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社会思想史の窓   第130号  
         2002.01.20  社会思想史の窓刊行会・編集発行(創刊:1984.05.20)
    〒350-0394 埼玉県比企郡鳩山町石坂・東京電機大学理工学部 石塚正英研究室
編集部付記:本誌にはインターネット版のほかプリント版があり、後者が正式な版である。
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私のアソシアシオン研究を振返って
             ――ある講演の記録
                                  石塚正英       

1『アソシアシオンの想像力』編集の頃

 近年アソシエーションという言葉あるいは運動・組織ないしは体制をめぐって議論が起
きていますが、私はすでに1989年に10名くらいの方たちに協力していただいて『ア
ソシアシオンの想像力』という編集本を平凡社から出版しました。まずはじめにお話しし
ておきたいのは、アソシエーションという言葉を聞いたときに人によっていろんな観念が
浮かんでくるようなことがあるとうまくないので、このことばの私なりの定義についてで
す。それ自体がすでに論争になるのは百も承知ですが、そのあたりのことについてお話さ
せていただきます。
 アソシエーションについての一応の了解事項についてまずお話します。私は1970年
前後の学生時代、哲学者の廣松渉さんにたいへん影響を受けました。その頃、第一期『情
況』の読者であって、毎月購入して読んでいました。これを通じて、廣松さんの関係論的
な発想に影響され、自分でも学問論などに関連する多くの論説を書いていきました。その
立場を今日までずっと維持してきました。
 私はアソシエーションは関係性であって実体的なものとしては捉えていません。あくま
でも人と人との関係、あるいは人と自然との関係であります。また関係はつねに動いてい
るものでもあるわけですから、運動でもあります。ですから「将来社会としてのアソシエ
ーション」というものを思い浮かべるのは本来おかしなことなのです。確かに理想社会の
表象がなければ人は動きませんから特定のイメージを実体的に思い浮かべることには意味
がありますし、ときとしておおいに必要なのです。
 しかしアソシエーションは人と人との関係性、たえず変革の渦中にあるもの、時間軸に
そって空間の中で動いていくものなのです。そういった発想が『アソシアシオンの想像力』
を編集しようと思った頃にもありました。イギリスやフランスにおけるアソシエーション
の先駆的形態とかアメリカにおけるコロニー建設などをアソシエーションの実験として紹
介することは、実体的な観念に囚われているような気がしてなりません。なるほどその場
その場ではそのようなもので捉えていくことが有効なのも確かですが、でもできうる限り
関係論的な観点から捉えていくようにしていきたいという思いが強いのです。表象はとき
に決定的な働きをします。それは事実です。しかし、そうした表象もまた、なにがしかの
関係性を背景にして抱かれるのです。

2 ヴァイトリングとアソシエーションの関連

 私は大学入学直後からドイツのヴィルヘルム・ヴァイトリングという職人革命家に注目
していました。ヴァイトリングについては『叛徒と革命』(イザラ書房、1975年)執筆以
来約30年間研究し続けてきており、最近では2、3年前に『アソシアシオンのヴァイト
リング』(世界書院、1998年)という本を出しました。
 ヴァイトリングは、ナポレオン軍がドイツにやってきて駐留していた頃、そのときフラ
ンス軍の一兵士テリジョンがマグデブルクで調達した現地妻に産まさせた私生児です。父
親はフランス人で母親はドイツの洗濯女で、貧しい家の生まれの人です。最初から自分で
何とかして稼いで暮らしていかなければならず、小さい頃から仕立て職人の徒弟であちこ
ちに遍歴します。行った先々で同じ境遇の職人たちに暖かく迎えられる経験を持ち、そう
いう意味で共同体のありがたさ、貧しい者たちによる支えあいを見てきました。
 ヴァイトリングは1845年前後、マルクスと論争している頃にはアソシエーションと
いう言葉をひとことも使っていません。むしろコミュニズムないしはゲマインシャフトと
いう言葉を使っている。この地上に財産共同体(Guetergemeinschaft)を打ち立てるために、
資本家階級に対して武装蜂起し、そして権力を倒して最下層の労働者たちによる権力の樹
立、それも段階的なものではなく一挙に労働者共和国を樹立すると唱えます。それもイエ
スの共同体=コムニタスを復権させるべく、宗教色の強い義人同盟という結社をつくりま
