ヴィリー・ブラント

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ドイツの旗 ドイツの政治家
ヴィリー・ブラント
Willy Brandt
Bundesarchiv B 145 Bild-F057884-0009, Willy Brandt.jpg
ヴィリー・ブラント
生年月日 1913年12月18日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州リューベック
没年月日 (1992-10-08) 1992年10月8日(満78歳没)
死没地 ドイツの旗 ドイツラインラント・プファルツ州ウンケル
所属政党 ドイツ社会民主党
配偶者 ルート・ベルガウスト
ブリギッテ・ゼーバッハー
サイン Willy Brandt signature.svg

西ドイツの旗 第4代連邦首相
内閣 ヴィリー・ブラント内閣
在任期間 1969年10月21日 - 1974年5月7日

西ドイツの旗 連邦副首相 兼 外務大臣
内閣 クルト・ゲオルク・キージンガー内閣
在任期間 1966年12月1日 - 1969年10月20日

在任期間 1957年10月3日 - 1966年12月1日

その他の職歴
社会主義インターナショナル議長
1976年 - 1992年
ドイツの旗 ドイツ社会民主党党首
1964年 - 1987年
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1971年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:東ドイツを含めた東欧諸国との関係正常化を目的とした、彼の東方外交に対して

ヴィリー・ブラントWilly Brandt1913年12月18日 - 1992年10月8日)は、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の政治家。第4代連邦首相1969年-1974年)。ドイツ社会民主党 (SPD) 党首1964年 - 1987年)。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州リューベック出身。

概要[編集]

労働者の家庭に生まれ第二次大戦前にドイツ社会民主党に所属し、その後に党を離れたが反ナチス活動でノルウェーに逃れ、戦後は西ドイツの社会民主党に戻り、西ベルリン市長となって、1958年のベルリン危機、1961年のベルリンの壁の建設に対処し、1964年に社会民主党党首となった。1966年にキリスト教民主(社会)同盟との大連立内閣を組んでキージンガー内閣で外相となり、1969年秋に自由民主党と連立内閣を組み、戦後初の社会民主党党首として首相に就任した。在任中は積極的な東方外交を展開して、東西の緊張緩和を進め、東ドイツとも基本条約を結んで両ドイツ間の懸案を少しずつ解決していくことを示した。1971年ノーベル平和賞を受賞したが、1974年に秘書のギュンター・ギヨームが東ドイツ国家保安省の潜入させていたスパイと発覚した(ギヨーム事件)により首相を辞任した。後に社会主義インターナショナル議長(1976年 - 1992年)を務めた。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

ヴィリー・ブラントの生い立ちは、かなり複雑で私生児であることから後に政敵から攻撃されることが多く、1961年夏のベルリンの壁が建設された時も当時のアデナウアー首相が選挙演説で彼の出生のことを揶揄されたりしたが、ブラントは一切ごまかそうとせずかえって周囲の評価を高めた。

本名はヘルベルト・エルンスト・カール・フラーム (Herbert Ernst Karl Frahm)で、1913年12月18日、現在のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州リューベックで生まれ、父はヨーン・メラー、母はマルタ・フレームであった。2日後にリューベックの出生登録簿に生まれた男子の名前と母のみの登録がされ、婚外子であった[1]

教会も私生児には冷たく、近所のルター派教会は私生児であることを理由に洗礼を授けることを拒んだため、母マルタ・フラームは1914年2月26日、市内の離れた場所にある同じルター派の聖ローレンツ教会ドイツ語版に幼子を連れて行きブラントはここで洗礼を受けた。

母マルタ・フレームの父(ブラントの祖父)はルートヴィッヒ・ハインリヒ・カール・フラームで母はヴィルヘルミーネと呼ばれたが、このブラントの母方の祖母はブラントが生まれる数週間前に亡くなった。そして母マルタは祖父ルートヴィッヒの実子ではなくヴィルヘルミーネが未婚時に生まれた娘であった。しかしルートヴィッヒは父親としてマルタを育て、そしてマルタが生んだブラントの父親代わりとなって幼少期にはパパと呼ばれ、ブラントの高校卒業証書でも父親と記入されていた。やがて第一次世界大戦で、祖父ルートヴィッヒは徴兵で戦線に赴き、4年後の大戦の終わりで戻り、1919年に10歳年下のドロテーア・シュタールマンと再婚した。そして母マルタの方も息子を養うため厳しく働かねばならなかった。そして1926年に左官職人頭のエミール・クールマンと結婚した。この時マルタは32歳でブラントは13歳であった。母はマルタ・クールマンとなり、やがて異父弟ギュンター・クールマンが生まれている。母マルタは「余り気張らない質で自然に愛着を持ち教養を渇望していた」とされ、「太り気味だが活発」であったとブラントは後に語っている。1969年8月に75歳で亡くなったが、これはブラントが首相に就任する2カ月前であった[2]

