「義経=成吉思汗伝説」について

 

 

 2005年のNHK大河ドラマは「義経」である。1966年に大河ドラマで義経が取り上げられた時には、ちょっとした義経ブームが起こったという。今回は、それほど熱狂的な現象は見られなかったように思うが、それでも菊人形をはじめとして様々なメディアで義経が取り上げられ、あちらこちらの場所で直接の関連があるなしに関わらずイベントが行われた。日本では多くの人が、義経という英雄の存在を再確認したことであろう。そして、2006年はチンギス・ハーンの即位から800年目の年にあたる。モンゴルではこの英雄を記念して国家的イベントが行われるらしい。大河ドラマ「義経」が終了した頃に、チンギス・ハーンを称えるモンゴルの風景が報道され、チンギス・ハーンに関連するドキュメンタリー番組が放映されることもあるだろう。作為の有無に関わらず、両者を結びつけて考える人々は必ず存在するであろうし、「義経は成吉思汗である」という伝説が取り沙汰されることもあろう。因みに、チンギス・ハーンは、「ジンギスカン」あるいは「成吉思汗」と表記されていることもあるが、現在では原音を尊重する外来語表記の原則に従って「チンギス・ハーン」と表記されることが多い。なお、「ジンギスカン」は現在も料理の名称として使われている。このことからも、この伝説が一昔前のものであることが判る。本稿では、この奇説が最も流行した当時の呼称を用いて「義経=成吉思汗伝説」とする。

数々の義経伝説の中で最も荒唐無稽でスケールも大きく国際的なものが、義経=成吉思汗伝説である。そもそも、この様な荒唐無稽で非常識な説を誰が考え出したのであろうか。この奇説をどのような人々が何の目的のために考え出し、どのような人々が何の目的のために利用してきたのか。また、21世紀、国際化の時代、異文化交流の時代において、この偽史はどのような意味と影響を持つのかも含めて考えてみたい。

 

源義経(1159-89)、平安末期の武将。鎌倉幕府をひらいた源頼朝の弟である。幼名牛若丸、遮那王丸、九郎。検非違使に任ぜられて九郎判官と号した。兄頼朝が平家討伐のために挙兵すると、義経もこれに応じ、討伐軍の先頭に立って大きな功績を残した。その後、頼朝と不和になり、陸奥の平泉で藤原秀衡にかくまわれたが、秀衡の没後、その子の泰衡に急襲され、衣川の館で自殺し、生涯を終えた。しかし、この薄命の英雄は、その死後数々の伝説を生み出し、それらの伝説は幻想的に膨らんでいく。

義経を薄命な英雄として愛惜し同情するこの風潮は、弱者に対する第三者の同情や贔屓を表す「判官贔屓」という言葉を生み出す。義経伝説は、『義経記』をはじめとして『御伽草子』や幸若舞曲、謡曲、歌舞伎などの芸能から、近世に入っての赤本、青本、黒本、黄表紙、合巻に至るまで、多くの題材を提供した。幼少時代の義経伝説には、時衆教団が関与していたことが示唆される。また、家来の弁慶の活躍を描く、謡曲『舟弁慶』『安宅』、舞曲『富樫』は熊野修験者の語りの影響が考えられる。さらに、伝説では、義経は平泉を脱出して、大天狗の救いで播磨国野口に逃れたり、教信上人となったりしている。義経が、蝦夷に逃れた伝承は、『御曹子島渡り』などからアイヌのユーカラとしても行われている。

