540. 川西 紫電二一型[紫電改]局地戦闘機(N1K2-J)[日本一海軍]

         KAWANISHI SHIDEN(-kai) Mod.21 "GEORGE" INTERCEPTOR FIGHTER [JAPAN-NAVY]
 

全幅:11.99m、全長:9.35m、翼面積:23.5u、総重量:3,800kg、
発動機:中島「誉」21型1,990馬力/離昇 1,625馬力/6,100m、最大速度:596km/h/5,600m、
武装:機銃20mm×4、乗員:1名、
初飛行:1944年1月1日
 
                        Illustrated by Shigeo KOIKE , 小池繁夫氏   2000年カレンダー掲載
 

 太平洋戦争の開戦直前、中島飛行機(株)で、2000馬力クラスの小直径・空冷星型18気筒エンジン「誉/ハ45」が完成した。陸軍は直ちに、この高性能エンジンを使用した大東亜決戦号(キ84)四式戦闘機「疾風」の開発を中島飛行機(株)に指示したが、海軍はここで戸惑った。海軍戦闘機の名門・三菱は、「雷電」が飛行試験中であり、また設計主務者の堀越技師は病に倒れていて「誉」搭載の次期戦闘機「烈風」の開発に直ちに取り掛かれる状況にはなかったからだ。そこで急浮上したのが、川西の水上戦闘機「強風」(N1IK1)を再設計して、陸上の局地戦闘機「紫電」(N1K1-J)とする提案だった。

 海軍は昭和16年12月末に川西に試作命令を発した。だが事態が事態だったこともあるが、再設計に当たった関係者が「拙速」を選んだのは失敗だった。せっかく強風の時に開発した精巧な自動空戦フラップ(水銀U字管に電動と油圧作動を巧妙に組み合わせた)を装備しながら、太い胴体に小直径の「誉」を取り付けつつ、中翼の主翼をそのまま残したために特殊な主脚装置となるなど、粗削りの設計が行われ、「紫電」は期待を裏切った。

 そこで改めて「紫電」を全面的に再設計する「仮称一号局地戦闘機改」の試作命令が昭和18年3月に下された。まずは中翼を低翼として視界の改善と複雑だった脚を解決させ、胴体も「誉」に合わせて細く改修するとともに方向舵を胴体下部まで延長して離陸滑走時の左旋回癖を直したり結局は全面的な新設計といっても良い大改修であった。「仮称一号局地戦闘機改」の試作1号機は昭和18年12月大晦日の完成し、明けて昭和19年元旦に鳴尾飛行場で初飛行を行い、審査はたいへん良好であった。そして制式となったのは昭和20年1月で「紫電二一型(N1K2-J)」であったが、通称「紫電改」と呼ばれ戦局が逼迫する中、量産に入った。


 「紫電改」は、一躍、日本海軍戦闘機隊の期待のエースとなるのだが、この回り道によって、その初飛行は「疾風」より9ヶ月も遅れてしまった。生き残りの精鋭を結集した第343航空隊が愛媛県松山に編成されたのが昭和20年1月。そして3月には72機の源田実大佐が率いる「紫電改」戦闘機隊が瀬戸内海上空でアメリカ空母機動部隊のグラマン戦闘機に痛撃を与え、「果敢・紫電改強し」の評が内外に広まり米軍機パイロットに日本にゼロ戦に代わる新型戦闘機現るの恐怖を抱かせた。

 しかし期待された性能を発揮できたのは紫電改の初期の量産機のみで、時すでに空襲と資材不足で「誉」発動機の度重なる質の低下、また機体も工作精度不良が重なり、量産は遅々として進まず完成したのは400機あまりであった。そして、その活動は急速に制限されていった。 なお、日本海軍起死回生を狙いつつも、試験航海にて米国潜水艦によって撃沈された超大型空母「信濃」の公式試運転時に搭載されていた艦載機はこの紫電改であったと言われている。

 現存する機体は、1機は四国伊予リクセンターに海上に不時着水した機体がそのまま展示されている。 また終戦後に米軍が調査用に持ち帰った1機がワシントンDCダレス空港そばのスミソニアン(別館)航空博物館に展示されている。



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