銀幕の感動、一人芸で再生 マルセ太郎

 芸塵36年ということになるが、僕の場合、伝統芸のそれのように“一筋”できたわけではないから、36年という芸歴に重みはない。あたりまえに年をとっただけのことである。自分の居場所が定まったのは50になってからであった。「スクリーンのない映画館」である。きっかけになったのは、当時のあるときのライブであった。そこで、その年評判になった映画を、敗戦直後の子どもを描いたものだが、僕はウソがあるとみて批判した。そして、同じく戦後の、10年はど下がるが、子どもを描いた、宮本坪原作、小栗康平監督の「泥の河」を比較する形で出し、これを肯定的に、語り演じて見せたのである。僕自身が「泥の河」からうけた感動を、観客に伝えることに成功した。少ない客だったが、その中に永六輔さんの顔があった。後日、永さんから、映画批評をエンターテイメントにしたとほめられ、この分野を広げてみてはどうかと薦められた。それから、東京・渋谷の「ジァン・ジァン」を拠点に、全国を公演してまわることになったのである。もう8、9年になるが、20本近い映画を演じてきた。舞台には、腰かけるための黒箱が一つあるだけで、ほかになにも飾るものがない。衣装も、日本映画の場合は作務衣(さむえ)、外国映画のときは白のブラウスシャツと、あっさりしたものにしている。語り口も、日常のしゃべりで筋を運び、情景を描写していく。映画のシーンをそのまま進行させるのではなく、解説や批評をまじえ、そのシーンから想起される僕自身の体験談などを挿入して、笑いをとることもやる。例えば、黒沢明の「生きる」での安酒場のシーンである。小説家にふんした伊藤雄之助が店の亭主に、近くの薬局へ行って「アドルム」を買ってきてくれと頼むが、もう閉まっていると言われ、「弱ったなあ。あれを肴(さかな)にウイスキー飲まないと眠れないんだ」ここのところで僕は、「アドルムというのは睡眠薬です。当時は今と違ってネクラが格好いい時代で、眠れないことはインテリであるあかしでもあったのです。僕の友達にも、やたらアドルムをポケットから出しては、眠れないとこぽして見せるのがいました。それがいかにも文学青年風で格好よく見え、僕は豚みたいに熟睡できるたちでしたから恥ずかしくて、そいつに劣等感を抱き、どうしたらあんな風に眠れなくなるのかと、悩んだことがありました」と話を入れる。映画を語りながら、自分自身をも語ることになり、観客との親近感が深まる。登場人物は、外国映画はすべて役名でやっているが、日本映画は俳優名で語ることが多い。そして大切なことは、単に映像の再現ではなく、切り口である。その切り口の中に、演者の自己表現が生きてこないと、観客にとって退屈なだけである。「スクリーンのない映画館」を見て、映画より感動したと言ってくれる人が多い。ごう慢な言い方になるが、そうであるはずである。そうでなければ、僕のやっていることに意味はない。言うなれば、映像が観客に鈍角で入っていくものとしたら、語りは鋭角で入っていくものだと考える。つまり僕が映画からうけた感動を再生産して、観客に切りこんでいく作業である。長い芸遍歴のうちに培われた雑芸が、「スクリーンのない映画館」で、集大成的に生かされていることを、僕は素直に喜んでいる。遠回りだったとは思っていない。

(1992.9.21日本経済新聞掲載記事より抜粋)

●プロフィール

 1933年大阪生れ。新劇俳優を志し、’54年上京。マルセル・マルソーの舞台をみてパントマイムに興味をもち、彼の名前にちなんでマルセ太郎と命名。その後コント活動を経て、動物の形態模写を中心に、浅草の演芸場に出演。特にサルの形態模写はその迫真力で他を圧倒。評論家の矢野誠一氏をして「内面的な描写からサルにせまり、本物のサルよりもはるかにサルらしく哀しげだ」といわしめる芸である。’84年より、映画再現芸というまったく新しいジャンルを開拓。一本の映画の最初から最後まで徹底的に語り尽くす一人芸である。

● ロードショー上演作品

 泥の河/殺陣師段平物語/花いちもんめ/無法松の一生/生きる/息子/

 ライム・ライト/アマデウス/シラノ・ド・ベルジュラック/

 ゴッドファーザー/天井桟敷の人々/他

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