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天寿國繍帳 銘文 (復元)


 斯歸斯麻  宮治天下  天皇名阿  米久爾意  斯波留支
しきしまの宮(磯城嶋宮)に天の下治らしめしし天皇(すめらみこと)、名は あめくにおしはるき
 比里爾波  乃弥己等  娶巷奇大  臣名伊奈  米足尼女
ひろにはのみこと(天國排開廣庭尊=欽明天皇)、そが(蘇我)の大臣いなめ(稲目)の足尼(すくね/宿禰)がむすめ
 名吉多斯  比弥乃弥  己等爲大  后生名多  至波奈等
名は きたしひめのみこと(堅鹽媛命)を娶りて大后(おおきさき)となし、名は たちばなと
 已比乃弥  己等妹名  等已弥居  加斯支移  比弥乃弥
よひのみこと(橘豐日尊=用明天皇)・妹(いも)名は とよみけかしきやひめのみ
 己等復娶  大后弟名  乎阿尼乃  弥己等爲  后生名孔
  こと(豐御食炊屋姫尊=推古天皇)を生みたまいき。また大后が弟(おと)名は おあねのみこと(小姉命)を后となし、名は あな
 部間人公  主斯歸斯  麻天皇  子名蕤奈  久羅乃布
ほべはしひとのひめみこ(穴穂部泥部皇女)を生みたまいき。しきしまの天皇が御子、名は ぬなくらのふ
 等多麻斯  支乃弥己  等娶庶妹  名等已弥  居加斯支
とたましきのみこと(渟中倉太珠敷尊=敏達天皇)、庶妹(ままいも)名は とよみけかしき
 移比弥乃  弥己等爲  大后坐乎  沙多宮治  天下生名
やひめのみこと を娶りて大后となし、おさたの宮(譯田宮/他田宮)に坐(いま)して天の下治らしめしき。名は
 尾治王多  至波奈等  已比乃弥  己等娶庶  妹名孔部
尾治王(おはりのみこ)を生みたまいき。たちばなとよひのみこと(橘豐日尊=用明天皇)、庶妹(ままいも)名は あなほべ
 間人公主  爲大后坐  瀆邊宮治  天下生名  等已乃弥
はしひとのひめみこ を娶りて大后となし、いけのべの宮(池邊宮)に坐しまして天の下治しめしき。名は とよのみ
 弥乃弥己  等娶尾治  大王之女  名多至波  奈大女郎
みのみこと(豐聰耳皇子=聖徳太子)を生みたまいき。尾治王がむすめ、名はたちばなの大女郎(おおいらつめ)を娶りて
 爲后歳在  辛巳十二  月廿一癸  酉日入母  孔部間人
后となしたまう。歳(ほし)辛巳(かのと・み)にありし十二月二十一(日)癸酉(みずのと・とり)の日のくれに母の孔部間人
 王崩明年  二月廿二  日甲戌夜  半太子崩  于時多至
王(あなほべのはしひとのみこ)崩(かむざ)りましぬ。明くる年の二月二十二日甲戌(きのえ・いぬ)の夜半に太子崩りましき。時にたち
 波奈大女  郎悲哀嘆  息白畏  前曰敬  之雖恐懐
ばなの大女郎、悲哀(かなしび)嘆息(なげき)して白(もう)さく「畏(かしこ)き天皇が前に曰(い)いて敬(もう)すはこれ恐れありといえども、懐(おも)う
 心難止使  我大皇與  母王如期  從遊痛酷  无比我大
心止(や)みがたし。わが大皇(おおきみ)と母王(ははのみこ)と期(ちぎ)りしが如く從遊(じゅゆ)せしめたまう。痛く酷(から)きこと比ぶる無し。わが大
 王所告世  間虚假唯  仏是真玩  味其法謂  我大王應
王の告げたまいしく『世間は虚假(こけ)にして、ただ仏のみこれ真なり』と。その法(のり)を玩味(あじわ)うに、わが大王は
 生於天壽  國之中而  彼國之形  眼所叵看  悕因圖像
天寿國の中に生れたまうべしと謂(おも)えり。而(しか)るに彼の國の形は眼に看(み)叵(かた)き所なり。悕(ねが)わくは図像によりて
 欲觀大王  往生之状  天皇聞之  悽然告曰  有一我子
大王が往生したまう状(かたち)を觀(み)んと欲(おも)う」と。天皇これを聞こしめして悽然として告げて曰く「わが子ひとり有り。
 所啓誠以  爲然勅諸  采女等造  繍帷二張  畫者東漢
啓(もう)す所は誠に然なりと以爲(おも)う」と。勅して諸の釆女(うねめ)らに繍帳二張を造らしむ。畫(えが)ける者は東漢(やまとのあや)の
 末賢高麗  加西溢又  漢奴加己  利令者椋  部秦久麻
末賢(めけ)、高麗(こま)の加西溢(かせい)、また漢(あや)の奴加己利(ぬかこり)。令者(つかさひと)は椋部(くらひとべ)の秦久麻(はたのくま)なり。

