、不当馘首の事実をあげ都労委に個人提訴を行い、友誼団体の応援を得て遂に凱歌をあげた。こうして三月の大会では役員改選を行い組合の発展をかちとったのであった。

 一方、全面的な敗北を喫した会社は、井上総務部長を退陣させるともに後任に現日高総務部長を据え、協約締結に力を入れて来た。この労働協約は実に三年越しの交渉の末、一九五一年四月二七日に調印された。内容は今次争議を通して常に問題となったように、極めて不十分なものであったが、「早期締結が急務」という到断から後日を期して調印したものであった。それは、とかくあいまいであった団交権と組合の体制をともかくも確立したという点では大きな進歩であった。こうして不十分ながらも徐々に立直りの方向をたどった組合は前年の一一月の第七回定期大会で決定し、さらに一九五一年四月の第八回臨時大会で最後的決定をみた一七、〇〇〇円ベースの賃上要求を、協約調印後の四月二九日に提出し、五月二日から交渉に入った。

 三、争議の経過
 この交渉は協約に基いて、中央労働協議会で進められたのであるが、交渉開始後一ヵ月の日を見た六日八日まで前後一七回もたれたが、会社は組合案(一九五○下期の給与実績−賞与を含めた月割収人の八五%を確定収入とするもので一七、〇○○円ベース)は不確実な賞与給源を大巾に確定給源である基準給与に繰り入れることは経営上好ましくないとし、同期基準給与実績の五〇%増、一四、○〇〇円を固執してゆずらなかった。組合は更に要求して、一六、一七、一九日の三回にわたって団交をもったが、組合が一六、三五八円と譲歩したのに、会社は一四、五〇〇円以上は上げられないとあくまで恩恵的な賞与でごまかそうとした。当時すでに高島屋労組では一六、五〇〇円ベースを実力で闘いとっていた。かくして中闘はこの会社の態度に対し重大な決意をもたざるを得なかった。六月一九日、「中元時延長及定休日営業に関する協定を一切拒否せよ」と各部に指令を発し(時間外の協定は各支店別に労働協議会で協定することになっている)、翌二〇日、協約に基き都労委に提訴した。更に六月二五日、臨時大会をもち争議権行使の一般投票実施を決定し、七月五日、各支店一斉に投票をやった結果、争議指令権は中闘にうつされた。この間会社は、当面する七月九日の定休日の営業について組合と労働協議会をもったが、解決に至らず、七月三日、中闘指令は不法越権だと組合に抗議するとともに都労委に手を回し、中闘指令の効力保留の勧告をさせた。組合は調停案の提示を八日以前とするという条件つきで受け入れた。そして一〇日には賃金形態は双方で協議することを条件に一六、○○○円の調停案を提示した。この案は固定給与として一四、八〇〇円、調整的手当(配分は双方の協議)として一、二〇〇円の内容をもつものであるが、一六日、組合は無条件受諾を表明、会社は中間賞与の廃止、調整手当は各店の売上額によってきめる等の条件を附して受け入れなかった。調停委は、組合にはかり、同日午後一時まで回答期限を延長したが午後八時にいたるも会社の回答なく、組合は遂に一七日東京三店で一斉定時出勤を行い会社をあわてさせた。このため会社は同日午後、調停案の無条件受諾を表明した。かくして八月三日に会社から賃金体系が提示され、同月二五日には賃上げの協定は完全に片附いたのである。ところがこの間、七月二〇日の時間外労働の協定が成立した後の翌一二日、会社は、さきの組合指令と一七日の定時出勤について責任追求の権利を保留する次のような通告を発した。

 

今次紛争につき都労委の調停継続中にも拘らず組合は「会社の永年に亘る伝統と慣行を無視して中元時における定休日営業並に営業時間延長に対して全面的に拒否し、会社に対して甚大な損害を与え会社の信用を毀損したことは労使間の信義則を著しく破るものである。又東京三店において組合が指令を発し……故意に出勤時間を遅延せしむる如き行爲に出たことは、名を遵法斗争に籍り業務の正常なる運営を阻害せんとして行われた一種の争議行為である。右の如き行爲は明らかに協約第一四三、第一四四条に違反するものというべく、会社は組合の行動に猛省を促すと同時にこれの行爲より生ずる組合の責任を追及する一切の権利を留保する」。(第一四三・四条とは、斡旋調停、仲裁中は争議行為を行わないことと調停による解決をみない場合、調停申請の日より二五日以上を経過した場合にやむを得ず争議に入るときは四八時前の通告を規定したもの−引用者註)

