今回は2003年コンテニューVOL12の藤原得郎氏インタビューより面白いところを抜粋。
んじゃスタート。
プーヤンとロックンロープの時代
最近の雑誌記事でも「ゲーム業界の重鎮」と紹介されている藤原さんですが、この世界に入られたキッカケは、82年にコナミさんに入社されたんですよね?
「はい。大阪デザイン学校に通ってたんですが、そこにコナミから求人票が来ていたんです。その中に商品企画という項目があって、給料も良かった。当時のコナミ本社は豊中で、ちょうど自宅から近かったこともありますね。」
ひょっとして、ゲームを作る会社だとは知らなかったんですか?
「ええ、「商品企画」に興味がありましたから。入社試験を受けに行くまで、何の会社か知らなかった。ゲームのプランナーとして入ったんじゃないんですね。最初のうちは、コインゲームのアクリル板や、チラシのデザインなどをしていましたね。
テレビゲームはあまりやってなかったですね。インベーダー全盛期の頃も、がんばってやったほうじゃない。「モノを創りたい」という願望が先にあったんです。」
その願いが叶ってというか、入社された82年に、早くも「プーヤン」を作っておられますね。それまでのゲームは、インベーダーなりスクランブルなり、SF的な色が濃かったんですが、なぜいきなりファンシーな方向に?
「ゼロからじゃなくて、企画が先行していたんです。細部まで固まってはいなかったけど、すでに豚は決定事項でした。」
プーヤン
「3匹の子豚」が先にありきですか!
でも、「上下に動くゴンドラから横方向へ撃つ」というシューティングの形にしたのは、藤原さんなんですか?
「そうですね。縦型のアーケードの画面を、横方向に使っている感じかな。」
処女作から奇抜なデザインですよね(笑)。
前にも書いたけども、なぜモチーフにしたのが3匹の子豚なのにオープニングで「森のくまさん」のBGMが使われてたのだろう。そこを藤原氏に聞いてほしかったところ。
次の「ロックンロープ」はゼロから、ご自分で企画されたものですか?
「ええ、インベーダー時代と大差ないハードを使って、制約の中でああでもない、こうでもないと試行錯誤したんです。」
ロックンロープ
ワイヤーアクションの元祖と言いますか、ワイヤーを打ち込んでロープを渡って上へ上へと登るんですが、下手すると最初の足場から進めませんでしたね(笑)。
「開発するほうも、感覚的にはパズルですよ。いろんなキャラを使い回しながら、ステージを組み立てていく。ROM容量との闘いでした。それで夢を見ましたよ。「色がたりない」とか「これを組み合わせて岩を作る」とか、家で寝ごとを言いまくっていたらしい(笑)。現在なら、必要な分だけキャラクターを用意すればいい、という話なんですけど。」
当時のハードではやっぱり容量で苦労していたみたい。ロックンロープは難易度は激高いし、理不尽な敵の妨害には腹が立ったものだけど、その分、火の鳥に到達したときの嬉しさといったら感動モノ。どうだコノヤロー的な意味で。
カプコン、アーケード業界に参入!
コナミに勤められたのは82年〜83年ですよね。そしてカプコンへと転職、というのは岡本吉起さんと同じ流れなんですが、やはりお互い話し合って移籍された?
「はい、そういうゲームデザインの仕事をしているのは、僕と彼ともうひとりの3人だけだった。岡本は「タイムパイロット」作っていましたし、元々のコナミの路線とは全然違いましたね。別の方からお誘いを受けて、カプコンに一緒に行こうと。」
岡本さんのウィキに載ってない情報調べてみたら、ファミ通平成18年1月27日号の企画「有名クリエイターの心に残った1本は?」に載ってたので抜粋。
岡本吉起
心に残った作品:ゼルダの伝説
「心が震えました・・・。正直言って、こんなに面白いゲームがあるとは思わなかった。その面白さがすんごく嬉しくて、たまらなかったのを覚えている。でも、その頃大阪にいたのですが、東京への出張から帰ってきたら、他人にクリアされていた・・・。ふざけんなっ!!」
とのこと。
おまけ
「はまり道」よりゼルダ関連を抜粋。
おもいっきりアジア系なリンクがイカす(笑)。
コナミの第一期黄金期を支えた人たちが、ごっそり移動されたんですね(笑)。
「その頃のカプコンは小さな会社で、テレビゲームを立ち上げるときだったんです。」
まだ「カプセルコンピュータ」だった時代ですね。カプコン移籍後の、最初の作品は?