●銘文中の青文字は現存する繍帳の断片に残る文字。下図はそのうちの「部間人公」の部分。このように一匹の亀の背に四文字ずつが配されていた。銘文の文字数は全部で四百字であるから、もとの繍帳には百匹の亀が刺繍されていたと考えられる。

 平成18年3月14日発行
 東京国立博物館 編集・発行
「国宝 天寿國繍帳」の表紙より

●現存する天寿國繍帳の全体像は下図のとおり。縦88.8cm・横82.8cmの額装である。もとは銘文にあるとおり二張でセットの帳(とばり)で、古記録によれば二張りあわせて三間の大きさがあった。しかし経年による破損がはなはだしく、鎌倉時代にその模本(レプリカ)がつくられた。現在ではオリジナル・レプリカともに破損し、現存する繍帳は大正時代にその両方の保存のよい部分を寄せ集め額装として作りなおしたものである。現物は奈良県の中宮寺に伝来している。
 このように現存する額装の繍帳はオリジナルとレプリカの寄せ集めであるが、それでも現物をみると保存のよい部分と痛みがはげしい部分があることが一見しただけでわかる。じつは意外なことによく保存されているほうが古いオリジナルである。太子逝去の後、時の朝廷でオリジナルがいかに丹精こめて作られたものであるかをうかがわせる事実である。

 平成18年3月14日発行
 東京国立博物館 編集・発行
「国宝 天寿國繍帳」より

●このように破損したものの銘文がなぜ復元できているかというと、いくつかの写本が残っており、また『天寿國曼荼羅繍帳縁起勘点文』・『中宮寺尼信如起請等事』・『法隆寺東院縁起』・『天寿國曼荼羅起因』・『斑鳩古事便覧』・『聖徳太子伝正法論』などに引用があるからである。また「上宮聖徳法王帝説」が「右は法隆寺の蔵に在る繍帳二張、縫い著けし龜の背の上の文字なり」としてその全文を記録している。ただし「上宮聖徳法王帝説」が記す銘文は写しもれや書写の間違いなどで、本来400字であるはずの銘文が398字になっている。

●この銘文には「わが国で『天皇』という称号がいつ成立したか」という問題が内在している。そもそも天皇という語の由来には主に下記の三説がある。

   中国で宇宙の主宰神とされる昊天上帝の別名、『天皇大帝』に由来するという説。
 道教の最高神である『天皇大帝』に由来するという説。
 大王の権威を増すために『大』→『天』・『王』→『皇』という具合にそれぞれの文字の画数を増して出来上がった日本で作られた漢語であるとする説。