 その後、会社は賃金問題解決から一ヵ月後の九月二五日に、(1)協約四六、四八、四九条(勤務時間・休日の協約)違反の件、(2)同一四〇、一四三、一四四条(紛議の「平和的解決」の協約)違反の件を議題にあげて、中央苦情処理協議会の開催を申入れて来た。これは二七日より九月三〇日にわたり四回開かれ、結論のないまま打切られたが、組合はさらに一〇月一一日次のように協約違反でないことを明らかにした。

(1)協約四六、四八・四九条については指令第二号が発せられていたが会社側申入れにより支部労協会が開かれ、協議がととのわなかったもので協議会開催を拒否したものではない。

 (2)一四〇、一四三、一四四条については定時出勤は争議行為に該当するものでなく、当時の状態では正当な団体行動である。


 この組合の態度表明を受けた会社は翌一〇月一二日、中闘委員懲戒を審議するための考査委員会の開催を申入れて来たが組合はこれをつっぱねるとともに一七日団交を申し入れた、お互に主張を入れる余地はなかった。一〇月二五日、会社は「まず職制買収の布石を行った上」(労働経済旬報、一四四号)一方的に、中闘委員長斎藤一衛以下六中闘の解雇と他に九中闘の譴責を通告して来た。この会社の一方的な処置は、中闘を信頼している組合員の憤激を買った。各支店とも続いて緊急支部総会が開かれ、全百連では早くも二六日に共闘態勢の確立とゼネスト態勢準備を決定した。組合は一〇月二九日の中央委員会で一応の闘争方針−−直ちに東京地裁に身分保全の仮処分を請求し、都労委には不当労働行爲の申立を行って法廷闘争を行う、(2)闘争資金のカンパ、(3)総評、賃金共闘、全百連などに応援をもとめる等−−を決定し、翌三〇日各支部長を加えて中闘を結成し、一一月三日の東京三店合同評議委員会は、御用分子の反撃を排して「ストをも辞せず」という断固たる態度でのぞむことを決議し、一一月七日東京地裁に身分保全の仮処分、都労委に不当労働行爲の申立てを行ったのである。三越の組合がここまで至ったかげには、賃金共闘、総評をはじめ各組合からの絶大な激励と支援があった。とくに、労働関係法規改悪のうごきの中にあって、三越の闘いが全労働者の問題として意識され、責任を自覚し、勇気づけられたことは見逃せない。いよいよ確信を得た中闘は、一四、一五、一六の三日にわたっての組合大会では、(1)不当解雇の撤回、(2)賞与一人三万円要求を目標にスト権の一般投票を可決して二八日に実施した。この結果は、七割を越える賛成でスト権は中闘一任となった。なおこの大会では次のような決議を行った。

 

今回会社の行った中央斗争委員会に対する懲戒並びに譴責はわが組合の組織の破壊を狙う最も悪質なる不当労働行為というべくわれら組合員の絶対に容認出来ないものである。先に第七回臨時中央委員会の名に於てなせる不当懲戒の即時撤回要求に対してもその後会社は何等誠意ある回答を示さざるのみか、あくまでも一方的見解を固執しわれら組合員の憤満を無視して既定方針の強行を企図している。

 事茲に至っては我々はもはや団体行動による外、解決の道なき事を決意し、今後如何なる事態の発生を見るも責任は一切会社にあることを指摘し断固斗う事を宣言し、右決議する。