「「バルガス」です。」
記念すべきカプコンの第一作目じゃないですか!
バルガス
「岡本の「ソンソン」が先に出る予定だったけど、結果的にこちらが早くなりましたね。」
開発期間はどれぐらいで?
「約3ヶ月。物理的な容量が小さいですし、当時としては平均的だったかもしれません。」
開発期間については、本当にだいたい3ヶ月くらいだったらしい。ファミ通18年6月30日号にセガの中裕司氏のインタビューでもそんなことが書いてあった。中裕司さんはソニックやファンタシースターの生みの親として有名なクリエイター。
以下ファミ通より抜粋
「当時の僕はプログラマーで、マーク3の頃から「スペースハリアー」や「アウトラン」など、いろいろやってきましたが、いま考えるとかなりムチャなスケジュールで動いてましたね。現在とは違って2ヵ月半くらいでゲーム作ってましたから。たとえば、マーク3で「ファンタシースター」の第1作を作った直後に、何としてでもメガドライブのロンチ(ハードと同時発売ソフトのこと)に間に合わせようと、「スーパーサンダーブレード」を3ヶ月かからずに作ったりしてました。」
すごいね当時は。
ドラクエ2だって、ドラクエ1が出てから約8ヶ月で製作していたし。現在では無理でしょうなー。
それにしても計画通り出せたのはすごいですね。
その次が「魔界村」ですか?
「「戦場の狼」と「魔界村」を平行して開発していました。たまたま、どちらも販売成績が良くて何よりでした。」
魔界村
戦場の狼
歴史に残る名作2本を同時進行ですか!
しかし、全然違う2本を同時進行とはハードじゃありません?
「全然違っているほうが、アイデアも活かしやすいんです。似ていると、ごちゃごちゃになってしまう。作っていて楽しかったのは「魔界村」でした。」
各シーンごとに死に場所が用意されていて、なんて意地の悪いゲームだと泣きたくなりましたよ!
「あれを作るとドスーンと疲れる。しばらく、続編を作ろうという気持ちにならなかったですね。アーケードには、ロケテストがあるでしょ。で、大体この地点で引っかかってくれなかったりすると、すぐに会社に帰って直しましたよ。そう簡単には超えられてはいけない。「これをやると死なない」という技があるでしょ?。それを見つけられた日には、すぐに潰しました。かんべんしてくださいと(笑)。」
それで正式販売される段階では、とんでもない難易度にハネ上がっていたんですね。
「そういうわけでもないんですけどね。あんまり難しくしすぎると、ゲームを止められちゃいますから。当時はEP-ROMを焼いては消し、焼いては消しのくり返しで大変でしたよ。」
これは噂で聞いたんですが、「魔界村」の中ボス、レッドアリーマのモデルがカプコンの有馬さんというのは本当ですか?
「そうです。カプコンがゲーム開発を始めた当初の、4人のうちのひとりで、「戦場の狼」のプログラマーですね。あの魔物は、先に絵が上がっていて、名前をつけなくてはいけなかった。それが知らないうちに「レッドアリーマ」と呼ばれていて。よく見たら似ているなあと。もはや、名前が変えられなくなってしまった。ちょっと申し訳ないことをしちゃったかな(笑)。」
プログラマーの有馬さん=レッドアリーマというウンチクはこの記事で知ったので勉強になりました。
藤原さんのゲームは、1作ごとに斬新な機軸を打ち出されましたが、それだけに他社に追随されることも多かったですよね。
「その点、ロケテストも怖かったですね。なにせ、当時は3ヶ月で1本作れるし、そっちのほうが早く出ることもあり得ますから。」
正直、SNKさんの「怒」を見てどう思われました?
