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式正しきせいの鎧・大鎧

式正の鎧・大鎧1枚目

日本の甲冑の歴史において、大きな変革が二度ありました。
一度目は、それまでの「挂甲」・「短甲」・「綿襖冑」という古代の様式から、平安時代後期から末期にかけて完成した「大鎧」や「胴丸」への変革。二度目は、室町時代末期から戦国時代にかけての「当世具足」への変革です。

ここでは、「大鎧」について紹介しましょう。
大鎧は、最も正式かつ最上のものとされ、式正の鎧ともいわれます。

大鎧と当時の戦闘法

平安時代末期の頃の合戦は、人馬一体となっての騎馬戦が中心でした。そのため、騎馬武者が戦闘単位となり、これを「一騎」と数えました。

大鎧は、馬上の武者のほぼ全身を防護するので、騎馬戦には最も適していました。

しかし、当時の弓は後世のような弓胎弓(ひごゆみ)(張り合わせの合成弓)ではないので力が弱い上に、兜に大きな吹返しがあるため、現代の弓道のように引き絞ることができず、できるだけ接近して敵を射る必要がありました。(強力に弓を引き絞る必要がある際には、あえて兜を外すこともありました。屋島合戦の際、海に浮かぶ小舟の上に立てられた扇を射抜いた那須与一は、兜を背にかけて弓を引いています)

時には家名を重んじ、潔さを示すために名乗りをあげ、相手を確認し合ってから行われた騎馬戦ですが、現代の我々が想像する以上の至近距離で射撃を繰り返しました。それで勝負がつかなかったり、互いの矢が尽きると、今度は馬上のまま相手と組み打ち、時に落馬しながら格闘の末に勝負を決しました。

栴檀板せんだんのいた鳩尾板きゅうびのいた

大鎧は射戦の時は敵を左側に迎えて戦わなければなりませんでした。右側に敵を受けては弓が引きにくいからです。その折に左脇上部に隙ができるので、小さい楯状の鳩尾板がそこを塞いで防御します。

栴檀板と鳩尾板
栴檀板と鳩尾板

一方、太刀打戦では敵を右側に受けて戦います。それは右手に持った太刀で左側の敵は切りにくいからです。その時に右の脇上部に隙ができるので、栴檀板がそこを塞ぎ防御します。栴檀板は鳩尾板のように板状ではなく足掻(あがき)、つまり伸縮性があります。それは弦を引く時に板状だと引っかかる恐れがあり、太刀打の際の複雑な腕と胴の動きに密着するからだと思われます。

なお、古い時代の太刀打戦は片手で薙ぎ切るのが主流です。そのため太刀は柄が反っており、薙ぎ切りの曲線を描きやすいように作られています。また片手切りのため、柄は後世のもののように長くありません。柄が長くなったのは、正面に敵を迎えて両手で柄を握るようになってからです。

ちなみに、弓を持つ左手を弓手(ゆんで)、右手は馬手(めて)といいます。この呼称は、後世の甲冑の左右を示す場合にも使われています。

大鎧の特徴

以下の特徴は、室町時代末期まで同じ構成法を守って続きました。

  • 栴檀板と鳩尾板
    鎧の正面の上方の両脇は隙間があるので、敵に矢を射込まれやすい急所です。これを防御する栴檀板と鳩尾板を肩上から釣り下げ防具としました。
  • 草摺
    大鎧の特徴の一つは、四間草摺です。これは騎馬の際、鞍に跨がった時に大腿部を四方の箱のように囲んだ形になり、防御の上で非常に合理的な形をしています。
  • 弦走韋(つるはしりがわ)
    金具廻りという鉄板の表には装飾的に小紋染めの鹿の鞣韋(なめしがわ)を貼ります。同じ絵韋(えがわ)を胴正面に貼るのは、弓を引いた時に弦が胸の札に引っかかるのを防ぐ意味と装飾を兼ねたもので、弦走韋といいます。これは大鎧の特色の一つです。

平安時代末期の鎧に共通する点は、札が大きいことです。そのため威毛も太く厚く、絵韋はほとんど霰地に牡丹の花葉を襷にして、中央に木瓜紋か獅子の丸模様を入れた染韋を用いることと、そして兜の頂点に低い座を設け、穴が大きいことです。この穴については、当時の髪型に理由があります。当時は髻を頭上に立て烏帽子をかぶったので、兜着用の際は髻を柔らかい烏帽子で包み、兜の天辺の穴から出していました。そのため、穴が大きい必要がありました。また穴から烏帽子を出すことによって、兜を固定するという役割も果たしました。