そして、義経伝説はさらにエスカレートし、韃靼に渡り清祖になったとするもの、「成吉思汗」「ジンギスカン」つまりチンギス・ハーンになったとするものが生まれた。これらの話は、一種の奇伝としてしばしば語られることがある。また、類似の不死伝説に、「鎮西八郎為朝が伊豆の大島で死なず琉球に渡って尚王家の祖舜天王の父となった」「安徳天皇は壇ノ浦で死なず九州へ生きのびた」「朝日奈三郎が和田合戦で死なず朝鮮に渡った」「明智光秀は山崎の合戦後、天海僧正となって徳川家につかえた」「豊臣秀頼が大坂落城の際脱出し真田幸村・木村重成と共に薩摩に逃れた」「秋田や蝦夷に逃げたという説もある」「大塩平八郎が中国に渡って洪秀全になった」「大塩平八郎が沖永良部島に潜伏し、その後西郷隆盛の子供の家庭教師となった、後アメリカに移住した」「原田左之介が満州へ渡って馬賊になった」「西郷隆盛が城山で死なずロシアに逃れた」「インド独立運動の志士チャンドラ・ボースが飛行機事故で死なずに生きていた」「山下泰文が刑死せず密かにアメリカで生きている」と、枚挙に暇ない。最近では、不死ではなく「オサマ・ビン・ラディンがパキスタン地震で死亡した」という話もあった。このような伝説は、噂話の域を超えているため、口コミ情報ではなく、その伝播にはなんらかのメディアが介在しているものと思われる。歴史の読み物、歴史関係の通俗雑誌などを媒介にした歴史マニアの大衆娯楽であることが多い。専門的な学説として取り上げられることはまずないが、茂在寅男氏の『超航海・英雄伝説の謎を追う』(第五章P.120〜,1995年)のように他分野の学者によって書かれたものの中には伝説を肯定しているものがあったりする。また、中には恣意的に、特定の意図を持って流された情報もある。

 

何れにせよ義経伝説は、義経が死亡した衣川の合戦直後から発生し、『義経記』『御伽草子』あるいは謡曲、歌舞伎などの芸能、近世の戯作を経て、近代には義経=成吉思汗伝説が生まれ、一般大衆に普及している。夏目漱石(1867-1916)の『吾輩は猫である』(1905年)にこの伝説の普及版を推定させる挿話がある。「小桶を慾張って三つ抱え込んだ男が、隣りの人に石鹸を使え使えと云いながらしきりに長談議をしている」内容として、以下の話が書かれている。「鉄砲は外国から渡ったもんだね。昔は斬り合いばかりさ。外国は卑怯だからね、それであんなものが出来たんだ。どうも支那じゃねえようだ、やっぱり外国のようだ。和唐内の時にゃ無かったね。和唐内はやはり清和源氏さ。なんでも義経が蝦夷から満洲へ渡った時に、蝦夷の男で大変学のできる人がくっ付いて行ったてえ話しだね。それでその義経のむすこが大明を攻めたんだが大明じゃ困るから、三代将軍へ使をよこして三千人の兵隊を借してくれろと云うと、三代様がそいつを留めておいて帰さねえ。――何とか云ったっけ。――何でも何とか云う使だ。――それでその使を二年とめておいてしまいに長崎で女郎を見せたんだがね。その女郎に出来た子が和唐内さ。それから国へ帰って見ると大明は国賊に亡ぼされていた。……」とあり、その直後に「何を云ふのか薩張り分らない。」とある。史実がどこにあるのか不明なくらい支離滅裂な話で、夏目漱石による幾分の誇張もあるが、この時代に「義経=ジンギスカン伝説」が結構知れ渡っていたことが判る。この背景となったのは「判官贔屓」という言葉に象徴される義経の人気と、芸能や戯作であるが、伝説を飛躍的にエスカレートさせたのは、偽史や怪文書的偽文書の類である。

 

『吾妻鏡』の文治5年(1189年)4月30日には「豫州入持佛堂先害妻子次自殺」とあり、源義経の死があっさりと片付けられている。しかし、源義経は死なずに衣川を脱出したという伝説がその直後から始まる。同じく『吾妻鏡』文治5年6月に「十三日辛丑泰衡使者新田冠者高平持参豫首於腰越浦言上…件首納黒漆樻浸美酒高平僕従二人荷擔…」とある。この部分の記述が「首実検の道中に日数がかかり過ぎている」などと伝説の端を発する部分である。以下に、偽史や怪文書的偽文書の類を示すが、これらは直接原典にあたることが困難なため、二次資料以上の孫引きである。岩崎克巳の『義経入夷渡満説書誌』(1943年)のように、この種の文献を網羅的にリストアップしたものもある。また、作家の海音寺潮五郎の『得意の人失意の人』の中にある随想作品「義経と弁慶」には義経不死伝説や弁慶の伝説と並んで、偽史等についても詳説されている。さらに、大阪中ノ島図書館の大阪資料古典籍室ではこのような文献のうち所蔵しているものを展示していた企画もあった。