そして父ヨーン・メラーについて、ブラント自身が本当の父親を知ったのは戦後になってからで、母マルタに思い切って手紙で問い合せた時に母から送ってきたメモ用紙に書いていた名前がヨーン・メラーであった。1949年5月に姓名変更の申請手続きをした時に、ブラントはこの名前を父親欄に記入している。そして1961年6月に当時西ベルリン市長として東西対立の狭間で苦悩していた時期に、ゲルト・アンドレ・ランク[注 1]という人物から手紙が来て、実父の消息を知った。実父は第一次世界大戦で記憶能力が損なわれ、戦後は会計係として働き1958年にハンブルクで亡くなっていた。そして「並外れた深い人間味の持ち主で、周囲の人々に強い印象を与える品格の持ち主」[注 2]であり、「穏やかで円満で思慮深い人」[注 3]であったという。ブラントは父親について殆ど何も語らず、75歳になって書いた「回想録」で初めてこのことを明らかにした[3]

優秀な学業成績[編集]

育ての親でもある母方の祖父ルートヴィッヒ・ハインリヒ・カール・フラームはいろいろと面倒を見てくれたが、必ずしも父親代わりにはなれなかった[4]。しかし第一次大戦から帰還した祖父がいることで行動や指針の面で頼りになる男性を身近にもって、6歳以降にブラントは成長していく。そして祖父ルートヴィッヒはトラック運転手として働き、ブラント少年に和やかな子ども時代を過ごさせ、社会主義的な労働運動への道に導き、専門の養成教育をが受けられるようにして、その性格形成に大きく関わった一人である[5]

ブラントは聖ローレンツ少年中等学校で7年間通い、1927年にレアール・シューレに1年間学び、その後大学進学をめざすレアール・ギムナージウムへと進んだ[注 4]。1920年代に労働者の子弟で高等教育機関に進学できるのは、ほんの僅かな数であった。1932年2月26日に高等学校課程の修了試験アビトゥーア試験に合格し、「秀」の評価を受けた[6]

青年活動から政治活動へ[編集]

しかしブラントは高校生の時には政治に参加していた。祖父ルートヴィッヒがドイツ社会民主党(SPD)党員で市議会議員選挙にも出馬したことがあり、ブラントは労働者スポーツの子どもクラブに入り、その後労働者マンドリンクラブに入り、そして14歳で自分の居場所を社会主義の青年運動に見出し、やがて社会主義労働者青少年団に入った。これはワンダーフォーゲルとボーイスカウトをミックスしたような団体であったと後にブラント自身が語っていたが、生涯を通してそうした青年運動が自分にとって連帯の体験、家庭の代用そして個人的な能力テストの基盤として大きな意味を持っていた、と述べて自然やキャンプ生活、野外のキャンプファイヤーで唄うのが好きな青年であった。そして16歳の時、1929年8月27日にリューベックの社会民主党機関誌『民衆の使者』に記事を寄稿し、翌1930年に17歳でドイツ社会民主党(SPD)に入党する[7]。学校に通う間も地元機関紙に繰り返し寄稿し、その編集長であるユリウス・レーバーの影響を受けた。だが少年時代から急進左派に属していたブラントは、1931年10月にレーバーや社会民主党(SPD)と決別し、ドイツ社会主義労働者党(SAP)に入党した[8]ことで、レーバーの世話で受けるはずだったSPDの奨学金が受け取れなくなったため、ブラントは大学進学を諦めて地元の造船所で働いた。そして地元の機関誌『民衆の使者』の編集からも1931年10月に去っている。ただこの『民衆の使者』の編集は若い彼にとって理想的な職業訓練の場となった。この『民衆の使者』編集部の同僚は後に「この若い社会主義者は官憲の反応を意に介さず、自分の考えをはっきりと述べる勇気と率直な姿勢に少なからぬ人たちが感銘を受けて、目立つ存在であった。」と語っている[9]

反ナチス活動[編集]

1933年1月30日にナチス政権が誕生し、2月27日に国会議事堂が炎上され、共産党も社会民主党もドイツ社会主義労働者党(SAP)も活動が禁止され、党指導者も解党方針を出したが党員の一部は反発して3月11日にドレスデンで秘密裡に集まり党の存続を決め、党事務所をノルウエーのオスロに置くこととし、その事務所の責任者を決めたが直後に逮捕されたため、この時まだ20歳前であったブラントを責任者としてオスロに送り込むことになった[注 5]。1933年4月1日から2日にかけてブラントはリューベック北方20キロの港から船でドイツを離れてまずデンマークに向かった。身に付けていたものは下着数枚と「資本論」第1巻と祖父がくれた100マルクの現金であった。祖父ルートヴィッヒとはこれが永遠の別れとなった。そして1歳下の女性ゲルトルート・マイヤーが彼を追っていた。

オスロでの党活動[編集]