大鎧の見所

大鎧には、甲冑の「用と美」を支える漆芸・金工・染織などの工芸技法の粋が尽くされています。大鎧は小札・韋所・威毛・金具廻り・金物の五つの基本素材によって構成されています。

平安時代の国風文化と仏教関係の工芸技術が日本式の甲冑を生み出しました。華鬘などを作る革の加工や染織技術は小札や絵韋の装飾に、仏像を作る漆芸技術は小札の加工に生かされました。天辺の座や篠垂、据文金物などの装飾は仏具を作るための金工技術の応用と考えられます。

栴檀板
栴檀板
  • 絵韋
    文様が染められた韋。兜の眉庇や吹返し、胴の肩上と胸板、弦走韋、蝙蝠付などのほか、金具廻りの表面に貼られました。
  • 威毛
    平安時代の大鎧においては騎馬戦での防御機能と同時に美しさも追究されました。小札を絲や細い韋紐で威して構成する日本独特の手法が、色彩的に華美な美しさをもたらしました。
  • 金具廻り
    鉄や革製の板の部分(ただし小札部分や兜鉢は除く)。表裏を染韋で包み、覆輪と呼ばれる鍍金加工した金属の縁取りが施されることが多いです。()(びさし)、胸板、壺板、鳩尾板、袖と栴檀板の冠板、障子板、押付板、(ぎょう)(よう)などを指します。
  • 金物
    甲冑に用いられた金属製の装飾物です。天辺の座、篠垂、鍬形、据文金物、八双物、八双鋲、各種の鐶や鋲などを指します。
  • 小札(こざね)
    鉄や革製の長さ5~7㎝程度の小さな板。鎧を構成する最も基本的な要素で、これを綴じ合わせて胴や袖、草摺などが作られます。

小札

鎧といえば鉄製のイメージを持つ方も多いでしょう。実際に、古代の鎧は鉄の鎧でした。

しかし奈良時代終わり頃の光仁天皇(709~781)や平安時代初めの桓武天皇(737~806)の時の二度にわたり、「鉄の鎧は不便なので、革製の甲冑に切り換えるように」と命令が下されました。

鉄の板を重ねた鉄鎧は確かに堅牢ではあるものの、重くて動きにくく、板を綴る糸が損傷しやすいという欠点がありました。

対して革製の鎧は軽く、漆の加工を施すことで鉄に準ずる堅牢さを持ちます。加工した革の板(札)を重ねていくか、または間に鉄板を挟むなどして綴っていきます。

胴・袖や兜の𩊱(しころ)といった鎧の基本の部分は、小札と呼ばれる小さい板状のものを絲や細く切った韋で綴じ合わせて構成されます。

この札の技法は大鎧や胴丸が登場した平安時代に確立されました。

小札の材質は革(牛の皮)や鉄で、絲や韋紐を通す13個以上の穴があけられています。大きさは縦5~7㎝、横1~3㎝、厚さは革で4~5㎜、鉄で1~1.5㎜です。表面には、防錆・補強のため黒漆が塗られています。重量と強度のバランスから鉄札と革札を交ぜて構成され、これは江戸時代まで受け継がれました。

本小札の場合、1領の甲冑に2000枚以上の小札が使われます。

初期は大型であった小札は、動きやすくするために小型になっていきます。小型化し薄くなったので強度を補うため、三枚重ねにした三ツ目札などが登場します。

威の美しさ

威

威は札を綴るという鎧を構成する重要な部品の一つです。
威毛の材料は糸や革、綾などがあり、それらから生み出される威毛の美しさは日本甲冑の特色で、その色彩や文様がそのまま鎧の名称となります。合戦に臨む武将達が美しい色彩や文様を求めたのは、単に敵を威嚇するためのものではありません。剛毅なばかりではない、死を前にしながら真剣に美を求めていたことが察せられます。

