加茂岩倉遺跡
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一片の土器から
銅剣のなぞ
銅鐸・銅矛のなぞ
発掘1984年夏
荒神谷遺跡の銅剣
荒神谷遺跡の銅鐸
荒神谷遺跡の銅矛
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 加茂岩倉遺跡は、島根県大原郡加茂町大字岩倉字南ヶ廻837-28他に所在する。この遺跡は、1996年10月14日に農道整備のエ事中に偶然発見された。知らせを受けた加茂町教育委員会と島根県教育委員会は、急遽現地へ駆けつけ作業の中止と現状を変更することのないようお願いした。その後の調査により、史上最多の出土数となる39個の銅鐸が確認された。
 発掘調査は1996年度・1997年度の2カ年にわたり、加茂町教育委員会が主体となって行った。出土品の整理作業と報告書作成事業は、1997年度から2001年度までの5カ年にわたって、島根県教育委員会が主体となって実施した。ここではその成果の概要を紹介する。

遺跡の立地
 遺跡は加茂町の北西部、赤川の支流猪尾川を遡り、さらに岩倉本郷の谷を流れる岩倉川を1.7km入った幅約20mの狭長な谷の最奥部にある。銅鐸が埋納されていた場所は、南に張り出す丘陵の南東斜面に位置し、眺望のきかない立地となっている。銅鐸埋納地点の標高は137.5m、谷底からは約18mの比高差がある。
 全国の銅鐸埋納遺跡の立地をみると、大きく丘陵に位置するものと平野の集落内あるいは集落縁辺に位置するものに分けられる。丘陵部では見晴らしの良い頂部に埋納されたものと集落から離れた見通しのきかない斜面あるいは裾部に埋納されたものがある。近年の大規模調査により平野部から出土する例も増加してはいるが、見通しの悪い谷奥丘陵斜面から出土した例が最も多く、加茂岩倉遺跡もその例に属する。たお、加茂岩倉遺跡の北にある大黒山・高瀬山からなる山々を挟んで北西方向わずか3.4kmのところには、大量の弥生青銅器(銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個)が出土した荒神谷遺跡がある。
銅鐸埋納坑と銅鐸の配列
 工事中に発見されたため遺構の大半は破壊されていたものの、坑の北辺と西辺の一部が遺されていた。坑は壁面が横方向に掘り込まれており、断面は袋状を呈する。残存部分の底面は、北辺で1.81m、西辺で0.8mあり、深さは0.41mであった。埋納坑は丘陵斜面を地山の花崗岩風化土まで削り出して整えた平坦部から掘られているが、底面は粗雑な仕上げで凹凸が著しい。
 埋納坑内には、各々入れ子になった29(30)号鐸、31(39)号鐸の計4個の銅鐸が原位置を保った状態で残されていた。29号鐸と31号鐸はいずれも身を横たえて鰭を立てた状態で互いに裾を接するように置かれていた。このほかに銅鐸埋納の痕跡を留める庄痕が3箇所確認された。1号庄痕は29号鐸から東に0.65mの地点にあり、スタンプ状に残された文様の特徴から5号鐸が置かれていたことが判明した。2号・3号庄痕は裾のみの痕跡で、鐸身が31号鐸に接するように配列されていた。
 この5箇所以外の配列については不明であるが、仮にすべての銅鐸が入れ子の状態で鰭を立てて鐸身を接するように埋納されていたとすれば、2×1mあまりの小規模な隅丸長方形の坑に入れてあったものと推測される。
 坑内の埋土は、暗褐色粘質土と黄褐色砂質土が互層状にみられ、二次的な掘り返しや構造物等の痕跡は確認できなかった。埋納坑内の銅鐸配列や埋土の状況をみると無造作に行われたのではなく、特定の意味をもつ行為であったと考えられる。
 近年、銅鐸の埋納状況がわかる調査例が増加している。複数埋納例は数例しか確認されていないが、銅鐸1個が単独で埋納された遺跡は10数例知られている。これらの埋納坑は、銅鐸の大きさに合わせて掘られており、特に内部施設を持たないものが多い。銅鐸が倒立状態で出土した例もわずかにあるが、身を横たえて鰭を立てた状態の事例が圧倒的に多い。鰭を立てた状態の出土例は、型式的には菱環鈕式(1式)から突線鈕式(4式)まであり、地域的には山陰・山陽から東海までみられ、長期間・広範囲にわたって行われた銅鐸埋納方法といえる。坑内の埋土は、単独埋納の場合銅鐸を覆うような土層のものが多く、複数埋納例においても、加茂岩倉遺跡のように砂質土と粘質土が互層状になった例はない。
