訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

元ヤクルトエース高野光さん、飛び降り自殺

野村監督(左)から祝福の握手を受ける高野さん  元ヤクルトのエース高野光さん(39)が東京都豊島区の自宅マンションから飛び降り、死亡していたことが6日、明らかになった。警視庁目白署の調べによると、5日午後11時45分ごろ、7階の窓から家族の制止を振り切るように飛び降りた。目白署は自殺と断定した。遺書はなかった。高野さんは1983年(昭和58年)、ドラフト1位でヤクルトに入団。1年目に開幕投手を務め10勝するなど、チームの主力投手として活躍した。現役引退後はオリックスや韓国、台湾でコーチをしていたが、最近は野球にかかわる仕事に出合えず悩んでいたという。

5日深夜

 高野さんは由紀夫人(38)の制止を振り切るように飛び降りた。現場を目撃した19歳の男性によると、高野さんはマンション7階(地上約15メートル)の窓から上半身を乗り出していた。夫人と言い争いをしているように見えたという。高野さんは直下の歩道にドスンという音を立てて落下。「助けて!」と悲鳴を上げた夫人は駆け下りてくると、即死状態で横たわる夫の前でうろたえるばかりだった。110番通報は長女(10)がしたという。

 警視庁目白署の調べでは高野さんは飛び降りる直前、自宅で夫人や娘とテレビを見ながら夕食を共にするなどしていたが、就寝直前になって突然、衝動的に飛び降りたという。夫人は「やめて」と制止しようとしたが止めきれなかった。

 高野さんは東海大浦安高、東海大を経て83年ドラフト1位でヤクルト入団とエリートコースを歩み、1年目にいきなり開幕投手にも指名された。その後も150キロ近い直球を武器に主力投手として活躍。92年(平成4年)には米国での右ヒジじん帯手術から1076日ぶりに涙の勝利。ファンのハートに訴えた。現役引退後も98年までオリックスの2軍コーチを4年間務め、その後も台湾球界でコーチとして活動。今年3月までは韓国でも臨時コーチを務めていた。

 遺書はなく動機は不明だが、関係者の話を総合すると高野さんは仕事上の悩みを抱えていたようだ。自殺した5日の午前9時ごろ、東海大時代の監督だった岩井美樹氏(45=現国際武道大監督)に電話をかけ「光ですけど、今後のことでお話ししたいのですが」と切り出した。岩井氏は「野球の仕事をしたいようだった。だがコーチングスタッフはどこも固まっているから厳しい。野球に限らなくても家族を食べさせていくことはできるのでは」と諭したという。「今思えば声に元気がなかった。死ぬぐらいなら1度会いに来てほしかった……」とショックを隠せなかった。

 また同日、東海大時代の後輩にあたる横浜長谷川国利スカウト(38)にも電話をかけ、韓国球界の有望選手を紹介しようとしている。同スカウトは「特に悩んでいる様子は感じられなかった」と振り返るが、日本球界で仕事に就きたい意欲がうかがえたという。

 一方で、関係者は「経済的に楽とはいえなかったのでは」と思いやった。台湾、韓国でのコーチ業では収入面は厳しい。東京・江東区の実家の土地にマンションを建てたものの資金繰りに困り、人手に渡さざるを得なかったという。入院中の父親と親しい知人は「奥さんとの間も心配だった」と話した。友人に「食料品販売などの事業を始めたい」と相談していたともいう。

 現役時代、主力となっても偉ぶらずチームメートから好かれた。一方で、同僚と飲みにいっても別れた後は別の店で1人の時間をつくっていたタイプだった。野球への思いを断ちきれず、それでいて仕事に就けない悩みを、自分だけで抱えてしまったのかもしれない。

(写真=92年8月23日、広島戦で3年4カ月ぶりに完投勝利を挙げ、バスの中で野村監督(左)から祝福の握手を受ける高野さん)

◆葬儀日程
▼通夜 8日午後6時から東京都墨田区千歳2の4の7、西光寺で
▼葬儀・告別式 9日午後1時から同所で
▼喪主 妻由紀(ゆき)さん
◆高野光(たかの・ひかる)
 1961年(昭和36年)5月20日、東京都江東区生まれ。東海大浦安(千葉)から東海大進学後、大型右腕として素質が開花。187センチの長身から投げおろす150キロ近い速球を武器に、81年秋の明学大2回戦から今も首都大学リーグ記録として残る21連勝した。83年ドラフト1位でヤクルト入団。新人でいきなり84年の開幕投手(対大洋)を務め(勝敗関係なし)、同年10勝12敗。86年には12勝を挙げエース格に成長。89年(平成元年)に米国で右ひじのじん帯移植手術を受け、92年4月7日の中日戦で1076日ぶりに復活勝利を挙げたが93年は故障続きで1軍出場なし。93年オフにトレードで移籍したダイエーでは登板2試合だけで94年引退。95〜98年はオリックスの2軍投手コーチ。現役通算成績は182試合51勝55敗13セーブ、防御率4・08。家族は夫人と1女。