デンマークに到着後コペンハーゲンで数日滞在した後にノルウェーのオスロに向かった。そしてオスロで党組織再建のための活動に従事し、遅れてこの1933年夏にゲルトルート・マイヤーがオスロに来て、二人は一緒に住むことになった。このゲルトルート・マイヤーはその3年後の1936年2月にノルウェー人「グナル・ガースラント」[注 6]と偽装結婚してノルウエーの国籍を取得して、以降ドイツへの連絡役を無難にこなした。このブラントとゲルトルート・マイヤーは1939年春まで一緒にいたが結婚はしなかった[注 7]。そして名目上の夫であるグナル・ガースラントはブラントを支援し仲間として旅行やスポーツなどの活動に積極的に参加し、そして1936年に危険なベルリンへの潜入のために偽造パスポートに自分の名前を使わしてくれた人物であった。ブラントはまたこのオスロ仲間の一人から警察の追及を避けるためにオスロ大学に籍を置くことを勧められて、学籍登録して歴史学を専攻した。そしてこのオスロ大学でアンナ・カルロータ・トルキルゼンというノルウエー人女性と知り合った。

ブラントのオスロでの任務はドイツ社会主義労働者党(SAP)のノルウエー海外事務所を設立し、同時に外国における党の青年同盟の活動をコーディネートすることであった。そして彼の折衝相手はノルウエー労働党であり、この党はブラントを経済的支援をして、またブラントが警察の手で故国へ送還されるのを防いでくれた。ただ当時のオスロのドイツ外交部には「フラーン(Frahn)という名のアジテーターが登場している」という1933年8月9日付けのメモがあった。ノルウエーでの滞在許可が下りた時に政治的活動はしないとの条件が付けられていたが、ブラントはそれに従うつもりはなく、1933年4月11日付けのノルウエー労働党の機関紙に寄稿記事を書き始め、さまざまなペンネームを使って、やがてオスロに集まった亡命者のための新聞の活動を展開して、このオスロにいる時代にジャーナリストとして活躍していった[10]。そしてこの時に“ヴィリー・ブラント”を名乗り、やがてオランダやフランスのパリ、ベルギーそして元のドイツのベルリンを訪ね、ベルリン滞在中はノルウエー人になりきり、ノルウェー語なまりのドイツ語を話していた[11]

1936年のクリスマス直前にブラントはベルリンを去ってチェコスロバキアを訪ね、ここでユダヤ系オーストリア人ブルーノ・クライスキーと知り合った。その後ポーランドを経てオスロに戻ったが、すぐにドイツ社会主義労働者党指導部からバルセロナに行きスペイン内戦の状況についての報告を求められて、1937年2月にスペインに向かい、そしてこのスペイン内戦の取材活動を行った。ここでブラントは左翼陣営内の争いを見て、コミンテルンの横暴を知り、それは後々まで忘れることはなかった。1937年6月にスペインを離れパリに到着し、ドイツ社会主義労働者党指導部の拡大会議に出席してスペイン内戦の報告を行った際に、「己に同質化しようとしないあらゆる勢力を殲滅しようとするコミンテルン」を非難し「国際的な労働運動はコミンテルンのその種の攻撃を防ぐ必要がある」と述べて「インチキな手段、下品な中傷、虚偽、テロルという手段を阻止しなけらばならない」と述べた。このスペイン内戦でブラントがスターリン主義の共産主義相手になめた経験は、社会民主主義でも急進派であったブラントを主流派に再び接近する重要なインパクトとなった。またブラントのその後の政治的な経歴にとって決定的な部分となったのはノルウエー労働党であった。早くにコミンテルンから離れ1939年までに路線転換して、改革政策で労働者階級の利害と要望に応え成果を上げていることをブラントは学んだ[12]

戦時下の活動[編集]

国籍剥奪[編集]

1938年9月にナチスドイツは51名の国籍剥奪者リストを発表し、その中に「フラーム、ヘルベルト・エルンスト・カール 1918年12月18日生まれ リューベック」という記述があった。この前年5月にパリのドイツ大使館にヘルベルト・フラーム某なる者がフランスと北の国々との間を亡命者組織のための伝令役として行き来しているとのメモが届いていたが、まもなくこの人物がヴィリー・ブラントと同一人物であることを掴んでいた。ブラントにとってノルウエーに国籍の取得申請をするしか選択肢はなかった。そして彼はここでノルウェー国籍を取得する。この時にオスロ大学で知り合ったアンナ・カルロータ・トルキルゼンと再会し彼女も力づけてくれた。ブラントよりも10歳年上の彼女はノルウエー人の父とドイツ人の母の間にケルンで生まれ、知的で文学的な興味の持ち主でこの時はオスロの比較文化研究所で秘書として働いていた[13]

第二次大戦勃発[編集]