す。いろいろな街に行っていろいろなサークルに関わり本を読んだり討論したりする間に
いちばん強く印象に残ったことは聖書にまつわる宗教的なものでした。その思想的遍歴の
過程で財産共同体という概念を培ってきたのです。そしてマルクスと大論争するときには
一大イデオローグになっていました。
 そして論争に「負けて」――一般的にはそうなっていますが――1847年アメリカに
「逃げた」。この「逃亡」は結果的には彼に良いものをもたらしします。当時のアメリカ
には、一方に、フーリエやプルードンなどフランスの社会主義者から影響を受けた人たち
がたくさんいた。そして他方に、ドイツやフランスに帰るつもりで出稼ぎに来ている職人
たちがたくさんいて、彼らはフランスなどの情報をつねに敏感にキャッチしていたのです。
 フランスでは、48年革命前後にはアソシアシオンに関するプルードンの議論が注目さ
れていたのですが、ニューヨークや、その他ドイツ人の多く住むシカゴとかセントルイス
とかミルウォーキーとかでも、どのように新しい社会を組織するのかを考えるときにプル
ードンのアソシアシオンがたいへん参考になるとされていました。おそらくヴァイトリン
グもそのような風潮の中でアソシアシオンに注目したのではないかと考えられます。48
年革命で一度ベルリンに戻ったときには、すでにアソシアニストと看做されるようになっ
ていました。ドイツ革命が敗北した後アメリカに戻ってアソシエーションの実践をかさね、
二度とドイツには帰らず、ニューヨークで亡くなります。
 私は、個別的には渡米後のヴァイトリングを研究する中でアソシエーション論に深入り
したのですが、しかしアメリカに渡ってからのヴァイトリングを研究している研究者は日
本には全然いませんし、本場のドイツでも前期のヴァイトリングと同じほどの重みをおい
て後期のヴァイトリングを研究している人はいません。ですから思想史辞典とか人名事典
を引くと、彼はユートピア社会主義とセットになって財産共同体の創始者とか理論家とか
となっている。それでは何も見えてこない。ヴァイトリングという人物個人が問題なので
はなく、19世紀の労働者運動中にコミュニズムからアソシエーションへの重点の移動が
あったということが問題なのです。それは思想的転向ではありません。アソシエーション
とは理想社会の像ではなく運動ですから、アソシエーションという観点を持って運動をし
た方がはるかにうまくいくのだという考え方が広がったということです。
 私は、1969年からヴァイトリング研究を始めて20年後に、この『アソシアシオン
の想像力』を編集することになるのですが、その頃にはアメリカに行ってからの後期ヴァ
イトリングの研究を進めることができており、すでに『ヴァイトリングのファナティシズ
ム』(長崎出版、1985年)にまとめていました。その頃には、アソシエーション運動はド
イツの労働者運動の中に相当な意味を持っていたということが推測できていました。以上
が私がアソシエーションに注目した経緯の一つです。

3 政党・結社とアソシエーションの関係

 二つめには、結社とか政党に関することです。ヴァイトリング研究は同時に共産主義者
同盟の前史に関することを研究することにもなります。1838年頃にはっきり出てくる
のですが、ヴァイトリングなどの職人たちのつくった組織は「義人同盟」とか「正義者同
盟」と呼ばれているのですが、人間はすべて兄弟として平等であるということをモットー
にしている組織です。それから5、6年するとマルクスとエンゲルスが介入してきて、そ
の直後にヴァイトリングはアメリカに追い出され、そして1847年に組織名が共産主義
者同盟に変わります。詳しいことは私の『三月前期の急進主義』(長崎出版、1983年)を
お読みください。
 ここで少しプライベートな話に入りますが、私は69年の4月に大学に入るや、当時の
学生なら誰もが賛否双方の立場からそうであったように、学生運動に関心をもち、『共産
党宣言』など基本的な文献を研究していくのですが、その頃は社学同とか社青同とかの政
治セクトというものが嫌いでした。むしろ私は、ノンセクト・ラジカルズに興味を持ち、
名もなき大衆の運動にたいへん共鳴していきました。いまでは各地のお地蔵さんを調査し
て歩き、四国巡礼のお遍路さんみたいなことをやっていまして、まるで別人のようですが。
ちなみに、私の『信仰・儀礼・神仏虐待』(世界書院、1995年)を読んでみてください。
 ところで、なぜ政治セクトが嫌いだったのかというと、まずはそこに集まる活動家たち
の態度が気に入らなかった。それから、結局のところ結社とか党の意味が良く分からなか
った。19、20歳くらいの私は組織というものを直観的に嫌っていただけだったのです。
30歳になった頃に『共産党宣言』をドイツ語で丹念に読んでみた。マルクスは本当に政
党というものをつくったのかどうか。つくろうとしたのかどうか?