「そういう時代だから仕方ないなと。「怒」は2、3が出ましたけど、ウチは(戦場の狼)1本だったし、惜しかったかな。」
かなり後に2が発売されましたけど、長いブランクが空きましたよね。
「先に2みたいなものが出てしまいましたし。」
つくづくワン・アンド・オンリーで後に続かないジャンルばかり作られましたよね。その最たるものが「トップシークレット」とファミコンへの移植である「ヒットラーの復活」だったと思いますが。
「元々はアーケードだったけど、コンシューマが良いんじゃないかという流れですね。移植に近いけど、移植じゃない。」
トップシークレット
ヒットラーの復活
この作品でもワイヤーアクションが採用されていますが、やはり「ロックンロープ」の発展形なんですか?
「ええ。ロックンロープではハード的に制約が多かったので、まだまだやりたいことが溜まっていたんです。」
主人公はなぜかジャンプができませんよね。ジャンプ全盛期なのの時代に、あの企画を通すのは難しかったのでは?
「ジャンプを入れると、ジャンプに頼りますから。「なぜジャンプを入れないのか?」と聞かれても、「入れてしまうと台無しなんだ!」と信じて頑張りましたよ。この時のアイデアが後のミッキーマウスものとか、いろんな作品に生きていますね。自分としては気に入ったアイデアだったなあと。」
いろんなメーカーに使われていますし、「ワイヤーアクション」の特許を取っておけば儲かったでしょうね(笑)。
「ゲームの特許なんて発想が、なかったですからね。ファミコンの十字コントローラーが特許を取ったと聞いて驚いたくらいで。」
ロックンロープとトップシークレット、当時は似ているなあくらいだったけども、製作者が同じなんだから納得といった感じ。実際、この作品に影響を受けたクリエイターの方も多いらしい。セガの吉永匠氏とか。
ストライダー飛竜と大魔界村の苦労
その次が「ロックマン」ですか?
「1は違います。アーケードからコンシューマの管轄へと変わって、そのとき全部コンシューマ作品を引き継いでから2を作ったんです。」
ロックマン2 Dr.ワイリーの野望
その頃にカプコン社内がアーケードと家庭用、2つの部門に分けられたんですね。社長さんにどっちをやりたい?と聞かれて、藤原さんがアーケードをやりたいと言ったら、じゃあコンシューマをやれ、と申し渡されたそうですが、そのときの心境はいかがでした?
「信じられませんよ(笑)。
それまでは、アーケードの作品をコンシューマに移植するという流れがあって、一連で管轄していた。けど、ファミコンはビジネス的に考えると大きいし、片手間でやってる場合じゃない。社内的にもきっちり部門を分ける話が持ち上がっていたんです。
僕はアーケードをやりたかったし、岡本はコンシューマをやりたいと言っていた。ちょうど、きれいに収まっていいんじゃないか、と言っていた矢先ですから。」
どんでん返しがまっていたんですね。
「「おまえはコンシューマのほうが向いてる」
「いやいや、こんなことないです」
とかやりとりして。なんか食べながら説得されて、言いくるめられました(笑)。」
ロックマン2から家庭用を担当されて、やはり「昔ほど殺しちゃいけない」という意識の変化はありました?
