1. 驚くべき医者の無知
 
 1.頻発する医療ミス   5.生きている物質「モネラ」 
 2.構造上の欠陥   6.消化・造血の仕組みも知らない医者
 3.唯物科学の終焉   7.医学常識、これだけのウソ!
  4.医学理論の致命的な過ち   8.医者のイメージは虚像
それでも医者を信用しますか?
 

1. 頻発する医療ミス

今さらいうまでもなく、医療による被害者は増加する一方です。残念ながら公式の統計はありませんが、ある弁護士の推計によりますと、医療ミスで死亡する人は、年間17、000人から39、000人となっています。これは、交通事故による死亡者数を明らかに上回っています。数字に幅があるのは、事故死を病死と偽って報告するケースがあり、年次別の、正確な実態の把握が困難なためです。

連日のように報道される医療ミスには、すぐに死亡に至る場合のほか、病態をさらに悪化させる、新たにべつの病気をつくりだす、二度と元に戻らない障害を負わせるなど、さまざまな種類があることがわかります。死亡事故は遺族にとって、障害事故は当の被害者と家族の両方にとって悲劇です。障害の程度によっては、肉体的、精神的苦痛に打ちひしがれ、生活の基盤は奪われ、生きる希望をほとんど絶たれてしまうことも珍しくありません。その無念さは、当人以外、たとえ家族といえども、真に理解しがたいものです。
そしてこれらの事故は、検査・投薬・放射線・手術といった医療行為そのものによって起こる、くわえて医者、看護婦、検査技師、薬剤師の能力不足、不注意や怠慢、意思疎通のトラブルで起こるなど多岐にわたっています。
さいわい障害・死亡事故にはいたらなかったものの、ほとんど公表されることのない病状悪化や合併症の誘発、後遺症の発作などは、大小あわせると年間数十万、いや、数百万単位の規模で発生しているともいわれ、医療ミスは、まさに、「明日はわが身」といってもけっして過言ではないでしょう。
この深刻な事態について、マスコミや医療ジャーナリストはつぎのように分析しています。
  • 医者の資格認定や研修医制度の欠陥や不備
  • それが原因の医者の知識不足や技術不足
  • 医療行為を監視する医道審議会の怠慢
  • 新薬をめぐる医者と医薬品メーカーとの癒着
  • 患者軽視の利益優先主義
  • 『出来高払い』という不可解な診療報酬請求システム
  • 制度を悪用する医道モラルの荒廃

しかしながら、これらの指摘では、事故との具体的な因果関係まではわかりません。

今私の手元に、医療事故にあった人たちとその家族からの相談内容を検証し、医療問題をより深く掘り下げた一冊の本があります。
慶應義塾大学医学部放射線課講師・近藤誠氏と、医療消費者ネットワークMECON代表世話人・清水とよ子氏の共著による『医療ミス』という本で、つぎにその一部を要約させていただきます。

医療事故には「うっかり型」、「能力欠落型」、「必然型」の三つの種類があり、それらが起こる原因は「個人」、「組織」、「構造」、「意識」の四つにあると考えられる。個人とは医者、看護婦、技師などの医療従事者、組織とは病院などの医療機関の人員配置や役割分担、構造とは医療の仕組み、そして意識とは、医療従事者や一般の人々の病気や治療に対する見方のことである。

能力欠落型の医者が大量に生み出される原因は、偏差値教育、つまり医者を養成する教育システムという構造のなかにある。偏差値教育は拝金主義を助長し、医者として不的確な人間をつくるなどの弊害を生む。その結果、医学生は医師国家試験にうかることだけを唯一の目標にするようになる。試験対策の手引きのようなものが教科書がわりに使われ,試験といっても、解答の選択肢のなかから正解を一つだけ当てさせるもので、勉強の仕方もそれに対応した知識つめこみ型になる。
正式の教科書も、臨床能力に乏しい老齢の大学教授が執筆したもので、内容はじつにお粗末なものだ。日本語で書かれているため、学生は英語の勉強をしない。そのため、最新の医学情報を知るための文献が読めない(日本の医療・医学レベルは欧米より10〜20年遅れている)。
埼玉医大では、医者が簡単な英単語を読めなかったため、患者を殺してしまったという実例がある。べつの例では、放射線治療をうけていた咽頭がんの患者が死亡した。放射線の急性反応である口内炎で食事ができなくなり、高カロリー輸液の点滴をしていたが、医者に必須ビタミンを輸液に入れる必要があるという知識がなかったため、患者はビタミンB1の欠乏症である脚気、ないし血液が酸性に傾くアシドーシスにかかり、それが重症化したのが死因だった。欠陥だらけの医学教育によって医学生の頭のなかはすっかり〇×式になってしまい、多様な事態に対処する能力は養われないのである。

この本ではさらに、医療行為そのもので生じる「必然型」の事故についても、多くの事実が明らかにされています。なお、能力欠落型も必然型も、見方によっては同一視できるものだと述べ、次のような例をあげています。

脳手術では、開頭しただけで攣縮して後遺症を生じることがある。病院には耐性菌がうようよしており、手術の種類にかかわらず、手術をすれば、(免疫低下が原因で)一定の確率で感染症にかかることは必然だ。こういう患者から分離される黄色ブドウ球菌のうち、耐性菌とされるMRSAが占める率は、ほとんどの病院で7〜8割にも達する。
もうすぐ自然に陣痛が始まるという時期に、妊婦にプロスタルモンという陣痛促進剤を点滴、服用させることがあるが、それが原因で陣痛が強くなりすぎたり、強直性子宮収縮を起こし、子宮が破裂して妊婦が死亡したり、胎児が重度の仮死状態になり、脳に障害を負うことがある。被害にあった妊婦のほぼ全員が、そのような事故が起こりうることを知らされていない。それどころか、「子宮口をやわらかくする薬です」くらいのことしかいわない。


2. 構造上の欠陥ー『医局講座制』・『自由開業医制』・『自由標榜制』・『出来高払い制』・『自家調
剤制』

同書はまた、医者を乱診・乱療に向かわせる、これら諸制度の弊害について述べています。
まず医局講座制について、つぎのような事実を明らかにしています(医局制度はもともと100年も前の明治時代に、当時の東京帝大が医科大学や大学病院にドイツから導入して作ったもので、これが一世紀にもわたって、西洋医学の聖域ともいえるヒエラルキー、つまり権力構造を形成してきました)。