 なお、加茂岩倉遺跡では銅鐸埋納坑(SKl)の西側2.5mの地点で、2号土坑(SK2)が確認された。平面は不整形な隅丸長方形を呈し、断面は銅鐸埋納坑に類似した袋状をなす。規模は底面で3.0×1.6mあり、探さは0.45mである。出土品は皆無であったが、坑内には赤褐色粘質土と黄褐色砂質土が互層状にみられ、掘り返しを受けた痕跡はなかった。土坑の掘り込み面が銅鐸埋納坑と共通しているほか、断面形・堆積土なども類似していることからほぼ同時期の遺構とみられるが、両者の関係については明らかにすることができなかった。
入れ子銅鐸
 加茂岩倉遺跡における埋納状況の大きな特徴として、大きな銅鐸に小さな銅鐸を納めた「入れ子」状態になっていたことがあげられる。これまで銅鐸発見者からの聞き取りにより入れ子状態であったと推定されていたものは数例あったが、確実に入れ子の状態で確認されたのは初めてのことであった。
 工事中に発見されたため一部分離されたものもあったが、2(3)号・5(6)号・8(9)号・11(12)号・13(14)号・15(16)号・18(19)号・26(27)号・29(30)号・31(39)号・32(33)号・35(36)号・37(38)号鐸の合計13組26個が確実に入れ子状態であった。このほかに、土の付着状況から1(4)号・28(7)号鐸が入れ子であったと推定された。また、組み合わせは推定できなかったが土の付着状況の観察によれば、10号・20号・21号・23号・25号鐸も入れ子であったと考えられることから、もともとすべての銅鐸が入れ子状態で埋納されていたとみられる。
 入れ子状態にある銅鐸内部の土について、CTスキャン写真撮影・土層剥ぎ取り・X線回折分析等をおこなった。埋納坑を埋めた土と基本的には同質の土であったが、銅鐸下端を塞いでいる土砂には1cm以上の粒子を含まず、砂質土と粘質土が互層になっていた埋納坑埋土とは様相が異なっていたことから、人為的に詰めた可能性が指摘された。ただし、出土状態の観察によれば、いずれも横に寝かせた状態の中型銅鐸下部に小型銅鐸の鰭が接していたことや中型銅鐸の傾きと同方向に小型銅鐸が位置するなど、もともと中空であったとも推定される。こうした点については今後さらに議論を深めていく必要がある。
加茂岩倉銅鐸の概要
形式構成
 出土した39個の銅鐸は、大まかにみると中型銅鐸20個(43.5〜47.7cm)と小型銅鐸19個(30.0〜32.3cm)がある。これらは、佐原真氏・難波洋三氏の銅鐸型式分類(1)によれば次のようになる。
外縁付紐1式(2−1式
3号・4号・6号・7号・9号・12号・14号・16号・17号・19号 22号・24号・25号・27号・30号・33号・36号・38号・39号…合計19個
外縁付紐2式(2−2式
2号・5号・11号・13号・21号・31号・32号・34号・37号…合計9個
外縁付紐2式(2−2式)〜扁平紐1式(3−1式
15号・28号…合計2個
扁平紐2式(3−2式)
1号・8号・10号・20号・26号・29号…合計6個
扁平紐2式(3−2式)〜突線紐1式(4−1式)
18号・23号・35号…合計3個
1−2式から2−2式にいたる銅鐸は、型式ごとにそれぞれ大小いくつかのサイズのものがあるが、加茂岩倉出土銅鐸の特徴は、型式ごとに大きさがほぼ揃っていることである。すなわち、2−1式は高さ30cmあまりのものしかなく、2−2〜3−1式と3−2〜4−1式は高さ45cm前後のものである。ちなみに大量の青銅器が出土した荒神谷遺跡の6個の銅鐸は、1−1式と2−2式のものを含むが、高さはいずれも20cmあまりで揃っている。
文様・絵画
 加茂岩倉銅鐸を身の主文様によって分類すると、2−1式はすべて四区袈裟襷文銅鐸、2−2式はほとんどが流水文銅鐸で一部が四区袈裟襷文銅鐸、3−2式〜4−1式は四区袈裟襷文銅鐸と六区袈裟襷文銅鐸となる。
 39個の銅鐸のうち7個に絵画が鋳出されていた。これらには浮き彫り表現のものと線表現のものがある。
浮き彫り表現
37号鐸(2−2式、四区袈裟襷文)…鈕の左右にシカとみられる獣2頭ずつ
線表現
21号鐸(2−2式、三区流水文)…第1横帯に3頭のシカ
10号鐸(3−2式、六区袈裟襷文)…鈕の内縁にカメ
29号鐸(3−2式、六区袈裟襷文)…鈕の外縁に顔
18号鐸(3−2〜4−1式、四区袈裟襷文)…A・B両面の鐸身上区に2匹ずつのトンボ
23号鐸(3−2〜4−1式、四区袈裟襷文)…鐸身A面に4頭のシカと2頭の四足獣鐸身B面に4頭のシカと2頭の四足獣(イヌ?)
