『関西国際空港 生者のためのピラミッド』

佐藤章『関西国際空港 生者のためのピラミッド』中公新書1202
佐藤章:朝日新聞大阪本社経済部員。1994.8。所蔵:購入。

内容
軟弱な海底に石を積み重ねることから始ったこの大プロジェクトは、長い歳月と一兆五千億円の巨費を要してついに開港にこぎつけたが、未完の工事、莫大な償却前赤字等難問は山積している。公害と地域経済、地方分権、民活プロジェクトの将来 ---- ここには現代日本の政治経済問題のすべてが関わっているのである。本書は現代のピラミッド建設過程を、参加した技術者、財界人、政治家、官僚の証言を通して浮彫りにする試みである。(扉の紹介文より)

目次
第1章 孤島の戦い
 戦いの第一歩 泥を固める 予測最大幅の沈下 床下の鉛筆が転がらぬために 「ハブ」空港コンセプト あってはならないことが起こった 「ジャッキアップ」シナリオ 名古屋から成田へ 着陸料をめぐるジレンマ 「五・九・二三」という経営目標 「経営不安説」 変わる滑走路構想 「横風」神戸空港 大蔵省の壁

第2章 激甚の下で
 削られた展望台 「門限」という財産 「巨大な舌」、「巨大な槌」 地域経済の論理 市民、市議会、市当局の合意 難解な日本語 摩滅する言葉

第3章 大褶曲
 白い人工都市 OBAPの五〇人 「不覚」の記憶 「あいまいさ」というテクニック 変化のメルクマール 株式会社方式 黒部体験 打ちなる「ペルトン水車」 三つの事業主体案

第4章 西へずらす
 「イコールパートナー」の意味 関経連方式 この国の重心 関西にとっての財界改革 古い革袋を切り裂く

あとがき

関西国際空港関連の年表


読書ノート

(注)まだ途中のメモ段階です

 資金は大蔵省が、人事は運輸省、大阪府、大阪市、そして関西電力、松下電器産業、サントリーなど、地元関西の有力財界人が握っている。そんな中、関西空港会社社長に就任した運輸省事務次官経験者で、整備新幹線や成田空港などに関わってきた服部氏。彼が最初に空港問題に取り組んだのは、運輸省航空局飛行場部管理課長時代の1973年。名古屋空港の大型ジェット機導入問題を担当し、騒音問題のための空港撤去の住民運動の渦中へ入っていった。愛知県庁の幹部を訪ねた時、「愛知県には未来永劫空港はいりません」と言われ、1987年、運輸事務次官時代に海上空港の中部国際空港建設実現の陳情に来た愛知県幹部への冷たい拒否の言葉につながった。

 1981年、大臣官房審議官になり、成田空港を担当。以来8年間、常に周辺警護の警官がつき、ついには自宅まで過激派に焼かれた。しかし、関西空港には別の壁があった。「民主主義の手続きを経ないで建設した成田空港の前には反対住民が立ち、民主主義の手続きを踏み続けて住民のいない海上に建設した関西空港の前には、地盤沈下を起こし続ける軟弱な泥層と、財布のひもを固く締め続ける財政当局が横たわっていた。」

 1994年度政府予算案(2月10日に内示された大蔵原案に関空の全体構想のためのボーリング調査費が入っていない)に対する復活要望説明会が、大阪府、大阪市、大阪商工会議所によって12日都内のホテルで行われた。運輸省は1994年度予算で、関空のボーリング調査費とは別に、神戸空港の実施設計調査費(建設着工予算)を要求していた。神戸市が、関空の横風用滑走路でも良いから着工を認めて欲しいと、三、四週間前から、兵庫県と神戸市の財界を中心に、大蔵省サイドへの猛烈な陳情が行われていたのだ。この事実を、服部は、「不見識」とこの席で吐露した。

 1974年に関空の建設候補地が決まるまでも、神戸市沖は最有力候補だったが、住民の反対運動で神戸市が蹴り、それ以来、運輸省航空局は、空港に関する限り、神戸市の関係者を一切出入り禁止にしていた。服部は、神戸市に関空を蹴られた時の航空局内のショックを知っていたが、事務次官に就任した時に、この禁止を解いた。地域交通局長時代から、鉄道などの地域交通政策を通じて神戸市の幹部とは親交があったのだ。また、服部の理解では、神戸空港は国内の地方空港で、関空と共存できるものであった。