 情勢の急激な発展をおそれた会社は今までの職制や組合内の裏切分子を通じての切くづしを更に激しくすると共に直接組合の圧迫にのり出して来た。すなわち「主任級及び永年勤続の組合員は、(1)解雇問題はあく迄も法廷闘争として審判をもとめ、公正な審判を会社が聴かないとき立上るべきこと、(2)力に限界があり新たな犠牲者を出してはならぬこと、(3)友誼団体の応援も結構だが競争会社とその従業員を利するようなことは三越と全三越(労組)のためにならぬ」(前掲、労政時報)等々と主張してスト権委任の投票に反対し、「組合の前面に」のり出して来た。一方会社は「(1)組合掲示板の制限、(2)支部幹部の休憩時間における組合活動停止、(3)会社内における組合集会への外部団体員出入の制限、(4)組合事務所に時間外残留の制限等」(前掲労政時報)を露骨にはじめ、また「歳末売出しを理由に、組合員と略々同数の実習員を採用し、職先(仕入商人)に厳令してスト破りの動員計画を進行させ、同時に警察その他に手を廻し」(労働調査月報第四号)弾圧態勢に怠りなかった。

 このような緊迫した空気の中にあって、九・一平和闘争を転期に根強いもり上りを見せて来た労働者階級の闘いは、三越の争議では期せずして共闘組織に発展した。一一月二〇日、全三越、全百連、全百都連、総評、賃金共闘による「全三越不当馘首反対闘争会議」の発足をみた。そしてこの三越共闘と、中闘では、ストの可否について慎重な討論がかわされていた。かくして一二月三日の戦術会議は、一二日の東京三店の二四時間スト決行を決定し、各支部、共闘団体はビラや動員に全力を盡した。全三越中闘は九日の晩、会社側へ一二日のスト通告を行うと共に団交を申し入れた。会社はこれを拒絶した。一〇日都労委は「三越ストの社会的、政治的影響を考慮した結果」一一日に職権斡旋の団交を予定した。丁度その日は東京地裁の審訊が予定されており、この日の審訊で裁判所は会社の訴えに同調し、申請をしておきながらストをやるとはおかしいではないかという態度に出て来た。

 さらに同じ頃、「三支部にそれぞれ所轄の各署より呼び出しがあり、『街路上ビラ流しは道路交通取締法違反に、集会や合唱して気勢をあげるのは公安条例違反に、スクラムはよいが、それを突破するものを妨害すれば暴力行爲にひっかかる云々』ということが伝達されて(前掲、月報)」いたので、中闘員が動揺し裁判官の前で、会社は組合の干渉をしないという口約束で、都労委の職権斡旋にのぞんだ。地裁でスト中止を宣言した中闘は、正規の会議ももたずに、スト中止をつたえたが、共闘本部の要請で一旦組合で説明し、一応スト態勢をとくことになった。一方会社側は、職制やその影響下にある者をつかって、スト反対の署名運動や、女店員に対して「お前は会社に雇われているのか、組合に雇われているのか……」といった脅迫や、各家庭に手紙で「子供がストに加担している、こういうことは会社に対して悪いことだ」といった切崩しにやっきとなっていた(労働法律旬報、八一号)。そしてスト回避の報に勢を得た会社は都労委の交渉には頑としてゆずらず、さきの口約束の成文化をうながす組合に、なかなか応じようとしなかった。「この頃急をきいた女子組合員多数と友誼団体代表は続々都労委へ押しよせ、無言の声援は漸時中闘を立直らせ、午後八時頃、事態の解決がのぞみないことと、応援の力づげによって全員歓喜の中に再び『スト態勢』強化を確認して三支部に通知した」。

