古田武彦ノート

――合本「市民の古代」の解説にかえて――

中小路駿逸

 この文章は新泉社からの合本「市民の古代」第2巻の冒頭に掲載されているものを、かなり省略して転載するものである。(新泉社・中小路氏の許可は受けていないが、古田氏の紹介文としてこれ以上のものはないと思われるので...スミマセン。)


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 スリリングな事態が、進行しつつある。日本古代史、ひいては東アジア、ないし環太平洋圏の古代史の領域においてである。
 多くの人が、だいたいはわからぬものと思っていたこの領域で、しかも空間的にも時間的にも広大な範囲にわたって、とつぜん、ひとりの人物が、思いもよらぬ、だがスジのとおった鮮明な古代史像を、えがき出してみせはじめたのである。
 それまではてんでんバラバラ、ウソとマチガイと空白だらけのものと見えていた文献・史料の群れが、この人の手に触れるやいなや、ピタリと対応し連結しあって、一貫した古き世の物語を、じつに歯切れよく語りだしはじめた。
 そしてこの人物は、このおどろくべき古代史像を、根拠をあげつつ提示し、反論あらば反論せよと挑戦する一方、なおも論拠を加えて、説を補強し、もってさらにその古代史像を拡充し、ときに反論を得ればすかさず応戦し、根拠をあげて相手の説を論破していき、その過程において、当人の説がさらに根拠を加えて強化されていく。―――スリリングな事態と言わねばならない。

 この人、その名を古田武彦という。一九二六年の生まれ。
 もともと親鸞に関する史料批判をやって、論文をいくつも書いていた。著書(「親鸞思想―その史料批判―」ほか)もある。東北大学の文学部で日本思想史を専攻し、村岡典嗣に師事した人。レッキとした学者なのだが、ふつうの学者に多い、大学に職を奉ずるということをせず、長野県と神戸、京都で高校の教師を歴任し、その後、研究と著述に専念していた。(のち昭和薬科大学教授、現在は退官:山岸注
 親鸞についての研究でも、ものすごく実証的な方法を駆使して、それまでの説とはちがう親鸞像をえがき出してみせたのだが、一九六九年、「史学雑誌」に「邪馬壹国」という論文を書いて、三世紀の倭の女王の国の名は「邪馬臺国」ではなく「邪馬壹国」だという説をとなえ、そのあと、あれよあれよといううちに、古代史に関する相当量の著書・論文のたぐいを発表してしまった。(略)

 問題は、その説の内容なのだが、これが、おどろくべきものなのである。
 おどろくべき点、それは、まずは三つある。
 一つは、そこにえがき出された古代史像の“なじみのなさ”あるいは“意外性”にある。

――およそ前二世紀から七世紀にかけて、九州北部に勢力の中心をもつ一つの王朝というべきものが存在した。この時期のことをしるした外国文献(主として中国の正史)に一貫した姿であらわれてくる倭の地の中心権力は、すなわちこの“九州王朝”であり、三世紀の卑弥呼も、五世紀の倭の五王も、七世紀の“日出づる処の天子”多利思北孤も、それぞれの時期における、この王朝の王にほかならない。この王朝は、九州から朝鮮半島南岸にかけての海峡部をもその勢力下におき、航海の技術と伝承をもっていた。その国びとの記憶には、南米大陸西北岸をふくむ太平洋海域周回のそれが、とどめられてもいた。
 武器型の祭祀用具をシンボルとするこの王朝の勢力圏から、一派が東進し、武力で東方の銅鐸圏にはいりこみ、新たに一権力をうちたてた。これが大和なる天皇家の王朝である。八世紀にできたこの王朝の史書(公認されたものとしては「日本書紀」)には、九州王朝の記録が、それとはことわらずに、いっぱいちりばめられている。

 以上が、最初期の四冊の著書(「『邪馬台国』はなかった」「失われた九州王朝」「盗まれた神話」「邪馬壹国の論理」)でその大スジをあらわした、古代史像のあらましである。
 これに一部分合致する説が過去になかったわけではない。(中略)
 だが、七世紀末まで続いた「九州王朝」とは!
 幻想ではないか。とんでもない奇説・珍説のたぐいではないか。一片のお笑いぐさではないか。

