インタビュー・三多摩の部落に生きる
国立市行政の抜本的対策を 宮瀧順子さん・国立支部

三多摩地区には国立支部と八王子支部がある。国立の部落に生まれ育った宮瀧さんに差別を跳ね返しながら部落に生きる思いを語ってもらった。そして、部落があっても同和行政を全庁的におこなわない国立行政への思いを聞いた。

部落を知って

一九七四年の国立市との行政闘争のとき、父が支部長だったこともあって、都連からも、私の家によく来ていました。そのときに、どうして、きているのかを親に聞いて、「ここは部落で、自分が部落民だ」ということを知りました。そのころ、一九七五・六年のころでしたか、第二十回全青にも参加しました。

嘆願書を出して移転

私の村は、昔もっと多摩川寄りだったそうです。水害が多かったので、嘆願書を出して今の場所に移転したと聞いています。私たちの祖先はこんなふうに努カをしてきたんです。今、公会堂に白山神社がありますが、その移転のときに、白山さまも移転しました。いまでも、旧甲州街道沿いに小さなほこらがあります。昔白山神社があったのはここじゃないかといわれています。白山さまは虫歯の神様で歯痛に悩む近郊の農家がおまいりに来ました。

隠すということ

自分が部落民であることを隠して、外に出て結婚してる場合や、お互いに隠して結婚することもあります。娘が村にいて、つれあいがうちの村に入ってくるという場合もありますが、その場合でも、やっぱり、隠していることもあります。「部落」とか「同和」とか、その辺のことは言わないでほしいという人は多いですね。では何故、隠しているかといえば、まず、部落差別があるからです。親に隠すように教えられてきたということもあります。私の親も「部落の人と結婚しろ」と言っていましたから。「気兼ねがなくっていいから」って。その気持も、よくわかります。…でも、…ね。それから、普通に暮らしているかぎりは、相手が差別問題にうとい場合、話題にもならないし、言う機会もありません。外に出た場合はほとんど「ねたまんま」です。こっちに、部落問題は余り触れたくないという気持と、相手の方が差別に理解があったとしても、部落問題に無関心であったり。そういうふうにさせられていますね。これは、部落問題が解決されたということでは決してありません。差別がなくなったということでもありません。

学校は…

こどもは部落だからとかじゃなくて、わりと行き来して遊んでいます。私の子供の頃は部落外のこどもがこっちのほうに遊びにくるなんていうことはまずありませんでした。多分、親が「行くな」と言っているのか、今は、関係なく来ています。でも、甲州街道の交通量が多くて危ないから、「気を付けていってらっしゃい」じゃなくて、「行くな」と教えている親もいまだにいます。

しかし少しづつ話ができる状況もできてきました。例えば、小学校六年の私の子と同じ親たちは「日の丸・君が代反対」と言っても、反応があります。考え方が前向きですからいろんな話ができます。そういう親は、元々の地域の人ではなく、線路の向こうにできた団地のお母さんたちとか、外から流入してきた人たちですね。地域に昔からいる人のほうが、こもっちゃってて、保守的です。

昔は私たちの村は、一小に行っていました。六校あるなかで、一小は程度の低い学校だといわれていました。今度、七小ができて、私たちのこどもが、そっちに行くことになると、今度は、「一小はよくなったわよね」となるわけです。そして、七小が程度の低い学校といわれるようになりました。そういう部落差別を直感させることが、今でも、あります。親の無責任な言葉がこどもに影響することが大きいと考えると、部落を校区に持つ学校は、きちっと、解放教育を位置づけなければならないと思います。

たとえば、「橋のない川」見にいくんだよとか、狭山の集会へいくんだよという話はできますが、逆に、先生の方から、そういう話があるかというとそうではありません。本当は推進体制をもってしていかなければならない、小学校なんです。私たちの村のこどもがかよっているんですから。解放教育を保障しなければならないはずなのです。六年間いて、一回のうちで生活する時間が一番長いわけでしょう。影響が大きいわけだし、やっぱり、さけては通れないことだと思います。