翌1939年8月24日にブラントは信じられない思いで独ソ不可侵条約が締結されたことを知った。スターリンとヒトラーが手を結んだことで、ブラントはヤーコブ・ヴァルヒャー党首に手紙を送り「今や革命勢力としてのソビエトをヒトラーと並ぶ第一級の反動勢力」と非難し、スターリンを過大に評価することの危険性を述べてソ連で起こっていることは恐るべきことだ、と書いて国内における血の粛清にも触れて、「社会主義は真にその名に値する政策を実行しようとするなら、自由とデモクラシーに基づくものでなかればならない」と述べた。これが「民主主義的社会主義」という理念を誕生させ、20年後の1959年にドイツ社会民主党がそれまでの階級政党から大衆政党に路線転換したゴーデスベルグ綱領を採択した。ブラントは1986年に「社会主義はデモクラシーによってのみ実現されるものであり、デモクラシーは社会主義によって実現するのだ」と語っている[14]。そのほぼ1週間後にナチスドイツはポーランドに侵入し、英仏両国は宣戦布告し第二次大戦が始まった。そしてソ連も東からポーランドに侵入した。

スウェーデンに亡命[編集]

そして翌1940年4月8日にカルロータから妊娠を打ち明けられ、また初めてノルウエーで自著を刊行したその日の次の早朝、ドイツ軍がノルウエーとスウェーデンに侵攻した。ノルウェーがドイツ軍に占領されたとき、ブラントは捕虜になるが、ノルウエー軍の軍服を着て正体がばれずに6月には釈放されて、スウェーデンに向かった。しばらくしてまたもう一度オスロに戻るが1941年の初めにストックホルムに滞在し、5月にオスロからスウェーデンに来たカルロータと結婚した。この時に彼が所持していた身分証明書は本来の「フラーム」の名前であったので、カルロータと「フラーム」の姓でストックホルムで暮らし、同年10月30日に女の子を出産してニーニャと名付けた。しかしカルロータとの結婚生活はわずか2年で破局で終わった[15]

スウェーデンは中立国の立場であったが公安警察はたびたびブラントを逮捕・拘留した。ただロンドンに移ったノルウエーの亡命政府が彼の国民証明書を交付して、スウェーデンでは彼はノルウエー人として認めれて国内での活動は比較的自由に出来てジャーナリストとして記事を書き、4冊の著書も書いた。1941年6月22日にドイツは突然ソ連を急襲し、ドイツ人亡命者の状況も根本的に変化した。そしてこの当時の中立国の首都ストックホルムは世界各国の秘密諜報機関の暗躍の場であり、ブラントはノルウエーの友人からの情報をソ連、イギリス、アメリカの情報機関に情報提供したりしていた[16]

1941年10月9日にブラントは亡命SPD(ナチスに活動禁止を命じられた社会民主党が当初はプラハに、そしてその後にパリに移っていた)に加入することを明らかにした。この時にアメリカに亡命していたドイツ社会主義労働者党(SAP)のメンバーは驚き、党首のヤーコブ・ヴァルヒャーも「面目を潰されるような一撃」と受け取った[17]

この亡命先でユダヤ系オーストリア人ブルーノ・クライスキーと再会し、彼とは1942年9月に「民主主義的社会主義者たちの国際的グループ」(小さなインターナショナル)という国際的な集まりのサークルに一緒に参加している。このグループからは戦後に他の国で大臣、議員、外交官として活躍した人もいて、そのうちヴィリー・ブラントとブルーノ・クライスキーはほぼ同時期に西ドイツとオーストリアの首相を務めている。この二人は終生の友となった[18]

1943年のブラントの30歳の誕生日の折りにノルウエー人のルート・ベルガウストという既婚女性と知り合った。ブラントより8歳年下でストックホルムのノルウエー大使館の報道部門に勤めていて、どちらも既婚(ブラントはこの時まだカルロータとは離婚していなかった)であったが、1944年夏頃には頻繁に会う仲となった[19]

1945年5月8日、ヒトラーが自殺して8日後にナチスドイツは無条件降伏した。ドイツ自身の未来はまだ何も分からない状態であった。

戦後[編集]

終戦後の1945年11月、ノルウェー紙の記者としてニュルンベルク裁判を取材するため9年ぶりにドイツに帰国し、そして母マルタ、継父エミール、異父弟ギュンターと再会した。ニュルンベルク裁判では占領軍政府の指示でノルウエー軍の制服を着て取材し、やがてオスロ時代の同志で後にノルウエーの外相となるハルヴァルト・ランゲの斡旋で1947年1月17日にベルリン駐留ノルウエー軍事使節団の報道担当官の職についた。しかしこうした立場では故郷ドイツの政治に働きかけをすることは出来ない認識して、同年11月に軍事使節団を辞した[20]

社会民主党[編集]