 党(Partei)というのは一般的にいうと、ボルシェビキ以前と以後で大きく分けてみな
ければなりません。それ以前はおおむね革命党=結社であります。革命党は非合法ですか
ら国民に認められようと認められまいと関係がない。現状維持の勢力に認めてもらえない
ことは百も承知ですから、秘密裏につくるのです。そして「みんな約束を守れよ、破った
ら死刑だぞ」と言いながら殺されることを覚悟の上で決起するのです。マルクスたちは4
8年革命のとき「徹底的にやるべきだ、武力闘争も辞さずにやるんだ」ということでした
が、共産主義者同盟は事前に解散させました。そして革命が敗北した後に1850年代に
なって再建するのですが、そのときには労働者独自の軍事組織を秘密裏に構築せよ、と言
っています。
 これは明らかに結社です。再建された共産主義者同盟は結社なのです。なるほど、結社
には広い意味があます。日本国憲法においても「集会、結社の自由」という文言があるよ
うに、「結社」とは一般的な言葉ではあります。しかし私が今言っている結社とは革命を
目的意識的に遂行するため任意に集まったヴォランタリーなメンバーで構成される結社で
す。今日の議会政党もまた結社の一形態ですが、こちらには公的な承認という契機があり、
国民的な支持基盤があり、そして公的機関としての議会に参加していく。共産主義者同盟
は、そうした公的な承認や国民的な支持を勝ち取った組織ではありません。マルクスの時
代にはそのような意味での共産党は存在しませんでした。
 結社としての共産主義者同盟は、量的に拡大し人数が増えていけばそのまま議会政党・
国民政党になるとは限りません。共産主義者同盟は今日の日本共産党に直結するようなも
のではないのです。マルクスの時代に彼が意識した結社は自由意志的なものでありました
が、私は、それはアソシエーション的な運動にマッチするのではないかと考えます。国民
政党化していくものはアソシエーションではなく、それは資本主義とかブルジョワ社会と
言い換えることができる市民社会にマッチする近代的な政党です。
 今日の共産党は政党に相当します。しかしマルクスはそんなものをつくろうなどとは思
っておらず、最初から結社をつくりそのもとに労働者たちが集えるようにしようとしたの
は確かです。そのことは、たとえば『ゴータ綱領批判』を読めばすぐに分かります。イギ
リスで発展したトーリーやホイッグなど既存の社会においてその一部を担う部分(パート)
としての政党(パーティー)とは別個に、発展すればパーティーに行き着くようなもので
はないものを、マルクスは別次元で考えていた。
 私は、出版当時から長崎浩の『叛乱論』を読んでいて、たしかその中にあった結社論に
は注目していました。その議論をも下敷きにして、政党には決して溶解していかないよう
な結社の持つ独特の意味に注目してきましたし、その方向でやがてアソシエーションに注
目していくことになります。
 ところで古代のラテン語にはソキエタス(societas)という言葉があるのですが、それ
はアソシーションの語源で、「政治なき社会」という意味があります。それに対して政治
としての社会はキヴィタス(civitas)であり、シビルの語源であり、市民とか政治という
意味であり、ポリスと同義です。現在は政治というと後者のポリスになっています。この
2語のうち、私はソキエタスの方に注目してきました。ソキエタス的な結社によって新し
い展望が開け、アソシエーション運動が拡大するのだろうと考えています。このソキエタ
スという語が気に入っていまして、『ソキエタスの方へ――政党の廃絶とアソシアシオン
の展望』(社会評論社、1999年)という私の著作の書名にまで使いました。

4 フェティシズムとアソシエーションの関係

 さて、私がアソシエーションに注目した三つめの経緯は、フェティシズム研究です。フ