高野さんが飛び降り自殺した自宅マンション

自宅はひっそり

 JR山手線の目白駅と学習院大に挟まれた高野さんの自宅マンション前には、午後3時ごろから報道陣が詰めかけた。7階の自宅は人影もなく、ひっそりと静まり返っていた。由紀夫人の父と思われる男性と姉の2人が1階玄関から午後8時半ごろ自宅内に戻る姿が確認され、室内に明かりがともった。インターホン越しに取材に応じた姉は「妹はおりません。(いつ戻るのかは)何も聞いていないので分かりません」と語った。

(写真=高野さんが飛び降り自殺した自宅マンション(東京・豊島区目白で))


阪神野村監督「突然のことで…」

 突然のことで大変驚いている。はっきりしたことが分からないのですが、今はただごめい福をお祈りするだけです。

ヤクルト古田「面倒見いい先輩」

 突然のことでビックリしています。信じられません。一緒にやっていたころは、主戦投手で活躍されていました。後輩の面倒見も良くて、いい先輩でした。ショックです。
80年秋の首都大学リーグ戦で東海大の左から市川、原、右端が高野

巨人原コーチ悲痛「どうして!」

 巨人原辰徳ヘッドコーチ(42)が元ヤクルト高野さんの自殺に大きなショックを受けた。高野さんは原コーチが東海大4年の時の1年生で、プロ入り後は在京ライバル球団のエースと主砲として対決してきた。6日昼、大学同期の巨人津末スカウトから一報が入り「どうしてなんだ!」と叫んだと言う。

 「なんと言っていいか……。言葉が見当たらない。礼儀正しくて、いい後輩だった。三振をよく取られたけどホームランも打たせてもらった」。日本一祝勝会が行われた都内ホテルで神妙に話した。現役時代の対戦成績は、7年間で81打数21安打、7本塁打で12三振。真っ向勝負してくる後輩との対決は、いつも楽しみだった。

 2年前の1998年(平成10年)オフ、巨人コーチとして現場復帰時に高野さんから連絡があったという。

 「(オリックスを辞め)巨人に入りたいのですがと言ってきた。その時は(コーチ1年目で)自分のことで精いっぱいだったから。野球人として勉強していれば、そのうち縁もなきにしもあらずという話はした。それ以来、連絡はない。もっとコンタクトを取っていれば良かったんだろうけど」。コーチとして台湾に渡ったことを人づてに聞いたり、動静には関心を持っていた。「心当たりもないし、本当に何と言っていいか分からない」。急なことで戸惑いを隠せなかった。

(写真=80年秋の首都大学リーグ戦で東海大の左から市川、原、右端が高野)


高野さん自殺、球界にショック走る

ヤクルトの入団発表で左から池山、武上監督、高野、栗山(83年12月) <巨人長嶋監督> えっ、今日はテレビは何も見てないから、知らないんだよ。高野というピッチャーはよく覚えてますよ。いいピッチャーというイメージがある。トラブルか何かかなあ。んー驚いた。

<ダイエー王監督> 大きくて角度のあるいい球を放っていた。ただただごめい福をお祈りするとしか言いようがない。

<前巨人1軍打撃コーチの武上四郎氏> びっくりしている。ヤクルトの監督時代、新人で開幕投手にしてそのゲームを勝ったんだ。最後に話をしたのは、2、3年前になる。なぜこうなったのか分からない。

<ヤクルト若松監督> とにかく驚いた。詳しいことが分からないので、何とも言えない。どういう事情があったんだろうか。

<ヤクルト池山(83年同期入団)> 練習中に聞きました。ショックですし、信じられない。何とお悔やみ申し上げてよいか、動転してしまって。同期としてよくしてもらいました。寂しいです。

<阪神広沢(84年ヤクルト入団)> えっ、なんで……(絶句)。リーグ優勝(92年)も一緒に喜びを分かち合ったし、何と言っていいか分からない。

<ヤクルト伊東1軍投手コーチ> 何で(と絶句)。仲良くやらせてもらったんです。ここ数年連絡がなかったけど、まさかこんなことになるなんて。

<スポーツキャスター栗山英樹氏(83年同期入団)> 信じられない。何でだろうという感じです。現役時代、ドラフト1位の光と同じレベルになりたいというのが、僕のモチベーションだった。現役引退後もお互い苦労していたけど、これからお世話になった野球のために頑張ろうと話していたのに……。