 しかし、ここに、また一つのおどろくべき点がある。
 そこに展開され提示された、“なじみのない”古代史像が、“根拠をもっている”ということ、これである。

 この論者の説くところは、時間的には前二世紀をはるかに越えて、前十一世紀の中国の周代のはじめ、さらにはよりさかのぼる、わが縄文期にもおよび、空間的には太平洋を越えてしまうのだが、文献と、考古学上の遺物・遺跡の状況とから、いちいち根拠があげられている。全編これ論証という文章なのだが、またそれゆえに、ある面から見ると全編これ根拠のかたまりである。
 これほど“なじみのない”説に、これほどの根拠があろうとは!
 ならば、いままでの“おなじみの”説には、どういう根拠があったのだろう?
 この疑問に、この論者はこたえる。論証を進めつつ、自己のとちがう帰結に到達した先人の説を明示し、それがいかに、また何ゆえにまちがったのであるかを指摘し、これに寸鉄殺人的な評をくだす。この論者の文章は、だから、ある面から見ると、全編これ論難である。
 いったいどこから、こういう文章は生まれたのか。この論証の原動力は何なのか。論者の第四の著書「邪馬壹国の論理」の冒頭の一節が、その問いに一つの答えを与えている。

“論理の導くところへ行こうではないか。――たとえそれがいずこに至ろうとも”
わたしの生涯を導いてきたもの、それはこの一語に尽きるようだ。
かつての青春のはじめのとき、この言葉をわたしに語ってくれたのは、旧制高校の恩師であった。「ソクラテスの弁明」にはじめてわたしがふれたときのことである。 “この言葉の大切なところは後半ですよ”――語ってくれた人はそのように付け加えられた。見事な“注解”だった。

 しかり、この論者は愚直かつ真摯に、この一語にしたがったように思われる。(中略)その文章はある面からみれば、真実なるものを求めて一歩一歩ふみしめつつ進む、ひとつの魂の記録と見うる。全編、これ告白なのである。

 まだある。
 みずからがかくも他の説を排除して“なじみのない”帰結に到達したという事実は、何を意味するか。この事実の、研究史上にもつ意味は何なのか。――それをこの論者は、つみかさねきたった論拠の上にたって、述べるのである。この論者の文章は、ある面から見れば、全編これ批評、しかも論者自身の解説つきなのである。
 これほどに、あけっぴろげにくりひろげられ、さらけだして示されるメッセージ。その中心をなすものは、疑いようもなく、慎重にもはりめぐらされ、つぎつぎとくりだされる、論拠の大群である。問題の発見・提示から、帰結への到達におよぶまで、こうであるからにはこうであるとしか考えられない、というところまで、根拠をあげ論理をすすめていく。その結果が、何ぴとをも――この論者自身さえも――予期しなかった、おとろくべき古代史像の提示である。
 これほど意外な帰結に、これほどの根拠があったとは!――おどろくべき点の第二である。

 そして三つめに――。
 ここに論拠としてあげられたものは、文献にせよ考古学資料にせよ、そのほとんどが、論者の発見した新資料ではない、という点がある。
論者みずからが探索して発表した例(好太王碑に関する論証に用いた、酒匂大尉関係の資料、など)もありはする。だが、ほとんどは、すでに知られている、いわば“おなじみの”資料だ。この論者ひとりが“かくし持っていた”未発表の新資料など、一つもない。
 そしてその資料の扱いかたが、この論者に言わせれば「平々凡々の大道」、わたしの言い方でこれを言うなら、きわめてあたりまえの方法と言うべきものなのである。
 かくもおなじみの資料を、かくも平凡なあたりまえの方法で処理したら、かくも“なじみのない”古代史像が出てきた。――おどろくべき点の第三である。

 こういう、“おどろくべき点”を有する説があらわれたということは、何を意味するか。古代史の“真実の姿”が、ほんとうにあらわれはじめたのではないか。――そう思わせる事態になったことを意味するのである。いくら“ひかえめに”言ってもである。
 むろん、過ぎ去った日本の古代の全貌が、直接に物体としてわれわれの前にあらわれてきたわけではない。
 だが、われわれはすでに、たとえば、直接に目で見たり手でさわったりしなくとも、われわれの現に住むこの地球が自転し公転しているという“事実”を、コペルニクスやケプラーたちの論証によって、“知って”いる。かれらの論証が示したもの、それはつまるところ、“それまではどうしても説明しきれなかった惑星たちの動きをうまく説明でき、正確な暦をつくるのに役立つ一つの仮説”だったのではなく、「地球が動く」という文字どおり驚天動地の、だが、きれいに説明のつく“事実”なのであった。
 いま、われわれは、日本の古代史について、このコペルニクスたちの論証に相当するものを手に入れはじめたのではないか。――そう思わせる、これは事態なのである。
 “スリル”というものは、期待によっても、嫌悪によっても感じられうるであろう。ときには怒りをともなってさえも。わたしは、古田説の出現と、その成長ないし鮮明度の増大という眼前の事態に、スリリングなものを感じている。わたしの場合は、期待と、一種の畏怖とをまじえてなのであるが、ほかの人はどう感じているであろうか。それとも、何も感じていないのであろうか。
 古田武彦の論証は、読むに値する。――ここまでの文章で私の言いたかったのは、要するにこの一語だ。
 私が古田説の“論拠”をひとつも例示せずにここまで述べてきたのは、そのためだ。一つや二つの論拠をあげて解説するより、その著作の全部を――講演記録も他の研究者との論争もふくめて――直接読んでもらうほうがよい。むろん、古田説以外の説もあわせてである。そのためにも、この著者の文章は役にたつ。そこには、自分の以外にどんな説があるか、自説への反論が、だれによって、いつ、どこでなされたかというデータも書いてあるからである。