露骨な差別も

「狭山事件」だっけ。映画ができたでしょう。あの時に、立川の市民会館で上映会をしたんです。駅で情宣をやって、ビラをくばりました。ビラに連絡先として私の電話番号と住所を書いておいたら、「おまえのところはヨツか」という差別電話がありました。差別の出方、現われ方って言うのが、私の父やお母さんの頃と比べると、随分違ってきているとは思いますが、部落差別が実際にはなくなっていません。

部落差別を直感することも

母が勤めてきた東京多摩青果市場での解雇問題もそうでした。パートで働いていて、「或る日、突然やめてくれ」といわれたんです。そのときに、辞めさせられたのはパートのなかでは、お母さんだけでした。今から、十六年くらい前です。

一緒に全青に行った人で、就職するとき、一般企業は全部面接で落とされたと言っていました。そういうことを話し込んでいくと、部落差別を直感したり、実際に部落差別として確認をしなければならないことが、たくさんあると思います。A(私の部落の名前)というと、ああ、「あそこ…」という、言われ方がされます。私は高校のときに、郵便局で年末にアルバイトをしたことがあります。その時も、郵便局の職員が言いました。「どこに、住んでいるの?」「Aです」「あの辺は、B(私の旧姓)部落っていったんだよな」といわれました。そのときは、部落問題がよくわからなかったから、単純にB姓が多いからそう思いましたが、いくら同姓が多いからと言って、部落外の村を関という姓が多いからといって、関部落とは言わないし、佐伯部落とは言われていません。それは、一体、なにかなあと言えば、他とは違うように見てるっていうことだと思います。だから、自分の住んでるところを言うのも、「いや」っていうか、そういう気持ちを持っていたこともありました。いまは、胸はっていいますが。村中でも、部落差別をなくすために普通に部落差別の話しが出来るようにしていきたいですね。

行政闘争のはじまリ

一九七四年の狭山第二審のとき、全国行進隊が来ました。その日は大雨で、雨水が庭に入り込んで庭が湖みたいになりました。それで、以前から国立支部が国立市に要求書を出していたことについて、行進隊とともに交渉にいきました。ところが、共産党が運日のように差別ビラで書きたてたり集会をもったりで、結局、要求書は出しただけで実現されませんでした。

要求書では、十数項目あったと思うんだけど、同和対策事業として、下排水問題を出したわけ。要するに、庭よりも道の方が高くなっていて、当時は庭に穴掘ったりして排水をしていました。ところが、共産党の反対で、下排水要求闘争はうまくいかず、一九七八年に国立市と交渉を持って結局、一般対策で下水を流す側溝を道に付けました。ここまで運動で勝ち取ったけれども、排水という面では、十分ではありませんでした。特に、梅雨や台風前後だと、やはり浸水します。それで、一九九二年九月から、運動とは関係の無いところで、ようやく一般対策で、下排水の管二本を道路の下に埋める「下排水工事」をやっているというのが現状です。父たちが要求を国立市役所に出してから、十八年もたってのことです。今、下排水工事をやるということは、つまり、十八年間、浸水の問題でずうっと工事の必要性があったのに、国立市は放置し続けてきたということです。十八年間、部落は後回しにされつづけてきたということです。部落問題の解決は国民的課題、行政の責務とされてきたことを放置しつづけた責任は大きく、今こそ、同和対策事業を市政の重要課題として位置付けるべきだと思います。

部落問題を市政に位置付けなければ

七十年代に国立支部が要請書で提起した課題は、ほとんど行政の施策として実行されていません。部落差別をなくすために、行政のなすべき課題は、まだ、まだたくさんあると思います。

トイレも水洗化したり、土地を売ったり、今まであった土地にもう一棟たてたりして、家は込み合っているけれども、住居も新しくなってきました。図書館もまわりにいくつかでき、保育所も公立が四園、私立が六園で、国立市には全部で十園あります。少しづつ、昔に比べれば町の環境は、変わってきています。でも、それは、部落解放行政を市で位置づけているからではなく、部落問題の解決のための施策は何一つないというのが実情です。だから、環境面ではいくらか変わってきてはいますが、国立市の部落問題に対する姿勢が変わらないかぎり、まだ、まだ、課題はあると思います。