1945年5月8日の無条件降伏後のドイツでは、6月11日にドイツ共産党(KPD)がソ連占領地区で創設され、6月15日にドイツ社会民主党(SPD)も新たに創立していた。共産党にはヴィルヘルム・ピークとヴァルター・ウルブリヒトが指導者として登場し決定的役割を果たした。社会民主党は当座の指導部として中央委員会が設けられ、そのスポークスマンとしてオットー・グローテヴォールが務めた[21]。この他に6月26日にキリスト教民主同盟(CDU)、7月5日には自由民主党(LDP)が結成されて、これらドイツの伝統的政党が復活した7月にベルリンでこれら4党で「反ファシズム民主諸政党統一戦線」をもとにして人事・教育・警察のポストに必ず共産党員がついていたが各党平等に行政を担当した。しかし、それから1年もたたない1946年春にソ連は共産党と当時ベルリンで最も有力であった社会民主党とを統一させて4月21日に社会主義統一党(SED)が結成された。この当時社会民主党内はグローテヴォールが率いるベルリングループとクルト・シューマッハが率いるハノーファーグループが有力勢力であった。共産党との合併に反対であったシューマッハはベルリンに赴き説得し、3月31日に共産党との合併についての全党員を対象に特別投票が行われた。結果はベルリン西側地区32,547名のうち、投票数23,755名で賛成は僅か2,937名であった。東側地区はソ連が事前に形成不利を察知して投票を途中で打ち切り、そして共産党と社会民主党との合併を強行した[22]。グローテヴォールはシューマッハの反対を押し切ってSPDをKPDの側につき、社会主義統一党に参加した[23]

1946年10月20日にベルリン市議会議員選挙が全ての政党が参加して行われ、当時の有権者約230万人(投票率92%)の選挙結果はSPD-48.7%、 CDU-22.1%、SED-19.8%、LDP-9.4%であった。この初回選挙の結果、SPDのオストロウスキーが市長に就任したがまもなくSEDへの協力を誓った念書への署名をめぐって退職を余儀なくされ、その後任に同じSPDのエルンスト・ロイターが選ばれたがソ連は拒否権を行使したため就任出来なかった[24]。ブラントにとって、このエルンスト・ロイターはやがてユリウス・レーバー、ヤーコプ・バルヒャーの後の彼の政治的指南役となった[25]

ブラントは、潜伏中の1936年に一時隠密に帰国したことを除けば、ほぼ12年ぶりに故国への復帰であったが、彼が戻ってきた時のドイツの政治状況は東西の対立が鮮明になった時期であった。しかも政治家としては社会民主党を離れて社会主義労働者党に加わり、社会民主主義者と共産主義者との間に位置する社会主義左派の立場で活動し、そして亡命して展望も無く1944年にこの立場を放棄して社会民主党に復党したことで政治的には挫折であった。けれどもブラントはそうした挫折をチャンスと捉え、再出発してベルリンへの新しい道を歩み始めた[26]。そしてこの時のドイツ社会民主党はクルト・シューマッハが党首に選ばれて再建途上であったが、社会主義労働者党のヤーコプ・ヴァルヒャー党首がこの頃には東ドイツに行ったことで社会民主党内ではブラントを共産主義者と見る活動家がいて、彼の復党に反対する党員は多かった。しかしブラントは副党首エーリヒ・オレンハウアーの推挙で1948年2月1日にベルリンの連合国占領軍との連絡員となった[27]

この後に、ドイツ社会民主党員として戦後の政治活動が始まったが、第二次世界大戦中に国外亡命していた事実、社会民主党を離れて社会主義労働者党に移り、その時の指導者ヤコプ・ヴァルヒャーが戦後東ドイツの社会主義統一党に移ったこと、ナチスからノルウエーを逃れる際にノルウエーの軍服を着たこと、そしてニュールンベルク裁判でノルウエー軍の制服を着て軍事使節団に加わったこと、そして私生児であることなどが、のちに政敵に攻撃されることになる。

国籍復活・再婚・改名[編集]

私生活では最初の結婚相手のカルロータと娘ニーニャはオスロに住み、恋人となったルート・ベルガウストもオスロに住んでいて、彼はベルリンで一人暮らしであったが、手紙をこの3人にずっと送り続け、結局この3人の女性たちとは生涯に渡って連絡を取り合った。ブラントにとってノルウエーは第二の故郷であり、カルロータとニーニャ、そしてルートとはノルウエー語で会話していた。1947年の春にルート・ベルガウストがベルリンにやって来て1948年9月4日に彼女と再婚し、数週間後の10月4日に長男ペーターが生まれた。この時はまだルート・フラーム、ペーター・フラームの名であった[28]

1948年7月1日にリューベック市を管轄するシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州から国籍復活の証明書を得て、1949年5月に姓名の変更申請を出した。そして同年8月2日に認可されて、この時にヘルベルト・エルンスト・カール・フラームからヴィリー・ブラントに正式に名前が変わった[29]

西ベルリン市長[編集]