 しかし「会社の意を受けた都労委のスト回避の努力は執拗をきわめ」、もう一度考えてほしい、そのために条件があるなら申出てくれと要求してきた。組合側は闘争本部にひきあげて相談した。「三支部代表、共闘団体代表数十名が集合した中で会議は開かれた。中闘の責任によってスト回避を主張するもの、さらに下部の要望に応え闘争態勢強化の目的でこの反対に反対するもの等微妙な空気は中闘会議を単独にするということで一応中断された。総評代表の空気は中闘の決意に干渉するのはいけない、というようなところにあった。賃金共闘、労闘協は中闘にスト決意なくばやむなきも、拾収のため各店別総会でいきさつを徹底すべし、というにあった。この間中闘会議は正式にスト中止を決定して、改めて共闘会議が再開されここで「スト中止」を確認するとともに収拾策として、(1)団交開催(2)会社側が今次紛争の責任を追求しない、(3)各店総会の開催(場所と時間の提供)を条件とする基本線を決め、中闘は会社の待ちかねる都労委に向った。時、既に一二日の午前三時をすぎていた」。間もなく「中闘は全員引きあげて来た、『(2)の今次紛争の責任は追求せず』に関し会社応諾せず、との報告に本部は一躍殺気立った。三支部に情報連絡がとんだ、しかし中闘会議では難航を極めた。スト断行側は少数であった。一責任者は声をふるわせた。『諸君は今まで、何のかんのとおだてながら、この機に及んで踏んで、蹶られ、首切ると言われてまだやらぬ気か!』一中闘は眼を真赤にして会議場から抜けて来た。『くさりきった奴がいる、あいつらに辛棒ができぬ、ともには話せぬ』と。共闘の一人が会議場に入って告げた。『闘争は諸君自身が行うものだ。ストを打つか否かは諸君に選択の権利があり、我々に決定の権利はない。しかし、もし、この時に打たずは恐らく将来に渉って全三越は闘争のできない組合になるだろう』。会議の空気は急速にスト決行に向っていた。午前六時半、中闘会議は『スト決行』に決定し、委員長は共闘に宣言した。万才の歓呼のうちに互に手を握り合い、肩を叩き合い、一斉に席をけって早朝の街頭に踊りでた。」(前掲、月報)

 翌朝新宿支店では、前日殆ど事務服のまま帰宅していた女子組合員によって、美事なグリーンのピケットがはられた。応援は総評、東横デパートを加えて八○名程であったが、全三越の中心支部だけに内部は強く結束した。本店は、前夜八時のスト確認後、スト破りは泊り込むために続々入店していた。一〇時頃から守衛入口に組合のピケがはられた、翌朝には、外部団体の応援によって、幾つもある入口は完全に固められた。問題は銀座であった。ここは会社側の切崩しがもっともはげしいといわれ、当日支部長、副支部長は、すでに裏切って支部闘にはいなかった。ストのビラは片はしから職制にはがされて行った。八時半近く漸く組合員も揃い、共闘団体の動員も予定を越え四〇〇名近く集って来た。附近の三井ビル内の労組青婦人部からも応援にかけつけ、激励した。女子労組員は初めてのストで紅潮したほほに涙を流してスクラムを組んだ。スキャップに動員された慶大の学生に対しては都教連が説得してひきとどめた。しかしこうした態勢が整いはじめたとき、次の三ヵ条による調印が行われ、スト中止の指令がとんだ。

 

(1)労使は速かに団交を行う。議題(イ)解雇処分の件、(ロ)組織防衛の件
 (2)一〇月二五日の処分のあった時より本協定の日までの一切の事項に関して組合の責任を追求しない。
 (3)スト中止を説明するために総会を開く場所と時間(一時間)を会社は認める。

 このとき午前七時を少し過ぎたばかりだったが、完全にピケが解かれたのは一二時近くであった。女子組合員は泣いてくやしがった。日頃、腹の底に殺していた彼女達の純心な怒りは、今までのような解決でごまかすには余りにもはげしいものがあったのである。この日直ちに協定に基いて団交に入ったが解決の方向は見出せず、さらに翌日の団交も同様であった。会社は団交をひきのばしつつ、第二組合の育成に意識的な努力を傾けていた、脅迫的な勧誘と、第二組合加入者には特別手当を出すという二つの手、アメとムチで。団交はその日(一三日)の午後七時半に決裂した。一五日には会社の待っていた裁判所の和解工作があり、会社は「自発退職」で切り崩しを策して来たが、すでに組合員の力を感じとっている中闘の問題とするところではなかった。会社の不誠意はさらに組合員の闘争意識をかりたてた。

