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「Asahi Shimbun Weekly AERA」現代の肖像 24 Jul. 1990.

石ノ森章太郎

漫画はあらゆる表現が可能と宣言


「歴史というのはもともとどこかうさんくさいんだよね」




仮面ライダーで大ヒット
いま漫画の可能性を広げようと
『マンガ日本の歴史』全48巻に取り組む


 会場の聴衆の中から手があがる。「幼稚な質問で恐縮ですが」と、50代半ばの男性がおずおずと質問する。
「若い人がものすごいスピードで漫画を読んでいるのをよく見かけますが、あれはどうやって読んでるんでしょう。字から先に読むのか、絵を先に眺めるのか……」
 ハンカチで汗をぬぐう。自分の子供にもたずねそこねていた疑問なのだろう。確かに「幼稚」な質問ではある。が、壇上の石ノ森章太郎は、面倒くさそうな様子も見せず、穏やかな笑顔でこたえる。
「よくわかります。40代後半から上の世代は活字世代で、ここに集まられた方々はおそらくはほとんどそうでしょうが、マンガが苦手なんですね。あれは洋画のようなものだと思うのです。洋画を観るときは、我々は画面と同時に字幕スーパーを観ている。慣れるとたいして苦でもない。あれと同じなんです−−」
 都内の東京会館で開かれた、流通業界の経営者団体主催の講演会。講師として招かれた石ノ森は、質疑応答に先立つ公演で、日本の漫画がどのような歴史を経て現在の隆盛にたどりついたかを、かみくだいた言葉で手際よく概説し、「マンガは読者を楽しませる一種のサービス業で、それは流通業とも一脈通ずるものがある」と、そつなくまとめてみせた。会場の隅でそれを聞きながら、現在の石ノ森が立っている場所、あるいは立たされている場所がおぼろげに見えてきたような気がした。
 マンガの世界とその外部とをつなぐポジション。そこに立つことは即ち、彼がマンガ界の顔であり、表表紙であることを意味する。そしてそこはかつて手塚治虫が長きにわたって立ち続けていた場所でもある。
 会場の一角に即売コーナーが設けられ、『マンガ日本経済入門』と『マンガ日本の歴史』が売られている。[マンガの読み方がわからない]50代、60代の経営者たちが、公演のあとでまとめ買いしていく。昭和62年にブームを巻き起こした『日本経済入門』は、現在までに4巻、トータルで約300万部を売りつくした。64年、月刊ペースで刊行が開始された『日本の歴史』も、8巻までで148万部と快調なペースで売れている。石ノ森が切り拓いた「情報マンガ」「データコミック」とよばれる新しい領野は、読者の間に新しいジャンルとしてすっかり定着した。
「最近は、企業や経済団体などからの講演以来がひっきりなしに舞い込んでくる。やはり『日本経済入門』以来のことですね」
 4年前、石森から石ノ森に改名した。マンガ家生活30周年を迎えた節目の年のことである。とりたててはっきりした動機があったわけではない。ただ、30年もマンガを描き続け、作品数も300を超えるところまでくると、いいかげん飽きもくる。ひと通りやりつくした、という気分もある。その一方で、市場の要請に従って描き流してきた仕事のうち、どれほどが自分のやりたい仕事だったのか、という慚愧の念もある。もう一度、原点に返ることを自分に課そうと思い立ち、故郷の宮城県登米(とめ)郡中田(なかだ)町石森(いしのもり)の正しい読み方に名前を合わせて変えた。改名して初めて描いたのが『日本経済入門』だった。偶然の所産ではあれ、改名第一作は大きな転機を彼にもたらした。
 昭和13年生まれ、終戦を小学校2年生のときに迎えた。墨塗りの教科書を手渡された世代である。子供向けの本も雑誌もろくにない時代だった。仕方なく、地方公務員だった父の書棚から本を取り出してみるものの、さっぱりわからない。そこで3つ年上の姉と一緒に、手づくりの雑誌をつくり、近所の友達にも回覧してみせた。文学少女だった姉が、昔話などの物語を書き、彼が絵をつけた。『地球SOS』の小松崎茂や『少年王者』の山川惣治が彼にとってのヒーローだった。そして、戦後、手塚治虫が現れ、「決定的な影響を受けた」。
 当時のマンガ好きの少年にとって、カルト的な人気を誇った雑誌があった。「漫画少年」。手塚治虫が『ジャングル大帝』を連載していたこの雑誌は、投稿欄がひとつの目玉で、石ノ森や赤塚不二夫、藤子不二雄らのほかに、筒井康隆、横尾忠則、篠山紀信などもその常連だった。そして彼ら、昭和20年代の投稿マニア少年の間ではすでに宮城県の小野寺章太郎の名前は、その卓越した技術、センスによって知れわたっていた。「ずっと注目してましたね。こりゃ逸材だなと」と語るのは、のちに東京・椎名町のトキワ荘で同じ屋根の下に住むことになる藤子・F・不二雄こと、藤本弘。
「手塚先生同様、ディズニーの影響を受けていて、絵がバタくさくて、垢抜けてるんですよ。僕らなんか苦心惨憺して描いてるのに、そんなところがまったくないかのような線の確かさ。自身があふれて絵になっているようでしたね。手塚先生がわざわざ電報まで打って彼を呼び出したのは、その才能を高く買ってのことでしょう」



