私も「お好み焼き大好き人間」の1人です。あまりにも身近で、何気なく口にしてしまい、よく考えても見なかったのですが、そもそも、「お好み焼き」という名前は、どういうわけで付けられたのでしょうか。

 ちょっとイキで、ゴロや語感も含め、全体的になじみやすく、「広島の庶民の味」を言い表すのに、ぴったり。本当に名前だけからも、食欲がそそられます。全くうまく名付けたものだ、と感心します。由来や当初の歴史など背景も含め、調べて見ていただけないでしょうか。お願いいたします。  

呉市中央1丁目の主婦Mさん

 お好み焼きの命名の由来は―といえば、当然そのルーツに係わっての話になります。このため、お好み焼きが広島の人たちに初めて注目された―と言われる戦後の当初、その担い手となり、「元祖」を自認している広島市中区内の2人を中心に聞いてみました。以下にご紹介いたします。答えの結論としては、「あまり定かではない」ということになります。  

広島市中区流川町の「善さん」初代経営者、中村善二郎さん(83歳)は、原爆被爆から復興に立ち上がった市民に、一番最初のころ、お好み焼きを提供した1人です。  

場所は、今の中区中央通りの歩道。この通りが戦災復興事業で完成(1949年)した直後の50年ごろのこと。自分の家が中央通り用地内にあり、立ち退いたうえでの開業でした。一帯には、いろんな物を売る50ばかりの屋台が並んだ中、お好み焼きの同業者はあと、1人か2人。「わしがやらなければ、広島の今のお好み焼きはなかった」と話します。  

屋台の中で、練炭を使い、やはり、鉄板の上で焼いていたそうです。食糧難の中、栄養豊富で手軽な食事として当時から、市民の人気を呼びました。しかし、名称については、「もう、そのころから『お好み焼き』」と言っていた」そうで、「由来は、今では分からないのでは」としています。  

新天地地区のもう1人のお好み焼き屋さんの古株に、中区八丁堀の「みっちゃん」会長、井畝満夫さん(70歳)がいらっしゃいます。市内で幅広くチェーン店を展開。いまだに現役の最古参です。  

戦後、父親(故井三男さん)とともに、中国東北部から引き揚げました。 平和大通りの道路工事で働いた後、中央通りで上記の中村さんの近くに、父親と屋台の店を出しました。時期は中村さんとほとんど同時とのこと。名称については、「初めのころはちゃんとした呼び名はなかった、と思う。何でも好みの物を入れるが、『好み焼き』ではいけないので『お』を付けたではないでしょうか」と当時を振り返りました。  

広島県大柿町の町営真道住宅に住む樫野サガミさん(88歳)は、広島市以外で当初のお好み焼きを、子供相手の駄菓子の延長として焼いていた1人。38歳当時の52年ごろ、出身地である近くの江田島町で、「家主のおばあさんが少し前までやっていたので、私も出来る」と開店したということです。    

七輪火鉢の中に練炭をおこし、縦横30センチばかりの四角い鉄板で焼きました。最初のころは、うどんやそばはなく、キャベツ、天カスを入れていたそうです。樫野さんも「自分以前に、家主のおばあさんが焼く当時から、やはり『お好み』と呼んでいた―と話しています。  

呼称については、焼き方は違うものの同じお好み焼きの発祥地と言われる大阪で、すでに付いていた―との説もあります。この点について、大阪府大阪狭山市、帝塚山学院大学の大谷晃一元学長は、その著「続大阪学」(新潮社文庫)の中で「自由にお好みの具を選ぶことが出来る」から「いつか、お好み焼きという名になった」と述べていて、ここでも今一つ明確にされていません。

(青)

写真説明
(上)「私の屋台はここにあった」と話す中村さん(広島市中区の中央通り) =左と、「広島では最古の現役です」と話し、お好み焼きを焼く井畝さん(中区八丁堀)
(下)新天地地区でにぎわったお好み屋台(1960年)