西村さんの資料です
資料として、私が金曜日編集部に送った、当然ながら握りつぶされた、抗議の手紙
をお送りします。あと私の手元には、編集部からの私信もありますが、これはあま
りにも恥ずかしいものですから今回は送りません。

西村有史 拝  さらば「週刊金曜日」  「週刊金曜日」編集部御中  のっけから失礼ですが、私は今年の末で期限の切れる「週刊金曜日」の購読契約 を継続する意志がありません。 1年前、新聞で「週刊金曜日」創刊の予告広告が出されたとき、熱心に読み、期待 をしました。創刊後も私は「参加する読者」として雑誌に積極的に参加するつもり でした。それから約1年後「購読継続」の話が編集後記に載るようになって、私の 「週刊金曜日」への熱意は完全に消失してしまいました。  私はなにも「誰それが書いた、特定の記事・コラムが気に入らない」から購読を 中止するといっているわけではありません。この雑誌を創刊するにあたって、呼び かけ人がした約束が反故にされた、少なくとも私にはそう映っているから、個人的 に購読者としてこの雑誌を支えるべきではないと判断したのです。  私は創刊当時掲げられていた「論争する雑誌になりたい」という言葉を、まさに 言葉通り受けとめました。かなり広くとってある「投稿欄」からもその意気込みは 伝わってきました。それが今ではどうでしょうか。 「投稿欄」はどんどんやせ細り、ついには字数の更なる制限までも持ち出されるよ うに鳴りました。よその新聞や雑誌の字数制限と比較していますが、こんなもの言 い訳にしかなりません。少なくとも私は、自分が今年はじめに投書の形で警告した ことが立証されたとしか考えられません。  「応募規定」に異議あり。<論争をする雑誌>を標榜しながら、字数制限を設け るとはどういう神経か。一般読者には原稿用紙3枚分のスぺ−スしか用意せず、そ の字数でものをいえとは尊大ではないか。また「趣旨を変えない範囲で手を入れる」 というのも、ていのいい検閲だ。私は、何度もその手で、朝日新聞その他に原稿を 改悪されたことがある(1)。 原稿の長さを決めるものは、その内容以外であるはずがない。又校正をした原稿は 著者の確認をとるのが礼儀ではないか。まさか依頼原稿までも著者に勝手に改変し ているわけではあるまい。「応募規定」に、マスコミに暮らす人間のおごりと差別 意識を感じるのは私だけだろうか。 私にとって「論争する雑誌」とは、まず自らに対する批判に紙面を割く雑誌のこと です。編集委員、編集方針に対する忌憚のない批判が掲載されない限り、「読者の 意見を聞きます」などというのは絵空事だと考えます。その点で「週刊金曜日」の 一年は失望の一言です(2)。  確かに「英語帝国主義」をめぐる筑紫哲也氏と反対論者の論争はありました。し かしそれ以外はどうですか。  筒井康隆の「断筆宣言」をめぐる特集の中で、なぜ編集委員=井上ひさし氏の恥 知らずの筒井擁護論が批判の対象に上がらなかったのですか。また最近の井上氏の 筒井問題に対する死の沈黙はなにを意味しているのですか。少なくとも彼は、筒井 康隆の最近の「堂々たる」差別賛美、差別固定化容認発言に対する意見を「週刊金 曜日」誌上で展開する義務があるはずです。 別の編集委員である本多氏の発言についても、なぜ彼の耳に心地よい言葉だけが掲 載されるのですか。あれほど評価のわかれる人物の―しかも私がたびたび批判した ように不規則発言の多い―意見について、言及されるときは賛美一色というのでは、 共産党大会を笑えますか。 あなた方が、名もない一介の市民の発言なぞ無視すればすむと、高をくくっている とすれば、それこそ滑稽です。かつて「新潮45」という雑誌のHIVについての 記事をめぐって孤独な闘いをしたとき、私がその雑誌に感じた不誠実さと同質のも のを感じます。(彼らはこう言いました。雑誌は公共のものではない。どんな人間 にどんな内容の記事を書いてもらうかは、編集部が決めることだ。反論を掲載する 義務は存在しない、と。)  批判は無視すればいい。無視すれば―少なくとも公式には―マスコミには批判は 存在しないから。本当にそれでいいのですか。  言論はブランドでするものではない。自らの意見を公にする必要のあるときは、 どの様な手段をとっても、公表してきました。問題は、意見をふまえて一体なにを するかです。  あなた方が「唯一の硬派雑誌」などと自画自賛して、己をあたかも上等の人間で あるかのように勘違いしているとすれば、以前私が予言したように「朝日ジャ―ナ ルの二の舞」になるだけだからです。