ハンガリー王国

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ハンガリー王国
Magyar Királyság
ハンガリー前史 1000年 - 1526年
1526年 -1918年
(オーストリア領邦として)
ハンガリー民主共和国
ハンガリー王国の国旗 ハンガリー王国の国章
(国旗) (国章)
ハンガリー王国の位置
15世紀終わり頃のハンガリー王国の版図
公用語 ハンガリー語ラテン語ドイツ語、その他
首都 ブダペスト
ポジョニ
ブダ
セーケシュフェヘールヴァール
デブレツェン
エステルゴム
国王
1000年 - 1038年 イシュトヴァーン1世
アールパード朝初代)
1308年 - 1342年 カーロイ1世
アンジュー朝初代)
1526年 - 1564年 フェルディナーンド1世
ハプスブルク君主国成立、対立王としてヤーノシュ1世
1740年 - 1780年 マリア・テレジア
1848年 - 1916年 フェレンツ・ヨージェフ1世
アウスグライヒにより1867年よりハンガリー国王として戴冠)
1916年 - 1918年 カーロイ4世
(末代、オーストリア皇帝カール1世)
面積
1918年 325.111km2km²
人口
1711年 3,000,000人
1790年 8,000,000人
1910年 18,264,533人
1940年 14,679,573人
変遷
ハンガリー王国建国 1000年12月25日
オスマン帝国のブダ占領 1541年
1848年革命 1848年
アウスグライヒ 1867年
トリアノン条約 1920年
通貨 フォリント(1325)
ターラー
オーストリアフローリン(1754-1867)
オーストリアハンガリーゴールド(1867–1892)
オーストリアハンガリー帝国クローネ(1892–1918)
ハンガリー・クローネ(1919–1926)
ペンゲー(1927–1946)
アダペンゲー(1946)

ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、:Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。

概要[ソースを編集]

1000年頃、イシュトヴァーン1世の即位によって王国が成立した。その一族であるアールパード朝による統治が300年続いたが1301年に断絶し、以降は選挙王政によって王位が継承されるようになった。1526年にオスマン帝国の攻撃を受けて領土を失陥した。前後してハプスブルク家による王位の世襲が固まり、ハンガリーはオーストリアハプスブルク君主国)の支配下となった。1867年アウスグライヒにより、オーストリア=ハンガリー帝国の一翼を担う王国に位置づけられた。1919年に帝国が崩壊し、ハンガリー民主共和国の成立により王国は消滅した。

地理[ソースを編集]

現在のハンガリー共和国とは異なる。現在の共和国領全域に加え

がハンガリー王国の最大領域であった。

首都[ソースを編集]

1541年から1784年まで現スロヴァキアの首都であるブラチスラヴァが首都になったのは、バルカン半島に侵入してきたオスマン帝国の圧力から逃れるためである。

歴史[ソースを編集]

オーストリア=ハンガリー帝国の領域図。黄色の地域がハンガリー王国
1914年当時のハンガリー王国

歴代国王[ソースを編集]

アールパード朝が300年(王国成立以前を含めれば400年)続いた後、13世紀末に断絶するが、その後はアールパード家の血を引く王位請求者による抗争を経て、1308年以降は選挙王制となる。14世紀にはほぼアンジュー朝の統治が続いたが、その断絶後はルクセンブルク家ハプスブルク家フニャディ家ヤギェウォ家の間を王位が変遷した。

1526年以降はハプスブルク家が王位をほぼ独占し(ただし当初は対立王がいた)、同家の神聖ローマ皇帝が、1804年からはオーストリア皇帝がハンガリー王位を継承した。ただし例外が2人いる。1人はローマ王フェルディナント4世で、父フェルディナント3世の生前にハンガリー王位を譲られ、次期皇帝としてローマ王にもなっていたが、帝位を継承する前に死去した。このように、ハンガリー王位は帝位継承に先立って譲位されることが多かった。もう1人はマリア・テレジアで、彼女は神聖ローマ皇帝ではなかったが、ハンガリー女王の他にもボヘミア女王やオーストリア大公に即位した。彼女の夫フランツ1世は神聖ローマ皇帝ではあったが、オーストリア大公、ハンガリー王などではなかった。これは、マリア・テレジアがハプスブルク家の唯一の後継者でありながら、男子でなかったためサリカ法典により神聖ローマ皇帝になれなかったことで生じた(オーストリア継承戦争を参照)。法的にはマリア・テレジアのハンガリー王継承はカール6世1713年に発した国事勅書によるものである。

ハンガリー王国の残した問題[ソースを編集]

ハンガリー王国はその広大な領域に数多くのマジャール人を残した。現在でも、スロバキア、クロアチア、セルビアモンテネグロ、ルーマニアには数多くのマジャール人が住んでおり、ハンガリーとこれらの国の外交問題の一つとなっている。

例として、ヴォイヴォディナにおいては1941年のユーゴスラビア侵攻の理由の一つとなった。また、1989年に起こったルーマニア革命も、発端はルーマニアのマジャール人問題であった。

関連項目[ソースを編集]