「いろんな意味で違いましたね。日々インカムを稼ぐこともないし、ロケテストもないから、ユーザーとの接点がない。ハード的にもスペックダウンで、元々アーケードをやりたかったので、最初はなかなかプラスのイメージを持つのが難しかった。」
ロックマン2はフラッシュマンステージのBGMが大好きだった。ファミコンでもこんなに大きい敵キャラが動かせるんだとインパクトを受けた作品。名作。
フラッシュマン
でも「ストライダー飛竜」と「大魔界村」を手掛けられてますよね。カプコンのアーケードを革命的に変えた「CPシステム」用ソフトの第1段として、衝撃のデビューを飾りましたが。
「この2本が、アーケードでは最後の仕事でしたね。88年〜89年くらいかな。」
ストライダー飛竜
大魔界村
最新のCPシステムから引き離されたら、そりゃあ悔しかったでしょう・・・。当時、ゲームショーで大魔界村の素晴らしさを見たショックから、セガの中裕司さんがメガドライブへの移植を熱望して、5ヶ月でやり遂げたのは有名ですね。
「バグまで移植していただけたのは参りましたよ。あれはかっこ悪い(笑)。」
やはり最先端のハードだけあって、CPシステムの扱いは苦労されました?
「CPシステムの演算能力は、それほどすごいもんじゃないんです。何がすごいかというと、ROM容量ですね。基板の上に、チップがずらーっとならぶくらいの。それを活かすには、デザイン面に力を入れないといけないので、30人のグラフィッカーを使いましたよ。それまでの2,3人じゃ、とても無理だった。」
超魔界村も藤原さんの作品ですか?
「そうです。スーパーファミコンが出たので、それに合わせて。もっと詰め込みたかったんですが、またしてもハードの限界との兼ね合いがありまして。魔界村には自分なりにこだわりがあったから、シリーズ全部を担当させてもらいました。」
そういえばPSPで魔界村の新作出てたっけ。ファミ通で見たことがある。完成度はどうだったんでせうか。あれも藤原さんがからんでいるのかしら。
スウィートホームの誕生
常に過剰なものを作られる藤原さんですが、「スウィートホーム」も恐怖が過剰ですよね。ホラーゲームの新境地を切り開いた、画期的な作品でした。
「スウィートホームはしんどかったですね。それまでは、自分の中でアーケードを引きずる部分が多かったんですが、あるときにコンシューマの限界じゃなくて、インカムや時間の制約を取り払った面に目を向けて、オリジナルの企画を練っていたんです。そこに、たまたま映画の話があって、今考えているこれが使えるぞと。」
スウィートホーム
まず「映画ありき」じゃなく、アイデア先行だったんですね。
「映画スウィートホームの黒沢監督にも、原作通りじゃなくて良いですよ、と言ってもらえたので、だったらやれますと。」
原作には気の毒ですが、原作より怖いという評判がもっぱらですよね(笑)。
「いえ、原作あればこそです。映画や撮影所も見せてもらって、使えるエッセンスを使わせてもらったんですね。このシステムに映画の要素をどうやって持ってこようかと考えました。」
今では、かえって出せそうにない要素が沢山ありますね。ウジ虫にローソクを使えとか。
「それも映画から持ってきているんですね。逆に、このアイテムを出したいけど、映画の世界に合わなくてボツにしたものもありました。」
真のエンディングの後味が悪いのも、映画に合わせてですか?
「ええ、原作にハッピーエンドがないから。他人が作ったものならハッピーエンドが好きなんだけど、自分が作るとなぜかアンハッピーエンドになるんです(笑)。」
ホラーゲームでよく思うことは、グラフィックについて。
低スペックなハードだとグラフィックは貧弱だけども、インタビューのとおり、多少過激な演出をしても問題がない。だって、グラフィックが貧弱だから。高スペックなハードではリアルな表現がぞんぶんに発揮できるけども、しかしその分規制が厳しくなるといった感じかと。一長一短とは言いすぎ?
もっとえげつなくやれ
「バイオハザード」はスウィートホームが基礎になっているんですよね?
「はい。プレイステが発売されることになって、オリジナルのものを立ち上げようという話だったんです。基本的にはスウィートホームでやりきれてないことをやるという。主にグラフィック面で、フラストレーションが溜まってましたから。ホラーは必ず、ひとつのジャンルになる確信がありましたし。」
バイオハザード
やっぱり三上さんの「やりたくないこと」だったんですか?