ェティシズムはマルクス経済学では「物神崇拝」と訳されます。マルクスが商品には物神
的な性格があると言ったとき、なぜフェティシズムという言葉を使ったのかと言うことを
調べていきました。その結果わかったのですが、彼はライン新聞に関わり始めた1842
年の春くらいに、18世紀フランスの啓蒙思想家シャルル・ド・ブロスが書いた『フェテ
ィシュ諸神の崇拝』のドイツ語訳の本を読んでノートを執っています。それは新しく編集
された新メガの中に「ボン・ノート」という形で収められています。しかしマルクスはド
・ブロスには生涯言及しないまま、フェティシズムは自分が考え出した概念であると言っ
ていたのですが、実はそうではなかったわけです。
 詳しいことは私の『フェティシズムの思想圏』(世界書院、1991年)に書いておきまし
たが、ド・ブロスに発するフェティシズムを私なりに発展させてみると、こうなります。
フェティシズムにおいては、人の前にはまずもって裸の自然物ないし自然的力があります。
これを〈力の第一形態〉としておきます。ついで、人は労働による自然の社会化をはかり、
こうして社会化した自然(生産物・生産関係)が生まれます。さきの自然的力は社会的力
となります。これを〈力の第二形態〉としておきます。さらに、こうして生まれた社会的
力は分業を通じてふたたび自然化します。くどいようですが、はっきり示すと、社会化し
た自然の再自然化です。あるいは、社会・生産関係の自然化=物象化といってもいいでし
ょう。この過程で生産物は商品になり、自然的力に再転化します。これを〈力の第三形態〉
としてみると、力の転変は、自然→社会→自然となるのです。
 ド・ブロスを読み込むと、人と人との関係が物と物との関係になる前に、物と物との関
係がいったん人と人との関係になって、それがもう一回物と物との関係に戻るこの往復運
動を私なりに確認できます。われわれが飯を食っているとき、それはいわば物と物との関
係です。しかしそれが双方ともに社会的な存在になる。社会的な存在であるわれわれは目
の前にある食べ物を社会的なものとして見る。そこに価値というものが、交換価値という
ものが入ってくるのです。人間は自然的な存在でもあるわけですから、物と物との関係な
のですが、それがいったん人と人との関係を取り結んで社会的関係になる。それが物象化
によってまた物と物との関係になってくる、ということが全部書いてあるド・ブロスの本
を読んでマルクスはびっくりしたと思います。
 ド・ブロスにおいてはフェティシズムは宗教ではありません。農耕儀礼などのような生
活習慣を律する精神運動です。これはデュルケム的にいうと、社会制度でもあります。あ
るいは技術になる前の呪術です。先史や辺境地の人々は、諸物の中から自分たちで選定し
た神々が自分たちの思うようにいかないときには、その神を打ち壊して、もう一度物にま
で戻してしまう。転倒していたものをもう一度ひっくり返してしまう。でもそれはどちら
が頭でどっちが足かは分からない。そういうものとしてフェティシズムはある。私はそれ
に注目しました。
 そういうことに接近できた第一の要因は、廣松さんのおかげで関係論的視座を持てたか
らです。フェティシズム論は関係論です。フェティシズム論では表象というものがたいへ
ん重要になってくる。表象はあっていいのです。疎外論に一辺倒に立ってしまうと、表象
というものは悪い面ばかりが強調されます。ひっくり返えったものはよくないから戻さな
ければならない、と。したがって、それは認識論ではなく、価値が入ってしまって、「革
命とか現状変革のための」ということをつけなくてはならなくなる。つまり転倒はすべか
らく「破壊していくための関係」として見ていかなくてはならなくなる。
 そうではないでしょう。表象なくしては人間は存在できません。表象をフェティシュな
ものとして捉えた方がはるかに分かりやすいのだと思います。それをズバリ言っているの