高校2年の時、電報舞い込み
手塚治虫のアシスタントに



 手塚からの電報が舞い込んだのは、高校2年、16歳の夏だった。臨時のアシスタントとして手伝って欲しいという。「あこがれの人」からの求めに跳び上がって上京。鉄腕アトムの『電光人間の巻』を、背景だけでなくキャラクターの一部までペンを入れて仕上げた。手塚が舌を巻いたそのテクニックは、当時の技術水準ではずば抜けた到達点にあった。
 トキワ荘でしばらく同居生活を送ったこともある赤塚不二夫は、当時の石ノ森をこう回想する。
「高校生の時に、もう『二級天使』でデビューしたんだもの。僕は最初、僕よりずっと年上だと思ってた。ところが会ったら3つ年下。びっくりしたね。早熟の天才なんだよなあ。石ノ森は挫折なんて知らないんじゃないの。順風満帆でしょう。あの頃からすでに将来を約束されていたものね。とにかく次から次へと仕事がくるし。僕らはみんな手塚先生の影響を受けて亜流として初めて、それぞれの個性を確立していったんだけど、中でも一番、手塚先生に似てるのが石ノ森かもしれない。逆に手塚先生がマネをしたこともあるんだよ。これは本当。石ノ森の表現技法なんかを取り入れていくんだ。ここがすごいとこだよね、手塚先生の。僕なんか絵が下手で、マネしたくてもマネできなかったものなあ」
 高校2年の時のデビュー作『二級天使』の原稿料が7000円。月に2回、この額のギャラを手にできれば、大卒の新入社員並みの生活はできる。迷った末、上京を決意した。しかし、マンガ家が将来のない浮草稼業でしかなかった時代のことである。当然のことながら、周囲の猛反対にあった。その中でただひとり、姉だけが彼の味方をしてくれた。
「好きなことをおやりなさい。それが一番、幸せになれる道だから、と言って、はげましてくれたんだよね……」
 美しい女性だったという。石ノ森の描く少女はいずれも、透き通るように美しく、可憐で、どこか儚い翳りを宿しているが、それはこの姉の面影をうつしているからである。
 その姉が、突然、この世を去った。
 小児喘息を患っていた彼女に治療を受けさせるために東京へ呼んで、トキワ荘で数ヶ月ばかり一緒に暮らしていたある日、突然発作に見舞われ、急死した。24歳の誕生日、石ノ森はまだ20歳だった。あまりにも唐突な死だった。ようやく涙が出てきたのは、郷里での埋葬がすんでからのことだった。毎夜、姉が微笑みかける夢を見ては夜半に目覚め、白々と夜が明けるまで茫然と、孤独をかみしめる日々が続いた。
「姉ひとりに読んでもらうために僕はマンガを描き続けていた。立ち直るまで、ずいぶん時間がかかりました。あれからもう30年以上たっているけれど、今でも、姉の死ということから逃げ出せたわけではないと思う。でも、それは無理に逃げ出さなくてもいいことなのであってね、どこかに大切にしまっておきたいと思う」
 たった一人の読者を失ってから、石ノ森は、万人に読まれるエンターテイメントを描きはじめた。