医局講座制が取り仕切る現在の研修医制度のもとでは、医大を卒業して医師免許をもらうと、研修医となって2年間の研修をうけ、ほとんどが大学病院で研修する。その場合、複数の診療科をまわって研修する制度をもつ医大はほとんどなく、内科なら内科、外科なら外科だけというように、単一診療科のなかだけで研修をおこなう。したがって、耳鼻科のことしかわからない、精神科のことしかわからないという医者ができてしまう。
研修期間が終わっても、医局講座制は悪影響をおよぼす。教授が人事権と学位権をにぎっているからだ。人事権とは、院内において誰を助手として採用するか、誰を講師・助教授に昇進させるかという権限で、事実上、教授の一存できまる。教授はまた、関連病院への常勤医の派遣の権限もにぎっている。病院側には医者の選択権はほとんどない。医学博士の学位を医者に授与するのは教授会だが、教授たちは、自分の部下が審査を受けるときに復讐されるのを恐れてだろう、教授会による審査段階では、ほぼフリーパスで学位授与を認めてしまう。したがってその前段階である、部下が学位審査を申請することを教授が認めるか、が鍵になり、教授はそれを餌にして、部下に服従をせまるようになる。
いったい、医学博士という肩書きに、どんな効能があるのだろうか。いろいろな博士号があるなかでも、医学博士は最も簡単にとれる学位で、"足の裏の米粒"などと揶揄されている(取っても食えないけれど、取らないと気持ちが悪い)。このように人事権と学位権をにぎる教授は、それだけでは満足しない。いずれ大きな学会を主宰したい、退職後は大病院の院長職につきたいなどの野望がある。それが達成されるかどうかの鍵は、部下たちのあげた業績にかかっている。
業績とは研究論文のことで、研究成果を載せた医学誌の格が高いほど、論文の数が多いほど業績が評価される。患者を一生懸命診るより、ネズミや細胞を使った実験をするほうが論文になるわけだ。当然、医者は病棟に患者を訪ねるより、研究室にこもって実験に没頭しようとする。こうして大学病院では、構造的に、優れた臨床能力を持った医者が育ちにくいのである。
業績中心で教授を選ぶ傾向は、メスをふるう外科、整形外科、産婦人科などでも同様だ。日本では、ほとんど手術をした経験のない人間を、業績ゆえに外科系の教授にすることがよくある。ある大学病院では、乳がんの世界的権威を外科教授として呼び戻し、紹介された患者たちに、胃がんや大腸がんの手術を始めた。内臓の手術に慣れていなかったため、不用意に血管を切って患者が死ぬなどのトラブルが続き、教授の手術のときは以降、血管外科の医者が待機するようになった。これではまるで、「何とかに"刃物"」だ。
自由開業医制や自由標榜制によって、医師免許さえあれば自由に開業でき、そのさい、自分がやろうと思う診療科目を勝手に決めることができる。その科目にどれくらい習熟しているかは問われない。たとえば、小児の診療にぜんぜん携わったことがない整形外科医でも、小児科を標榜していいのである。
出来高払い制や自家調剤制によって、健康な人にざまざまな検査をして病気を捏造し、山のように薬を処方して病気を作り出す(いわゆるレセプト病)。そのさい、患者への売値と、仕入れ価格との「薬価差益」を利用して儲けようとする。

いかがでしょうか。医療の世界では、こんな信じられないようなことが、当たり前のようにおこなわれているのです。国民の多くはそのような事実があるなど知りようがありませんし、たとえそれを知ったからといって、どのように事態に対処したり改善すればいいのか、これといってなすすべがありません。医療ミスへの反応が対岸の火事のごとく、切迫した危機感に欠けるのはそのためです。

じじつほとんどの人は、医療過誤は個々の医者、または病院の人為的なミスであって、制度や医療じたいは直接関係ないだろう、という受け止め方をしています。ましてや医学や医学理論に欠陥があろうとは、夢想だにしないのではないでしょうか。
科学至上主義や、一世紀も続いてきた体制によって、医学にたいする信仰めいた既成概念ができあがってしまったためで、それはそれで仕方のないことかも知れません。ところがあにはからんや、この世間の常識に相反して、 医学理論そのものが、矛盾と誤謬に満ちたものだったのです。そしてそれこそが、医療ミスも含めて、現代医学が抱えるすべての問題の核心であると、私は考えています。といっても信じていただけないでしょうから、ここで、その誤った医学理論を生んだ科学の歴史を概観してみます。


3.唯物科学の終焉

近代科学はガリレオ、ベーコン、デカルト、ニュートンなどによって確立されました。地動説を支持したガリレオは、観察に加えて実験と数値測定を研究手段として導入し、ベーコンは帰納法を、デカルトは解析幾何学をそれぞれ創始して科学の方法論を定着させ、万有引力の法則を発見したニュートンは、これらの業績を総合して力学の一大体系を築きました。

このニュートン力学の完成を機に、科学は目覚しい発展を遂げることになります。新しい発明や発見が相次ぎ、それらが産業界で実用化され、人々の生活は劇的に便利になっていき、やがて、蒸気機関や電気の利用による産業革命が起こりました。こうしてニュートン力学は19世紀に頂点を迎え、科学は文明社会において不動の地位を占めることとなり、「科学は絶対で万能である」という科学至上主義が世界に広まり、それがそのまま人々の人生観になっていったのです。
じつは、当時の科学者はもともと、自然を精神世界と物質世界の両面から探求しようとしていました。ところが、デカルトの懐疑的思想が科学者に強い影響を与えていたため、科学的手法になじまない精神世界はしだいに置き去りにされ、ついに物質世界だけが研究対象とされ、精神世界、つまり「意識の世界」は、心理学や倫理学の社会科学として扱われるようになった、といういきさつがあります。
デカルトやニュートンは、神や霊魂の存在を信じていたとされていますが、自然科学の探求においてはあくまで思考の合理性を重んじ、ヘーゲルの『弁証法』に由来する『要素分割還元主義』、または『二元論』と呼ばれる哲学的手法を編み出すにいたりました。
それは、まず複雑な現象を要素別に細かく分ける、次に分けたものからわずかでも疑わしいもの、客観的ではないもの、数値に表せないものを除く、そうして残ったものを研究し、再統合するという分析的な手法です。
この手法が科学の急速な発展をもたらしたことから、科学者は、物質世界は精巧な機械の集合体であり、人間を含むすべての生物は自動機械である、との確信を抱いたのです。こうして自然界のすべての仕組みは理解できるとし、ここに、西洋思想の真髄とされる機械論的世界観が、科学の主流概念となったわけです。
ところが、20世紀の初頭になって、量子力学という、それまでの科学常識を根底から覆す科学理論が登場してきて、「物質の極限は波動であり、波動を固定して観測することはできない」と主張し、「この世界は機械論で解明することは不可能である」、と断定しました(詳しくは別途第七章に)。
ボーア、ハイゼンベルグ、シュレジンガーなどが提唱した量子力学は、アインシュタインによって「非科学的である」と非難され、両者の間でながい論争が続くなど紆余曲折がありましたが、『コペンハーゲン解釈』、『ベルの定理』による理論的実証、さらには1982年のフランスのアラン・アスペや、1986年のイギリスのハンス・クラインポッペンの見事な実験によって、ついにその真実性が認められたのです。「現実は人間の意識が創造するものである(=この世はバーチャル・リアリティ)」、これが量子力学理論のエッセンスです。
その意味するところをわかりやすくいいますと、私たちは、自然界のすべての事象は、自分が意識しようとしまいと、現実に実在していると思っています。しかしじつは、それらはすべて人間の意識がつくりだした幻覚であって、人の意識を離れて客観的、局所的に存在するものではない、端的なたとえでいえば、「誰も見ていないときは、そこに月は存在しない」と、量子力学は主張するのです。いうまでもなく、私たちの常識ではとても受け入れがたい主張ですが、これは、「波束の収縮」、または「波動関数の崩壊」といわれる現象で、自然界に同時的、非局所的に遍在する無数の超微粒子(原子核以下のレベル)の波の束が、「人が見る(観察する)」という行為によって、波から個へと現実化するプロセスとして、多くの精緻きわまる実験で立証済みの事実なのです。
ようするに、人に見られるまでは宇宙全体に充満している波動が、人が見たとたん消滅して、個々の粒子(原子のレベル)にまとまり、物質として実体化する、といえばおわかりでしょうか。この現象を量子飛躍と呼ぶのですが、その難解さを平易なたとえで説明した、有名な「シュレジンガーの猫」のパラドックスは、観察するという意識と行為がなければ、この世は存在しないと考えざるをえないと論証しています。人間が研究しようとして観察するという行為そのものが、じつは自然を究明しているのではなく、想念によって客観的な実在をつくりだしているのだと、量子力学はいっているのです。
この量子力学の結論は、相対性理論やビッグバン理論のような単なる仮説と違って、ミクロの物質(光子や電子など)を使ってじっさいにおこなった実験検証から得られたものであり、しかもそれによる予言は、これまで一度でさえ外れたことはありません。 このことをぜひご記憶ください。
これまでの科学は、厳然と実在する自然界を、客観的な対象として研究するというのが基本姿勢であり、科学者の誰一人として、研究者自身が対象の一部でもあり、その研究者の意識が対象に影響を与え、これを変えてしまうなどとは、よもや考えたこともなかったわけです。当然のことながら、量子力学の登場から70年もたった現在でも、科学者の大多数は、この従来の科学常識を根底から覆す、破天荒な理論に困惑し、苦悩しています。
しかしその一方で、宇宙の構造、重力(万有引力)の正体、素粒子の振る舞い、常温核融合、高温超電導、サイ現象など、従来の科学では今なお説明できない現象が数え切れないほどあり、科学者は、まさに絶望的な幻想のふちに立たされているのも事実です。
このジレンマから抜け出すには、量子力学への科学のパラダイムシフトが不可欠の条件となりますが、伝統科学に固執し、自分自身の立場を存亡の危機にさらしたくない科学者が多いことから、パラダイムシフトにはもうすこし時間がかかるのではないか、というのが専門家の共通した意見です。
しかしながら、アスペなどの実験によって物質の客観性(物質は観測者に対しそれぞれ局所的に存在する)が否定されてしまった以上、比較的近未来に、伝統科学、つまりは『ニュートン力学』や『相対性理論』が葬り去られ、それらに代わって、量子力学が科学の主流となる可能性は高いのではないでしょうか。それが実現してはじめて、唯物科学の時代が終りをつげ、量子力学や『ブーツストラップ理論』が述べるような、全体的、包括的な科学が到来することになるのでしょう。ブーツストラップ理論とは、「物質は実在するものではなく、ただ、素粒子間の関係性のみが存在するだけである。この世界で生じる、あらゆる現象の全体と部分は対等、平等である」、というものです。
アメリカの核物理学者フリッチョフ・カプラは、「この次世代科学は、東洋の神秘主義(仏教思想)に通ずるものである」と述べています。科学はこれまで、人間は脳、つまりコンピュータのようなもので思考するのだと考えてきましたが、そうではなく、心というプログラマーがべつに存在し、それが脳を操っているのだということ、そして、「この世」の実体は私たちの意識と無関係に形成されているのではなく、人間の精神と自覚そのものが「存在」を作り上げているのだということが、今や、現実に証明されつつあるのです。
 