そもそも、義経の蝦夷渡海説は、林羅山・鵞峯父子が徳川幕府の命令で編纂した『本朝通鑑』(1670年)の義経の条に、「俗伝又曰衣河之役義経不死逃到蝦夷存其遺種」(第79巻)とある。異説と断った上で「衣河ノ役、義経死セズ、逃レテ蝦夷ケ島ニ至ル、其ノ遺種今ニ存ス」云々と記した辺りに端を発しているらしい。アイヌ研究者として有名な金田一京助はこの俗伝について、御伽草子にある『御曹子島渡』の義経伝説が、和人を通して北海道のアイヌに伝播したものであろうという仮説を立てている。アイヌたちは物語を通じて義経のことを語るようになっていく。義経本人ではなく義経物語が蝦夷へ渡ったということになる。

徳川光圀の『大日本史』も異説として渡海説を載せている。『大日本史』義経列伝には末尾の割書きに「世代義経不死於衣川館遁至蝦夷…天時暑熱雖函而浸酒焉得不壊爛腐敗就能辨其偽哉然則義経偽死而遁去乎至今夷人崇奉義経祀而神之蓋或有其故也」「相距ること四十三日、天時に暑熱、函して酒に浸すといえども、いずくんぞ壊乱腐敗せざるを得んや。たれか能くその真偽を弁ぜんや。然れば則ち義経偽り死して遁れ去りしか。今に至るまで夷人義経を崇奉し、祀りて之を神とす。けだし或いはその故あるなり。」とある。

 これを大幅に展開させたのが馬場信意の雑史『義経勲功記』(1712年)であり、義経は蝦夷の棟梁となり子孫を残したと記している。馬場信意は京都の人で武田家の名称馬場美濃守信房六世の孫だという町学者である。これよりも以前に、沢田源内という者が『金史』の「別本・列将伝」という中国の書物に義経の息子で義鎮という者が大陸に渡って、金の将軍になったという記述があると言い出し、この説が相当に世間を賑わし惑わした模様である。碩学の新井白石などもこれに関心を示している。もっとも、新井白石は一文披見の後には書簡に「文字の拙き一句として見るに足るべくも候所なく覚え候」云々と記して一蹴した。但し、蝦夷への渡海説は完全には否定せず、『読史餘論』(1712年)や『蝦夷志』(1720年)ではこのような異伝があることを記している。『蝦夷記』には「アイヌ人等は祀壇を設け義経を祀り、これをオキクルミといい、飲食する毎にいのりをささげている。」また「蝦夷地の西部の地名に弁慶崎というのがある。一説によると義経はここから北海を越えて去ったと。寛永年間に、越前の新保の人が難船して韃靼の地に漂着した。その年は癸未寛永二十年であった。清の皇帝はその人を連れて北京に入り、一年余とどまらせてから、勅して朝鮮におくり、朝鮮から日本に送り返させたが、その者の言に、奴児干部の人家の門戸には神像をかかげてあったが、それは北海道で見る義経の画像に似ていた。なんとも珍しい話である。」という内容が記されている。渡海説を肯定するものではないが、噂話として紹介している程度である。この沢田源内の説は源内自身が捏造したもので、彼は有名な偽書作者であり、近江では偽系図作りを仕事にしていた人物であった。享保頃の学者である篠崎東海がこれを偽書と看破したことが篠崎東海の著書『東海談』にある。この沢田源内の偽書を取り込んで義経を蝦夷からさらに大陸へ渡らせたのが、京都の町医者で町学者である加藤謙斎の『鎌倉実記』(1717年)である。ここには「金史列将伝曰範車国大将軍源光録義鎮者日東陸崋仙権冠者義行子也」とある。金の範車国に源光録という将軍がいて彼は日本の源義行の子であるという。義行は義経の改称であり、こちらを使う辺りが手が込んでいる。つまり、ここでは、義経が蝦夷地から大陸に渡り、その子孫が清朝の祖となったという説が展開されているのである。この『鎌倉実記』も馬場信意の『義経勲功記』も史書というよりも小説である。伊勢貞丈は『義経勲功記』と『鎌倉実記』を偽書とした上で『安斎随筆』(1784年)の中で、応永の中頃(14世紀初頭)に坂東で謀反を起こした小山悪四郎隆政という者が北上して蝦夷に渡り奥蝦夷の長者の婿となったということがあり、この悪四郎の事跡が義経のこととして誤伝されたと述べている。