「三上は嫌がってましたね。
「怖いのは嫌か?」
「はい」
じゃあやるかと(笑)。
怖いと思ったことがないと言われたら、任せなかったです。怖くない人は、何が怖いのか分からない。ホラーは怖がりでないと作れない、と僕は思っているんですよ。」
「古い洋館+ゾンビ」というコンセプトは藤原さんが、現場の作業は三上さんが、といった分担ですか?
「ええ。初めてのハードでしたし、技術的に壁にぶち当たりましたね。元々はカメラ割じゃなくて、リアルタイムに背景が変化するはずだった。「もうちょっと研究してくれ」ということを続けて、結局できないと見切りをつけるまでに、1年くらいかかってしまって。」
最初はプレイヤーの目から見たのと同然の「主観視点」だったのが客観的に見た「3人称視点」に変更されて、操作もラジコン方式になったんですよね。
「それを最終的に判断したのは僕ですね。主観視点で「物影から出てくる恐怖」を表現したかったが、それを実現しようとすると、グラフィックの質を落とすしかない。主人公の移動と方向キーを一致させると、画面が切り替わったとき、操作の方向が反対になってしまう。(ラジコン方式は)やり辛いし、感覚的には違うものにはなっているけど、プレイヤーが慣れてさえくれればこれがベストだと。最後の最後は賛否両論でした。」
バイオ序盤の「振り向きゾンビ」は、スウィートホームの「ふり向き男」と関係があるんですか?
「あるんでしょうね。「何してんの?」と聞かれて振り返ると・・・というシーンが好きなんです。あの場面だけムービーにしましたね。プレステがリアルタイムで描くと、恐怖のクォリティが出なかった。」
技術的にもバイオの苦労は大変だったと思いますが、倫理的にも難しくなかったですか?ホラーゲームの草分けとして。
「当時としては残酷な表現なので、これは当然ダメという人が現れてくるんです。ある種の冒険ですよね。それで、作っている人間にも、意外と常識や理性があって、おのずとブレーキがかかる。放っておいても、やっちゃいけないんじゃないか?と制御されてしまうのを、逆に「もっとえげつなくやれ」と。本当にダメだと思ったらカットするから。」
そこで理性のタガを外しにかかりましたか(笑)。
「抑えるのが普通で、とことんやれと言われてとことんできたら、大したものなんですね。例の「赤い三角マーク」もバイオがキッカケで作られたもので。SCEの中で会議にかかったと聞いて、ある面では成功。しかし本当の成功は「よし」と言ってもらわないといけない。」
表現はそのまんま、全部修正は受けなかったんですか?
「国内については全部通過、ですね。怖いと言われたから、冒頭のムービーは白黒にしたら、かえって怖くなりましたが(笑)。海外向けには、血の色を変えたりもしました。」
発売当初は、爆発的に売れたタイトルじゃないんですが、口コミでじわじわ広がりましたね。「こんな怖いソフトがあるぞ〜」という都市伝説のような感じで。
「「一発の衝撃」ですね。次はやっちゃいけない、という気持ちが僕の中にあったんです。僕だったら間をおく。もっと怖くすると本当にヤバイい(笑)。しかし、ビジネスを考えたら(続編に)行ったほうが良いんですね。」
ホラーというジャンルが来てましたからね。
先ほど「ラジコン方式の不自由ゆえの恐怖」の話も出ましたが、マイナスをプラスに変えるのが上手いと思いました。ロード時間に、ドアがギギィ〜と開くとか。
「全てが計算じゃないんですけど、利用してやろうという方向はありましたね。いかに生理的嫌悪感を出すか、やってて気持悪くなるゲームをと。100万本売れましたけど、元々はもっとコア人向けで、20万本ぐらいを見込んでいたんです。」
よく比較されるんですが、「アローン・イン・ザ・ダーク」は参考にされました?