1961年3月13日、ホワイトハウスでアメリカ大統領ケネディ(左)と会見する西ベルリン市長ヴィリー・ブラント(右)

ブラントがドイツ社会民主党に戻り、故郷のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の連邦議会議員候補になることを断って、ベルリンで活動を始めた頃は、ベルリンSPDではフランツ・ノイマンとエルンスト・ロイターとが党内で対立し、ブラントはロイターの側に立っていた。1949年8月にベルリン市議会でドイツ連邦共和国議会における始めてのベルリン代表議員の一人に選ばれた[注 8][注 9]。同じ年にベルリンのヴィルメルスドルフ支部の支部長となり、翌1950年には西ベルリン市議会議員にも当選する[注 10]。この当時は彼の党内での基盤はまだ弱く、党内でのポスト争いで敗北を続けた、1952年4月の社会民主党の州委員長の選挙では193対63で敗れ、2年後も再度敗れて副委員長に収まっている[注 11]

ベルリン市議会でのSPDは1950年12月の選挙で20%の票を失い、1954年12月の選挙でも票を伸ばすことは出来なかった。しかしそれでも市議会では最大多数を占め、CDUと連立を組んで、市議会議長のポストを取っていた。そして1955年1月に市議会議長にブラントが決まった。この頃には西ベルリン市長エルンスト・ロイターが死去して、ブラントは政治的に頭角を現し始めていた。

西ベルリン市長には1950年から1953年までエルンスト・ロイターが務め、1人おいて1955年から1957年までSPDのオットー・ズールが務めて、その後任として1957年に西ベルリン市長となった。同年11月から1年間、各州から任免された州政府の構成員で立法に携わる連邦参議院議長も務めている[注 12]

東西冷戦のさなか、1958年にベルリン危機 (1958年)ドイツ語版が発生、さらに1961年東ドイツベルリンの壁を建設し、西ベルリン市長としてその対応に苦慮する(ベルリン危機 (1961年)英語版)。1963年6月には当時のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディが西ベルリンを訪問しブラントと会見、また「Ich bin ein Berliner(私はベルリン人である)」と述べる演説を行った。東西冷戦の最前線に立つブラントの姿は彼の個人的人気を高め、SPDは市議会議員選挙で躍進した。

社会民主党党首[編集]

SPD党内でのブラントの声望も高まり、1961年には連邦議会選挙で初めてSPDの連邦首相候補となった。その選挙中、キリスト教民主同盟(CDU)の首相候補で現職のコンラート・アデナウアーに私生児であることや亡命経歴を攻撃された。この選挙でSPDは躍進したが、他党との連立交渉に失敗し、政権奪取はならなかった。1962年にSPD副党首、1964年には党首に就任した。1965年の連邦議会選挙でもCDUに敗れたが、1966年ルートヴィヒ・エアハルト(CDU)の連立政権が瓦解すると、CDUとSPDの「大連立」政権を樹立、キージンガー内閣の外相兼副首相に就任、西ベルリン市長を辞任した。

連邦首相[編集]

ワルシャワ・ゲットーの記念碑。この碑の前にブラントは跪いて献花した
東ドイツ首相ヴィリー・シュトフ(前列右)と首脳会見したブラント(1970年3月19日、エアフルト)

1969年の連邦議会選挙でSPDは勝利、ブラントはドイツ社会民主党・自由民主党の連立政権を誕生させ、西ドイツで初めてのドイツ社会民主党出身の連邦首相となる。

連邦首相として東ドイツやソ連を始めとする共産主義諸国との関係改善を推し進める「東方外交」を展開した。1970年には訪問先のポーランドの首都ワルシャワで、ユダヤ人ゲットー跡地で跪いて献花し、ナチス・ドイツ時代のユダヤ人虐殺について謝罪の意を表したが、なおブラントの回想録では当日のポーランド側の反応について「私は、ポーランド側を困惑させたようだ。あの日、ポーランド政府の誰も、それについて私に話しかけなかった」とされている)[注 13]

同年、エアフルトで東ドイツのヴィリー・シュトフ首相・国家評議会副議長と会談し、初の東西ドイツ首脳会談を実現した。これらの功績により1971年にはノーベル平和賞を受賞した。1972年には東ドイツと東西ドイツ基本条約を結び、お互いを国家として承認した。こんにち政治学者や歴史学者の一部は、東方外交がのちの東欧革命ドイツ再統一の基礎となったと評価しているが、当時は保守派の政治家から激しく攻撃された。なお、1973年にはドイツの首相として初めてユダヤ人国家イスラエルを訪問した。