夜郎自大という差別語をご存じでしょう。あ とは実践で決着を付けるだけです。 ここまで書いたところで、第40号を受け取りました。編集後記を読みました。怒 り心頭に発するとはこのことです。あなた方は一体どんな神経をした集団なのです か。  「中にはにやにやしながら『ホモだったんでしょ』という者もいるのですが」こ んな悪意と偏見に満ちた性差別主義者の言葉が、フリ―パスで通るような連中が作 る雑誌が、「唯一の硬派雑誌」なら、そんなもの「女性セブン」も「女性自身」も、 かわりならいくらでもあるから、明日にでもやめてしまえと言いたい。  HIV問題を少しでも知る者ならば、アメリカのゲイの団体が、厳しい同性愛差 別の中で、倒れていくHIVに感染した友人たちを救おうとして、文字どおり血を 流し、涙を流し、汗を流して、HIV感染者の人権を守ってきたのかを知っていま す。ところがあなた達の頭には、ステレオタイプ化され、戯画化されたいわゆる「 ホモ」のイメ−ジしかありません(3)。差別者としての自らの偏見を問おうとも していません。恥を知りなさい。  絶対に許せません。誠実な反省がない限り、全国の友人を募り、たとえ最後の一 人になってもあなた方の雑誌と闘います。 註 1 こう書いた揚句、唯一掲載された私の原稿が、執筆者に対する何の敬意も持ち 合わせない編集者という名の不作法者により、ずたずたにされたことを私は決して 忘れません。あなた方のやったことは改竄です。思想に対する侵害行為です。  ついでにいえば、朝日新聞は投稿原稿に手を入れるときは、電話で同意を得るだ けの礼儀を持ち合わせている。その程度の最低の礼儀も持ち合わせない連中が、商 売敵の新聞、雑誌をくさすのは、見苦しいとしかいいようがない。 2 「月刊金曜日」第一号に書いてある次のような言葉を今読み返してみると、完 全に編集委員に「はめられた」と思ってしまいます。  「もし編集委員の考え方に疑問を持つようなことがあれば、それを投書ペ−ジな どで批判してください。論争・反論を当初から重要目標の一つとしている本誌とし ては、あまりに低次元な内容や破壊的・非建設的攻撃でないかぎり、ためらうこと なく公開してゆくでしょう。」  この公約は完全に裏切られたのです。 3 41号にも同様の差別表現がある。少なくともこの「アラビアのロレンス」の 掲載を担当した編集者にとっては、男性同性愛は無条件で悪、好ましくないものの 代名詞であるようである。 101 東京都千代田区神田錦町2−2錦信第一ビル5階 週刊金曜日 小林和子様  お手紙をありがとうございました。このような反応が返ってくるとは予想もして いなかったので、正直少しびっくりしています。少なくとも「新潮45」よりは上 等のようです。謹んで「新潮45」の左版と言う言い方は取り消します。 ただし、内容には全く不満です。あなたは手紙の最後に「お詫び申し上げます」と 書いてあります。何に対してですか。あなたの手紙の前半では、私が(少なくとも 私はそう言ってはいませんが)あなたを「差別主義」だと言うのは、「文脈を理解 」していないことからくる論難、「一方的な連想」であると言われています。もし そうならば「誤解」の責任は、あげて私にあるはずです。  誤解する人間にいちいち謝っていたら身がもちません。単なるオッチョコチョイ や、因縁を付けるちんぴらに謝って何になりますか。  あなたはやくざに絡まれた経験をお持ちですか。彼らはこちらが弱みを見せれば 、徹底的に攻撃してきます。ましてや、何に対して謝っているのやらわからない謝 罪などしない方がましです。そんなことは大は霞ヶ関や新宿に、小はあちこちの役 場に棲息する小役人に任せておいた方がよろしい。活字で飯を食うにしては言葉が 軽すぎます。 内容に入りましょう。あなたは私が「差別主義」と言ったのを「私の意見を述べた ものではなく、事実を表現した部分です」と言われている。あなたの周辺にそうい うことを平気で言う人間がいることにも驚きですが、あなたはその人間の発言を引 用することでなにを表現されようとしたのですか。私には全く理解不能です。  私は不勉強で「ロレンス=ホモ」説も知りませんでしたが、少なくともその言葉 を述べた人間の差別意識ぐらいはわかると思います。 「『ホモだったんでしょ』ではなく、『金髪碧眼の青年だったんでしょ』と発言し たら問題はなかったのでしょうか。」