満を持す(まんをじす)

 「満」という字には、弓(ゆみ)をいっぱいに引きしぼるという意味があります。そこで「満を持す」というのは、弓を十分に引きしぼって矢を放(はな)とうと構(かま)えている姿(すがた)を表(あらわ)します。

 春秋時代(しゅんじゅうじだい)の末期(まっき)に越王(えつおう)勾踐(こうせん)は名臣(めいしん)苑蠡(はんれい)の諌(いさ)めに耳をかさずに呉(ご)を討とうとしたところ、逆に呉王夫差(ふさ)の軍勢(ぐんぜい)に敗(やぶ)れてしまいました。そして、勾踐は会稽山(かいけいざん)に逃げ込みましたが周囲を呉軍に囲まれてしまいました。もはや降伏(こうふく)するか玉砕(ぎょくさい)するかのどちらかを選択(せんたく)しなければならない状況(じょうきょう)になり、苑蠡の諌めを聞かなかったことを悔(く)やみ、どうすればよいか苑蠡に聞きました。

 苑蠡は言いました。

「満を持す者には、天の助けがあります。今はただ、礼を厚くして和を求めて、呉王にお使え下さい。」

 勾踐はこの言葉に従(したが)って呉王に降(くだ)り、二十二年ものあいだ国力の回復(かいふく)に努(つと)めて、ついに呉を滅(ほろ)ぼすことができました。

 また、漢(かん)の時代、文帝(ぶんてい)から武帝(ぶてい)の代にかけて李広(りこう)という名将(めいしょう)がいました。李広は弓矢の名人で、ある日虎(とら)と間違えて岩に向けて矢を放ったところ、見事に矢が岩に刺(さ)さっていたという話があります。また、行軍(こうぐん)中に泉を見つければ部下が全員飲み終えるまで自分は飲まず、食料(しょくりょう)も部下全員に行き渡るまで食べないという人物で、多くの部下にもとても慕(した)われていました。

 当時、漢の敵(てき)に北方(ほっぽう)の匈奴(きょうど)がありました。李広は4千の騎兵(きへい)を率(ひき)いて匈奴討伐(とうばつ)に向かいましたが、匈奴4万の騎兵に囲まれてしまいました。李広は円陣(えんじん)をつくり、攻撃(こうげき)の態勢(たいせい)をとりました。匈奴軍の攻撃は激(はげ)しく、李広の軍は半分の兵を失い、矢もほとんど無くなってしまいました。

 そこで李広は兵たちに命じ、「満を持して」矢を放たぬように構えさせました。李広は弩(ど−いしゆみ)で匈奴の将を討(う)ち、さらに数人を射(い)ました。すると匈奴は次第(しだい)に包囲(ほうい)を解(と)きはじめました。部下の兵たちは恐怖(きょうふ)にかられていたのですが、李広は平然(へいぜん)と陣(じん)を立て直しました。

 

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