(3)「日本海航路」

新日本海フェリー 曲折経て99年就航 東港公共岸壁を暫定利用

苫小牧港・東港に入港する新日本海フェリー「ニューしらゆり」
 「本道と西東北の交流が密接になり、新しい人や物の動きが生まれ、活発になることを期待します」
 新日本海フェリーの苫小牧―秋田―新潟―敦賀航路の開設を祝う、就航祝賀会が開かれたのは1999年7月8日。建設されたばかりの苫小牧港・東港フェリーターミナルで、入谷泰生新日本海フェリー社長は、小樽港に続く苫小牧港からの初の日本海航路開設に大きな期待感を示した。
 新日本海フェリーの新航路開設計画は95年に浮上した。港湾運送、倉庫業などを展開する苫小牧埠頭(本社苫小牧)が同社に要請したのが始まりだ。ところがその受け入れをめぐって事態が二転三転。航路開設に至るまでに実に4年間を要した。
 当初、新日本海フェリーが拠点に予定していたのは、西港の苫小牧埠頭が所有する専用岸壁。ところが水路が狭く、安全上の問題もあって断念せざるを得なかった。さらに既存のフェリーふ頭は3つの岸壁に7航路がひしめき、貨物集荷を念頭に入れれば、既存業者との時間調整も難しい。
 このため、次善の策として苫小牧港管理組合が検討したのは、西港の公共岸壁での受け入れ。しかし、これに既存フェリー各社が「フェリー就航はフェリーふ頭利用が前提。公平性を欠く」と猛反発、難航を極めた。
 新日本海フェリーの航路開設は、既存フェリー会社にとって「黒船」のような脅威感を与えた。バブル崩壊後の経済低迷で、本道への移出入貨物は伸び悩んだ。コンテナ貨物やシャシー(トラックの荷台部分)に対応できるロールオン・ロールオフ(RORO)船の台頭など、海上貨物の争奪戦も激しさを増した。そんな中で新日本海フェリーの航路開設計画は「将来、太平洋航路を開設する布石」と警戒感を強めた。
 西港受け入れが事実上、困難となり、苫小牧港管理組合、新日本海フェリーは東港活用という最後の手段を検討。問題は97年の港湾計画改定時に道知事が「東港にフェリー機能は導入しない」とした過去の議会答弁をどう解消するかという点だった。結局、「港湾の使い方に制約は無い」とする、当時の運輸省(現・国土交通省)の後押しを受ける一方、東港の「暫定利用」という形で関係機関を説得、決着した。
 新日本海フェリーは現在、苫小牧港・東港から週四便、秋田―新潟―敦賀を往復している。初就航から2年10カ月を迎え、同社は「当初計画した業績には達していないが、東港にフェリーが就航していることが徐々に浸透してきた」と強調。顧客サービスアップで実績を積み重ねていく意向を示す。
 苫小牧港・東港はこれまでも利用度合いの低さが再三再四、指摘されてきた。暫定利用という「離れ業」ながら、新日本海フェリーの就航は利用促進の大きな力ともなった。
 

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苫小牧民報社