 次に天皇号の成立時期だが、これには二説あり、ひとつは推古朝とする説、ひとつは天武・持統朝のころとする説である。現在では天武・持統朝のころすなわち七世紀後半とする説が有力である。その根拠となるのは唐の第三代皇帝の高宗が674年(天武三年)に皇帝に代えて天皇の称号を用いた事実があり(参考1)、その影響によるものとされる。またこの時期の日本では律令の制定とともに『古事記』・『日本書紀」などの国史編纂が始まり、これらと連動して従来の倭国を日本国と称するようになり、また従来の大王が天皇となったとするものである。

(参考1)

<舊唐書 卷五 本紀第五 高宗 下>

(咸亨五年)秋八月壬辰、追尊宣簡公為宣皇帝、懿王為光皇帝、太祖武皇帝為高祖神堯皇帝、太宗文皇帝為文武聖皇帝、太穆皇后為太穆神皇后、文德皇后為文德聖皇后。皇帝稱天皇、皇后稱天后。改咸亨五年為上元元年、大赦。

 一方、推古朝のころとする説の根拠となるのが推古朝時代に作成されたとされるこの天寿國繍帳銘文や法隆寺金堂の薬師如来像光背銘文に天皇という言葉がすでに使用されていることであった(原文中赤文字で表示)。しかし、薬師如来像光背銘文が推古朝の作とはみられないという研究結果があらわれ(参考2)、天皇号推古朝成立説はやや力を失った。だが近年、天寿國繍帳の銘文は推古朝の作とみてよいという研究(義江明子:「天寿國繍帳銘系譜の一考察」『日本史研究』325号 1989年)があらわれ、天皇号推古朝成立説に復活の兆しがある。

(参考2)

奈良・法隆寺金堂の薬師如来像は光背に推古天皇15年(607年)の銘があるが、銘文中の用語や像自体の鋳造技法等から、実際の制作は7世紀後半と言われている。ちなみに実際の光背銘文と「上宮聖徳法王帝説」が伝える銘文は下記の通り。なお比較対象の便のために適宜文章をスペースで区切り、改行した。

<薬師如来像光背 銘文>

池辺大宮治天下天皇 大御身労賜時 歳次丙午年
召於大王天皇与太子 而誓願賜 我大御病太平欲坐
故将造寺薬師像作仕奉詔 然当時崩賜
造不堪者 小治田大宮治天下大王天皇 及東宮聖王
大命受賜而 歳次丁卯年仕奉

<「上宮聖徳法王帝説」が伝える薬師如来像光背 銘文>

池邊大宮御宇天皇 大御身労賜時 歳次丙午年
召於大王天皇与太子 而誓願賜 我大御病大平欲坐故
将造寺薬師像作仕奉詔 然當時崩賜
造不堪者 小治田大宮御宇大王天皇 及東宮聖徳王
大命受賜而 歳次丁卯年仕奉

 しかし義江説に対してこの「天寿國繍帳銘文」がはたして繍帳作成の当初から繍帳に縫い付けられていたものか疑問があるとする反論もしくは疑義が提出されている。その論旨を要約すると次の通りである。


 天寿國繍帳は聖徳太子の后であった橘大郎女(推古天皇の息子である尾張皇子の娘。つまり推古からみれば孫娘にあたる)の願いにより作成された。銘文の内容をみると、この繍帳は橘大郎女が彼女の亡き夫をしのぶよすがとして、彼女の身近におかれて使用されたはずである。そうであれば太子の系譜を述べ、繍帳作成の経緯を述べる銘文が橘大郎女にとって必要なものであったかどうか検討してみる必要がある。彼女にとってこのような銘文は必要なものではなかったと見るのが自然であろう。したがって繍帳自体は推古朝に作成されたものとしても、作成当初の繍帳には銘文の刺繍は無く、後の時代に追加して縫いつけられたものである可能性は否定できない。


 これに反論するには銘文の亀の刺繍と繍帳の他の部分の刺繍技術や材料などを科学的に比較分析し、両者が同時期に作成されたものであることを証明しなくてはなるまい。わずか原稿用紙1枚(四百字)の文章ではあるが議論は尽きず興味深い。




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