35号鐸(3−2〜4−1式、四区袈裟襷文)…鐸身A面に4頭のシカと2頭の四足獣鐸身B面に2匹のトンボ
 加茂岩倉の絵画の中には、従来知られていた表現とは異なるものが多く含まれていた。10号鐸のカメは、これまでの銅鐸絵画でスッポンとされていたものとは表現が異なり、海亀と考えられるものであった。カメが鈕に描かれていること、横向きに措かれていることも初例であった。29号鐸の顔は、鈕に描かれた初めての例であるとともに入れ墨とみられる頬の弧線の形も弥生土器に描かれた顔の.表現とは違うものであった。18号・35号鐸のトンボは、1枚の羽を2本の線で描くほか、頭・胴のくびれなどもこれまでにない写実的な表現であった。23号・35号の四足獣はまったく知られていなかった獣形であり、具体的に何を描いたものか今のところ不明である。
鋳掛け
 X線写真により加茂岩倉銅鐸39個のうち17個で鋳掛けを認めた。鋳掛けが2−2式以降に増加すると考えられていたが、それを再確認することができた。鋳掛けには鋳造欠陥によって生じた空隙に無文の外型をあてて熔銅を流し込むものと脱落防止のために足がかりを作って丁寧に補修するものがあるが、2−1式の段階(3・14・25・33号鐸)ですでに足がかりを有する鋳掛けのあることが初めて明らかになった。
補刻
 5・11・34・37・8・10号鐸の文様の不明確な部位や鋳掛け部には、補刻がなされていた。これまでの例と同様に2−1式にはみられず、2−2式以降のものに施してあった。補刻の多くが使用者によってなされたとすれば、共伴した2−1式の不鮮明な銅鐸にも補刻された例があってもよいはずである。しかし、そうした資料がみられないことから補刻の多くは銅鐸製作地においてなされたと推定される。
赤色顔料
 組成・元素分布測定装置(蛍光X線元素分析装置、レーザーラマン分光分析装置等)による分析により、10号鐸と33号鐸に水銀朱の付着していることが明らかになった。これらの水銀朱は顕微鏡下の観察により埋蔵中に外部から付着したものではなく本来銅鐸に付着していたものであることがわかった。
 青銅器に朱がみとめられた例としては、徳島県名東銅鐸・荒神谷銅剣(8本)のほか数例が知られている。
「×」の選刻
 加茂岩倉銅鐸の中に、鋳造後に「×」を刻した例が14個(1・5・11・13・18・22・23・26・28・31・32・35・36・38号鐸)みとめられた。いずれも鈕の菱環部にタガネ状の工具により打ち込まれたものである。こうした事例はこれまで荒神谷銅剣344本のみで確認されていたものである。荒神谷銅剣の「×」印と比較した結果、いくつかの類似点を見いだすことができた。
「×」印の意味については不明であるが、加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡の青銅祭器の一部が、埋納されるまでのある時期、同じ集団の管理下にあったとも考えうる。
同笵関係
 15組26個の同笵銅鐸が確認された。このうち14組24個は2−1式〜3−1式のもので、石製鋳型によって鋳造されたものとみられる。一つの鋳型から最も多く鋳造されたものとして加茂岩倉4号・7号・19号・22号・和歌山県太田黒田鐸の5個が確認された。しかも、最初に鋳造されたとみられる22号鐸にも鋳型の傷があることから、一つの鋳型で6個以上作られていたことが推定できる。ほかに土製鋳型で作られたと考えられる3−2式のものに1組の同笵銅鐸が確認された。それは1号鐸と26号鐸で、鋳型の損傷状態から26号鐸→1号鐸の順に鋳造されたと考えられる。