 その後、事態はさらにスリリングの度を増した。
 この論者の守備範囲が、文献だけでなく、考古学の領域にも――ただし、この人、直接モノを掘ったり、掘らせたりする立場にないから、「理論考古学」と自称しているが――ひろがった。そして両者の成果が、あい対応し、あい助けて、その説はいよいよ強固となり、――げに“防御こそ、最良の攻勢的手段”である――いまや多元的古代」(そこには、近畿天皇家の王権に先在し、もしくは並立する複数の権力が、それぞれ独自の文化・伝承をもちつつ存在し、また交替・興亡していた)の時空間のなかに個々の事象を位置させていく、という規模を示すにいたった。そしてなお、その論証の進展は、毎回の講演会ごとにあらたな論点と論証とを提示しつつ、とどまるところを知らない。これをスリリングと言わずして、何をスリリングと言うべきか。

 事態のスリリングなところは、右にとどまらない。
 これと並んで、もうひとつの事態が進行している。
 この“もうひとつの事態”には、二つの面がある。
 その一つの面とは、この従来説とまっこうから対立する性格の古田説に対して、従来説の立場に立つ人々の中から、おりおり、反論が出てくること、これである。
 私はそういう反論に出会うのが楽しみで、書物でであれ雑誌でであれ、そういうのを見つけると、大いにスリリングなものを感じる。
 これを感じるのは、古田説を、根本のところから吹き飛ばしてしまうような、“従来説の本来の根拠”――そんなものがあるとすれば、とうの昔からすでにあって、少なくとも日本古代史の専門的研究者なら、「これですよ、古田さん、あなた、これを存じなかったのですか。」と、すぐにでも出せるはずのものであるのだが――を、だれが、いつ、どこで出すかという、期待があったからであった。
 ところが私について言えば、待つこと十年を越えて、まだ、このもっとも有効な反論にはお目にかからない。そしてその、お目にかかれない理由というのが、この間に、わかってきた気がするのである。
 その理由というのは、ほかでもない。そんな、古田説に対して持ち出せるような“従来説の本来の根拠”など、実はどこにもなかったからだ。
 そして従来説の立場に立つ論者のおそらく多くが、そのことにちっとも気づいていないからだ(この点について、あとでもう一度言う)。
 この状態が、いつまでつづきうるか。――私にとっては、これが、かなりにスリリングな事態なのである。

 いま一つの面とは、いつのまにやら、古田武彦の本を読むだけでは満足せず、直接その話を聞きたいというグループが、日本全国のあちらこちらにできはじめ、その数が次第にふえ、それぞれのグループの成員の数も、ひどく多くはないけれども、全体の傾向としては増える傾向にあり、古田武彦の講演会を複数の地で毎年春秋に開催し、「市民の古代」という年刊誌や、「市民の古代研究」という小さな隔月刊誌などが刊行ないし配付されつづけ、これらのグループのなかからの力によって、古田武彦の講演集「古代の霧の中から」(徳間書店)や論文集「まぼろしの祝詞誕生」(新泉社)が刊行されるまでにいたったこと、これである。(中略)
 印象的なこと、それは第一に、これらのグループが、それぞれ“勝手に”できてしまったこと、そして第二に、おのおののグループの成員に、私の知るかぎりでは大学の日本史や考古学の先生はひとりもなく、みな門外漢かアマチュアかであるということである。
 いったい、こんなためしが、古今東西、あったのであろうか。
 同種のものはたしかにあったのである。国家が制度を立て、設立もしくは認可する学校というものができるようになる以前から、それがいつごろであったかはわからないが、とにかくかなり古い昔から、真実を求めて自主的に、ある一人の人物のまわりにつどい、その状態が恒常的に継続する集団、国家の制度とはべつだん関係はなく、またべつだん反国家的でもなく、また宗教の宗派や宗団でもない、事実上の学校。そういうものは人類社会の各地にいくらも存在した。古田武彦を囲むこれらの集団は、すなわちこの種の事実上の学校の一つである。――私にはそのように考えられる。
 これからあと、「市民の古代」を含めて、これらの“勝手にできた”グループが、何を生みだし、何を“たくみに”語りだしていくか。私には、これも、スリリングなものの一つと感じられるのである。