4. 医学理論の致命的な過ち

さて、科学の分野である医学は、いわば必然的に、近代科学の研究手法を取り入れる結果となりました。それは同時に、デカルトの機械論的世界観が、医学概念の根底思想にもなったことを意味します。そのような背景のなかで現れてきたのが、フィルヒョウの『細胞理論』と呼ばれるものです。

フィルヒョウとは、およそ100年ほど前のドイツの医学者で、そのフィルヒョウが提唱した、「細胞は細胞から」という理論が、現代医学の定律になっていることで有名です。じつは、医学教育で最初に教えられるのがこれです。医者は必ずこの理論を学んでいますし、医療行為のすべてが、この理論を基本にして行われています。つまり医学理論として永遠の真実であるかのごとく、一世紀もの長きにわたって、フィルヒョウ理論が医療の世界に君臨してきたということです。
ところが、ここ30年くらい前から、このフィルヒョウ理論に重大な過ちがあることが、異端とされる少数の研究者によって指摘され始めました。それは、そもそもフィルヒョウは生命の根源を細胞に求め、その構造を解明しさえすれば生命の神秘がわかるだろうと考えた、しかしその考えじたい、じつは見当はずれな発想で、そんなマクロレベルでは、生命の仕組みは捉えられないという指摘です。
量子力学の主張を待つまでもなく、生命は、科学が検知不可能な超ミクロの領域で発生しており、そこはまぎれもなく波動の世界です。細胞という、比較的マクロな生体の構成部分だけを静的に、しかも固定して探求する方法では、瞬時に全体を統括する生命の営みは、垣間見ることさえできないのは明らかでしょう。その意味では、フィルヒョウ理論を間違いとする研究者は異端ではなく、むしろ正統派だといえるのではないでしょうか。
フィルヒョウのような錯覚は、医学者にかぎらず、科学者ぜんぱんが陥りがちな『合成の誤謬』(部分的には正解でも、全体としてみると矛盾している)といわれるもので、果たしてフィルヒョウも、まんまとこの落とし穴にはまってしまったようです。
フィルヒョウ理論は、つぎの三点に集約されます。

  1. 一つの細胞が二つに分裂し、さらにそれが四つに分かれる
  2. すべての生命体は細胞のみで構成される
  3. 生命の最小単位は細胞である

これが、「体細胞は細胞分裂によって増殖する」というあまりにも有名な説で、今では世界中の人々の常識となっているものです。今さら、これが誤説だったといわれても、おそらく皆さんは、「そんな馬鹿な!」といって一笑に付されると思います。しかし、今述べた少数派の研究者(科学者)が、フィルヒョウ理論はとんでもない間違いであると断言し、つぎのように是正すべきだと主張しているのです。 

  1. 細胞は分裂しない。細胞は赤血球の融合化成、血球分化によって作られる
  2. 細胞構造を持たない組織はたくさんある。脂肪組織、横紋筋組織、結合組織、硬組織など
  3. 細胞が壊れても生命は存在する

フィルヒョウか、少数派の科学者か、どちらを信じるかは、もちろん皆さんのご自由です。ちなみに現代医学は、一世紀も続いてきた伝統を守るという立場から、フィルヒョウ理論を信奉し、固持しているのが現状です。私自身は、現代医学が行き詰まっているのは、このことに原因があるのではと思っていますが、ここではあえて独断を控えて、皆さんに客観的な判断材料を提供させていただくにとどめます。