内政では「より一層の民主化」をモットーに行政・教育改革を目指したが、1973年のオイルショックなどによる経済停滞もあり、実現したものは少なかった。ブラントに離反してSPDからCDUに鞍替えする議員も跡を絶たず、1972年にはきわめて異例ながら大統領に自発的な連邦議会解散を申し出て総選挙に打って出ている。また当時、国内外でドイツ赤軍など左翼過激派の活動が激化していたが、1972年に過激派への取り締まりを強化する政令を施行して対応した。左派はこの政令を激しく批判し、またブラント自身ものちにこの政令が誤りだったと告白している。


1974年、個人秘書ギュンター・ギヨームが東ドイツ国家保安省の潜入させていたスパイであったことが発覚(ギヨーム事件)、ギヨーム逮捕と共に引責辞任し、財務相のヘルムート・シュミットに連邦首相の座を譲った。なお、ブラントには在任中も個人的な女性問題やアルコールに関する噂が絶えず、それを野党やメディアに激しく攻撃されて健康状態を悪化させるほどの精神状態になっており、ギヨーム事件の責任をとる格好で辞任したとも言われている。潔く首相を辞任したのち、ブラントへの個人攻撃はおさまった。

その後[編集]

首相を退いた後もブラントは社会民主党の党首として影響力を保持した。健康状態の悪化もあり1987年に退任するが、その際、希望後継者に党外のジャーナリストを指名して党内から批判の声が上がった(直後の党大会では別の人物が選出された)。退任と同時に終身名誉党首に選出された。

一方、国際的な活躍も目覚ましく、1976年には社会主義インターナショナル議長に就任した(1992年まで)。1979年から1983年まで欧州議会議員を務め、1977年には世界銀行総裁のロバート・マクナマラ南北問題に関する独立諮問委員会の長に任命され、1980年に「ブラント・レポート」を発表した。またフィデル・カストロミハイル・ゴルバチョフ鄧小平エーリッヒ・ホーネッカーなど共産圏の首脳と会見し、緊張緩和・平和推進に尽力した。1990年の湾岸危機の際にはイラクに乗り込んでサッダーム・フセインと直談判、「人間の盾」として人質となっていた194人の在留ドイツ人を解放させドイツに連れ帰った。

ストックホルム、ヴィリー・ブラント公園にあるブラントの銅像

1989年にベルリンの壁が崩壊、翌年念願のドイツ再統一がなると、ブラントは連邦議会に首都をボンからベルリンに移転することを提議し、議決された。

ブラントは1978年に最初の心臓発作を起こし、一時政治活動を休止したが快復した。1991年、腸にポリープが発見され除去手術を受けたが、ガンの転移が多臓器にわたっており、翌年再手術を受けた時はすでに手遅れになっていた。残された時間を家族と過ごすために退院してウンケル(Unkel)の自宅に隠棲した。そこを前年の末にソ連大統領の地位を追われたゴルバチョフが予告なしに訪問したが、本物と信じなかった妻により追い返されたというエピソードがある。それから1月後の1992年10月8日午後4時32分、ブラントは息を引き取った。連邦議会はブラントの国葬を決定した。

私生活ではブラントは、1941年にノルウエー人女性アンナ・カルロータ・トルキルゼンと結婚し一女をもうけたが、1943年に別居し1948年2月に正式に離婚した。その後に戦時中から親しくしていたノルウエー人のルート・ベルガウスト(本名ルート・ハンセンで夫がいたが1946年に病死している)と結婚、三男をもうけた。32年の結婚生活ののち1980年にルートと離婚、1983年に歴史家のブリギッテ・ゼーバッハーと再婚し、最期はゼーバッハーに看取られた。

現在、ベルリンにあるSPDの党本部ビルはブラントを記念して"Willy-Brandt-Haus"と名付けられている。またドイツの各都市にはほとんどと言っていいほどブラントの名を冠した通りがあり、国外ではポルトリールにもある。ブラントの名を冠した政府系財団もあり、2013年開業予定のベルリン・ブランデンブルク国際空港にもブラントの名が付けられた。また、ブラントの死後から2002年まで流通していた2マルク硬貨の裏面にもブラントの肖像があしらわれていた。

参考文献[編集]

  • グレゴーア・ショレゲン著 岡田浩平訳『ヴィリー・ブラントの生涯』三元社 2015年発行

脚注[編集]