 この間、共闘会議では、中闘とともに今後のストの可否について種々論議されていた。
 「一二日のストに自信をえた中闘は気負い立っている。総評代表はスト一六日説に傾いていた。賃金共闘側は慎重説を採っていた。中闘会議はスト決行に一致し、時期方法が共闘会議にかかった。賃金共闘側は、早くか遅くがその何れかで、しかも前後にスケジュールを組んで二四時間ストで我々の盛り上げをつくるべきだと主張し総評側は応援の動員上早くは無理で、遅くなれば崩され危険があるというので中間説を主張し、またその時既に全百連は一八日三越同情一斉定時出勤を指令していたのも考慮され、討論の結果は、一六日まで支部態勢強化、一七日三店合同決起大会、一八・一九日の四八時間ストが決定された。翌一五日、直ちに会社にスト通告を発した。一六日の各支部総会は第二組合工作者達の妨害を排して行われ、それ自体大きな闘争であった。銀座支部の如きは、支部長の招請でない総会は無効だ、と叫ぶ裏切者を女子達の腕で退場させ、裏切支部長を壇上に立たせ挺身闘争を誓わせた。(結局又裏切られたが)」(前掲、月報)組合のもり上りは一七日(休日)の蹶起大会で更にすすんだ。同日午後のビラ活動で警官につかまった女子組合員が、帰されたあとすぐまた活動をつずけるという場面もあった。

 スト通告をつきつけられた会社も警察に対して猛烈な働きかけをはじめた、このことは一八、一九日のストが最初から警察との喧嘩であったことを見ればうなづけることである。同時に、「日経連も逐次指導性を高めつつあった」(前掲、月報)。

 かくして一八日午前零時を期し、東京三店は一斉に四八時間ストに入って行ったのである。
 午前四時頃、ビル街の一角に、組合員のピケがはられた、このとき早くも、会社の動員したスキャップが押しよせ、女子組合員のピケラインを暴力でつきやぶった。幾たびか必死の闘いがくり返えされた。窓の上からは、昨夜から泊込んでいたスキャップが路上の暴力団をけしかけた。しかし七時すぎ頃から応援に続々つめかけた各労働組合員の力をかりてピケ破りを一蹴し、完全なピケ態勢がひかれて行った。組合は予め、警察の挑発にのらぬようピケについての十分な注意を徹底させていた。警視庁は朝早くから警官を動員し、予備隊まで待期させていた、そしてたえず示威したが手出しはできなかった。本店では警官がプラカードをもってねり歩いた、それにはこう書いてあった、「お客が買いものに入れないから通路をあけて下さい。もし自主的にあけてくれなければ警察力であける−−日本橋署長」と。物見高い野次馬が刻々集って来た。会社は「本日営業いたします」と呼びかけた。組合はスト協力を訴えた。警察のラジオカーは、通路をあけろ、開けないと……とおどかした。街のゴロツキや、会社のピケ破りが何度も攻撃して来たがはね返えされた。アルバイト学生は中立堅持を叫び傍観していた、こうして三店とも午前中は完全なピケによって守られた。混乱は警察の暴力からはじまった、組合内では「一ヵ所道路を開けろ」とたえず脅迫してくる警察の干渉をめぐって「激論」が行われていた、「一ヵ所ゆずることはピケ体制をくずすことである、とする賃金共闘、労闘側の意見、無用な弾圧、挑発をさけよの多数意見におされて、一ヵ所あけよ、の指令が出るや、現場の警官は、これに便乗し、客出入口も開けよと迫った」(前掲、月報)、この譲歩は警官、ピケ破りのなぐり込みを生んだ。混乱にまぎれた会社のお雇い暴力団がカミソリの刃で組合員にきりつける事件も起った。当日の模様は次のようなものであった。

〔日本橋〕オフイスに通う人たちが、朝の出勤時間を気にしながら…(略)…ちょっと足をとめてみるのでした。でも組合活動の弱い私たちの平常をしって、「なんだお嬢さんが遊戯して……」としかとってくれない人たち。ほんとうに私達のその姿はきっと、よちよちと、みるもおぼつかない恰好だったでせう。…(中略)…しかし日蓮宗本山の坊さんたちが、うちわ太鼓の音も勇ましく、平和と私達の斗いを訴えながら〃どんつく、どんつく〃とねり歩いて下さった姿や、……見るまにふえる〃アカハタ〃が晴れ渡った冬空に高くひるがえる光景は、ひん弱な私達の胸のほのほをいやがうえにももえ上らせてくれるのでした。