 この次に話題になった書物が森長見の『国学忘貝』である。ここでは、清から渡来した『古今図書集成』一万巻中の『図書輯勘』というものがあり、この書物の序文に、清朝の祖先は義経であると明記されていると記されている。「西土今ノ清編集アリシ図書集成ト号スル書一万巻アリ。新渡ニテ其部ノ内、図書輯勘ト云ヘル百三十巻アリ。清帝自ラ序ヲ製作アリ。其略文トテ、朕姓源義経之裔、其先出清和、故号清国トアリ。清ト号スルハ清和帝ノ清ナリト云々」とある。清国で編纂した『図書集成』という叢書は全部で一万巻ある。宝暦十年に清人汪縄武なる者が持って来たのを、明和元年に幕府の文庫におさめた。その叢書の中に『図書輯勘』なる書が三十巻ある。それに清の乾隆帝の序文が付いている。その序文に朕の姓は源で、義経の裔である。先祖が清和の出なので、清国と号したとある。もっとも、森長見自身が、『図書輯勘』を読んでいたわけではない。彼はある儒者からその話を聞いたと書いており、伝聞情報であることも同時に明記している。この手の話が当時流行っていたことが判る。さらに、この『図書輯勘』は相当に有名になっていたらしく、大坂の狂言作者並木正三の遺作『和布苅神事』の中で常陸坊海尊に「義経は蝦夷から千島に渡り、唐土高麗を攻め平らげ四百余州に清和源氏の名を輝かさん、清朝の清は清和の謂に他ならぬ」と言わせているほどである。これは結局、蘭学医で戯作もこなす桂川中良(戯作の筆名は森島中良)が実物を閲覧し誤りであることを証明した。彼の著作『桂林漫録』にその経緯が記されている。「自分はかねてから『国学忘貝』に言う所の『図書集成』の中の『図書輯勘』なる書を見たいと思っていたところ、この頃兄桂川甫周が幕医であるお陰で見ることが出来たが、『図書集成』の中には『図書輯勘』なる書はない。総目録を検しても見当たらない。従って、乾隆帝の自筆の序文などあろうはずなし。」という旨を記している。『図書集成』は1763年に日本に持込まれ、翌年には幕府の紅葉山文庫へ納められている。他は長崎の官庫にも納められているであろう。これを閲覧できる人間は少なく、幕府の書物奉行ら少数の関係者に限られる。そのため嘘も暴かれ難いというかもしれない。その後、伴信友が『中外経緯伝』(1846年)の中で、国学者中島広足からの伝聞として、よりエスカレートしたことを書いている。中島広足は長崎に滞在したおり、中国語の通訳である水野某から以下の話を聞いた。「ある日、水野が中国人の商人江芸閣に訊ねた。『図書集成』に清帝が『朕姓源義経之裔』と書いた話はよく聞くが本当か。すると江芸閣は『図書集成』のことはよく知らないが、清朝の祖が日本人だということは知人から知らされたことがある。『玉牒天潢世系』という本に、そのことが書かれていると応答した。」という。また、『図書集成』は松浦静山の『甲子夜話』などにも記されている。『金史』の「別本・列将伝」は捏造された書物であるが、『図書集成』は実在する叢書である。この辺りがもっともらしく、影響も大きかったものと考えられる。この辺りまでくると、民間伝承ではなく、明らかな作意がある。知識人によるかなり悪質な悪戯である。