がマルクスの商品論です。ただし彼は、残念なことに、最初は自然として物と物との関係
にあったものが、いったん社会的な関係を持ち、そしてもう一度物と物との関係の中に戻
っていくという議論をしていない。マルクスは〈力の第二形態〉から始めているのです。
人と人との関係が物と物との関係になり、それを疎外といっているのです。しかし彼はも
っと深いところから捉えているはずです。そこにおいて表象というものを考えるときには、
あくまでも関係として捉えなくてはならない。
 それと関わるのがコミューンの問題です。コミューンを考えるときには、往々にして実
体的なものとして捉えがちです。かつて原始時代に原始共産制社会があった、というよう
に。技術が発展し分業が進むことによって私的所有が発生し、原始共産制が解体し階級社
会が生まれてくるというような教科書的な捉え方は実体的な考え方です。そしてそれを裏
返して、正・反・合の合のところで未来社会におけるコミュニズムを考えるのです。『ド
イツ・イデオロギー』に書いてあるような、猟師になったり農民になったり研究者になっ
たりする牧歌的な自由な王国を思い描く。しかしそれは表象であり、表象は関係性である
から常に変わっていくものです。変わっていくことは、良いとか悪いの問題ではなく、必
然です。
 正・反・合で議論を組み立てるとき、間違っても、日本語訳された「進化」論的な方向
に進まないよう気づいたことが、私がコミューン論からアソシエーション論に向かった理
由の一つです。Evolutionは進化と訳されていますが、むしろ「多様化」あるいは「展開」
と訳すべきです。ダーウィンの説によれば、適者生存・自然淘汰といいますが、しかし価
値的に進化しているわけではない。例えば深海にいる魚はその環境に適応して眼などもな
くなりわれわれにとってはグロテスクなものになっていますが、それを「進化」というこ
とに抵抗を覚えます。Evolutionは、ある一つの(モノの)価値の序列に従っていくとい
うよりも、むしろ複線的な(ポリの)形でどんどん展開していく。例えば言語を見てみる
と、放っておけば百人ぐらいの単位でも新しい言語ができ、どんどん分化していく。それ
は交通によって結びつくことなく孤立化していくからだという言い方もできるでしょう
が、しかし自然に任せておけば言語はどんどんたくさんになっていった。進化していけば
いくほどに単一の言語になっていくということはないのです。進歩するのではなく多様化
していくのです。そういう点から見ると、表象として捉える未来社会、それをたえず打ち
砕き再構築していくという議論に耐えうるものはアソシエーションだと思います。

5 地中海のマルタ島で考えたこと

 私は、昨年そして今年の夏と連続して地中海に行ってきました。特にアルプスの南側が
大好きなんです。マルタ共和国に行ったのですが、地中海的思考といいますか、ポリクロ
ニカルな生活をしているところで、あそこは小さな国で島二つ、三つで成り立っていて、
交通手段としては鉄道はなくバスしかありません。
 ところで、そのバスがかわっていて、運転席にはスピードメーターがありません。左右
のウィンカーもなく、要するに安全を守るものはハンドルとブレーキ以外何もないのです。
それからギリシアのアテネにも行ってきたのですが、ここはヨーロッパと同じく安全を維
持する装置は完全にある。しかしどちらが安全だったのかというと、マルタ島の方です。
マルタ島では私は一度たりとも交通事故を見たこともないし、自分が不安に思ったことも
ない。それに対してアテネには車のための信号しかなく、私は何度もひかれそうになりま
した。アテネはヨーロッパ化されおよそ地中海的な伝統を背負っているようには見えない。
マルタでは機械が人間の生活に合わされていましたが、アテネでは人間の方が機械の動き
に合わされていました。