まず、生命体(人体)の自然な生命維持の状況の下で、体細胞が分裂によって増えていくというような現象を観察したり、確認した人は、歴史上、世界のどこにもいません(この事実は現代医学も知っているはずですが、わざと頬かむりして公表していないのです)。細胞というものは大変デリケートなもので、気圧、温度、光、湿度などの自然環境の条件が体内で異常になったときや、細胞だけを人体から切り離し、顕微鏡下で観察するなど、不自然な状況におかれると、きわめて簡単に"死ぬ"ということがあります。ただしこれは消滅するのではなく、細胞が赤血球に逆分化(逆戻り)するということを意味します。
ここのところはかなり専門的なので、詳しくは次節以下でご説明しますが、このいわゆる細胞死の直前に、自己保存の原理が働いて、わずかの間、細胞分裂が起こるのです。おそらくフィルヒョウは、顕微鏡下で観察した結果を、短絡的に判断したものと思われます。局所的で分析的な科学的手法を実践した、当然の成り行きだったのでしょう。そして当時の科学の大発展とあいまったことにより、『細胞分裂』理論は定着していったわけです。
一方、フィルヒョウ理論に異論を唱える科学者たちは、細胞ではなく、血液という人体の流動組織に注目しました。またフィルヒョウのように、細胞を一時的に固定し、その観察結果から性急に仮説を立てたのではなく、血液の生成、移行などの現象を長期的、連続的に忍耐強く見ていったのです。こうして実際の現象をありのまま、素直に見極めた結果、それまで謎とされていた、一日に40cc(2,000億個)もの赤血球の消滅の真相や、毛細血管の先端は開放型であるなど、多くの新事実を発見しました。そしてなおも観察を続けたところ、ついに、赤血球が人体のすべての体細胞に発展しているという、驚愕の事実を突き止めることになったのです。なお、この赤血球とは核のない無核細胞のことで、次節で、「モネラ」という概念があることなどをご説明するつもりです。
ようするにこれらの科学者は、生命現象を部分や偏見にとらわれず、全体的、相関的に捉えたという点で、その見解は、フィルヒョウより本質に近いといえるのではないでしょうか。また、既成の説に疑問があれば躊躇することなくこれを究明し、修正していくのが科学の正しい姿勢ではないかと思います。
ところで、フィルヒョウが細胞理論を発表してまもなく、メンデルとモルガンが遺伝理論を発表しています。一般的にこちらのほうがよく知られているため、おそらく皆さんもご存知かと思いますが、遺伝理論とは、「細胞核に染色体があり、そのなかに二重のらせん状にしっかり巻かれたDNAがある。そこに生命の設計図が書かれており、それによって、遺伝やすべての生命活動があらかじめ決定されている」、というものです。
つまり遺伝理論は、細胞分裂を唱えたフィルヒョウ理論を土台に発展させた考え方で、つまるところ、「生命は変わらない」という固定観念なのです。一つの細胞がまったく同じ二つの細胞に分裂し、それを繰り返すことで細胞は増殖する、その遺伝を決定づけるのが遺伝子である、だから元の遺伝子が変わらなければ、変わった形質が途中から生まれることはない、これが現在の医学・生物学の定説です。
がんなどの難病が、親から受け継いだ遺伝だから「どうしようもない」、「治らない」という考えが医学の常識になっているのも、じつはこの固定観念が根底にあるからです。しかし現実には、生命は細胞に限定されるものではなく、血液やその成分、ホルモンや酵素、神経伝達化学物質など、細胞よりさらに微小な超ミクロ物質が複雑に介在して、たえず変化と流動を繰り返しながら体細胞を維持しています。
たとえば、親とはまったく異なる形質を受け継ぐ子供が生まれたり、同じ人間でも、一代でさまざまな形質を持つことがあるのは、その明らかな証拠といえます。しかし現在の遺伝学・医学は、そういった異なる形質が出現するたびに、ド・ヴリースの『突然変異説』を持ち出してきて、現象の因果関係を説明することを回避しているのです。これはいかにも、科学としてあるまじき姿勢といわねばなりません。
生命不変説は、近代科学、つまりニュートン力学の影響を強く受けた機械論そのものであり、そういった直線的、不可逆的、局所的、排中律的な思考パターンでは、生命の本当の姿を正しく捉えられないことは明白です。にもかかわらず現代医学は、上記のような生命の本質を無視した、固定的な細胞理論をいまだに継承している、私は、その事実のほうが、もっと重大な問題ではないかと思います。
これまで述べてきたことから、結局、現代医学とは、人体を機械の寄せ集めのように考え、細胞をその究極の部品とみなす西洋思想に立脚したものである、ということができます。そしてその事実に気づきさえすれば、これがいかにとんでもない錯覚であるか、じっさい、子供でもわかるのではないでしょうか。当然のことながら、その西洋思想の機械論的な特色は、現代医学の医療にたいする考え方や、診療行為にはっきりと浮き彫りにされています。 つまり現代医学は、

  • がん、糖尿病などの慢性病や、膠原病などの難病は治らないものと考える(がん細胞は無限に増殖する→直線的、不可逆的)
  • 風邪、アトピー、サーズ、肝炎などの原因を病原体によるものとする(病気は偶然に起こる→偶発的)
  • 組織や細胞、血液、血圧、尿、大便などさまざまな検査を個別にする(部分的な現象に固執する→局所的、分析的)
  • 病気そのものではなく、病気のシグナルにすぎない症状を病気と断定する(病名を独断で決める→排中律的)
  • 病気の原因がわからず、生体へのダメージを無視する処置をとる(薬、放射線、手術に依存する→対処法が攻撃的)

フィルヒョウやメンデル・モルガンの理論を金科玉条とする現代医学は、じっさいは流動的、循環的、可逆的、全体的、統合的、なおかつ必然的である生命現象を、まるで正反対の概念で捉えている状況がおわかりだと思います。「科学では生命はわからない」と主張する森下博士は、生命の世界にたいする科学的思考の矛盾について、つぎのように説明しておられます(『自然医学の基礎』より)。


「(西洋思想の土台となっている)二元論というものは、物理の世界では大変重宝な考え方である。車やロケットなど、機械を扱う分野で役に立つ。そういう世界では、この分析的、直線的、不可逆的、排中律的な考え方で十分通用する。

しかし、生命の世界は、この考え方ではダメだ。生命の世界は、機械のそれとはまるっきり反対のものだからだ。
生命現象の本質は、一言でいうと波動であり、ラセンである。生命の世界には、直線も直角も存在しない。また、生命の世界においては、すべては可逆的である。たとえば、病気になっても、しかるべき処置を施せば、必ず『治る』という現象が生じる。
『治る』ということは『元へ戻る』ということで、すなわち、『可逆』ということである。よく、今の医学は、特定の慢性病に対して、"不治の病"とか、"絶対に治らない"などというが、それこそまさに西洋思想なのだ。アタマが痛いとか、下痢をしたというような症状に対しては、あまりにもありふれたことなので、さすがの現代医学も『治る』と考えているが、膠原病とかがんなどの難病に対しては、彼らは『治らない』と考えている。いろいろと理屈はつけるが、基本線としては、『治らない』という考え方をすえている。一度病気になったら、治らない・・・この直線的思考こそ、西洋思想の真骨頂だ。
けれども、実際には決してそんなことはない。生きている限り、いい替えれば生命現象が存在する限り、必ず元に戻りうる。条件さえ整えば、病気は必ず治るものだ。がんも例外ではない。この元へ戻るということが、生命現象の最大の特徴である。
にもかかわらず、現代の医学者自身が西洋思想にかぶれてしまっていて、直線的で不可逆的な考え方をしているから、『この病気はもうダメですよ』などということを平気でいうのである。これは、実に重大な間違いである。『どんな重症ながんの場合でも、生きている限り、必ず治るチャンスがある』ということを、私は、口がすっぱくなるほど、患者さんに話している」

フィルヒョウ、メンデル・モルガン理論の由来は、なんと、2,300年も前にさかのぼります。当時の生物学・遺伝学では、生殖細胞のなかに、完成された動物の"ひな型"がすでに宿っていると考えられていました。精子と卵子が結合して子孫が生まれていく仕組みがまだよくわからなかったため、精子の中に"コビト"が住んでいて、それが卵子に入り、卵子の栄養によって育っていくと考えたわけです。