 海音寺潮五郎の「弁慶と義経」には経済雑誌社の『大日本人名辞書』の源義経の項目にある記事として、詳細不明の古老の談が、記載されている。それによると「鄭成功が明朝を護って清朝を苦しめていた頃、清朝では彼の母親が日本人であることから、その縁で日本政府が援助することを心配した。事実、鄭成功は幕府に援助を要請し、当時の将軍徳川家光は諸大名を集めて検討をした。清朝では日本に使者を送り、清朝の皇帝は日本人の末裔であるから清朝を支持して欲しい旨を伝えたという。証拠の物件として古い日本の鎧の草摺りを添えており、この品と文書は幕府が秘蔵していたが、明治になってから宮内庁が保管しているという。」とのことである。また、明治になってからのこととして「ある者が、伊藤蘭嵎(伊藤仁斎の第五子、紀州藩儒)と智景耀という坊さんの書いたものの中に『明和三丙戌五月、新渡ノ図書集成六百套九千九百九十六巻中ニ輯勘録三十巻有リ』云々とあるのを写して、当時の儒者団体であった斯文会に提出し『清国と善隣の交わりを結ぶようになった今日、この点が明らかになれば、まことに工合がよい。よろしくお調査を請う』と頼んだ。斯文会の蒲生重章という大学の漢学教授であった人は、早速に当時の清国公使黎庶昌に質したところ、その返事は『わが皇上の先祖は金源の後に出ている。貴邦の源氏とは関係ない』というものであったという。」という記事が載っている。これらが、『吾輩は猫である』の例の記述の元となったのであろう。

 

 義経不死伝説の最終形態が成吉思汗つまりチンギス・ハーンと同一人物であるとする説である。この説を初めに唱えたのはドイツ人医師シーボルトである。彼の著書『日本』(1832年)に初めて文字として記されている。「『日本』第一編日本の地理とその発見史 第五章日本人による自国領土およびその近隣諸国保護国の発見史の概観 義経公の奥州から蝦夷への敗走(1189年)」の注の中に以下の記述がある。「義経の蝦夷への脱出、さらに引き続いて対岸のアジア大陸への脱出の年は蒙古人の歴史では蒙古遊牧民族の帝国創建という重要な時期にあたっている。『東蒙古史』には「豪族の息子鉄木真が28歳の年ケルレン川の草原においてアルラト氏によって可汗として承認された。…その後間もなくチンギス・ハーンははじめオノン河のほとりに立てられた九つの房飾りのついた白旗を掲げた。…そしてベーデ族四十万の支配者となった。」と記されている。シーボルトは日本滞在中に、オランダ語通訳の吉雄忠次郎からこの話を聞いたという。19世紀にはもうこの話はあったことになる。しかし、当時の日本の文献にはその様な記録が全くない。あるいは義経の中国脱走説を耳にしたシーボルトが何らかの勘違いによってチンギス・ハーンに付会したのかも知れない。シーボルトは1829年に国禁の日本地図を入手したため追放されるが、1859年に再び日本に戻ってきた。そして1861年からは幕府の顧問として仕事をしている。彼は仕事で蕃書調所へ出向くと、義経=成吉思汗説を吹聴していたという。当時、蕃書調所にいた西周がシーボルトからその話を聞かされたことを『末広の壽』(1869年)に記している。しかし、一般の日本人には知られていなかった話であろう。

 このシーボルトの説を踏まえて、これを敷衍し発表したのが末松謙澄である。彼は、明治初期にイギリスのケンブリッジ大学に留学しているが、ここで卒業論文として提出されたのが「Identity of Great Conquer or Genghis Khan with Japanese Hero Yoshistune」である。末松謙澄は、『源氏物語』の初の英訳者であり、帰国後官僚から政治家に転身した人物であるが、日本を清の属国と見るような当時のイギリス人の誤解を正そうとして敢えてこのような説を唱えたのだという。この論文の複写が日本に伝わり、偶然それを目にした慶応義塾の学生内田弥八が、著者に無断で邦訳し刊行したのが『義経再興記』(1885年)である。この書物は、原著者の名を記さず、「内田弥八訳述」とし、山岡鉄舟が題字を寄せ、漢学者の石川鴻斎と土田淡堂が序文と頭評を寄せている。既に江戸時代に否定された諸説を証拠として挙げるなど粗雑な構成であるが、これが義経=成吉思汗説の最初である。