「結果として参考にはしました。表現方法のひとつ、という形ですね。」
まあ、ポリゴンをホラーの演出に利用しようと頑張ってはいるんですが、いかんせんカクカクして怖くない・・・という、大変惜しい作品でしたね。
「ウチも、当初は3Dに苦労しましたよ。CGから入ったんじゃなく、ドット絵から入りましたから。専門のデザイナーもそろっていたわけじゃないし、「何ができないのか」も分からなくて、大変でした。」
バイオのところは面白かったので全部抜粋。
インタビューによると三上氏は藤原さんの直弟子であり、新人の時から鍛え上げたらしい。藤原氏曰く、
「三上には、いろんなことを経験させましたね。ただし、本人のやりたいことはほとんどやらせなかった(笑)。好きじゃないジャンルのほうが勉強になるんです(笑)」
「本人の意思とは正反対」がカプコンの社風かとインタビュアーは突っ込んでますな。
>「(三上氏が)怖いと思ったことがないと言われたら、任せなかったです。怖くない人は、何が怖いのか分からない。ホラーは怖がりでないと作れない、と僕は思っているんですよ。」
これは言われてみれば当然のことかもしれないけども、その通りだと思った。私は小心者なのでホラーゲーム苦手なんだけども、作り手としては向いているのかしら(バカ)。
バイオはホラーというジャンルをメジャーにして、年齢制限による規制が始まるキッカケになった作品。視点についてはインタビューのとおり、バイオは元々主観視点、つまりFPSのようなシステムだったようです。表現方法については、もしPSじゃなく、N64だったとしたら、発売は無理だったかも。任天堂規制厳しそうだし。年齢制限の規制ができてから(?)N64でバイオ2移植されたけども。そういやサンデーだか、マガジンだかで、バイオ開発の漫画あったね。三上さん主人公だったっけか。捨てないで持っておけばよかった(笑)。
ちなみにWiiのリメイク版の振り向きゾンビはこんな感じ。
こわ!!!
ファミ通でバイオ5、38点出てたけども、すごそうですな。
藤原さんはバイオ開発の後、独立。
ウーピーキャンプで「トレっトンバ」を、ディープスペースで「エクスターミネーション」、「ハングリィゴースト」などを手掛けていくようです。そこもいろいろインタビューされてたんだけども、知らない作品ばかりなのでハショりました(失礼)。考えてみると、藤原さんや岡本さん、スト2、モンハンの船水さんとか、どんどんカプコンから独立していくんだよなあと。別にカプコンに不満があったわけではないとはないと思うけども。できる人はその方がいいんでしょう。
藤原得郎氏 作品集
プーヤン(1982年 コナミ)
子豚のいる家を狙って上空から落下、上昇する狼の風船を狙って、ゴンドラに乗った母豚が矢を放つシューティングゲーム。骨付き肉でまとめて撃破できたり、ボーナスステージがある。
ロックンロープ(1983年 コナミ)
山の上にいる伝説の鳥「ジュジャク」を追いかけ、冒険家が投げロープを使って登っていくゲーム。途中で邪魔する原始人と怪獣はライトを照らせば足止めできる。ロープが足場に刺さるポイントの見極めが難しい。
バルガス(1984年 カプコン)
上から飛んでくる敵をひたすら撃ち落す縦画面シューティング。攻撃の基本はツイン砲だが、貫通力のあるキャノン砲だと高得点が狙える。カプコン伝統の隠れキャラ「弥七」のデビュー作(当時は敵だった。)
戦場の狼(1985年 カプコン)
「スーパージョー」という強そうな名前の兵士が、ひとりでジャングルの奥地へ潜入し、悪の軍団を壊滅させる縦スクロールシューティング。全4ステージ。
魔界村(1985年 カプコン)
騎士アーサーが、魔物にさらわれた姫を助けるため多彩な武器を操り進んでいく横スクロールアクションゲーム。レッドアリーマは最大の強敵。
トップシークレット(1987年 カプコン)
伸縮自在のワイヤーを駆使し、巨大ミサイルの発射を阻止するアクションゲーム。ジャンプが不可!激ムズとして恐れられた。
ヒットラーの復活(1988年 カプコン)
トップシークレットをファミコン用に移植した作品。