 四時少し前でした。自いジープにまっくろなかたまりの武装警官がぞろぞろ私達のスクラムの前におりたちました。ようすがおかしいなアと思っているうち、棍棒をもってならんだ警官がやにわに私達の方に進み、トラックの上から激励していた人々が、バラバラッととびおりた瞬間、期せずしてあがった悲鳴のなかで、私はもう夢中でした。胸をめがけて真直ぐについてくる棍棒を、前こごみになってさけながら「腕をくめ、やぶるな、やぶるな」と叫んでいました。…(中略)…みんな泣きました。泣きながら「私たちが何をしたっていうのよ」「……いきなり暴力を使うなんてひきようだわ」と叫びつずけたのでした。−−ほんとうに今でも忘れることはできません。真直ぐに棍棒をかまえてジリジリ進んでくる、あの能面のような無表情な顔。巨大な国家権力を背景にした警官が、たかが女子組合員のピケを破るのにあれほどの乱暴をしなければならなかったのでせうか。……私にはわかりません。−−思わず私たちの口をついてでたうた声。それはインターでした。いかりにふるえ、胸をつきあげるこのうたごえは、一人から二人へと波紋のようにひろがりながら、しっかり組み合せたスクラムはいよいよ強く固く結ばれていくのでした(後略)−−前掲、藤田さんの手記より。

銀座支店についても同じであった。
 築地署の警官が、一個小隊並んでいる前でピケを徐々に最初二尺位あけた。……もう半歩開けという。……これでも狭い、もう半歩開け、といって警察の方で挑発しかけた。……そして労組側の方が自主的にあけているのに、出ろ出ろと大声をはっし、それから三列に女の子が並んでいるところに三人位背中を向けてパンと飛び込んで来た。そのあとに続いてワァッと入った。そのとき警官は手を使わない。足を使って蹴とばした(労働法律旬報、八一号)。

 新宿支店では予め警察が組合と会社の双方を呼んで「店を閉めるか、ピケをとくか一時までに回答しろ」といった。組合は自主的に一ヵ所開けるということで署長に話したが、聞き入れずにコンボーで突きやぶって来た。「一人の女の子は腕の骨を折られた。ほ道にたたきつけられて意識を失うもの……」(産業労働通信、四二号)、ここでは五時頃まで警官と群衆がもみ合った。

 以上の片鱗からもうかがえるように、直接官憲による弾圧は、組合員を憤激させた。その夜、共闘会議では、明目のピケ戦術をめぐって論争されたが結論は変らなかった。明くれば一九日、空気はぐんと変って来た。労働歌を知らない女子組合員も応援の人たちの歌声に和した。しかし、「前日と同じ事態がくりかえされた。曰く『一米あけよ』『一ヵ所全部あけよ』…云々。かくて現地指導部動揺のうちにピケは自らの手でくずされて行った」(前掲、月報)。まぶたに涙をためながら必死に頑張る女子組合員の説得にはほとほと手をやいたのであった。ピケをあきらめた組合員は今度は群衆の人波に入り、買物をしないように訴えて歩いた。新宿では「お巡りがお客の呼びこみまでやった」(前掲、通信)。本店では「ただいま警察はアルバイト学生の入店を申入れて来ました。警察は会社の用人になったようです」とアナウンスされるやワァッと拍手が上るという場面もあった。お客は殆んど入るものがなかった。かくて夕やみ迫る中から「……われわれは要求を完全に貫徹するまで一歩もひかず断乎闘いぬくであろう、中闘は万場一致をもって二二日からの無期限ストライキを決定した」のマイクの放送に、互に明日からの闘いを誓い合ったのである。

 この二日間で、会社は売上げ二億円の減、三、○〇〇万円の損害(読売一二・二〇)であったという。争議参加組合員二、四〇〇、応援約四、○○○、会社側の動員、アルバイト、職先、ゴロツキ合せて二、五〇〇、警官両日を通じて二、〇○○、組合側の負傷者は一六○名だといわれる(内外労働通信、白井氏の報告)。

 一方、スト直後、一二日のスト以来早くも動きをみせた第二組合が活発な攻勢に出てきた。会社の「厚き援助」の下に職制による脅迫強制加入を露骨な形で進めて来た。二〇日には「皆さん!……二日間にわたるあの狂乱したスト行爲を見て如何お考えになりましたか。赤旗の下、暴力により……お客様にさえ御迷惑をおかけし……私達三越の信用をふみにじった……この非合法な組合の行き方に対して断じて黙し得ないのであります」といった声明文が出された。こうして会社からは電話の二本もついた立派な事務室をもらった。