 旅の最初にミラノのマルペンサ空港についたときにも、翌日私が乗り換えようとしたマ
ルタ行きの飛行機がストライキのせいで飛ばない。そのとき腹を立てて怒る人間は北欧的
なモノの人間であります。南欧的なポリの人間はさして気にしない。南欧的な気質にはア
ソシエーションにプラスになるものがたくさんあります。一つの原理ではなくいろいろな
ものが寄せ集まり、それらが適度なスタンスを保って緩やかにつながり、あるときはある
原理が幅を利かせることがあり、他方のものは潜在的な次元に留まっているかも知れない
けども、しかしそれはけっして消滅してはおらず、あるときにはそれが前面に出てくると
いったように、情況に応じて力点や作用点の移動するのがアソシエーション的な社会なの
です。このような社会にはコミューン的原理はあてはまらない。コミューンはやはり一元
的なイメージが強く、クレオール的な多様化に向かって関係を発展させていくことには向
かない。そういうことを確かめるために、二年続きで地中海に行ってきたのです。
 地中海に足を向けるもう一つの理由は、地中海的社会は母権的社会だからです。それに
対してアルプスの北の方は父権的社会です。母権的な社会の権力はソキエタス的なもので
す。それに対して父権の権力はキヴィタス的なものです。地中海社会には母権的な遺風(マ
リア信仰やファーティマ信仰など)が割合に強く、こういったものはアソシエーションに
非常に合っていますね。日本の場合では卑弥呼の時代がそうなのですが、あの時代には国
家的な政治権力があったのかなかったのかよくわからないけども、一応あったのでしょう。
それは卑弥呼の兄弟が握っていたのです。
 卑弥呼はシャーマン的カリスマ的な存在だといわれるのですが、そうしたイメージをも
う少し変えていくと、母権的な社会に行き着く。母権的な社会では真ん中にお母さんがい
てみんなそれに平伏しおっぱいをすって、お母さんから娘へ、娘から孫娘へと生活資料が
移されていく、というものではない。実際そこには、母たちの兄弟たちによる力、母方オ
ジ権(アヴンクラート)の強い状況が確立されていました。後に登場してくる家族(ファ
ミリア)ではない氏族(クラン)の段階における社会では、直系でなく様々な傍系による
多様な人々がいっしょに暮らしていた。子供の視点から見ると、生みの父親はよそにいて、
自分のクランには母親とおじさんたちがいるだけです。おじさんたちは、自分たちのクラ
ンの外部でわが子を育ててもらう存在です。ちなみに、アヴンクラートに関心ある方は、
私の『バッハオーフェン――母権から母方オジ権へ』(論創社、2001年)をお読み下さい。
 現代のわれわれの一夫一妻制の家族では、夫と妻がそのまま父親と母親になる。そうし
た家族像を固定的に考えがちです。家族は実体性を特徴とします。それに対してクランは
関係性を特徴とします。単身赴任の盛んな昨今では皆がいっしょに住んでいない人たちも
多いのですが、通常の家族ではお父さんとお母さんと子どもたちが一つ屋根の下に住んで
います。それに対してクランでは、夫婦はいっしょに住んでいない。子どもたちも生みの
親に囲われていない。分業的な観点からいうと、男たちはみんな狩りに行っていて家には
ほとんどいない。姉妹たちだけが家にいて農耕に勤しんでいる。兄弟たちが狩りに行って
いるときに、よそから狩りの最中の部外者が来て女たちとセックスをして子どもが生まれ
る。にわかづくりの夫たちは、しばらくするとまたどこかに立ち去っていって、そこに生
みおとされた子どもたちは母親たちのところで育つ。
 そこには関係性だけがあるのです。われわれがいっているような意味での実体的な家族
は成立していません。われわれは家族を共同的(コミュナル)なものと了解してきました
が、以上のようなことを考慮に入れると今後はむしろ連合的(アソシエーティヴ)な家族
(擬似家族も含めて)を展望したらいいでしょいう。なるほど、地中海世界では北欧ほど