マップ画面の「行軍フェイズ」で移動、「戦闘フェイズ」で戦闘を行うというシステムにアレンジ。戦場の狼の主人公スーパージョーを助けるミッションがあったり芸が細かい。
ロックマン2(1988年 カプコン)
ロックマンを操り、Dr.ワイリーの野望に立ち向かうアクションゲーム。8体のボス(一般募集)を倒していくが、順番の選び方により戦略が立てられる。シリーズ最高傑作との評判も高い。
大魔界村(1988年 カプコン)
より強大になった魔界へ、騎士アーサーがまたしても殴りこむ魔界村の続編。新要素は宝箱と、金の鎧を取ると使える魔法。超美麗になったグラフィックを移植しようと、多くのゲーム機が先を争った。
ストライダー飛竜(1989年 カプコン)
特A級のストライダー「飛竜」が、世界征服をたくらむグランドマスターの刺客達をぶった斬っていくアクションゲーム。ストロバヤは一応中ボスだが転がり回るだけで全然弱い。
スウィートホーム(1989年 カプコン)
映画スウィートホームに登場する5人が呪われた館から脱出すべく、恐怖の体験をするホラーゲーム。回復手段が少ないので、とにかくよく死ぬ。いちおうマルチエンディング。
バイオハザード(1996年 カプコン)
全世界で340万本を超えるセールスを記録した3ホラーゲームの金字塔。ヘリコプターが消息を絶った、ラクーン市近郊の洋館に踏み込んだ特殊部隊「S・T・A・R・S」の隊員達が、ゾンビの群れを相手にサバイバルを繰り広げる。
オレっ!トンバ(1997年 ウーピーキャンプ)
野生児のトンバが、加速をつけて大ジャンプ、張りついた壁によじ登り、つかまった枝で大回転などダイナミックなアクションゲーム。
エクスターミネーション(2001年 ディープスペース)
南極の秘密基地という極限状況の中で、生存者を救出しつつ、未知のクリーチャーと戦うパニックホラーアクション。簡単な操作で状況にあわせた行動ができる「リージョン・アクション」システムを盛り込んだが賛否両論だった。
ハングリィゴースト(2003年 ディープスペース)
地獄に落とされたプレイヤーが、「審判の門」にたどり着くまでのすべての行動が審判される、擬似死後世界体験3Dアクションアドベンチャー。何をするのも自由だが、全ての行動がアトラクションに影響を及ぼす。
おしまい
2009年03月03日
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→自作サウンドノベル『ゴーストソング』
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最近では藤原さんはPSPの極魔界村のディレクターをされたりもしてますね。
同氏が関わった作品をこうして見てみると、全体的に妙に難易度が高めなものが多いような気が…(苦笑)
>はまり道
リンクの他にもルイージやスネークとか…吉田戦車氏のキャラの掘り下げ方は独特過ぎます(笑)
これは知りませんでした
あとから考えればなるほど…
ロックンロープは
子供の頃好きで
コントロールボックスを買って
最初の頃に基板も買いました
その後移植されまくるとは
思いませんでしたw
コメントありがとです。
すると藤原さんはやはり全ての魔界村シリーズにかかわってらっしゃるようですね。情報ありがとうございます。
>じぇふ茶さん
難易度は高いす(笑)。
吉田氏のネタは大好きなので、また関連するものがあったら載せたいですね。
>MELさん
ロックンロープはムズいすねやっぱり。
基板も持っておられたとは。さすがっす。ワイヤー系の作品ってあまり出ないですね。私が知らないだけかもしれませんが。海腹川背とかかな面白かったの。
>システムトレードさん
暇ありましたらまた見に来てくださいwww
魔界村のパクリのドラキュラをロックマンがパクリ返した構図ですが、アクションとしては着実に進化してるわけで、影響の与え合いが素晴らしいと思います。
ロックマン2を魔界村の製作者が担当したと知って、そこに一番衝撃を受けました。
ACに興味を失ったのが大魔界村以降なので、このまま藤原氏がACを担当なされていたら…と残念に思います。