『昭和花街残影』神山幸恵


百合子の大門

 少女の目に映る、遊郭の風景はどんな姿をしていただろうか。
 「坂下を流れる川の川下の方向に、お女郎屋さんが何軒かあった。昔はもっとあったという。バス通りに面した一方の出入口に、錆びた乳鋲のついた黒い大きな門が、こわれかかったまま建っている。夕暮れから夜、この前を通ると、昼間よりずっと大きな門に見えた。大門から中は、子供の入るところではない、と聞かされているから、大門に貼ってあるビラを大急ぎで見て通りすぎる」
 武田百合子は、故武田泰淳夫人にして稀有な文章家。著書に田村俊子賞を受賞した『富士日記』や『犬が星見た』『遊覧日記』などがある。
 冒頭、引用した文章は昭和59年に出版した『ことばの食卓』から、「お弁当」と題するエッセイの一部だ。
 『ことばの食卓』は、昭和56年から58年にかけて発表された12編に他の2編を加えた14編で構成されている。このうち、「牛乳」「続牛乳」「キャラメル」「お弁当」「雛祭りの頃」「怖いこと」は、いずれも百合子が幼少期を過ごした横浜の昭和初期の風景を丁寧に描写して読む者を惹きつける。
 百合子は、大正14年9月横浜市神奈川区に生まれた。誕生の翌年、大正は昭和と年号をかえて、百合子は平成5年に亡くなっているから、ちょうど昭和を挟むようにして生きた。
 百合子は、幼い日を横浜で暮らした。戦時中のひと時、山梨県へ疎開するも戦後まもなく横浜へ戻って異母長姉宅へ寄宿。戦後は、長姉の露店の菓子屋、出版社事務員、PX横流しの舶来化粧品売り、チョコレートの行商などをしながら、再び横浜で生活。その後、長兄のもと世田谷で暮らし、泰淳へ嫁ぐが横浜での暮らしぶりは、時折エッセイで紹介されている。
 『ことばの食卓』、「お弁当」では小学校での出来事を書いている。百合子は昭和7年4月、横浜市立栗田谷尋常小学校に入学した。百合子自身の筆によれば「平らな顔に、つり気味の一皮まぶたの黒い眼。緑色の鼻汁。私は子供のとき、こんなだった」(1)とある。昭和初期、日本の子どもたちの多くは百合子と同じだったろう。
 さて、「お弁当」の中で百合子は級友にお弁当を届けに来るお女郎さんを書いている。再び百合子の筆を借りる。
 「四時間目の授業がはじまると、少し開けてある廊下側の引戸窓から、どっとほつれた日本髪の、青黄いろい顔をした女の人が、よく顔を覗けた。先生の話すことが面白くて堪らない様子で、しまいには教室の中へ半身のり出して熱心に聞いている。みんながおかしがるところでは一緒になって、声を出さずに、くったりと笑った。四時間目が体操だと、運動場の隅の砂場で、全身に陽を浴びながら、うっとりとしゃがんでいる。洗い晒して模様のわからなくなった着物を、肩からずり落しそうに巻きつけ、細帯一つだから、ふらふらと寝巻きのまま起き出してきた病人のように見えた。若そうだった。
 あの人はKさんのお弁当を届けにくるナントカおいらん。Kさんちは大門の中のお女郎屋さんだ。と事情通の友達が教えてくれた」
 百合子の町の遊郭は、「横浜青木町遊郭」という。「坂下を流れる川」は滝の川、土地の人は反町川とも呼んだ川下に、その遊郭はあった。現在の東急東横線反町駅から第二京浜国道へ向かう辺りがそれだ。
 春陽堂が昭和4年に発行した「日本遊里史」によれば、横浜市青木町における遊郭の数は20軒、娼妓数は202人と紹介されている。
 昭和5年に発行された、遊郭ガイドブックの草分け的な存在。「全国遊郭案内」にもその名が記されている。
 「横浜青木町遊郭は神奈川県横浜市青木町字反町に在つて、東海道線東神奈川駅から南へ約四丁、市電は只の一丁場だから敢て乗る程の事は無い。
 今は横浜市の中に編入されて居るが、昔は青木町辺一帯から、今東神奈川駅のある辺を神奈川宿と云つた処で、五十三次の一だつた。恰度野毛山のふもとに当つて居て、昔は直ぐ傍らで海の波頭が白く砕けて居た処だつた。今の遊郭は此の国道筋の宿場から移転して来たもので、妓楼は目下二十三軒あつて、娼妓は約百七十人程居る」