 その後、この義経=成吉思汗説は小谷部全一郎の『成吉思汗ハ義経也』(1924年)で一世風靡する。この俗説の流行に対して、『中央史壇』誌は専門誌として、専門家の原稿を集め「成吉思汗は源義経に非ず」という臨時増刊を刊行している。(1825年)この小谷部全一郎は日本人とユダヤ人の祖先が同一である説など、突拍子もないことを書く人物であり、『成吉思汗ハ義経也』も今日で言う「トンデモ本」の類であり、歴史家としては無視してもよいものである。当時の評判が無視しきれないものであったことが推測できる。しかし、小谷部全一郎はその後も『成吉思汗ハ義経也―著作ノ動機ト再論』(1825年)を著して反論し、さらに『満州ト源九郎義経』(1935年)を刊行している。当時はシベリア出兵が失敗に終わった時代である。日本人がアジアを雄飛するという、果たせなかった夢を義経伝説で補完していたのであろうか。大陸に対する領土的野心が時代とともに膨張していた当時、義経=成吉思汗説は大陸侵略のプロパガンダとして利用するには格好の噂であったと考えられる。1937年、年末の1212日から『満州日日新聞』がとんでもない記事を連載し始めた。義経の墓が大陸で発見されたというものである。約二週間にわたるキャンペーンが行われている。その題字には「問題の義経の墓蹟・公主陵に在った!!」「義経の墓、現存説有力化!!」「『源義』経として信仰する土民達」「連載・成吉思汗は義経か」とある。1932年は満州国建国の年である。日本が南下を狙うロシアとの長年にわたる抗争の末、何万人もの犠牲の上にようやく手に入れた領土である。しかし、五族協和の謳い文句とは裏腹に、中国における排日運動、国際的な孤立を生む。義経=成吉思汗の伝説が、大陸侵略を正当化するために利用されたのである。現存する小谷部全一郎宛の書簡には、大川周明からのものに「貴下の心術に関し如何はしき邪推をめぐらすに至っては実に言語道断、ただあきれるの外無之候、あのような心をもって歴史を研究して居てはとても英雄の真骨頂は分かるまじ」と小谷部全一郎を擁護する文面が見られる。また、千葉刑務所に服役中の甘粕正彦は「義経在天の霊もさぞかし満悦の事と推し貴台の為めに喜び且つ祝し居り候」と私信を送っている。おおよそ、小谷部全一郎の説がそのような層の人々に支持されていたかが伺える。さらに、小谷部全一郎の大陸における成吉思汗遺跡の調査は、日本陸軍に大きく支援されていたことが判っている。この時代、小谷部全一郎の研究は無意識であれ、二十一個条要求以降の日本北方国策の野心と一体化し、大アジア主義的構想へ利用されたのである。

 そもそも、義経の蝦夷脱走説自体が、徳川幕府のアイヌ統治政策に利用されてきた経緯がある。1799年に北海道の平取に義経神社ができているが、その創建者は幕府の蝦夷地御用係近藤重蔵であった。しかもそこに安置された義経像は近藤重蔵に酷似していたという。ここには幕府側がアイヌを統治し人心を掌握しようとする意図が明らかにある。明治政府も1880年に北海道用として、アメリカから三台の蒸気機関車を購入し、それらの汽車に「義経号」「弁慶号」「静号」と名付けている。明治天皇による最初の北海道行幸にも「義経号」はお召し列車として使われている。ここにもアイヌの融和政策が伺える。義経人気、判官贔屓を政策誘導に利用した悪質な作意であり、アイヌ文化への冒涜であり、到底許されぬ行為である。そして、義経=成吉思汗の伝説は、モンゴルおよび中国への冒涜である。もっとも、彼の地の人々にとっては取るに足らぬ噴飯ものの噂に過ぎないかも知れない。

 義経伝説は「判官贔屓」の日本人の心情をうまく利用しながら、その裏側で常に北方国策の影を引き摺りながら成長していったのである。

 