 同笵銅鐸で他地域に分布するものは、現在14個確認されている。その範囲は鳥取県・岡山県・兵庫県・大阪府・徳島県・奈良県・和歌山県・福井県・岐阜県の広範囲に及んでいる。
銅鐸製作地について
 加茂岩倉銅鐸の鋳型はいまだ発見されていないので、製作地の直接的な手掛かりはないが、文様の特徴などから類推してみる。
 12号鐸(2−1式)は袈裟襷文の横帯と縦帯が互いに重なり合っているほか縦帯が下辺横帯に達するなど鬼虎川遺跡(大阪府東大阪市)出土の鋳型と同様な特徴をもっていた。したがって、12号鐸は河内北部の工房で製作されたとみられる。
 流水文銅鐸(2・5・11号鐸など9個)はすべて横型流水文である。この鋳型の出土例はないが、畿内南部の土器流水文の特徴が「横型流水文」であることから、その多くは畿内南部(河内南部・大和・和泉)の工房で作られたと推定される。
 このほかに、これまでに類例のない特徴を有する銅鐸がある。なかでも特に注目されるのは18・23・35号鐸で、文様・絵画の類似から同じ工人集団の製品と考えられる。この3個は、下辺横帯の界線が他の界線や文様の線よりやや太くなっており、3−2式か4−1式か微妙であるが、同時期の畿内系の銅鐸にはあまりみられない特徴を有している。袈裟襷文の縦横帯界線が切り合っており横帯優先になっていないこと、斜格子文が上部ほど密で下部ほど粗になっていることをはじめ、畿内系とされてきた銅鐸とは大きく異なる特徴をもっていることから、出雲あるいはその周辺で作られた可能性が高い銅鐸といえる。また、3−2式六区袈裟襷文である4個(8・10・20・29号)の銅鐸は、これまで知られていた3−2式六区袈裟襷文にみられる特徴とは異なることから、それらとは別の工人集団で製作された可能性がある。
製作年代と埋納の時期
 加茂岩倉遺跡出土の39個の銅鐸は、2−1式から3−2〜4−1式までの型式を含んでいた。これらの製作年代については不明確な点が多いが、佐原真氏の研究(2)によれば概ね次のようなことになろう。
 弥生時代を5期区分によって表記すれば、2式銅鐸は弥生2期、3−2式〜4−2式銅鐸は弥生4期を中心とする時期ということになろう。仮にこの製作年代に従えば、加茂岩倉銅鐸群の場合、3−2〜4−1式銅鐸と2−1式銅鐸が入れ子になっていたことから少なくとも弥生4期に製作されたものが弥生4期まで使用されていたことになる。
 大量の銅鐸が埋納された時期は、加茂岩倉銅鐸のうち製作年代が最も新しいと判断される18・23・35号鐸(3−2〜4−1式)の時期、すなわち弥生4期噴かそれ以降ということになる。加茂岩倉では大量の銅鐸がありながら4−2式以降の型式が含まれていないことからすれば、加茂岩倉銅鐸製作年代から数十年・数百年後に埋められたというよりも、加茂岩倉銅鐸群における最新型式の製作年代に比較的近い時期に埋められたものとみられる。その時期は遅くとも弥生4期末か5期初頭頃ではないかと推測される。
 これらの銅鐸の原料はどこから入手し、どこで製作し、どのように流通していたのであろうか。さらに、これだけ大量の銅鐸を保有していた集団はいかなるものであり、どのように使用し、なぜ埋められたのであろうか。これらは解明すべき最も重要な課題であるが、最近次第に明らかになりつつある出雲地域の集落・墓制などと併せて総合的に追求すべきことなので、今後の研究を俟つことにしたい。
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