には「個」という概念がはっきりしないので、うまく符合しない面もありますが、全体と
して地中海的なものはアソシエーションの参考になるということで注目してきました。
 とにかく理想社会を実体的に捉えるのではなく、いわんや終末論的な歴史認識から一挙
的な世界同時革命でもってパラダイスを導けるなどと考えるのではなく、関係性の転換と
してのアソシエーション運動があり、その転換の中で常に軋轢や矛盾が生まれそれを解決
していくために努力していくというのが21世紀的というものです。
 
6 実践課題としての地域通貨

 それでは次に、アソシエーションと現状との関係をどのように見るかということについ
てお話してみたいと思います。現時点において存在しているアソシエーション的なものと
は何かということを考える際、20世紀的なマルクス主義で推し量ると、結局それはしょ
せん改良主義的なものでしかない、あるいはプチ・ブル的なものでしかないと看做してし
まうかもしれません。しかし、今はもう21世紀です。
 私が今いちばん注目しているのは、ミヒャエル・エンデが宣伝してくれたものなのです
が、ゲゼル理論です。減価する貨幣という論理であり実践です。ある周期をもって価値が
減るように最初から仕組まれている、そういうことがお互いの関係性の中で合意が取り付
けられている。ある時期がくると減るわけですが、価値を減らさないためには、減った額
面だけのものを購入して、そこに収入印紙のようなものを張り付けると価値が戻る。東洋
経済社の1958年版の『体系金融辞典』にゲゼル理論の紹介が載っていますからそれを
読んでみます。
 「スタンプ付き貨幣の裏面にスタンプを押すか切手をはる。貨幣を持っている人は毎月
例えば1%の切手やスタンプをはる。つまりこの貨幣は毎月1%ずつ減価していくという
ことである。スタンプ付き貨幣は1931年ドイツ、バイエルンのシュバネー・キューヘ
ン、32年オーストリアのベルグルで地域経済の振興のため発行された。1932年アメ
リカ、アイオア州、人口三千人のハワーデンでは失業救済のため1ドル額面のスタンプ付
き貨幣を千ドル発行し賃金の60%をこれで支払った。これは毎月ではなく一回取り引き
するごとに額面1ドルにつき3セントの切手をはる。34回はると無価値のなり、切手の
売り上げ金でこの貨幣は焼却される。重要な点は我国の地域振興券と違って何回でも使え
るが、毎月ないしは使うたびに一定の比率で減価するから人々は早く使おうとするところ
である。」
 これはゲゼル理論から来ています。ゲゼルはアルゼンチンに長く住んでいたドイツ人で、
農場を経営してポリクロニカルな生活をしていた人です。ポルクロニカルな生活をすると
そのような発想が出てくると思うのです。
「ゲゼルの理論は主張は貨幣の三機能、交換手段、計算単位、価値貯蔵手段のうち交換手
段のみを重視して人々がなるべく貨幣を保有しないような制度を考えた。貨幣と交換され
る商品はすべて有限でありかつ商品には寿命があるが、通常貨幣は無限に発行が可能であ
る。これが富の不平等や経済の波瀾を産むという考えが根底にある。」ここで注目してい
ただきたいのは、ゲゼルによれば貨幣には交換手段と計算単位と価値貯蔵手段の三つの機
能があり、そのうち交換手段としての貨幣は評価できるということです。それに対して貨
幣を溜め込む機能は廃絶せよ、と訴える。その機能の最高形態が利子産み資本であり、現
在われわれ変動相場制の中でやっているマネー・ゲームなどはその機能が発揮される場で
す。ゲゼルは貨幣を商品と考えることはとんでもないことであるとしています。
 価値貯蔵手段を否定し交換手段を最優先するためには、よそから回ってきた貨幣は長く
滞納せずすぐに使ってしまうことが肝心です。そうするためには、手元におくと貨幣の価
