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守礼の光
 沖縄は戦後、1972年に日本へ返還されるまで、アメリカによって統治されていました。当時の沖縄には、アメリカ側による「米国琉球列島高等弁務官府」「米国民政府」と、その下に沖縄住民による「琉球政府」などの政府機関がありましたが、高等弁務官府が発行していたプロパガンダ誌が『守礼の光』と『今日の琉球』です。
 60年代はベトナム戦争の激化と日本への復帰運動の高まりを背景に、米軍の基地拠点として沖縄を無期限に統治したいというアメリカの意図を反映して、これらのプロパガンダ誌ではアメリカの宣伝のほか、「沖縄は日本の一部ではなく、沖縄住民は日本人とは別民族である」ことをアピールするために、あえて沖縄を「琉球」、沖縄住民を「琉球人」と表記し、琉球文化の発揚などにも力を入れていました。 
 なんとなくアヤシイ日本語や、翻訳調の言いまわしが目立つことからも、原文は英語で書かれていたことがうかがえます。

年頭のごあいさつ(1963年1月号)  

 「沖縄自治神話論」をブチ上げたり、地元政財界の引き締めや本土との「離日政策」、アメリカ資本進出の積極認可などの強権統治で、「キャラウェイ旋風」と呼ばれる衝撃を巻き起こしたキャラウェイ高等弁務官のご挨拶です。

伸びゆく琉球   

 アメリカの統治のもとで「琉球史上空前」の発展を遂げた沖縄を、数々の数字を挙げて連呼アピール。なんだか往年の北京放送みたいな口調です。「物覚えがよく、友好協力的な琉球人」の労働者たちは、「若々しく、張りのある顔つき」になりましたとさ。

友情の水路(1963年1月号)  

 当時、沖縄に駐屯していたアメリカ軍の部隊は、それぞれ各市町村と「姉妹関係」を結んでいて、「楽しみも悲しみも分け合って、親類どうしのような親密」な仲だったそうな。でも、島の入口に掲げられていた「兄弟姉妹の碑」は今、どうなってるんでしょうねぇ。

活動的な沖縄の米婦人(1963年1月号)  

 アメリカ軍人のご婦人方も負けじと「琉米友好」にはご熱心。琉球人の家庭を見たいので、「みずぼらしい小屋」にぜひ招待してほしいと願っているそうな。

琉球政府創立第十二周年記念日を迎えて(1964年4月号)  

 政府創立記念日を祝うめでたい文章のはずなのに、やたらと毒気づいていて、「計画をかたっぱしから失敗させようとする人々」や「批判家ども」、つまり日本への復帰運動をしていた人たちへの憎悪がムキだしです。「創立記念日に政府がたたえられるのは当然のことです」「祝電が山と積まれ、関係者一同が少しは鼻を高くするのも無理はない」と強調してるのが、かえって悲しいね。

米陸軍特殊部隊が粟国・渡名喜両島で奉仕活動(1968年2月号)  

 アメリカ軍は医者のいない離島に赴いて医療奉仕も行っています。実にほのぼのしたエピソードのようですが、これってようはベトコン掃討作戦の予行演習じゃ・・・・。「米陸軍特殊部隊」というのがなんかひっかかりますねぇ。そういや同じ頃、中国には人民の為に奉仕するがウリの「裸足の医者」というのがいたけど、さすがアメリカ軍は物量作戦、使った薬品の量もスゴイ!

沖縄返還特別号(1972年5月号)

 沖縄の日本返還に伴う『守礼の光』廃刊号。それまでの「琉球」に替わって「沖縄」、「琉球人」に替わって「沖縄の皆様」「沖縄の皆さん」「沖縄の人々」という表記が使われるようになりました。さらに日本を「大国日本」とヨイショ(?)してます。
 


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