 しかし、関空の横風用ということは、関空の全体構想に影響を与え、しかもその話しを運輸省にではなく、大蔵省と関西経済連合会会長の宇野収(大阪の財界首脳)に陳情していた。宇野の記憶によると、笹山神戸市長らは1993年の暮れから1994年の初めに、神戸空港建設への協力を求めるとともに、そのための論理、すなわち、神戸空港の横風用滑走路代替論を語った。

 また、神戸空港は、関空の1期工事の1兆5千億(国庫補助三千億)と比べ、三千億(国庫補助250億)と安いため、大蔵を動かしやすかった。また、RIC1期やポーアイ2期の埋め立てのように、埋め立て土砂の採掘場所やその運搬形態をシステム化し、採掘した場所を再開発して産業団地や住宅などに当てるという方法をとっていた。

   神戸空港の計画書を見ると、国際チャーター便にも対応可能という項目があり、それには、入国管理所と税関が必要で、それがそろっていれば、国際空港たりえるのだ。1993年6月1日朝日新聞兵庫県版に前神戸商工会議所会頭の石野信一のインタビュー記事がのり、関空のかわりの神戸空港を主張している。

 2月13日の次官折衝で、大蔵省は、関空と神戸空港を一体としてみて、関空のボーリング調査を含む9億9800万円の中に、神戸空港の計画関連調査費の3千万も含んでいた。大蔵省主計局幹部の16日の発言では、伊丹と神戸と関空は一体性をもって考える、としている。大蔵省の見方は、関空3本と伊丹と神戸空港では、滑走路の供給過剰とみている、ということだ。

 1993年11月10日、藤井裕久大蔵大臣は、「伊丹、そして神戸の空港が出る中で、一体、関西における航空需要は、国際線を含めてどのくらいあるのか、きちっと調査する必要がある、少なくとも、重複投資は、国の財政状況からしてできない」と記者会見で述べている。運輸省は、着陸料を稼ぐ平行滑走路を先に建設する考えだが、そうなると、横風用としての神戸空港が現実味を帯びてくる。服部らはそれを避けるため、横風用を先に建設したいと主張してきた。関空の全体構想は、最大の株主である大蔵省が認めるかにかかっている。

 大蔵官僚の壁が厚いのは、伊丹空港問題で、運輸官僚に欺かれたという思いが、歴史的に堆積しているからだという。騒音問題解決に莫大な対策費を投入した伊丹空港を存続させてしまったからだ。伊丹存続で、関空の収支は圧迫され、騒音と事故の恐怖も残ったのだから。

 伊丹空港訴訟、川西市の住民31人が大阪地方裁判所へ1969年12月より。その後、一連の訴訟が。最高裁は、1981年12月の判決で、離着陸禁止と将来分の慰謝料を棄却し、過去分の慰謝料の一部を認めた。その後、離着陸禁止時間が、運輸省と住民との約束で、午後9時から午前7時までとなった。

 空港周辺対策は、1974年の航空機騒音防止法一部改正、大阪国際空港周辺整備機構設立で、すすめてきた。住宅防音工事は国と自治体で全額補助、クーラーの入れ替えも9割から全額出た。1993年度までに使った伊丹空港の騒音対策予算は約6186億円。これは、全国の空港騒音対策予算の58%で、関空1期の埋め立て造成工事にほぼ匹敵した。航空機のエンジンも静かになり、離着陸も静かにするようにした。

 伊丹空港反対運動は、地元11市でつくる「十一市協」、大阪国際空港騒音対策協議会が中心になり、第一次から第五次までの訴訟団、廃止を訴える調停団の住民らによって支えられていた。11市協は、存続に転換、住民もそちらへ傾いた。1993年8月には、11市協会長の伊丹市長あてに、夜の門限延長が三市の商工会議所などによって要請されたが、これにのれるところは少なかった。

 航空機騒音、Effective percieved Noise Level(EPNL)、実効感覚騒音レベル。対策事業範囲決定に使われるのに、Weighted Equivalent Continuous Perceived Noise Level(WECPNL)、加重等価平均感覚騒音レベル。航空機騒音防止法。

