13.風船爆弾

昭和19年(1944年)11月24日正午には、約70機に上るB29の空襲に会い、全国民が神聖であると自負した東京の空も、米機の乱舞に委ねる有様となった。当時、忠海製造所ではこの年の年末から翌年の正月にかけて、風船爆弾実習の為、数名の実習員が東京の日劇へ派遣されていた。フィリッピン方面の戦局が、米軍の一方的勝利に進展していた折だけに見習出張員も戦々兢々の有様であった。見習員が滞京中の昭和20年(1945年)元旦は夜来の空襲裡に迎え、例年ならば新春の人出に賑わう盛り場も不気味な静寂が支配していた。銀座など蒼白な顔で静まり返っていた。
 
東京方面の状況が反映してか、大久野島でも作業は可及的に地下へ持って行く計画で、男工員の大部分は防空壕掘りの作業に就いていた。わたしも壕の一部を担当していたが地盤が固くて、電気さく岩機を使用しても1日50センチ程度しか前進しない日もあった。地下水が湧出して余程湿気に注意しないと、漏電によるさく岩機の故障が起きた。さく岩機1台に男工員数名が付いてつるはしを振った。動員の女学生が女工員に混じり土除けをした。正月返上の昭和20年(1945年)1月6日頃は、こんな日を送っていた。島内防空壕が完成したのは2月下旬で、先ず重要物資の壕内疎開、硝斗薬作業の地下移転などが逐次行われた。



岡田黎子著「大久野島動員学徒の語り」より
 

さて、風船爆弾であるが、日本紙を数枚コンニャク糊で貼り合わせて作ったコンニャク・マンナン積層紙を、さらに数百枚貼り合わせて内径10メートルの球形に仕上げ、これが風船の体となった。この体に水素ガスを詰め爆弾を装着して始めて装備が完了するのであるが、忠海では体だけ作り梱包して発送した。



 岡田黎子著「大久野島動員学徒の語り」より

北半球の上空では地上7千?から1万2千?辺りを、たえず強い西風が吹きまくっているわけで、いわゆるジェット気流と呼ばれ、季節、緯度などによって多少誤差はあるが風速夏は1秒間15?、冬は40?位で時々は100?に及ぶといわれた。この西風に風船を乗せて米大陸に運ぶのであった。
 
東京から実習員が帰ったのは1月末であった。動員学徒の主体がこの作業に就いた。積層紙の製造は中学生、体の貼り合わせは女学生と各々分担していた。香川県観音寺方面から和紙、長野県諏訪地方からコンニャク粉というふうに、材料が大量に入荷していた。厳寒の候なので製造工室には、あり合わせの古材で応急の防寒設備がなされた。熱管理のやかましかった当時で、人員、設備の防寒には当事者も大変な苦心がいった。西からの季節風をまともに受ける工場地帯、径10?の球が容易に入る発電場階上などコンクリート建では採暖施設に毎日が暮れる始末であった。

  風船爆弾の幾体かが米大陸に到着して、後方撹乱の目的を達しつつあるとの情報が入っていた。原因不明の山火事が頻々と起こっていることは、われわれの士気を鼓舞し特に女学生などわが事のように喜んだ。

この間米国では、広島に投下される3週間前即ち昭和20年(1945年)7月16日、ニューメキシコ州アラモゴルド空軍基地の北西にある砂漠地帯で、歴史上初めての原爆実験に成功していた。オッペンハイマー博士を始め、300人のアメリカ科学者が、5年前から30億ドルの資金を投じ極秘の裡に研究していた原子爆弾が、高さ30?の鉄塔の上で午前5時を期し実験されていた。

昭和20年(1945年)8月8日、けさは大詔奉戴日であった。毎月8日には登所と同時に服装を整え、各掛工場毎に隊伍を組んで、勅諭渙発50周年記念碑前の広場に集合する例になっていた。途中、所長室前では厳粛な部隊の敬礼を行った。老若男女混合の部隊であるから、必ずやり直しを喰う隊があった。昨今では製造所も全く軍隊化され営内生活と変わらなかった。大久野島神社脇のこの広場では時局認識を自覚する内容の所長訓話があって、解散する順序になっていた。かつて今治地区が爆撃された時などこの訓話の最中であったが、爆発音を手に取るように聞いたので中途で待避したこともあった。