と切り返していらっしゃいます―まるで筒井 康隆ばりのレトリックというと怒りますか―が、まず私が問題にした部分を省略な く正確に引用してください。  私の問題にした部分は以下の通りです。  「中にはにやにやしながら『ホモだったんでしょ』という者もいるのですが」 試みに括弧内に『金髪碧眼の青年だったんでしょ』をいれてみてください。 「中にはにやにやしながら『金髪碧眼の青年だったんでしょ』という者もいるので すが」 どうです。文脈があいません。薄笑いを浮かべながら「ホモ」と言っても「金髪碧 眼」とは言わないのです。これを同性愛差別と言わないのだったら、私はあなたの ジャ―ナリストとしての感性を疑います。私が問題だと思うのは、「ホモ」という 言葉一般ではなく、こういう文脈、こういう状況で使われる言葉、それが暗黙のう ちに示す社会的偏見なのです。  「文脈を理解なさっていらっしゃらないと思います。」というのはどちらですか 。(こういう言葉、文脈に対する不誠実な態度はいわゆる「反言葉狩り」派にも共 通して見られる特徴です。私は例の筒井康隆の「断筆宣言」を通してこれを学びま した。)  ついでながら私が問題にしたのは、誰がこの発言をしたのかということではなく 、こんな発言を見過ごして―おそらくいくらかは違和感を覚えながらも―その言葉 を引用した揚句、「自分が言ったんじゃない」などと泣き言をいうその神経のおか しさだったのです。再び私の言葉を書いておきます。  「こんな悪意と偏見に満ちた性差別主義者の言葉が、フリ―パスで通るような連 中」(つまりこのように「ホモ」発言をした差別者と、それを記載した人間を私は 分けて書いているのです。おわかりですか。) 世の中に同性愛差別がまかり通っている以上、差別に満ち満ちた発言が飛び交って いるのは「事実」です。だからといって「事実を述べてなにが悪い」というのはあ まりに無責任です。数ある事実の中で、なにをどう記述するのかにこそ、人の値打 ちがあるのではありませんか。(差別と言葉の問題では私は「マルカムx自伝」に つきていると思います。) あなたの手紙のあとの部分は付け足しです。自分がどんなに同性愛者に理解がある のかと印象づけようとされていますが、人は一瞬一瞬の言葉態度で計られるのです 。言い訳はやめましょう。 一言だけ申し上げるならば、エイズで亡くなられた男性同性愛者の方が、もしあな たの近しい友人であったのなら、少なくとも私ならば、たとえ私信の形であれ、そ のことを第3者にもらすことをしません。状況がよくわかりませんが、その亡くな られた方があなたに直接カム・アウトしたのでなければ、いやたとえそうであった としても、その人の性行動は本人のプライバシーに関わることです。もらすべきで はないのです。たとえそれが「公然の秘密」であったとしてもです。  私は自分の診療所で働いてくれている人々にも「ここで知ったことはどんなささ いなことでも、たとえ連れ合いであれ、絶対にもらしてはいけない。知ったことは 一人で墓場まで持っていくことを覚悟するように」といっています。  社会的に差別された、HIV感染者とつきあうということは、それだけの緊張と 決意がいるのです。私はHIV感染の有無に関わらず、患者さんの個人情報を少し でももらしたり、もらすことを助けることを自らを含めて強く戒めてきています。 私はHIV問題について語るとき、必ず「想像力が差別を克服する」とつけ加える ことにしています。たった今話している相手がカム・アウトしていないHIV陽性 者だったらという想像力です。  想像してください。あなたの亡くなられた友人が目の前にいる状況で「にやにや しながら『ホモだったんでしょ』という者」にたいして冷静でいられますか。まし てもしその薄笑いを浮かべている人間自身がカム・アウトしない男性同性愛者だと したらどうですか。考えてください。  男性同性愛者の友人だと口先でいうのはまだ比較的簡単です。本当の友人になる のはきわめて難しい、自戒をこめてそう思います。被差別者、少数派の地位をこれ ほど取り上げてきた雑誌・編集者からしてこの程度の認識なのか、溜息が出ます。 私の要求水準が高すぎるのでしょうか。「週刊金曜日」ともあろうものが、という 私の絶望がおわかりですか。  小林和子様 1994年9月20日 医療法人西村くりにっく 西村有史 拝啓  我々は、HIV感染者の人権と健康を擁護するためにささやかながら活動を続け ているものです。 