 と、ここまではひとごとのように述べてきたが、スリリングな事態は私の身の上にも進行しつつある。
 かくいう私は何者か。
 ひとりの、日本文学研究者である。別の面からいうと、高校、高専、大学と、国語や国文学の授業を三十五年勤めてきた教師である。
 古代史に関連のなくはない仕事をつづけてはいながら、古代史には立ち入る気も起こさず、ひとりの門外漢でありつづけていた私が、自分の学問の探究の過程で、思いもよらず、古田説を裏づけるとしか考えられない事象に出会いはじめ、次第にその事例が増していき、互いにつながりあって「多元的古代像」の彫りを深くしていく、という事態になっていった。(中略)
 気がついたら、スリリングな事態そのもののなかに、私は立っていた。
 ここまでの過程も私にとってはかなりにスリリングなものなのだが、それからあとも、事態は変わらず、いや、いっそうスリリングなものになってきた。
 調べれば調べるほど、古人自身が「多元的古代像」を知っていて、いくらかは間違えたり、いくらかは偽ろうとしたりしながら、大スジのところではあやまたず偽らず、まさしく「多元的古代」の存在を告げているということが、わかってきたからである。

 何も、私は、ワザと古田説に合わせようとしているのではない。
 あらかじめ何の答えをも持つことなく、まず対象を観察し、そこにあるものをそこにあるとし、そこにないものをそこにないとする。
 そこにそれがあること、また、そこにそれがないことの意味は、そのあとで――その事象がウソ・マチガイの産物であるか否か、という問題も含めて――考える。

 この、まことに変哲もない、学問としてはこれ以外に採り得ない手順で進んで行くと、帰結は古人の、間違おうにも間違い得ず、偽ろうにも偽り得なかった、したがって真実の証言、というものに到達してしまう。その真実の証言こそ「多元的古代像」なのである。
 その例はいくらもあって、いくつかは拙著「日本文学の構図―和歌と海と宮殿と―」(桜楓社)やその他の論文にも述べ、「シンポジウム 邪馬壹国から九州王朝へ」(新泉社)にも述べた。
 そのうちの三つを言おう。

  1. 「倭国」という「山島」(阿蘇山がある)の国から「日本国」という西・南は大海、東・北は大山で切れている国への交替が唐代に入ってのちに起こり、後者の都(平城京、また平安京)はその「山島」よりも東に位置することを、盛唐から晩唐にかけての詩人たちが、日本人に贈った詩によって、いわば日本人を共同証言者として、証言している。
  2. 「日本書紀」には、わが王朝は、古き九州の王の子孫の一人が大和で初代王となってはじまったと明記されている。これは大和の天皇家の王権が、元来九州系の一分王権であったことの、朝廷自身による証言でなくて何であろう。
  3. また「日本書紀」には、わが朝の仏法は敏達天皇のとき播磨から伝わったのが初めだと明記されている。これはその時点(六世紀後半期)においてこの大和の王権が、いまだ播磨をも領有せず別国(あるいは隣国)とする一地域権力であったことの、正直な告白でなくて何か。

 通念に反する右の三点を、根本からくつがえす有効な手段は、一つしかない。“従来の通念(近畿ヤマトの天皇家の王権は、七世紀よりも前から、日本列島唯一の中心的権力であったとする)”なるものを“前提”とされる人々なら、必ずその“通念の本来の根拠”なるものを提示されたい。これが、有効な唯一の手段である。それなしに、ただ「定説」だの「通念」だのを“前提”とし、それに合うように史料を解釈したりいじくったりして、あれこれと部分的な反論のみを試みたり、あるいはまったく古田や中小路らの提示するところを無視なさるなら、それは学問の何たるかにお気づきでないのだ、と言わざるをえまい。
 私としては、ただ、あたりまえの方法で調べていったら、出てきたものが古田説に合うから、合うといっているだけで、より確実な“本来の根拠”なるものが出てきて自説がフッ飛べば、それで一つかしこくなれるのだから、いっこうかまわないのである。(後略)