値がどんどん減っていくようにすればいい。持っているほどに増殖するのでなく、逆に減
価していってしまう。
 私はこの夏にマルタ島から飛行機でチュニジアに渡りまして、レートに関連して貨幣に
まつわる体験をしました。チュニジアはディナールという通貨なのですが、たとえばタク
シーに乗ったとき、ディナール紙幣がちょっと不足していると「ドルでもいいよ」と言わ
れます。いやむしろドルの方が喜ばれます。この場合のドルは、チュニジア人にとって価
値貯蔵手段のためのものです。ゲゼルはそのあたりを批判的に分析する。こうした貯蔵機
能を否定するためには、お金はどんどん交換していくようにしなければならない。そして
この交換手段という機能の方を全面展開する。これはド・ブロスのフェティシズム論につ
ながる発想です。マルクスが物神の最たるものとしてみた商品、その形態が変化したもの
である貨幣ではなくて、単なる交換手段としての貨幣を重視していこうとする。交換は関
係性の中でしか成立しません。
 私は地域通貨についてはまだ研究途上なので詳しく言えませんが、例えば専修大学の現
代文化研究会の『現文研』の第77号(2001年3月)に泉留維さんという若い研究者の
「地域自立のためのオルタナティブな貨幣・金融システム」という論文があります。これ
には地域通貨が現在世界や日本で実践されている実状が詳しく書いてありますから、みな
さんぜひ参考にしていただきたいと思います。これを読めば読むほどプチ・ブル的だと思
うかも方がいらっしゃるかもしれませんが(笑)、そう思う人ほど実体的なものに囚われ
ているということです。
 『自由経済研究』誌のいずれかの号なんですが、地域通貨について書かれたものの中に
こんな小話が載っていました。思い出しながらお話します。あるホテルで宿泊客がボーイ
に対して「24時間後に受け取りに来るから、ちょっとこのドルを預かってくれ」と言っ
て額面百ドルを渡した。ボーイはそれを受け取ったが、そのときちょうど百ドル借金して
おり、すぐ返さなければならなかった。このボーイをAとします。Aが借金していた相
手をBとします。そしてAはBに百ドルを返します。するとB自身もCに百ドルの借金
をしており、「返してもらって良かった」と思い、百ドルをCに返す。それで実はCも…
と続きZまで行く。ところが実はAはZに百ドルを貸していて、24時間たつ前のぎり
ぎりになってAのもとに百ドルが返ってきた。そしてちょうど24時間たったときに百
ドルを預けた客が来て、受け取った。ところが、その客はロビーにあった暖炉からその百
ドル紙幣で火種をとりタバクに火をつけた。Aは慌てて「お客さんそれはお金ですよ!」
と叫ぶと、客は「これはヤバい金だから預かってもらったわけで、実は偽札なんだよ」と
言ったというのが落ちです。この間に動いたのはAからZまでの26個の価値すなわち
2600ドルです。しかし交換手段はたったの百ドルだけです。それで交換手段としての
機能は百%達成される。しかも価値の移動はそれでもってきちんとなされる。そしてそれ
は貯蔵されることもないからそれによってうまれる弊害もない。
 この小話はあまりにもうまく出来過ぎていますし、これをアソシエーションに強引に結
び付けようとはしませんが、そういうふうに成り立つ社会を目的意識的に成立させていこ
うとしたのがゲゼルや彼の信奉者たちです。アソシエーションと現状との関わりについて
はもう少しお話したいのですが、時間がきましたのでこの辺で終わりたいと思います。長
時間のご静聴、ありがとうございました。

注:この原稿は、MR研究会・公開フォーラム(2001.09.26)での講演テープを起こしてで
きたものである。同じものがMR研究会の機関誌『MRレビュー』19に掲載されている。
ただし、本原稿には多少の加筆がある。

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