B29の編隊が白昼堂々と横行し、空襲の頻度が増すにつれ、通勤用船舶の運行は忠海、大久野島間の最短距離を通り、島の西側にある長浦桟橋を使用した。これは、かつて竹原沖の契島が敵機の機銃掃射を受けた時大いに奏功した。丁度、空襲警報発令時刻が、通勤船の長浦桟橋到着と同時であったからであった。待避行動が円滑に行った為、大事に至らなかった。製造所でも重機関銃を有する自営警備隊が常勤していたが緊張の一瞬であった。

忠海西国民学校の講堂に、広島から暁部隊が疎開して朝晩の通勤船上から、この部隊の演習を見掛けたのもこの頃であった。毎夜、発令される空襲警報に私宅に落ち着いても安眠はできなかった。不要な畳、建具は取払い戸障子は開放して焼夷弾に備えた。燃焼初期のもの、未燃焼のものなどスコップで戸外へ投げ出した為、被害を最小限に喰い止めた事例が喧伝された時であった。

雑炊の夕食で、一時の満腹を味わっていた時であった。玄関で声がするので応対して見ると、青森の部隊から派遣された下士官の人であった。忠海の沖合いにある大崎島の寺院に部隊が疎開する為、設営調査に行く途中なので一晩泊めてくれというのであった。燈火管制が常識となっていたので、晩の内に待避準備と夕食をすませ就寝する習慣となっていた。青森からのお客さんを迎えた今夜もまた警報が鳴った。わたしはお客さんと家族5人を誘導して宇津の蜜柑畑に避難した。大豆粕入りの麦飯で作った握り飯を冷たいお茶で食った。マッチを擦って時計を見ると午前1時を過ぎていた。敵機の通過する騒音は、まばらになっていたが、東の空は真紅に燃え盛っていた。後で福山が焼夷弾攻撃を受けたことが放送された。江戸時代初期、水野勝成によって完成された福山城も昭和20年(1945年)8月8日、一夜にして炎上したのであった。

去る3月19日、夜空をかすめて襲ったグラマン約150機は、容赦なく呉に火の雨を降らせた。続いて7月1日、B29 80機の襲来で人口40万の軍港都市呉は無残な焼野原となっていた。残されたものは、スクラップになった工廠と港外に赤腹を並べた青葉、日向、伊勢などの軍艦であった。明治18年(1943年)、2万足らずの漁村から、明治23年(1948年)4月、呉鎮守府が創設され、海軍と共に栄えた呉も、また海軍と共に壊滅したのであった。

また、同年7月26日、23時から翌27日3時にわたって、松山市が焼夷弾攻撃を受け丸焼けになった。当夜、わたしは夜勤に就いていたが、大久野島の南大三島肥海の山の西側中腹が真紅に染まって、今治か松山か見当のつかない方角であった。対岸の火災といった気持ちで茫然と眺めていた。

呉から回漕店の判取帖の焼け残りが、忠海町内へ飛来したのもこの頃であった。2日前の8月6日、広島原爆の時は、忠海製造所からも救護班を編成して広島八丁掘の福屋へ大森北四郎氏を長とする十数名が既に駆け付けていた。そして、また、今宵福山の空襲、広島県では三大都市が焼失したのであった。

黒滝山頂をかすめて西方に去った一機が、小泉峠と思われる方向にレーダー妨害用の金属片を投下したので、金屑の塊を大地に投げ付けたような金属音が一つきこえた。去る6月29日、郷里岡山城が戦災に会った時、市内随一の高層建築である天主閣が炎上した様子を聞かされていたが福山城の場合が想像できた。翌朝まぶしい朝の太陽に寝ぼけた眼を見張って、珍客の武運長久を祈りながら青森の兵隊さんを送り出した。

さて、その後の風船爆弾情報に就いては、茨城県の基地から暗夜に乗じて打ち上げられたこと、米大陸西岸に接岸して潜水艦から飛ばされたことなどで、戦局を支配するような芳しい情報は得られなかった。