  1. ^ この人物は、実父ヨーン・メラーの母マリア・メラー(ブラントにとっては父方の祖母)の孫にあたる人物であった。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』16P参照
  2. ^ ブラントに実父の存在を知らせたゲルト・アンドレ・ランクの言葉である。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』16P参照
  3. ^ ゲルト・アンドレ・ランクはその後に妻と離婚したが、ブラントが75歳の時に書いた回想録を読んだこの従兄弟の妻が、読んですぐにペンを取り、ゲルト・アンドレのいう父親像は真実であったとして、そしてヨーン・メラーを評して書き添えたものである。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』16P参照
  4. ^ この時代のドイツの学校制度では、大学進学をめざす「ギムナージウム」、中間的な官吏や職員をめざす「レアール・シューレ」、職業訓練を受けながら通う「ハウプト・シューレ」の3つのコースがあった。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』21P参照
  5. ^ この解党方針に反対してドイツ社会主義労働者党の指導者になったのが、ドイツ社会民主党からドイツ共産党に移り、やがて反主流派として離党してドイツ社会主義労働者党に入ったヤコプ・ヴァルヒャーであった。ブラントとはその後も親密な関係であったが、1940年にアメリカに亡命し、戦後1946年にドイツに戻り、ドイツ社会主義統一党に入って要職についたが、1950年代に失脚し、1970年3月に東ドイツで死去した。
  6. ^ 「グンナー・ゴースラン」と表記する資料もある。
  7. ^ ゲルトルート・マイヤーは、その後オスロで一緒に作業していた秘書のヴィルヘルム・ライヒのあとを追って、ニューヨークに向かった。
  8. ^ 『1949年ベルリン選挙区から出馬して第1回ドイツ連邦議会の議員に当選する』という言説があったが、この1949年時点でのベルリンでは選挙が難しい(他の州は自由選挙であった)状況であったと考えられ、ベルリン市議会で8名の代表委員を選出して連邦議会に送られた。なおブラントは故郷のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の連邦議会議員候補になることも可能であったが断り、さらにエルンスト・ロイターがベルリン市の交通部門の責任者のポストを用意していたのに、彼に無断でベルリン市議会からの選出で連邦議員になったことで、しばらくロイターとは気まずい関係になった。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』89-90P参照
  9. ^ この連邦議員の地位はベルリン市長に当選した1957年10月まで8年務め、その後1992年の死去まで断続的に連邦議会議員を合計31年間務めた。
  10. ^ 西ドイツでは兼職が可能であったので、この市会議員を首相在任中の1971年まで務めている。
  11. ^ 後年ブラントは「敗北によって鍛えられる。但し余り頻繁にならない場合に限る」と述懐している。そして委員長への当選が確実になるまでは、手を上げない賢さを身につけていった。グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』88-89P参照
  12. ^ 西ドイツの連邦参議院は日本のように自由選挙で選出される議員で構成されるものでなく、州政府が選んだ議員を送っている。議員の任期はなく、議員は不定期に州から任免されている。
  13. ^ ブラントはあくまでもホロコーストについて謝罪の意を示したのであって、戦争やポーランドへの侵略について謝罪したわけではなく、帰国後にはポーランドが戦後行った旧東部ドイツ領からのドイツ人追放を「戦後のドイツ人の旧東部ドイツ領からの追放という不正はいかなる理由があろうと正当化されることはありません(白水社「過去の克服 ヒトラー後のドイツ」より引用)」」と非難している。また跪いて献花するブラントの姿は共産党政権下のポーランド国内で公表されなかったため、ポーランドの一般人にはほとんど知られていなかった(中公新書「〈戦争責任〉とは何か」より)。日本ではしばしば「ブラントの跪きがポーランドの対独世論を変えた」という趣旨で論じられることがあるが、そのような事実はない。

出典[編集]

  1. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』12P参照
  2. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』13-19P参照
  3. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』16P参照
  4. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』13P参照
  5. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』20P参照
  6. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』22P参照
  7. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』28-29P参照
  8. ^ Willy Brandt joins the SAP at Bundeskanzler Willy Brandt Stiftung
  9. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』33-34P参照
  10. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』46-55P参照
  11. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』52P参照
  12. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』55-58P参照
  13. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』62-63P参照
  14. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』59-62P参照
  15. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』64-66P参照
  16. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』66-69P参照
  17. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』70P参照
  18. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』70P参照
  19. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』73P参照
  20. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』76P参照
  21. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』85P参照
  22. ^ 本村実和子 著「ドイツ再統一」50-51P参照
  23. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』85P参照
  24. ^ 本村実和子 著「ドイツ再統一」51-52P参照
  25. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』87P参照
  26. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』81P参照
  27. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』77P参照
  28. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』79P参照
  29. ^ グレゴーア・ショレゲン著『ヴィリー・ブラントの生涯』78P参照

外部リンク[編集]

公職
先代:
クルト・ゲオルク・キージンガー
ドイツ連邦共和国首相
1969年 - 1974年
次代:
ヘルムート・シュミット
先代:
ハンス=クリストフ・ゼーボーム
ドイツ連邦共和国副首相
1966年 - 1969年
次代:
ヴァルター・シェール
先代:
ゲアハルト・シュレーダー
ドイツ連邦共和国外務相
1966年 - 1969年
次代:
ヴァルター・シェール
先代:
オットー・ズール
西ベルリン市長
1957年 - 1966年
次代:
ハインリヒ・アルベルツ
党職
先代:
エーリッヒ・オレンハウアー
ドイツ社会民主党党首
1964年 - 1987年
次代:
ハンス=ヨッヘン・フォーゲル