毎月200ページも書きおろし
それが4年間も続く共同作業



 練馬の自宅に隣接した仕事場を訪ねると、石ノ森はジョギングパンツにTシャツのラフな姿で机に向かってペンを走らせている真っ最中だった。原稿にコマ割りをして、ネーム(吹き出しのセリフ)とあたり(鉛筆の素描)を入れると、原稿を床にぽいんと放る。それを隣室のアシスタントが拾い、石ノ森の指定に合わせて、手分けして背景を描きこんでゆく。主要なキャラクターには、石ノ森自身のペンがすでに入っている。
 早い。それにしても早い。かつてうちたてた月産560枚という記録は、いまだに誰にも破られていないという。
「考えないで描きはじめ、描いているうちにストーリーができあがる」「コピーがなかった頃、編集者がネームを原稿用紙に書きうつすより早く、原稿を描いていった」等々の逸話が真実みを帯びてせまる。
 この執筆速度も、『マンガ日本の歴史』を製作するにあたって、石ノ森を起用することを決めた大きな理由の一つであると、中央公論社取締役で、このプロジェクトを手がける第二開発室長の嶋中行雄は言う。
「毎月、200ページも書きおろし、それが4年間続くわけですからね。並の作家ではつとまらないでしょう。石ノ森先生の筆致の素晴らしさ、構成力の巧みさはむろんですが、先生の筆の速さ、安定感がなくてはこの企画は成立しませんでした」
 同社は、この企画のためだけに嶋中以外に7人もの編集者を投入している。原案を書く歴史学者と脚本のシナリオライターの担当が一人、作画のための資料収集と考証の担当が4人、構成・入校などの印刷工程担当が2人。月刊誌の編集部並みの布陣である。入れ込みようのほどがわかる。
 嶋中は、石ノ森起用の理由としてもう一つ、「冷静で温和な人柄」をあげた。奔放なイマジネーションで自由に描ける普通のマンガと違い、こうしたデータコミックはどちらかといえば映画づくりに似た大人数の共同作業である。協調性が欠けていたら、相互ヒステリーになりかねない。建築、衣装、小物から人物の年齢の設定まで、微に入り細をうがち、資料と突き合わせ、考証を重ねて練り上げてゆく。そのため描き直しも再三におよぶ。
「あれほどの大家でありながら冷静さを失わずに、求めに応じてリライトしていただいける方はちょっと思いあたりません」
 石ノ森とは「義兄弟のような仲」というさいとう・たかをは、こうした分業システムの先駆者であるが、彼もまた石ノ森の手腕を称賛する。
「章太郎は、私以上にこういうやり方に向いているんじゃないですか。映画でいえばプロデューサー兼監督主演みたいなものですが、とにかく大人ですからね。人をまとめていくのはうまい」
 しかし、あまりこうした共同作業にのめり込んでほしくないとも思う、とさいとうはつけ加えるのを忘れなかった。
「私は職人だが、章太郎はひらめきで描ける天才。ひとコマひとコマが一幅の絵になっているような、彼の画風が好きなんですね。ああいう世界を忘れてほしくない」
 原稿がひと段落して、二階の応接室で話を聞く時間がようやくとれた。
「歴史というのはもともとどこかうさんくさいんだよね」。煙草を途切れることなくふかし続けながら、石ノ森は語る。
「為政者に都合のいいように描き直してもいるだろう。そこで、現在ある記述からいろいろ推理していかなきゃならない。そこが難しいね。特に古代は庶民について記述が少なくてドラマがつくりづらい。まあ、あの時代は意識の上でも『庶民』は存在しなかったんだろうね。これが平安に入ると、ようやく歴史に庶民が顔を出してくる。そのへんから面白くなってくるね」
