尼港(ニコライエフスク)事件と多門二郎将軍

 

   ニコライエフスク(尼港)の救援

   第1次世界大戦の末期、ロシアに大革命が起こり、大正7年(1918年)3月、帝政を廃し、

   11月、社会主義の共和国が建設されることとなった。

   日本は、米英仏と連合してシベリアに出兵し、イルクーツク付近以東の要点を占領し、

   治安維持に任じた。

   大正9年(1920年)5月、尼港事件が起こった。露のパルチザン軍が、尼港の日本軍守備隊、

   居留民を虐殺したのである。このとき、多門大佐は、多門支隊の名のもとに救援隊として

   活躍した。

   尼港は、間宮海峡(タタール海峡)をはさんで、樺太(サハリン)と向い合った大陸の、

   黒龍江(アムール川)の河口にある最果ての小市街である。

   人口は約1万5千で、この方面における漁業の中心地であり、サハリン州庁、領事館

   などもあり、政治の中心地として、夏季は相当に活気を呈していた。しかし河が凍り

   雪が降り始めると、外部との交通が遮断され、孤島のような状態となるのである。

   ここに居留する日本人は約440名、ロシア人のほか、中国人、朝鮮人、英国人など

   約4500名が住んでいた。

   大正7年9月、海軍陸戦隊が上陸して占領したのち、第12師団の一部がこれと交代し、

   ついで第14師団の一部(石川正雅少佐の指揮する歩兵第二連隊第三大隊の主力、

   兵力は188名)が守備にあたっていた。

   日本海軍は、石川光儀少佐の指揮する臨時海軍無線隊を配置し、また夏季は

   水雷戦隊が付近沿岸を監視していた。

   日本軍に協力する反過激派軍約500名、反革命政府の訓令により編成された自治会が

   あったが、素質が悪く、過激派のシンパと思われるものも含まれていた。

   8年(大正)夏、ウラジオストク付近から逃れてきたパルチザンと過激派十数名が尼港に

   潜入して工作を開始し、勢力を急速に拡大してきた。ハバロフスクと尼港間の電線が

   切断され、討伐隊が損害を受けるようになった。

   情勢は漸次切迫して、いつ過激派が来襲するか分らぬ有様であり、尼港居住民の人心も

   険悪となってきた。

   大正9年正月、守備隊は戦備を厳にし、数回の討伐を実施した。また市内で過激派に

   策応する労働者の指導者十数名を検挙するとともに、日本人在郷軍人、反過激派の

   ロシア人の自衛団を組織した。

   1月24日、過激派の使者が、和議を申し込んできたが、守備隊長は一蹴した。

   2月5日、過激派軍は、近郊にあるチヌイラフ旧要塞を奇襲占領し、海軍無線所を

   破壊した。このため守備隊と外部との通信連絡は全く遮断された。

   これより先、石田虎松領事の報告を受けた政府は、2月13日になり、ようやく

   尼港救援隊派遣の件を決定した。

   当時、旭川第27連隊付であった多門中佐(間もなく大佐に昇進)に、2月21日、

   尼港派遣隊の編成、派遣が命ぜられた。

   この出動は、まず地理的調査を慎重細密に行ない、国際的立場を考え、できるだけ

   円満に解決し、民衆の感情の融和を考慮せねばならなかった。

   尼港の情報を極力収集したが、状況はほとんど不明であった。

   派遣隊は3月3日乗船、流氷の多い危険な間宮海峡を極力北上したのち、陸路

   約1000キロを踏破する計画であった。ところが6日午後「派遣隊の出動中止、各員は

   所属部隊兵営で待命」との指示を受けたので、原隊に帰着した。

   多門は待命中、情報の収集と行動の研究を怠らなかった。

   一方、尼港では情勢が激変していた。

   2月24日、過激派軍から休戦を提議してきたので、守備隊長がこれを容れて28日

   交渉がまとまった。ところが尼港に入った過激派は、協約を全く無視して、

   反過激派を投獄、虐殺し、労働者を集めて軍隊を編成し、勢力を拡大して、

   日本軍撃滅の準備を進めた。

   3月11日、過激派は、守備隊の武装解除を要求してきた。よって守備隊長は、

   機先を制して過激派の企図を粉砕する決心をなし、12日午前2時、過激派の主要拠点を

   不意急襲した。しかし敵兵力ははるかに優勢であり、激烈な市街戦となって戦況は

   逐次不利となり、大隊長以下大部が戦死、石田領事一家は全員自決、市内の

   日本居住民は、男はもちろん、老幼婦女のほとんどが

   虐殺された

   兵営では、傷病者および非戦闘員47名を含めて約100名が防御配備につき、

   過激派軍の猛攻を阻止し、交戦四昼夜、兵営を死守した。

   しかるに守備隊が過激派軍の提議を容れて、戦闘行動を停止すると、過激派軍は、

   ただちに守備隊の武装を解除し、兵営に居たもの全員が、ロシア監獄に監禁された。

   4月13日、多門大佐は尼港への出動命令を受けた。派遣隊は、16日、小樽港を

   出発、北樺太西岸のアレクサンドロフスクに上陸、前進の機を待った。

   5月7日、津野一輔少将の指揮する「北部沿海州派遣隊」が編成され、

   尼港派遣隊は「多門支隊」と改称した。

   5月12日、多門支隊は、アレクサンドロフスクを出帆し、樺太対岸のデカストウリに

   上陸、峻難な悪路を踏破して北上した。同時に、ハバロフスクから第14師団の

   国分支隊が黒龍江を下航し、両支隊は、25日、尼港南方約130キロのキジ部落で

   合流、僅少の過激派軍を撃破しつつ、6月3日、尼港に進入した。

   津野少将の派遣隊も、多門支隊の尼港占領を知り、海路北上し、6月4日、

   同地に上陸した。

   これより先、尼港の過激派は、日本軍の来襲にたいする準備を行なっていたが、

   ついに尼港放棄を決定した。そして5月25日から、

   監禁していた日本人と、残っていた反過激派の人々を惨殺し

   市内の建物全部を焼き払って、西方のアムグン河谷の森林内に逃走した。

   このとき、尼港の住人の大部を強制的に避難させたので、日本軍が尼港を占領したとき、

   全市は満目荒涼とした焼野原と化し、惨憺たる光景を呈していた。

   日本軍は、せっかく救援に向かったが、ただの一人も救出できず、ただ同地に残留した

   キリスト教徒50名と、恨みを呑んで虐殺された屍体を見出すのみであった。

   尼港に入った派遣隊は、まず同地の警備、遺棄屍体の供養、兵器弾薬の押収、

   帰来住民の処理をなすとともに、破壊された尼港付近の諸調査、整理等の対策を講じた。

   7月末、命により派遣隊はアレクサンドロフスクに退却、新たにサガレン州派遣隊が

   編成され、司令官に児島惣次郎中将が任命され、参謀長は津野少将、

   多門大佐は高級参謀となった。

   尼港事件および救出作戦は外地における居留民保護が、国際的に、地理的に、

   作戦的に最も困難なものであることを示すもので、多くの教訓が得られた。

 

      森松俊夫著「軍人たちの昭和史」(図書出版社)P50〜P53より 

      著者は元防衛庁戦史部の戦史編纂官・陸士53期・元陸将補

 

   補足

   過激派軍は、赤軍系パルチザンと韓人教師朴エルリアが組織した

   「サハリン部隊」とが連合したものであった。

   (佐々木春隆著「韓国独立運動の研究」国書刊行会P461)

 

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