 伊丹市の住民は、空港廃止のため、公害紛争処理法に基づいて公害等調整委員会に調停を求めた、1973年2月。

 運輸省が伊丹空港の存続を正式決定する6年前の1984年3月。伊丹商工会議所、伊丹経営者協会、社団法人伊丹青年会議所が会員企業にアンケートしたところ、存続は78.8%と圧倒的だった。利便性と経済効果が理由だ。

 11市協は、伊丹存続決定以来、方針を変え、国際線を残すように要望したが、1994年1月、伊丹から国際線をなくすことを了承した。

 歴史をみると、1974年8月の運輸大臣諮問機関の航空審議会答申、が重要。大阪国際空港の廃止を前提として関西空港を建設するというもの。

 1938年兵庫県神津村に滑走路がひかれ、阪神国際飛行場として拡張工事をしている途中に戦争となり、軍用飛行場となった。戦後に米軍に接収され、Itami Air Baseとなったが、1958年3月に返還され、それに前後して、伊丹空港を大幅拡張する案が出ていた。そいて、1966年12月に用地買収が完了。その間に、1962年6月、国際連合社会局次長のアーネスト=ワイズマンと大阪都市協会の栗本順三会長を代表とする日本国連合同阪神都市圏計画調査団の報告書、「ワイズマン報告」が発表される。この中で、伊丹空港の負担を軽くするために、新しい空港を阪神都市圏に建設することが提唱されていた。

 また、伊丹拡張の買収交渉で、最後の豊中市の勝部地区の用地買収の際、運輸省と大阪府、豊中市、住民側の覚え書きで、国際空港を伊丹から移転することを住民側が主張し、運輸省が、将来関西に第二の空港が必要だとはじめて認めた。

 1970年2月に拡張工事終了で、長さ3000mのB滑走路に大型機が離着陸し、騒音はさらにひどくなった、B滑走路オープンとともに、住民は、伊丹の地方空港化から変換し、伊丹市自治会連合会航空公害対策部会は、1971年度の運動方針として、始めて新国際空港の建設、伊丹空港の廃止を盛り込んだ。

 1972年10月、伊丹市議会は、市政のマスタープランに「空港廃止」を盛り込み。1973年3月議会で空港撤去の方針を議決、10月1日に「大阪国際空港撤去都市宣言」を打ち出す。

 航空審議会は、1971年10月から審議を続け、1974年8月13日に「廃止を前提」という答申を出す。

 1971年10月27日航空審議会で関西国際空港部会。内村航空局長は、航空需要増大のため、廃止の考えはないが、使い方に考慮する、という意向。しかし、1973 年7月9日、11市協あてに内村書簡が送られる。「撤去することも含めて検討する」となった。調停団や伊丹市は、周辺整備機構設立は、伊丹存続につながるため反対した。そこで伊丹市説得のため、内村書簡となったわけだ。

 1973年10月16日の26回目の関西国際空港部会で、関空の滑走路2本方針が打ち出される。

 1974年8月15日、航空局は「『大阪国際空港の廃止を前提として』の運輸省の考え方」という大臣説明資料で、廃止がありうることと、廃止決定は行政機関が行うこと、ただちに廃止せよと国にせまるものでないことを説明。つまり、存続が前提なのである。

 1980年、空港廃止の調停が成立し、1989年には伊丹市長も存続を認めた。  運輸省は地元住民のアンケート調査を実施し、存続容認が6割を超え(1989年)、1990年、運輸省と三菱総合研究所の存廃問題をめぐる総合評価では、地元に金が入ってこないという指摘があった。

 宮崎辰雄。1938年阪神大水害で、神戸市役所の役人として、復旧のためにかける。1953年助役に。助役16年、市長20年。1966年ポーアイ着工。1981年完成。


関連書籍
木村久『疑惑人らがつくった関西国際空港』啓明書房1994
財団法人関西空港調査会編『関西新空港ハンドブック』ぎょうせい1990
甲斐崎圭『空に架ける橋』向陽書房1994
泉眞也/グローバルハブ研究会編『めざせ! 国際ハブ空港 大競争時代の国家戦略プロジェクト』日本経済新聞社1996
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