貴誌46号、「エイズ対策の背後に隠されている米国の人種差別」を拝見しました が、この記事が、あまりに一方的な主張を、ほとんど何の根拠もなく掲載している ことに、大きな憤りと失望を感じました。 エイズ対策の背後に人種差別がある、そう題されたルポふうの記事には、丸子氏と いう著者が自力で調べたものが、誌面から判断する限り、何一つありません。すべ てALC(アバンダンド・ライフ・クリニック)が主張していることを、そのままなぞ っただけのものです。 「低容量インタ―フェロンがエイズ治療に導入されていないのは、人種差別だから 」と言う主張には、論理の飛躍があります。アフリカ生まれだから無視されたのだ と言いますが、それもあまりに根拠に乏しいのです。そのことぐらいは、医学に暗 かろうとも、見抜く力を持ってほしいと思います。  私たちはこの薬の開発段階から、日本が深く関与してきたことを知っています。 ケニアにも多くの日本の医学者が、JICAの専門家として派遣されました。  この薬の開発に参画した日本の研究者たちとのインタビュ−を、丸子氏はしてい るのでしょうか。日本国内においてもこの薬の臨床実験が行われていますが、その 成果については多くの医学者が懐疑的に見ているのです。  インタ―フェロンがエイズ治療に導入されたのは、ケムロンが始めてではありま せん。高単位インターフェロンは、すくなくともエイズの合併症であるカポジ肉腫 の治療としては承認されています。HIVそのものにたいする効果については未だ 検討中だと聞いています。  高単位でHIVウイルスにはっきりした効果が未だに確認されていない薬が、低 容量で、しかも注射ではなく飲み薬として使ったら、ウイルスを除去するのに効果 があったという話は、常識的には考えにくいのです。  ホイットマン・ウォ−カ−・クリニックが、大衆から非難もされているようにも 受け取られる表現があります。しかし私たちが知る限り、彼らがワシントンで、エ イズ問題の始まる以前から、長い間同性愛者―白人同性愛者ばかりではありません 、そのクリニックの看護部長はアベ・マリアという名の黒人女性です―自身の運営 するクリニックとして、活動してきた歴史は、先進的なものだと受けとめられてい ます。。彼らがこの問題で果たしている大きな役割を、なぜ客観的に書けないので しょうか。  丸子氏は、なぜホイットマン・ウォ−カ−・クリニックを始め、多くの先進的施 設が、低容量インタ―フェロン療@に懐疑的なのか、直に聞いたのでしょうか。  そうした(これだけの記事を書くのならば)当然やらなければいけない、基礎的 取材をやったあとが、かけらも見られない。ただALC曰く、ALC曰く、ALCかく語りき 、では大本営発表と変わるところがないといわざるを得ません。  何も私達は、HIVの医療に人種差別がかけらもない、などというつもりはあり ません。だからといってインタ―フェロン療法が、そのためだけに葬られたという のには、あまりに根拠が乏しいのです。逆に、それだけの重大事を、乏しい根拠で 言う人々の主張の方に、疑問を抱かないとすれば、それこそ物書きとしての資格が ないと思いたくなります。 エイズ治療をめぐっては「夢の治療薬を開発した」とする多くの自称学者、研究者 、研究機関が雨後の竹の子のように生まれてきています。そのたびに感染者・患者 が右往左往させられ、騙されてきた歴史があるのです。 また低容量インタ―フェロン療法の「有用性」を説くあまり、AZTの有効性を一方 的に否定するALCの主張を、これまた無批判に繰り返していますが、こうした記事が 出て、患者・感染者にパニックが起こった場合、丸子氏と「週刊金曜日」編集部は どのような責任をとるつもりなのでしょうか。  少なくともAZTにはHIV感染者の延命、母児感染の予防という確立された効果が あります。多くの国、集団での今の問題は、この薬を延命のため服薬する機会が不 当に奪われていることです。私たちは機会を捕らえては、HIV感染者にきちんと した治療をするようにも要望してきているのです。  あなた方の記事はこうした地道な運動に水を差し、感染者の人権を自らの名誉欲 のためにもてあそぶ、一部医療機関、政治集団の不当な動きを側面から支えるもの でしかありません。  きちんとした謝罪文と反論の掲載を強く要望します。 1994/10/16 医療法人西村くりにっく 西村有史

はなしの広場 広島大学金曜日読者会