 情報マンガの正否のポイントは、この情報と物語の配分の微妙な加減にある。どちらに傾いても成功はおぼつかない。また、歴史は、どのような歴史観に立つかという立脚点ひとつで、がらりとその姿を変えもする。均衡のとり方がひどく難しい。終戦を境に歴史観が一転するという体験をした世代のひとりとして、ある時代のある史観は常に相対的なものでしかないという、醒めた思いも胸のうちにはある。が、それでもこの仕事に意気込みを燃やすのは、暗記中心の日本の歴史教育がどうにもおかしなものに思えて仕方ないからだ、という。
「暗記中心の教育は根本的に間違っていると思うんだ。それを見直すときに、マンガは案外有効な方法なんじゃないか。イマジネーションを働かせて、歴史上のある時代を大づかみに把握するには最適のメディアでしょう。でも、そうなるとマンガはもはや『漫画』ではない。だから『萬画』という表記を提唱したんだよね」
 質量ともに傍聴した現在のマンガに、「漫画」という文字は似つかわしくない。あらゆる表現が可能なメディアという意味で「萬(よろず)」という文字をあてはめ、ミリオンアートとして再定義しようと、石ノ森が最初に呼びかけたのは、昨年の3月、「ビッグコミックスピリッツ」誌上で発表された故手塚治虫追悼作品『風のように』のラストにおいてだった。手塚の死によってもたらされたひとつの時代の終焉と、新しい時代へ向かおうとする意志とがここでは強く結びつけられて語られている。
 この「萬画宣言」が実を結び、名称として定着するかどうか、その行く末についてはひとまずおく。私がひきつけられるのは、その作品の仲に描かれた手塚との確執、手塚に対する愛情と憎悪の入りまじる、屈折した心情の深さ、濃さである。
「事件」は石ノ森の『ジュン』という作品をめぐって起きた。45年、手塚の主催する虫プロから発行されていたマンガ専門誌「COM」に連載されていた『ジュン』は、絵とコマの流れだけで構成された「ポエムコミック」とでもいうべき実験的な作品だった。姉への愛とその喪失の痛みが主題として描かれてはいるが、物語の散文的展開はほとんどみあたらない。もともと石ノ森章太郎のマンガには、その基底部に、常に喪失感とメランコリーな悲しみが流れている。ときにそれは、淡い詩情として、あるいは物語からこぼれ落ちる無言(しじま)として、画面に立ち現れる。手塚治虫が、マンガに映画的手法と物語を導入した先駆者であるなら、石ノ森章太郎はその技法を受け継いだうえで、マンガに詩情(ポエジー)をもち込むことに成功した最初の作家である。その資質を結晶化させた『ジュン』は、一部には熱狂的なファンを生んだ。
 そうしたファンの一人から、彼のもとへ手紙が舞い込んだ。手塚治虫が『ジュン』を陰で中傷しているという内容の、残酷な「忠告」であった。
「その人は手塚さんのファンでもあったので、手塚さんにファンレターを書き、その中で僕の『ジュン』をほめたんですよ。そうしたら手塚さんから返信がきて、その中に『あんなものはマンガではありません』と書かれていた。そのファンはショックを受けて、手塚さんの返信を同封して僕の元へ送ってきたんです。愕然としましたね。そんな手紙がこなければ、手塚さんのそういうドロドロした感情なんてわからなかっただろうね。ショックでしたよ。ものすごく傷ついたね……。それで連載を打ちきりにしたいと『COM』の編集部に連絡したところ、夜中にたった一人で、トキワ荘までやってきたんだよ。あの手塚治虫が、わびるんだ、頭を下げて。『自分でもどうしてあんなことをしたのかわからない、自分で自分がイヤになる』って。ひたすら当惑したね。『もういいんです。描き続けますから』としか言えなかった……」