 かつて、宿場には飯盛女と呼ばれる女たちがいた。飯盛女は、旅籠の下女として食事の給仕にあたったが、やがて旅人と夜を共にし、遊女となった。
 明治14年「娼妓貸座敷規則」により、神奈川(宿)は「娼妓貸座敷営業ヲ許ス可キ場所」であり、明治15年、神奈川県庶務課編纂の『神奈川県統計表』によれば、芸妓16人、娼妓199人、貸座敷48軒とある。娼妓は遊女・公娼を指し、貸座敷とは、遊廓をいう。
 「青木町遊郭」は、飯盛女がのちに遊女となって古くから栄えた遊郭なのであった。
 長く、反町に住む鳶職の岡部由蔵さんと松本町に住む戸塚正二さんによって、戦前の「反町遊郭と大門通り」を復元したイラストマップがある。(2)
 地図の中、東急東横線・反町駅前に広がる、大門通り商店街は人々の暮らしぶりを伺える。出征軍人旗屋、酒店、寿司屋、うなぎ屋、床屋、交番、人力車、タバコ屋、小間物屋、質店、医院、カフェ、布団屋、呉服店。
 日々のおつかい、魚屋、八百屋、くだもの屋、豆腐屋といった店も商いをしている。
 百合子の描いた大門は商店街の真ん中あたり、床屋「倉床」とうなぎ屋「菊屋」の間にある。この大門をくぐれば、そこが遊郭で岡部さんと戸塚さんの記憶に寄れば、大門の通りに14軒、道をたがえて滝の川沿い裏門の通りに7軒、計21軒が軒を連ねていた。
 百合子は幼くして母を亡くした。身の回りの世話は、母方の大叔母があたっていた。おばあさんと呼んでいる大叔母に、百合子が弁当を届けるお女郎さんの話をすると「ああ、よっぽど大人しい人なんだねえ、きっと。お女郎さんは、ふつう滅多に一人で外へは出られないもんだよ。逃げられないように、帯も締めさせないんだ」とおばあさんが言う。
 借金を抱える「お女郎さん」に、自由はない。女の多くは、生まれた街を離れ借金を抱えて売られていった。斡旋人と呼ばれる人々は、妓楼主人の意向を聞いて条件に見合った娼妓を仲介した。お弁当を届ける「ナントカおいらん」もきっと売られてきたのだろう。
 昭和13年、百合子は神奈川県立横浜第二高等女学校へ進む。
 「私は市電に乗って遠い女学校へ通うようになった。遅刻した日、停留所で、男の人に連れられて、どこかへ出かけて行くお女郎さんたちに会うことがあった。電車通りを真直ぐに吹き抜ける風に、赤茶けた日本髪を、ほつれ放題にさらして、七、八人一かたまりになって電車を待っている。立ったり、しゃがんだりしているお女郎さんたちのお尻が、細帯一つのせいか、ぽたぽたと大きく、垂れ下って見える。ケンバイ、ケンバイ、とそばにいた職人風の男が、私を触るような、ちらちらした眼つきで言った。検診の検に、黴菌の黴だ、とすぐわかった。どんなことをされるのかも、何だか、もうわかったような気がした」
 百合子十三歳、少女の目をもって見つめた遊郭の風景。定められた検査は、梅毒の検査だ。
 大門の外で暮らす百合子と大門の中で暮らす女たち。大門ひとつ隔てたそこには、やはり決定的な違いがある。
 あの日、お女郎さんは検印をもらえたろうか。娼妓の検黴を実施した病院規則「外来娼妓心得」(3)には次のようにある。
 第21条 検査日割に當る者は、當朝必ず第八時迄に出頭すべし。
 第23条 其身検査を受る迄は、出順に臨み差支なき様注意すべし。(略)但、検査終りて黴毒なきときは定規の證書検印を受け、直に退院すべし。
 第25条 検査当日に出頭する者は、必ず検査證および営業鑑札を持参すべし。
 第27条 新たに娼妓の許可を得たる者は、該免許鑑札を所持し、所管病院に於て黴毒検査を受くべし。
 娼妓は原則、満18歳から許される。該免許鑑札は、所定の手続きを踏んで所轄署から与えられる。
 「初見世」。すべての検査を終えて新しい娼妓が楼へ出ることを楼主たちは、そう呼ぶ。はじめて検診台へ上がる、女の胸のうちを思う。
 「全く自由が出来ない娼妓金の為に数年束縛される所の奴隷制度を在置されると言うことは、私は甚だ間違ったことであると言うことを、(略)天下に向かって叫びたい」。大正9年、青木町遊郭の移転問題で牧内議員はそう言った。(4)遊郭の廃止も公娼の廃止も、まだ声は小さくて女たちは災害や凶作のたびに売られて行った。