 また共闘内部でも、総評系労闘より「全三越共闘」の廃止、「労闘と三越」のみの共闘をもちかけるという事態も起きた。
 二一日にはスト中止の指令を余儀なくされた。二二日には都労委から、(1)第三者の仲裁に一任する、(2)諸提訴を取下げ、以後この問題で争わない、(3)労資とも労協、労組法を守るという内容の斡旋案が出され、組合は受諾したが、会社はしぶった。その後地裁脇屋判事から次の和解案を提示したが組合はことわった。

(1)会社指名による二名の退職、
(2)組合の選定による三名の退職。
(3)六名退職して、争議資金を会社が支払う。
の三案のいずれかにせよ。

 その後、二八日に至り、地裁の「解雇は不当」の判決をかちとった。さらに二七年二月三日にいたって会社側は「懲戒処分撤回」の通告をしたが、都労委は二月七日に会社の行爲は不当労働行爲であるとの命令書を出した。このことは「旧組合の地下工作に対抗して迷える多くの不幸なる女子組合員」を救ったとする第二組合にも動揺を与えた。ひそかかに「第一組合」へ戻って来る女子組合員もあった。それに大半は組合の統一を望んでいた(組合でやった調査結果)。しかし職制のにらみをふんぎれず、数の上では一対二という第二組合が優位に立つことになり、そのなり行きが注目された。

 四、争議の意義
 三越の争議は、一応組合側の勝利に終った。「首切撤回」をスローガンに団結し、前時代的な三越の「ノレン」の支配をゆるがし、組合の骨抜きと闘い、警官、暴力団と熾烈な闘いを闘い抜くことによって、全労働者に大きな勇気を与えたことは特に大きな成果であった。結果において第二組合を許したとはいえ全三越の現状としてこれもやむをえない帰結であって、組織防衛闘争はあくまで闘いぬかれており、これによって組合員の自信はさらに高まった。労働調査時報九八号は、三越の闘争の意義について次のようにのべた。

 

第一、この斗争は越年斗争の中に大きくクローズ・アップされ続々と立上っていた全国の労働者にいいしれぬ刺戟を与えた。「三越さえ立上っている」というのは斗争している他の労働者のいつわらない告白であった。三越の斗争は越年斗争をしめくくったような斗争であったのである。

 第二、この斗争の社会的意義もまことに大きい。単独講和後の盛り上っている労働者の斗争を直接に、まじかに市民の問題にした。あらゆる圧迫に抗して斗っている三越の兄弟に対して国民の支持は日一日と高まった。それは一般新聞に対する投書を見でも明白であり、スト破りの破廉恥さ、警察の横暴に対する市民の憤激は各所に明白にあらわれた。

 第三、三越の斗争は、いま日本の支配階級が企図している治安立法や労働法規改悪等の弾圧政策と実際に斗った。支配階級は営業権、交通妨害等の愚にもつかない口実によってストライキを弾圧し、治安立法等の実績をかせごうとしたが、このことは多くの労働者に、支配階級の今の企図を明白にしただけでなく、労働者は治安立法を粉砕するためにはこのような弾圧のあらわれに対して事前に徹底的に斗争せねばならないことを知った。

 第四、我々の最も注目すべき大きい意義は、この一つの争議に対して東京のほとんどすべての組合がこれを応援したことである。上では、一応、総評および賃金共争がこれを代表していたがこのことは現在の日本の労線統一の可能性がいかに大きいかをよく示した。その共争は……下部ではもっと明白にあらわれた。この共斗の中で、この共斗を強化せず、逆にこの共斗を弱めたり、幾多の好ましくない動きも、ことごとにあらわれたが、しかし、そのことを大部の組合員は共同して勝利のために、団結のために奪斗した。これは三越だけでなく全国の各地に展開されている。これはわれわれに大きい希望と勇気を与えるものである。

日本労働年鑑 第25集 1953年版
発行 1952年11月15日
編著 法政大学大原社会問題研究所
発行所 時事通信社
2000年8月10日公開開始


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