オールロマンスと同じ

京都のオールロマンス闘争で、京都市の行政との交渉でもあったように、市内の下排水、消火栓、…、ひとつひとつ印を付けていくと、部落には公共の施策は十分におこなわれてこなかったことが明らかになりました。つまり、部落に対しては公平な行政施策がおこなわれていなかったということです。当時、これを「差別行政」と言ったわけですが、国立の部落についてもそれと同じことがいえます。村のなかには防災センターも、ポストや公衆電語もありません。病院や診察所もない公園もありません。ついこの間、崖の下のたんぼの方に図書館の分室ができましたが、村には図書館もありません。国立市は「文教都市」といっていますが、一橋大学があるあの駅の近郊の一角だけです。せめて、近辺に、生活圏のなかにあってほしと思います。一歩道を越えた隣まちにはあるのです。つまり、部落に対しては、計画的な町づくりがされないまま「国立市が放置してきた」といういうことなんです。

計画的な町づくりと言えば、一九六〇年代に高速道路のインター入口が出来て、部落と一般地区の境にインターを置きました。土地が安かったのか。直線を引けば、当然、部落外の下谷保のなかを通すということになるのに、わざわざ、道路を曲げて、部落と一般地区との間に道路を通しています。インター入口が出来たために、甲州街道を府中にむかって走ったとき、村に入るために、右折できなくなり、警察は右折すると罰金だというので、タクシーもきたがらないのです。

インター入口が出来たために、交通量が増えました。それで、交通事故が増えたし、信号無視が多くて大変危険な状態です。六十年代半ばに、インター側の歩道橋が出来ました。でも、実際、子供の通学に必要な甲州街道側は用地取得が出来ず八一年まで放置されてきたのです。歩道橋が出来る前は、子供の為に一時期、朝、親が立ったこともありました。

火事になったら…場当たリ的な施策が災害を生む

村の中の道幅が狭いのは昔から変わっていません。消防自動車は大きいので、火事のときの不安は物凄くあります。村の中には、消火栓もなく、備え付けの消火器くらいしかありません。十年くらい前に、そこのお店の前の家でボヤになったことがありました。消防車も、ここから半分まではいけるけど、通り抜けることができません。消防自動車が入ると、今度は道が狭くて人の逃げ道がなくなってしまいます。

そのボヤは、ちょうど日曜日で人手があったから、荷物を持ちだしたり、うちの父がプロパンをひねってはずしてあげたり。火は、その辺にある消火器を持ってきて消しました。そのときに、一応消防車はきたんですが、来るだけで、ボヤを出した家に始末書を書かせるだけだったんです。とてもひどいと思います。本当は、消防車も入れないような道路を放置してきた行政自体が始末書を書くべきなんですよ。そのために、公平に消火のサービスを受けることができないんですから。たまたま、日曜日で人がいるときでしたから、よかったのですが。そうでなかったらと考えると、ゾーッとします。平日の昼間は手薄ですから。まだ、ぼや程度ですんでいるからいいけれど、それこそ、一歩まちがて(ママ)大火事になったら、これだけ密集しているのですから被害は甚大です。いくらわが市にはりっぱな消防車、消防署がありますと言っても、実際、道が狭くて入れなければ、それは、行政としては公平じゃないんです。

場当たり的で、ひどいと思うのは、今回、下排水の工事をやるので、わざわざ国立市は村にある竹薮を潰して、仮の道路をつくったのです。それは、村中は工事の車が入れる道がないからなのです。つまり、国立市は消防車も入れない道であることを、知っているのです。確かに、下排水は必要。何度も要請書を出したにもかかわらず二十年にも渡って無視され続けてきたんですから。でも、余りにも、場当たり的に過ぎますね。私たちは火事で死んでもかまわないというのでしょうか。そういうことからも、計画的な町づくりが必要だし、環境整備は多くの課題を持っています。そして、国立市が部落問題を解決する姿勢になるまで、ねばり強く運動をしていかなければならないと思っています。


(出典)部落解放同盟東京都連合会『部落に生きる 東京のあいつぐ差別事件』1996年


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