ハルストーカーという学者などは、それをじっさいに見たといって、論文にその図を掲載しています。今でも遺伝書に載っている「ショウジョウバエの染色体」の地図はその名残りであり、フィルヒョウやメンデル・モルガン理論も、基本的にそれと同じ考え方です。染色体のなかに、やがて目になる部分、手や足になる部分というように、すでに予定通り遺伝子が配列されているというのですから、「すべては決まっている」とみなす点で一致しています。ハルストーカーの、精子の中に小人がいるという中世紀的な固定思想と、現代の最先端をいく遺伝子理論とは、本質的には同じものなのです。先ほども触れたように、現代医学の矛盾の原点はまさにここにあり、森下先生は、正しい医学理論を確立するには、フィルヒョウ、メンデル・モルガン理論の追放こそ焦眉の急であるとおっしゃっています。
「細胞は細胞から」というのは、同じ細胞が次から次へ分裂していくと考えるため、そこには何の進化も変化もない、したがって、それでは生命現象を探求する上で重要な概念となる、因果関係というものを無視しがちです。またこの理論では、一番元になる細胞がどこから、どうして生まれたのかが説明できません。いずれにしても、因果関係の説明に矛盾が生じるため、生命現象が何一つ解明できない原因となっているわけです。
じつは、最初の細胞がどうしてできるのか、この生命の発生にかかわる重要な現象を捕らえ、ユニークな考え方を提示した学者がいたのです。それについて、つぎに再び森下博士の『自然医学の基礎』から、一部を参照してご紹介します。


5. 生きている物質「モネラ」

フィルヒョウやメンデル・モルガンの生命不変説にたいし、生命を動的・発展的に捉えるオパーリンやダーウインの考え方があります。ダーウインは『進化論』で、「自然環境に適応できるものだけが生き残れた」、オパーリンは『生命の起源』で、「生命は物質の集合、融合、分化発展というプロセスの中から発生する」と説き、それぞれ、生命の本質に迫る優れた理論を展開しています。ただ、これらの理論も詳細に見ていくと、肝心なところが欠落していることは明らかです。たとえば、メタン・アンモニア・水、その他一、二の無機物をフラスコに入れて火花放電すると、たしかに蛋白質ができます。この事実から、無生物から蛋白質が生み出されることは証明できるのですが、では、その蛋白質がどうして生命を持つにいたったのかという点については、オパーリンの説では説明不十分なのです。同じくダーウインも、その辺のところは明確な言及を避けています。

ところが、この問題について、前世紀の偉大な哲学者であり、ダーウイン進化論の熱烈な信奉者であるドイツのヘッケルが、「モネラ」という概念を提唱しています。ふつう細胞は中心に核があり、そのまわりに蛋白質のかたまりであるコロイド状の細胞質があり、さらにそれを包む細胞膜がある、という構造をしています。そういうはっきりとした形態を整えた細胞にまで進化する前段階として、"核のない細胞"という存在を仮定してもよいのではないか、という考え方で、ヘッケルは、その核のない細胞を「モネラ」と名づけたのです。
つまり細胞になりきっていないが、いずれ細胞に発展するであろうという、細胞の前段階の状態のもの、いわば「未完成の細胞」という発想です。現代医学・生物学はこのような考えにはまったく関心がありませんが、じつは、これは非常に重要な概念です。
そしてこれと同じような概念を、ロシア(旧ソ連)の医者であり、生物学者であるレペシンスカヤ女史も、「生きている物質」と名づけて提唱しているのです。レペシンスカヤは、卵黄の表面に発生する赤血球に注目することでその概念をえました。
ニワトリなどの卵が孵化するとき、よく見ますと、黄身の表面に赤い斑点がいくつも出てきます。それがお互いにつながって網目状になり、日がたつにつれて、その網の目は細かくなっていきます。しかもその網は単なる筋ではなく、中が空洞になっています。
そのチューブの一部がやがてふくらんできて、拍動をはじめる、するとチューブの中を、血液が一定方向に移動するようになります。それを観察したレペシンスカヤは、とくに卵の黄身の表面に赤血球が寄り集まって、赤い点になっているところに注目しました。顕微鏡で見ると、立派な細胞の形をしています。そこでレペシンスカヤは、「これはいったいどこからきたのか?」という、重大な疑問をもったのです。そんなものは、もともと卵にはなかったことは事実です。卵の黄身しかなかったのに、孵化しはじめると赤い斑点がいっぱい現れてきたわけです。
「細胞は細胞から」という説が本当ならば、この赤い斑点となっている細胞の、その最初の第一個目の細胞は、あらかじめ卵の中に潜んでいたと考えなければなりません。そうでなければ、「細胞は細胞から」という考え方に反することになるからです。でも、途中から赤い斑点が現れているのが事実ですから、はじめから赤血球が存在したなどということはありえないわけで、「細胞は細胞から」というフィルヒョウの考え方は、やはり間違っていたのです。
じつは、赤い斑点となった最初の細胞は、卵黄のなかから生み出されてきたものです。卵の黄身というのは、私たちが卵黄球と呼んでいるブロック状のものからできています。これは核も細胞膜もないので細胞ではありません。その細胞ではないものから、赤血球という細胞が生み出されている、これはもう、卵黄球が赤血球へと発展していっている、としか考えようがないわけです。
「卵黄は生命体? 物質?」ということは議論の分かれるところですが、今の段階では、物質(有機物質)だとみなす考え方が支配的です。そうしますと、卵黄球という有機物質から「生命」が生まれたということになり、レペシンスカヤが、卵黄球は「生きている物質」ではないかと考えたことは正しかったのです。
無生物と生命体という大きく異なった存在を、連続相として捉える上での"つなぎの概念"として、この考え方はきわめて重大なポイントを示唆するものです。生命現象を固定的思想ではなく、発展的思想で捉えていこうとするには、ヘッケルの「モネラ」という概念、およびレペシンスカヤの「生きている物質」という、二つの概念を導入しなければならないのです。
このような概念とまったく相容れない、フィルヒョウ理論に固執する現代医学は、生命現象の因果関係が説明できないという、医学としては致命的な欠陥があるわけです。現代医学とはいえ、その実態は100年以上も昔の古色蒼然たるもので、早急な改革が望まれることはいうまでもありません。森下先生は、「科学の目覚しい発展とは裏腹に、医学の本質的な部分は、ヒポクラテス(医学の祖と呼ばれる)のギリシャ時代からほとんど進歩していない」と述べておられます。