 義経=成吉思汗伝説に類似の伝説が中国にもあり、チンギス・ハーンも若干これに関連している。チンギス・ハーンを始祖とする元王朝最後の皇帝である順帝の出生に関する伝説である。順帝はチンギス・ハーンから数えて八世の孫であるが、フビライから数えて十一代皇帝である。兄弟や従兄弟による継承が多かったためである。順帝は八代皇帝の明宗の長男であるにも関わらず、父が死ぬと皇位は叔父で明宗の弟にあたる文宗が継承した。モンゴルでは兄弟相続が多く、父が死んだ時順帝は十歳だったので、これは特別奇異なことではない。文宗は死ぬとき、皇位は自分の子にではなく、本来、兄の明宗の子が継承すべきであるという遺言を残している。この頃になるとモンゴル皇帝も権臣の傀儡となっており、明宗も実力大臣のエルティムールに殺されたのである。文宗は実子をそのような目に遭わせたくないので、兄の子に皇位を押し付けたようである。順序からいってこれも特殊なことではないが、特殊なのは明宗の長男ではなく、弟の寧宗が継承したことである。長男である順帝は、父の死後、高麗の大青島へ流され、次いで広西に移されている。十代の少年に特別悪行があったとは思われないが、それでも遠隔地に流されているのは特殊なことである。

 これには特殊な理由があると考えられる。明宗は若い頃モンゴルで人妻を見初めて譲り受けたことがある。ところが彼女は既に妊娠していた。当然、前夫の子でありチンギス・ハーンの血統を伝えた子ではない。明宗が死んだ時、未亡人となった正夫人がこの秘密を重臣に漏らしていたという。そのための追放ということである。ところが、弟の寧宗は即位50余日で死んでしまった。玉座を空席にしておくことはできないので、順帝が取り敢えず呼び戻されて即位したのである。順帝は在位中に、自分が明宗の実子ではないということは、叔父の文宗の邪言であるという詔書を出していることが、正史の『元史』に載っており、この噂は当時誰もが耳にしていたことであることが推測できる。

 ところで、フビライが南宋の首都臨案(現在の杭州)を陥落させ、6歳の幼帝であった恭帝および南宋の皇室の人々を北京に連行したのは、順帝即位の58年前である。恭帝は瀛国公に封ぜられフビライの娘を妻とした。しかし、彼はまもなくラマ教に入信し出家している。この時18歳である。ラマ僧となった彼はラマ教圏であるモンゴル地方を巡歴したが邁来廸という女性と同棲している。偶然、モンゴルを旅行していた皇子時代の明宗が皇族待遇を受けていた瀛国公と会い、邁来廸を見初めて譲り受け、やがて彼女が生んだのが順帝であったという。順帝が生まれた1320年に瀛国公は50歳であり、この噂話に年齢的な不都合はない。順帝の在位は36年に及んだ。モンゴル支配下の漢人たちは、抑圧された環境の中で密かに、今の天子は実は南宋恭帝の実子であり漢族の血統であって、モンゴル人ではないと噂話をしてカタルシスを感じていたのであろう。朱元璋の明軍が北に攻め上って来ると順帝は諸臣の反対を押し切って北京を明け渡し応昌府まで退いてそこで死亡している。そして元は滅亡した。南宋を滅ぼしたモンゴル王朝が南宋の後胤に滅ぼされたと人々は言い合ったという。順帝の血統については本人の反論が正史に載っていることからも、危ういものがあるが、南宋皇室の血統にあるというのは強引な付会であろう。

 ただ、この伝説は義経=成吉思汗伝説に似ている。滅びた南宋への判官贔屓によって形成されたものといえる。しかし、順帝の伝説が、抑圧された漢民族たちの精神的な慰めとして機能していたのに対し、義経=成吉思汗伝説は日本のアジア侵略の際、宣伝に使われている。日本人は、薄命の英雄を再び活躍させたいと思う日本人の心情が、架空の世界で義経を欧亜大帝国の創始者としたのが判官贔屓であるが、これを政治的に利用し国威掲揚および侵略の正当化の方便として使用したのは、かなり悪質な政策誘導であると言わざるを得ない。

 