<ヤクルト田口球団社長> 直球勝負できる投手でした。伸びのあるボールが印象に残っている。速いがゆえにガラスの肩だった。ショックが大きいよ。

<ヤクルト安田編成部次長(高野さん入団時の1軍投手コーチ)> 人間的にも素直な選手だった。どうしてこんなことに……。

<中日山田ヘッド兼投手コーチ(オリックスコーチ時代の仲間)> びっくりしたよ。同じユニホームを着ていたし、あんなに明るいヤツだった。何があったか分からないけどショックを受けている。

<オリックス井箟昆取締役> うちを辞めてから連絡はなかった。台湾で元気にやっているものだと思っていたが……。まだ、正直言って本当なのか、という感じ。ショックです。

<オリックス矢野清球団本部長兼編成部長> うちにコーチとして在籍したこともあるので、とても残念です。驚きました。

<オリックス弓岡敬二郎守備走塁コーチ> 一緒にファームでやってきた仲間(高野氏がオリックス2軍投手コーチ時代の2軍監督)。飲みに行ったりしても、楽しいヤツだった。なんでこんなことをしたんだと思うぐらい、ビックリしている。明るいヤツだっただけに、信じられない。

<サーパス(オリックス)酒井投手コーチ(東海大浦安、東海大で高野さんの後輩)> ショックで言葉もありません。高野さんにあこがれて東海大浦安に進み、大学の合宿では同室でしたから……。オリックスの2軍コーチをしておられたころは、的確に投手の性格を見極める能力も発揮していらっしゃいました。いつも明るく、悩んでいるそぶりなど見たこともなかったんですが……。

<ダイエー尾花投手コーチ> 本当だったの? なんでや……。自主トレとかも一緒に行ったし、現役を引退するまで一緒だった。そういうことをするタイプじゃないのに……。今はお悔やみを申し上げるとしか言いようがない。

(写真=ヤクルトの入団発表で左から池山、武上監督、高野、栗山(83年12月))


華やかの裏に厳しい第2の人生

 高野さんが自ら命を絶った理由の1つに「球界復帰がかなわなかった」ことが挙げられている。一見華やかに見えるプロ野球人も、いざ第2の人生を探すとなると非常に厳しい。最近は長く経済不況が続き、一般社会でもリストラや就職難の時代。プロ球界も同じで一部富裕球団を除き、各球団ともコーチや球団職員の数を減らし始めている。

 ここ3年間の退団者の行方を調べてみた。12球団の外国人選手を含めた退団者は97年=113人、98年=117人、99年=119人で、1球団平均10人がユニホームを脱ぐ。コーチなどの管理職になれるのはごく一部で、1球団で1人か2人。評論家やテレビの解説者に転身できるのも、やはり一部スターに限られる。あえて球界に身を置くとしたらスコアラー、スカウトや打撃投手などの裏方役しかなく、それも「空き」が出て初めて就ける。

 社会人球界がプロ退団者を受け入れ、高校球界でもプロ出身者の指導者を受け入れる資格が緩和された。それでも教職のないものは資格を取り、なお2年間の教員実績がいる。昨年、社会人チームに復帰したのはわずかに9選手だけ。大半が野球界から離れ、第2の人生を歩むことになる。98年までオリックスのコーチを務めた高野さんだが、その後台湾や韓国に夢を求めたもののかなわなかった。


耳に残る弾んだ声、まさか

<悼む・荒木大輔>

 「まさか」――。ありふれた言い方だが、言葉が浮かばない。衝撃が大きければ大きいほど人間、表現力を失うものらしい。

 最後に電話をもらったのは今年のキャンプ取材直前だった。「韓国のプロ野球でコーチをやるんだ。いい素材がタップリいるし、日本球界もなめたらイカンよ」。声が弾んでいた。だからこそ、冒頭の「まさか」なのだ。

 ヤクルトでは高野さんが1年後輩だった。年齢では先輩になるが、同じドラフト1位ということで、私生活も含めて、よく付き合った。しかし、本当にお互いを理解しあったのはともに右ヒジを痛め、苦しいリハビリ経験を分かち合ったからだろう。1992年(平成4年)4月、彼が2年間の療養生活から復活した。故障中だった伊東昭光さんが続き、そして僕が最後にマウンドへ戻った。格別、祝福の言葉を交わしたわけではないが、そこは同じ辛酸をなめた仲、心は通じ合った。

 東京は深川・門前仲町の生まれ。下町・隅田川の花火大会があると、当時高野さんが住んでいたマンション屋上で見物とシャレこんだ。大輪が開くたびに歓声があがった。150キロ速球でファンをうならせた姿はまさに「大輪」のそれだった。突然の死。「祭りの後」を感じている。 荒木大輔(日刊スポーツ評論家)


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