6. 消化・造血の仕組みも知らない医者

つぎに、ひき続き森下先生の学説を適宜引用させていただいて、現代医学、およびそれを実践する医者たちがいかに無知であるか、具体例を見ていきます。

病気になって医者や病院へ行ったとき、必ず受けさせられるのが検査です。とくに最近は検査の重要性が強調され、医者もさかんに検査をうけるよう薦めています。しかし、いくらCTやMRI、エコー、内視鏡などのハイテク機器で検査をしても、はっきりいって病気の原因を突き止めることはできません。検査で見ているのは病気の症状であって、病気そのものではないからです。
一方、画像による検査のほかに、生体から組織を切り取って調べる病理学や疫学の検査があります。組織を特殊な機械でごく薄い切片にする、それをアルコールで固定する、それに色をつけて顕微鏡で眺める、というようなことを行っていますが、これはほとんど無駄で無意味な作業です。そんな不自然な操作を加えると、細胞が異常な代謝を始め、切り離されたために、生体内の組織とはまるっきり違った状態に変化するのです。
そもそも部分とか局所というものは、全体の中にあってこそ意味を持つものです。統合体の一部分という意味での局所は意味を持っているけれども、切り離されてしまったら意味はなくなってしまうのです。第一、全体の中の一部分であるからこそ局所といえるのであって、切り離された局所というのは言葉の上でも矛盾しています。そんなものは所詮存在しないのです。全体から切り離された局所はもはや局所でさえない、それ自体が独立した、まったく別物になっているからです。
生命問題を扱うにあたっては、この全体と部分との密接不可分の関係を、しっかり理解しなければならないのです。
一時的でしかも局所的な検査では、全体をたえず変化させている、人体の動的な基本構造はわかるはずがありません。
じつは、病気を発生させる根本要因は、成分が刻々と変化しながら、全身の隅々を循環している血液が質的に悪化することにあるのです(五章と六章に詳述)。これを検知するには、血液が体のどこで、どのように造られているかを知っていなければならないのは当然です。ところがなんと驚くべきことに、医者のほとんど(95%以上)がその実態を知らないのです。
トテモ信じられないと思う方は、かかりつけの医者にでも質問してみてください。ほぼ間違いなく、「血液は骨髄で造られる」というはずです。私自身、つい最近のテレビの健康番組で、テレビ出演が多いため有名になった医学博士が、臆面もなくそういっていたのを見たばかりです。
血液は骨髄などで造られているのではありません。血液は小腸で造られているのです。胃のなかで、胃液や膵液によってあらかた消化された食物は、さらに腸の運動によって撹拌されてドロドロになり、それがしだいに絨毛組織(腸粘膜)のなかに取り込まれていき、腸の内壁をビッシリ覆っている絨毛上皮細胞と混ざり合って渾然一体となり、本格的な消化作用が行われます。
この絨毛組織内の消化の工程が完了すると、やがてそこに、赤血球母細胞というものが現れてきます。これはその名のとおり、赤血球の母親ともいうべきもので、なかに数十個の赤血球をすでに孕んでいます。それらが新生の赤血球となり、腸壁のすぐうしろを通っている毛細血管内に放出され、血流に乗って全身をめぐっていきます。赤血球はやがて白血球に分化し(一つの物質がべつの物質へ変化、発展すること)、白血球はさらに、リンパ球と顆粒白血球に分化します。そして白血球のうちの顆粒白血球が、体の各部分の組織細胞を造っていくというのが、消化作用をめぐる一連の循環的な仕組みなのです(細胞分裂という事実はありません)。
これに対して現代医学は、絨毛組織を単に栄養を吸収する役目を果たすに過ぎないもの、つまり食べ物が消化された後、たんぱく質はアミノ酸に、糖はブドウ糖にというように分解され、それらがこの膜を通して吸収されるだけ、と考えています。ようするに腸粘膜を静的、受動的な存在と見ているわけで、消化物をアメーバのように貪欲に自分の組織に取り込む(森下説)という、動的でダイナミックな実態とは、ぜんぜん異なった捉え方をしているのです。
消化作用の本質は、食べ物をただ分解して栄養素を吸収するのではなく、食べ物という単なる物質を、血液という生命体へと質的に変化、発展させる組立作業であり、まさに驚天動地の働きなのです。この組立作業の過程で、食べ物が消化液の影響を受け、同時に消化管に存在する多種多様の微生物、および酵素などと渾然一体となって、絨毛組織の表面にべったり付着する、その状態にある食べ物がヘッケルの名づけた「食物モネラ」であり、レペシンスカヤのいう「生きている物質」なのです。そして、これがやがて「血球モネラ」というものに変化していき、最後の段階で、「赤血球」の誕生となるわけです。
なお、断食をするなど、食べ物が摂取できないときなどに、体内の赤血球を一定量に保つため、骨髄組織が崩壊して血球に逆戻りすることがあります。これはいわば『代償性』の造血であり、本来の『生理的』造血とは無関係です。現代医学は、消化というものを一貫した連続相として捉えられないために(分割思考の宿命)、こうした見誤りを犯しているわけです。
ここに食物=血液=体細胞という因果関係が成立するわけで、「人体は食物の化身である」、とはっきり断言できるのです。この重要な事実を知らないとすれば、医者としての資格が問われてしかるべきではないでしょうか。
現実が示すとおり、西洋医学の医者で、病気予防や健康維持のための最重要対策として、食生活の指導を徹底して行っている医者はほとんどいません。そのためほとんどの医療現場において、病気の原因の表示箇所にすぎない症状をあれこれいじくりまわし、細かく分割、分類し、それらに無意味で紛らわしい病名をつけ、その場かぎりの処置をする、その過程で診断ミスが起きたり、薬の処方を間違えるといった、まさに的外れとしかいいようのない診療が行われているわけです。
腸造血を医学教育で義務づけないかぎり、いつまでたっても慢性疾患の増加を食いとめたり、医療ミスの典型ともいえる医原病(医学、医者の無知な医療行為が原因で引き起こされる病気)の発生も阻止できないことは、火を見るより明らかです。


7.  医学常識、これだけのウソ!

造血問題以外にも、医学常識の誤りは数え切れないほどあります。つぎに、それらがじっさいに医療現場で適用され、その結果、的外れで危険な治療法が行われる例をあげます。じじつ、それが原因で患者を死亡させてしまうケースはしばしば報道されています。

