現代のお仕事 様々な大人たち
アジアに広がる「花」の歌
ミュージシャン喜納昌吉(きな・しょうきち)
ミュージシャン喜納昌吉
 喜納昌吉(51)は中学生の時、忘れられない事件に遭遇する。精神に異常を来した近所の母親が、七つの娘の頭をまな板に乗せ、おので首を切り落としてしまった。
 「女の子が毛布に包まれて横たわっている。その子の父親が『なぜこの子の足は冷たいの。おかしいよ』と毛布を取ったら首が無い。父親は魂を落としたような顔で、しばらく言葉を失った」
 最初の作品「ハイサイおじさん」は、これを契機に生まれた。まだ高校生だった。
沖縄戦にたどりつく狂気
 「川は流れてどこどこ行くの…」。喜納は、中国やタイなどアジアを中心に、二十カ国前後で歌われているロングセラー「花」の作詞・作曲者として知られる。一九九六年夏のアトランタ五輪の記念コンサートには、アジア代表として招かれた。
 「戦後、家を失ったり精神的におかしくなった女性がたくさんいた。事件の家の父親もそんな女性を家に連れ込むから夫婦げんかばかり」。母親の狂気の原因をたどると沖縄戦にたどり着く。
 この父親は事件後、酒におぼれた。喜納の家に毎日泡盛を求めに来た。
 「顔を出すと僕に向かって古い民謡を歌う。ハイサイ(こんにちは)と声を掛けて僕も酒をあげる。それを繰り返しているうちに歌を作ってあげようね、と急に思った。ダンダダンダダンとリズムが生まれてきて」。不思議な感動だった。
ハイサイおじさんに合わせて
 喜納は四八年、基地の街・沖縄(旧コザ)市で、昌永(78)の四男として生まれた。昌永は三線(さんしん)の早弾きで名をはせ、戦後の沖縄民謡の草分け的存在。七○年ごろ、母、千代(72)が経営し、昌永や昌吉が歌う民謡クラブが大当たりした。
 千代は「ちょうどベトナム戦争のころ。明日、戦場に行くという米兵たちが心から踊っていた。音楽で寂しさを紛らわせ、心を満たしていた」と、思い出す。七○年にコザ暴動が起きた。沖縄の人たちもまた、沖縄民謡とロックを融合させたアップテンポな「ハイサイおじさん」に合わせて踊った。
 女性を引き連れて真っ赤なオープンカーを乗り回し、無軌道な生活を送っていた喜納は七二年、麻薬の不法所持で逮捕され、服役。沖縄の本土復帰は獄中で迎える。
信用できるものがある
 出所した喜納を待っていたのは意外にも「ハイサイおじさん」の沖縄での大ヒットだった。ほどなく本土での初のLP盤制作の話が舞い込む。担当プロデューサーは七○年代にフォーク、ロックの名盤を数多く世に送り出した三浦光起(54)。
 三浦は「民謡をベースにいろんな音楽を吸収して、彼独自の音楽を作り上げたのがすごい。世界に通用すると思った」と言う。
 衆院議員保坂展人(43)も喜納の歌に心を奪われた。中学での内申書をめぐって学校と対立。裁判を闘う最中の約二十年前、沖縄を旅して喜納と出会う。那覇でのコンサート。スローな曲が一転して「ハイサイおじさん」に変わる。白髪の老いた女性がステージに駆け上り、若者がどんどん後に続いた。
 「それまで否定することしかなかった僕のこだわりが崩れた。世の中には大切にしなければならないもの、信用できるものがある、と踊りの中で感じることができた」
歴史しみ込む三線
 「花」は八○年、ハワイで録音された。オリジナルバージョンでは前の妻、喜納友子(41)が吹き込み、その後は喜納自身も歌っている。
 曲ができたのは、保坂との出会いの後。ヒッピームーブメントやエコロジー運動にのめり込んだが、次第に友子や家族、保坂ら友人とも意見が合わずに孤立して行く。
 「ぶつかってぶつかって。今までの関係者を断ち切って自分の本当の道を探そう、一人で旅に出なければ、と考えていたら『花』ができた」
 喜納は昨年、沖縄民謡だけのCDを発表した。
 「父、昌永に三線を弾かせたら神様。魂を導き出すテクニックでは絶対勝てない」
 沖縄の歴史がしみ込んでいる父の三線の音。それが喜納の今の最大の目標である。(文・矢野裕、写真・二瓶博光)=敬称略 1999.06.19
喜納昌吉氏 【喜納昌吉氏略歴】
 一九四八年生まれ。大学在学中にチャンプルーズを結成。七七年にデビューアルバム「喜納昌吉&チャンプルーズ」を発表。八○年に「花」の入った二枚目のアルバム「ブラッド・ライン」を元YMOの細野晴臣らも加えて制作。九八年に沖縄民謡のニューアルバム「赤犬子(あかいんこ)」を出した。
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