凡庸だから妙にバランスが
自分を相対化する視点持つ



 手塚治虫が、晩年になっても、自分の子供のような年齢の新人作家に対してまで激しい競争心を燃やし続けたという逸話はよく知られている。しかしそれが、このような暗く異様なまでの情念の炎であったとは、語られてこなかった。
「僕らがいくらヒットを生んだとしても、しょせん手塚治虫にはかなわないんだよ。あの人は雲の上の人なんだから。誰も彼もそれを認めていたじゃない。他人に嫉妬する必要なんかまったくなかったんだ。ところが、雲の上から自分で降りてきちゃうんだね。僕に対してだけじゃない。才能のある人間、人気のある人間に対していつもそうだった。最近では大友克洋や宮崎駿に対してもそうだった。嫉妬にかられると、いつもの温厚な手塚さんじゃなくなっちゃうの。一種のものぐるいだよ。何かにつかれた物書きが、あらぬことを口走ってしまう。そんな自分をわかってもいて、でもどうにも扱いあぐねて、自分自身でも悩んでいたと思う。だけど、それが天才の証明なのだろうね。天才というのは、どこかいびつでしょう。僕らは凡庸だから、妙にバランスがとれてしまっている。そういう性格が作品にもあらわれてしまっている。物足りない。手塚さんのようなつきつめたところがない。それは自分でもわかってる」
 冷静である。常に自分を相対化する視点を見失わない。しかし、そんな石ノ森がなぜ手塚へのレクイエムの中で、手塚との確執を生々しく描かなければならなかったのだろうか。見方によってはこれは周囲によって一方的に”神様”扱いされてきた手塚治虫の実像を暴露する行為、ともとれる。しかしそれ以上にこれは、石ノ森自身の「告白」ではないだろうか。重要なことは「大人」で「優等生」で「温厚」な彼の中にも、深い淀みの淵があることを明らかにしたことであって、それ以外ではない。そしてその淵は可能性の言い換えでもある。
 手塚と石ノ森の二人と深い親交を結んできた小学館常務の小西湧之助はこう語る。
「石ノ森さんていう人は、天才肌の人で、描くことに苦しむってことがない。そこが強みでもあり、弱みでもある。手塚さんは天才だけど、苦しみ抜いた人ですね。自分自身で心のカサブタをはがして血を流し続けた。すごい人ですよ。石ノ森さん、木には登った。あとは龍になって雲にのることだよ。手塚さんはやっぱり龍だったと思う。だいたい、善人がもの書けるわけないんだから。人を踏みつけ倒して今日まで生きてきたわけでしょう。きれいごといってたらだめだよ。本物の物書きにさわやかな善人なんかいないよ」
「僕の恩人」と石ノ森がいう、「少女クラブ」元編集長の丸山昭は「彼の一ファンとして」こう言う。
「僕らはずっと、手塚治虫を超えるのは彼しかいない、と言い続けてきた。いつかやるだろう、いつか、と待ち続けてきた。まだ彼は真の力を出し切っていない。僕は彼の入魂の作品を読みたいと思っています」
 手塚治虫は神様ではない。よってたかって彼を神様に祭り上げてきたのは我々である。そして誰一人として彼とまともに対峙しようとはしてこなかった。多くを語らないが、石ノ森は心中期するところがあるように思う。「萬画宣言」も、手塚に対峙しようとする覚悟のあらわれなのかもしれない。手塚の意志を継ぐということは、おそらく手塚治虫の魂の安息をかき乱し、彼の嫉妬の歯ぎしりが冥界から聞こえてくるような仕事をすることであって、彼が「ブッダ」のように穏やかに微笑み、うなずいて愛でるような仕事をすることではない。
 そしてその課題を負っているのは、石ノ森ひとりではない。手塚の作品に心を震わせたことのある者すべての、宿題なのだ。




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