「高血圧は塩分の摂りすぎ」のウソ

まず、塩分のナトリウムは体に不可欠のものです。栄養の吸収を助ける、細胞の形を正しく保つ、体液の量を調節する、腎臓で尿を作る、体の機能を統合、調整する神経系を正常に維持するなどの働きがあり、やみくもに減塩をしてナトリウムが不足すると、この重要な働きに支障をきたすため、体力や免疫が低下し、健康を損ねるどころか新たな病気を誘発したり、命の危険にさらされることさえあるのです。○×式の頭しかない医者は、高血圧の患者に対し、とにかく血圧を下げることだけにこだわります。たいてい塩分のカットを指示しますが、患者がそれに従わなければ、「降圧剤」を処方するでしょう。このとき、ほとんどの医者が第一に選択するのが利尿剤です。これは、血圧が高くなるのは血管を通る血液の量が多すぎるため、手っ取り早く血圧を下げるには、体内の水分をできるだけ排泄して血液を減らせばいい、だから利尿剤で水分を多く出すという、なんとも姑息な、というより部分にとらわれた処置が取られるわけです。
ここで明らかなことは、血液の全体量は減っても水分はもっと減るため、血液の濃度が高くなり、血栓を起こしやすくなるということです。利尿剤の副作用に脳血栓が指摘されているのは、このような因果関係があるからです。脳血栓で命を落とすより、血圧が高いほうがいいのです。ようするに減塩も降圧剤も、的外れな処置であることがおわかりでしょうか。
それに、もし塩分過剰というなら、カリウムをほどよく補給することです。正確にいうと、ナトリウムとカリウムの比率が1対0.6であれば理想的で、これによって安全に、血圧が正常に保たれるでしょう。味噌汁の塩分を気にするより、ほうれん草などの野菜を入れた、具だくさんにすればなんら問題はありません。ナトリウムやカリウムは少々過剰に摂取しても、ふつうは適量だけが吸収されて、余分な量は腎臓から尿へ、速やかに捨てられる仕組みになっています。
医者が栄養学を勉強していないことは事実ですが、この程度の知識はあるとは思います。ところが、栄養指導だけで終われば、医療保険の点数はゼロになり、医者は無報酬になります。好んでタダ働きする医者などいるはずがないわけで、これは医者個人のモラルというより、医療保険制度に問題があるといえます。医者が薬を出すしか能がないのは、現状では仕方がないのです。
高血圧の治療には、利尿剤のほか、血管を収縮させる平滑筋の働きを支配する自律神経ブロッカーがあります。交感神経をブロックすれば、血管の締め付けが緩み、血圧が下がるだろうという考えですが、交感神経は平滑筋だけを支配しているのではありません。骨格筋もその支配をうけており、その上、一番無視できないのは脳への影響です。じじつ、交感神経の働きが鈍ると、うつ病を引き起こすことがあるのです。
最近では多くの医者もこのことを知るようになり、神経ブロッカーの代わりに、比較的副作用が少ないカルシウム拮抗剤が使われているようです。しかし、これもやはり、血管を収縮させるカルシウムの作用を弱めるのが目的であり、問題は血圧に関係のある筋肉だけに作用するのではなく、ほかの筋肉の収縮力も弱めてしまい、全身にさまざまな悪影響を与えるということです(気力がなくなるなど)。
血管を正常に保つための安全な方策は、カルシウムの摂取量を管理する、もっと具体的にいうと、カルシウムとマグネシウムの比率を2対1にすることです。マグネシウムには動脈を弛緩させる作用があり、これによって拮抗剤を使用しなくても、バランスが保たれるようになります。またマグネシウムには、ナトリウムやカルシウムを細胞の外へ出したり、血管筋肉を緩める働きがあるため、高血圧だけではなく、不整脈なども予防してくれます。
しかし、なんといっても高血圧の最大の原因は、血液の質そのものにある、つまり血液がネバネバになることです。そしてそれは、肉や卵などの動物性蛋白食品の多食によって、血中のコレステロール、酸類、窒素化合物が増えると起きやすくなります。このことから、動物性蛋白食品を極力控えることが、高血圧予防の根本対策であることがおわかりだと思います。 
話が脱線してしまいましたが、ではなぜ、これほど間違った治療法が「医学常識」となってしまったのでしょうか。それは、「疫学」という学問に限界があるためです。疫学とは、伝染病の流行動態を研究する医学の一分野で、広義では、集団中に頻発する疾病の発生を、生活環境との関係から考察するものです。わかりやすくいうと、統計から病気の原因を考えるわけですが、このやり方には大きな盲点があります。ある病気が特定の地域やグループに多く発生しているからといって、そこに確実な因果関係があるとは限りません。このことについて、日本の「分子栄養学」の創設者である故三石巌博士は、著書でつぎのように述べておられます。

「たとえば1981年に、アメリカ政府は疫学の統計を根拠にして、『エイズはホモセクシュアルの病気である』と発表した。エイズの分布がホモセクシュアルの人々に偏っていたためだ。しかし今では、エイズが誰でも感染しうる伝染病であり、ホモセクシュアルだけに特有の病気ではないことは誰もが知っている。これが疫学の持っている限界である。統計的なデータというのは、見方によって引き出される結論が違ってくる。しかも研究者は、統計から何か結論を引き出そうとする思いが強いため、自分の仮説を支えるような、都合のいいデータだけを採用し、都合の悪いものを無視することが珍しくない。したがって、疫学調査だけで病気の原因を確定することはできないのである。綿密な実験に基づく客観的な裏づけがなければ、仮説はどこまでいっても仮説でしかない」

高血圧に対する塩分過剰原因説は、高血圧が多いとされる東北地方のある県で、一人当たりの食塩摂取量が、当時の栄養学者の見解である「一日10グラム以下」という基準を上回っていたため、短絡的に食塩が犯人であるという結論が下されたわけです。しかしこのときの調査では、結論と矛盾する事実がたくさんありました。個別のデータでは、食塩の摂取量が少ないのに血圧が高い人、摂取量が多いのに血圧が低い人などがいたのですが、こういった個人差や、同じ東北地方でも、リンゴの生産地では高血圧は少なかった事実は、研究者にとって都合が悪かったために、例外として切り捨てられてしまったのです。

「血糖値を下げれば糖尿病は治る」のウソ

ものを食べれば血糖値があがるのは当たり前です。ただ、ブドウ糖が細胞のなかに取り込まれなければエネルギーとなって消費されず、血中に留まったままになります。ブドウ糖が細胞に入るには、膵臓で作られるインスリンというホルモンが必要です。ところが、生まれつきインスリンの分泌がよくない人、あるいはアルコールの飲みすぎなどで膵臓が弱っている人がいて、こういう人はタイプ?型の糖尿病と判断されます。しかし、タイプ?型は糖尿病患者全体の1割しかいません。残りの9割はタイプ?型で、このタイプの患者は、インスリンにはまったく問題はありません。タイプ?型はインスリン非依存型と呼ばれ、このタイプの患者の問題は、肥満、運動不足、栄養素のアンバランスなどの理由で、細胞膜のレセプターの感度が鈍いことです。レセプターがうまく機能しないと、インスリンもブドウ糖も細胞のなかに入り込めないのです。ところがたいていの医者は、画一的なマニュアルに従がって、とにかく血糖値を下げるということしか頭が回らず、インスリンの投与だけでよしとする、これが怖い結果をもたらすことになります。
タイプ?の患者に対しては、血糖値にぴったりの量のインスリンを投与しなければなりません。もし少しでも投与量が多いと、血中の糖が激減して、昏睡状態を招く危険性があるからです。一方、タイプ?型には、インスリン投与は問題を複雑にするだけで、治療にはなっていません。それどころか、インスリンが逆に余ってしまい、これが肝臓へ運ばれて中性脂肪になります。中性脂肪が血中にたまるとコレステロール値も高くなり、体のあちこちの血管にヘドロ層をつくっていき、動脈硬化、眼底出血による失明、腎臓障害などの合併症を引き起こすわけです。
糖尿病への対策は、合併症を起こさないことです。血糖値が高いと診断されても、それが直ちに深刻な事態を招くわけではありません。合併症は、免疫やSODなど、活性酸素と闘う物質が不足すると起きやすくなります。そのような物質が体内に十分用意されていれば、合併症はそれほど簡単には起きないものです。そしてそういう物質を体内でつくるのが、カロチノイド、ポリフェノール、ビタミンCやEなどの微量栄養素と呼ばれるものです。