 世界三大美女として、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町の3人を列挙することがある。この3人が等価に並ぶのは、おそらく日本の国内だけであろう。この3人が選択されるというのは、どう考えてもおかしい。クレオパトラや楊貴妃が世界的に著名な女性であるのに対して、小野小町は謙虚なくらいローカルな存在である。エジプト人や中国人は小野小町という名すらも知らないのが一般的である。義経=成吉思汗伝説についても同じである。日本へやってきて、初めてこの話を聞いた中国人やモンゴル人はさぞかし驚いたであろう。自国の国民的英雄、民族の誇りとでもいうべき英雄が、実は同じアジアの成金小国の出身、第二次大戦でアジアの国々に多大な迷惑と損失をもたらした国の出身だと言われて、気分を害した人も少なくないはずである。モンゴルからの留学生は、「ジンギスカン」という名称の羊の焼肉料理があることにすら、驚いていたし、呆れていたくらいである。

 この義経=成吉思汗伝説を歴史ロマン、夢のある話で片付けてしまっていいものではない。高木彬光の『成吉思汗の秘密』(1958年)がミステリー小説として楽しまれた半世紀前と、情報化国際化が浸透している現在では時代が違う。『成吉思汗の秘密』は日中国交正常化以前の小説である。実際、井沢元彦の『義経幻殺録』(1986年)では、義経=成吉思汗伝説は新鮮味が無くなったためか、清朝が義経の末裔であるという伝説を取り上げている。このミステリー小説は、清朝つまり満洲国の傀儡皇帝を清和源氏の末裔に仕立て上げる軍部の策略を、芥川龍之介と明智小五郎が解明し阻止するというオールスター総出演のエンターテーメントである。上述のように義経伝説は、その時代時代に応じて、その姿を変えてきた。21世紀にこの種の伝説が存続し得るかどうかは疑問が残るところである。特にこの義経=成吉思汗伝説などは、チンギス・ハーンの生涯が明らかになってきた今日では伝説として成立し難くなっている。今までチンギス・ハーンの生涯で不明な点が多かったからこそ、その前半生が源義経だと言われたのである。モンゴル人が文字を手に入れたのはちょうどチンギス・ハーンの時代であり、まとまった文献資料として整理された記録が存在するのが半世紀以上も後になってからである。さらに、そうしたモンゴル語の歴史記録がほとんど原形のまま伝わっていない。そもそも、那珂通世が『成吉思汗実録』として日本語訳したことで有名な『元朝秘史』ですら歴史記録というよりは、チンギス・ハーン廟の祭神縁起であり、特にチンギス・ハーンの前半生についての史料的価値は少ない。ただ、最近はチンギス・ハーン陵をはじめとする考古学的遺跡の探索や調査が進み、中国やモンゴルとの学術交流も行われているようである。チンギス・ハーンの前半生が明らかになるにつれて、義経=成吉思汗伝説は消滅していくであろう。高木彬光の『成吉思汗の秘密』のように、途中で義経がテムジンと入れ替わったという解釈もできるかもしれないが、それはあくまでの小説の中でこそ可能なことである。ただ、伝説の内容や形態がどのように変化しようとも、今後も義経=成吉思汗伝説が語られるときには、この伝説がかつて日本の侵略を正当化する宣伝に使われたものであることを充分に認識しなければならない。

 

【 参考文献 】

 

須永朝彦『義経』書物の王国20 国書刊行会,2000年.

長山靖生『偽史冒険世界』筑摩書房,1996年.

井上章一「幻想の往還〜源義経」日中文化交流叢書10 大修館書店,1996年.

岡田英弘『チンギス・ハーン』中国の英傑9 集英社,1986年.

前嶋信次『ジンギスカン』新偉人伝聞子24 金子書房,1960年.

梶原正昭訳注『義経記』日本古典文学全集 小学館,1976年.

高橋富雄『義経伝説』中公新書1151966年.

「義経は生きていた?」歴史への招待6 NHK出版,1980年.

柳田國男『東北文学の研究』定本柳田國男集7 筑摩書房,1968年.

金田一京助『アイヌ文化論』金田一京助全集12 三省堂,1993年.

 

高木彬光『成吉思汗の秘密』角川文庫,1973年.

井沢元彦『義経幻殺録』,1986年.

丘英夫『新ジンギスカンの謎』叢文社,2002年.

中津文彦『ジンギスカン殺人事件』角川文庫,1986年.