 ある日、地図を片手に街を歩いた。
 東急東横線反町駅は、平成16年みなとみらい線開通に伴い地下3階、新しいホームとなって生まれ変わった。廃線の跡地は、フェンスを張られて工事の最中だった。
 「横浜青木町遊郭」は、昭和20年5月の横浜大空襲によって焼失した。517機のB29は短時間で横浜を火の海にかえた。遊郭の裏門、横を流れる滝の川は逃げ遅れた人々で溢れ多くの犠牲者をだした。みんな焼けてしまったのだ。遊郭の名残などあろうはずもない。
 反町駅から、かつての大門通り商店街に向かって歩く。マンションの間に、スーパーと飲食店。ここはもう商店街とは呼ばない。
 冬の陽は落ちるのが早い。私は急ぎ足になって歩き去ろうとした瞬間、ビルの間に古い建物を見つけた。低い二階建てには、看板が出ている。「菊屋」とあった。ああ、ここがかつての大門だ。「菊屋」は今も変わらぬ場所でうなぎ屋を営んでいた。
 「菊屋」からはこうばしいにおいがただよっている。私は急な空腹を覚えて、今は無き大門をくぐった。
 大門は女たちの悲しみを刻んで、空襲と共に消えてしまった。戦後、遊郭の跡地は昭和24年に日米貿易博覧会が開催され、その後市役所が建設された。市役所はのちに移転し、昭和38年からは公園として利用されている。
 細帯一つのお女郎さん、職人風の男の目、楼主の呼び声。戦争を境に、反町の風景は変わった。夕暮れ、公園を制服姿の女子高生が通る。すれ違うサラリーマンの男は帰宅途中だろうか。遠くから、子どもを呼ぶ母の声。ここには金銭によって虐げる者も虐げられる者もいない。「奴隷」、牧内議員の発言は娼妓の悲しみにふれる。
 空襲は、多くの犠牲を払ったけれど、人々の悲しみも焼ききった。この街に遊郭が立つことは、二度とない。「それでよかったんだ」。すっかり暮れた空の下、燃えてしまった大門に私は安堵するような気持ちで駅へ戻った。

(1)『犬が星見た ロシア旅行』 武田百合子著 中央公論新書より引用
(2)『わが町の昔と今 3 神奈川区編』 岩田忠利著 とうよこ沿線編集室
(3)『横浜市史稿 風俗編』 横浜市役所編纂 臨川書店より引用(文中旧字およびカタカナは一部表記を改めました。)
(4)『史の会研究誌 大正の響きをきく』 史の会編 江刺昭子より引用(文中旧字およびカタカナは一部表記を改めました。)


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