「喫煙は肺がんの原因 」のウソ

この学説(?)はもともと、ネズミにタバコを吸わせる実験に由来しています。人間に換算すると、なんと200本ものタバコを口に無理やりくわえさせ、数日間続けて吸わせたのです。確かにネズミには肺がんが発生しました。しかしこれは、ネズミにはタバコを吸う習慣がないという、当たり前の事実を無視しています。ネズミは想像を絶するストレスを感じたはずで、必ずしも、喫煙そのものとの因果関係が実証されたわけではありません。また、肺がんが発生したのは100匹中、わずか数匹だったのです。その程度の率なら、タバコを吸わせなくても肺がんは発生します。そういう意味では、この実験結果は、むしろ喫煙と肺がんには因果関係はない、ということを証明したという見方もできるわけです。そしてなんと、この実験を根拠にして喫煙と肺がんを直接結びつけたのは、国立がんセンターの疫学部長だった人物です。いかに権威や肩書きが当てにならないか、まさにそれを象徴するような話ではあります。
人間も大量のタバコを吸えば、たしかにビタミンCは減ります。しかし、それが直接肺がんの発生の原因になるわけではありません。じつは、肺のなかにもちゃんと肺胞マクロファージという、活性酸素除去酵素が存在します。これがいわゆるスカベンジャーと呼ばれるもので、ゴミや不純物を取り除く役目を果たしています。そしてスカベンジャーを最も酷使するのは、タバコよりむしろ大気汚染なのです。タバコを吸わなくても、汚染された空気を吸っていれば、そのほうが肺がんのリスクが高まることが、最近の調査で明らかにされています。そして、肺がん治療に必ずといっていいほど使用される抗がん剤は、この大切なマクロファージだけではなく、それを含めた免疫細胞全体の働きを低下させ、がん細胞を殺すより、逆に増殖するという、なんとも皮肉な結果を招くことになるのです。

以上のことから判断するだけでも、高血圧、糖尿病、肺がんに限らず、あらゆる病気の原因について、現代医学が誤った解釈をしていることは疑うべくもありません。そして本当の原因がわからないため、やることがことごとくピント外れになっているわけです。
じつはアメリカで、1976年から2年間かけて、国防費に匹敵する巨費を投じて世界中の医学専門家を結集し、病気の原因を徹底的に究明調査したという事実があるのです。その結果は意外にも(むしろ当然だったのですが)、「ほとんどすべての慢性病は食源病である」という結論に達しました。ようするに、病気の原因は食べ物の誤った摂り方にある、と結論したわけです。これを世界に発表したのが当時の上院議員であるマクガバーンで、以来、『マクガバーンレポート』と呼ばれて広く知られるようになったのです。
もちろん、日本政府や厚生労働省も、このレポートのことを知らないはずはないのですが、なぜかこれまで、国民には一切公表していません。
私は、もしこれを公表すれば、体制としての医学界の崩壊につながりかねないとの判断から、故意に情報操作をおこなって、情報の攪乱を図っているのではないかと推測しています。昨今の医学理論や、栄養学情報が混沌の坩堝と化しているのは、そのあたりの事情を雄弁に物語っているのではないでしょうか。 
この章のテーマであるフィルヒョウ(=ウイルヒョウ)理論、細胞分裂、造血箇所、血球分化(体内のすべての細胞は赤血球からできる)などの生理学的事実については、森下先生のご先輩である、岐阜大学農学部、東邦大学医学部教授の故千島喜久男博士の「革新生命科学理論」をぜひご覧ください。現代医学理論がいかに間違ったものであるか、よくご理解いただけると思います。


8. 医者のイメージは虚像

私たちが医者に対して抱いている先入観は、どうやら、現実とは大きくかけ離れているようです。

ほとんどの人は、医者になるには高度な学力が必要とされ、医科大学では長期間(8〜10年)、厳しい教育と訓練を受けなければならない、それを習得したことを証明するのが医学博士という肩書きであり、仮にも医者と名がつく以上、当然必要な専門知識は持っているはず、と無意識に信じています。もし医者がそうした教育によって、臨床医療に十分役立つ知識や技術を習得しているなら、それは正しい認識といえるかもしれません。しかし、医者が学ぶ医学理論が基本的に誤っていることは、これまで見てきたとおりですし、西洋医学には、病気(主として慢性疾患)にたいする臨床学的な治療理論など、本来存在しないのです。そしてさらに、問題はそれだけではありません。
じつは、現在行われている医学教育は、何とか病気を探し出そうとしたり、故意に病気を作り出して利益を上げようと企む(これを創造医療といいます)、巨大金儲け企業集団によって仕組まれたものです。当然、国と医学界もそれを後押しし、その目的にあったカリキュラムや指導方針が実施されることになります。たとえば、つぎがそのことを裏づける実態であり、明らかな証拠でもあります。
ふつう、大学ではどの学部でも、学問を論理的に考え、あらゆる問題に疑問を持ち、独創性をはぐくむための知識や方法論を学ぶのが通例です。ところが驚いたことに、医学部だけはそうではないのです。学生が自由な発想をしたり、問題点を議論するなどということは、むしろタブーにさえなっています。いわば思考停止のような状態で医学理論をストレートに受け入れ、教官の質問には条件反射的に、紋切り型の返答をするよう指導される、ようするに独断と偏見そのものの医学体系を無理やり詰め込み、学生が判断力を行使できない授業になっているわけで、その実態は、まさに医者の洗脳教育にほかならないものです。
また、冒頭の『医療ミス』でも指摘されているように、医学部で行われる試験のほとんどはマークシート方式です。そのため、学生は医学用語などの単語はおろか、短い文章でさえ書かされることはまずありません。理論は頭のなかで理解しているものと、暗黙の前提で試験が行われるからです。医者の処方箋や、カルテに書いてある文字が下手くそで読みづらいのは、じつはこれが原因だったのです。看護婦や薬剤師は処方箋が読みにくく、間違った薬を出してしまうことがよくあります。もしこれが原因で事故が起きても、医者が直接責任を問われることなどありません。医者がカルテをわざと殴り書きする理由には、明らかな意図があるのです。
ご存知のとおり、カルテは病院に長期間保存されます。判読が困難な文字のカルテは、時間がたってから調べても、誰が指示を出したのか、記録を書いたのか、突き止めることはほぼ不可能です。殴り書きをしておけば、医者は医療ミスの訴訟が起きても責任から逃れられる、そこに本当の狙いがあるわけです。これは医者の本性を垣間見た、一つの決定的な証拠ではないでしょうか。
このような医学教育では、物事を正しく判断し、確固たる倫理観を持った医者が育つはずがありません。こういった問題の原因の一つとして、分子栄養学の権威、ロジャー・ウイリアムズ博士はこう語っています。

「医学界は一種類の医学、つまり現代医学しか知らないため、すべての大学の医学部は基本的に同じことしか教えられない。細分化しすぎたカリキュラムはすでに飽和状態になっており、新しい理論を研究したり、試そうとする余裕さえない。その結果、医学は、既存の理論が不変の真理だとする因習に縛られやすくなる。科学の一分野が正統派として不動の地位を築くと、それはもはや科学ではなくなる。真理の探究をやめてしまい、重大な過ちを犯しやすくなるからである」

医者はまた、長期間の教育を通して、医学にかんしては、自分はオールマイティであるがごとく振舞うすべを身につけています。たとえば、患者が処置に疑問を抱いたときなど、医者が決めゼリフのように使う、「医学的知識のない方には、説明してもわかりません」という言葉には、その傲慢な態度が如実に表れています。これをあえて口にする医者は、単に権力を患者に押しつけているだけで、じっさいは知識がないことを、私たちは見抜かなければなりません。医学や医療の個々の問題について、人にわかりやすく説明できないということは、それらを理解していないことを証明するものだからです。
こうしたことからも、医者が日ごろ私たちが妄信しているような、学識があって信頼できる、正義感の強いイメージとは程遠い人物であることがわかるはずです。ただし、すべての医者がそうだといっているのではありません。念のため。


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