威は「緒を通す」、すなわち「緒通す」の言葉に「威す」の字を当てたものです。

威には材質によって分類があります。

威2
(左上)黄櫨匂(はじにおい)(おどし)(におい)(おどし)
(右上)(おも)(だか)(おどし)
(左下) (あか)(おどし) 源義経奉納として大山祇(おおやまづみ)神社に伝わる
(右下)小桜(こざくら)(おどし) 源為朝(ためとも)奉納として厳島神社に伝わる
  1. 絹などの糸を組んだ緒を使った絲威
    糸の色によって「赤絲威」「紫絲威」などの名称があります。
  2. 鹿の皮の緒を使った韋威
    小桜威は桜の花の小紋を藍で染めたものです。
  3. 絹の織物を使った綾威
    麻布を内側の芯とした綾織物を用いて威したものです。
    中国大陸から来た唐綾(織物)を用いた唐綾威なども見受けられます。絲威や韋威に比べて耐久性に乏しいものの、その優美さは格別でした。

その他の威として、装飾的性格の強い、札板の左右両端に用いる耳糸、最下段に用いる横線状の畦目、同じく最下段に用いる「X」状の菱縫などがあります。

絵韋

絵韋
(左)厳島(いつくしま)神社所蔵国宝小桜(おどし)鎧の弦走(つるはしり)韋の絵韋(えがわ)模様
(右)武州(ぶしゅう)御嶽(みたけ)神社所蔵国宝赤絲(おどし)鎧の絵韋(えがわ)模様

様々な文様を染め出して、弦走や兜の吹返し、兜の内張、金具廻りなど、鎧の各所に使用されるのが絵韋です。絵韋が使われた弦走は大鎧独特なもので、その弦が胴の小札に引っかかれないように胴を覆ったものでしたが、威と同じく、日本の甲冑の優美さを引き出しています。

源平争覇期の鎧と胴丸鎧

胴丸は大鎧よりも軽武装であり、当初は徒歩武者用として重用されました。

胴丸は足さばきをよくするために草摺を細かく分割したことや、(わい)(だて)がなく胴を丸く包んで着用しやすく合理的な鎧であったため、鎌倉時代末期以降には武将も愛用するようになりました。室町時代にかけては腹巻とともに流行し、この形式がやがて改良されて戦国時代の当世具足となっていきます。

大山祇神社所蔵の源義経奉納と伝えられている赤絲威鎧は、胴の引合せ部分が胴丸と同じ形式で、脇楯がなく大鎧と胴丸が折衷したものです。この鎧の八双鋲・据文は開扇を表していて、弦走韋を枝菊模様、冠板は茜染、札も当時としては細かく優雅な仕立てです。

平安時代から鎌倉時代へ 鎧の変化

鎧の形式は、平安時代から江戸時代までを通じて基本的な部分に関しては変わりません。しかし戦闘様式の変化に伴い、部分的に多少の改良が行われています。

平安時代末期頃までの鎧は、後代のものと比べて鎧の長さが長いのが特徴です。これは一段の札の長さが古い時代のものほど長いからです。そのためこの時代の鎧の発手(鎧の胴の最下端)は腰骨あたりに来たので、腰を痛めないために馬上で前後輪の上部で発手を支えようと裾広がりに作られていました。しかし、度重なる合戦の経験から、裾広がりでは胴体に密着しないので重量がすべて肩にかかるということがわかりました。その苦痛を緩和するために、鎌倉時代の鎧は胴がほぼ上下同幅に作られました。

腹巻

腹巻は胴丸よりもさらに簡略な、形も小さく合わせ目が背中の中央にあるものです。胴の前部だけを防御する目的の腹当が、もう少し胴の両側防御に留意して、腹当の両側を一間分ずつ増したものです。この程度の防御部の拡張だと背中の隙間が多かったものの、武士は敵に背を見せることは潔しとしないため、背の隙間はさして意識せずに用いたのが始まりでした。しかし後には背後を掩う装具がつけられ、これを背板といい、また臆病板ともいわれました。また袖や兜をつけるようになり、室町時代にはその合理性から、胴丸と同様、実用の甲冑として盛んに用いられました。一方、大鎧は“晴着化”して特殊な武将が威儀的に着用するのみとなりました。

腹巻の鎌倉時代最末期頃の遺品として、滋賀県の兵主大社の白綾包腹巻があります。面を白綾で包み浅葱絲で綴じる、いわゆる包み腹巻で、腹巻が小さいことから13歳の源頼朝が着用したという伝承があります。

鎧を付けた衣裳