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「婦人子供専用車のサボ」
婦人子供専用車サボ

1.女性専用車の起源
1912(明治45)年1月、中央線中野〜昌平橋(現在の御茶ノ水・神田間にあった駅)間の電車で朝夕2回、婦人専用車の運行が開始されました。
これは短期間で廃止されてしまいましたが、朝夕の通学、帰宅時間帯に集中する女子学生と男子学生を、同じ車両に乗せないで分離するのが目的でした。車内混雑に乗じて女子学生にラブレターを手渡したり、痴漢行為におよぶ者が出てきて、これが問題になったのです(今と違って昔は「男女七歳にして、席同じうせず」と言われ、男女間のへだたりがありましたから、ラブレターを渡すことも問題視されたのです)。
これが日本初の女性専用車です。

2. 婦人子供専用車の登場
時代は下って終戦後の1947(昭和22)年5月、再び中央線で婦人子供専用車の運転が開始されました。
終戦後の混乱期、混雑の激しい中央線では女性や子供が電車に乗ることは大変な困難だったようです。そこで、女性や子供も鉄道を利用できるようにと、婦人子供専用車が運行されました。婦人子供専用車は、1949(昭和24)年9月に京浜東北線にも登場しています。同じ年にGHQの推奨により婦人福祉中央連絡会が設置されており、全国的に女性の地位向上の機運が高まっていた時期でした。
ちなみに当時の通勤ラッシュは乗車率(乗車人員/定員)が300%を越えることも多々ありました。現在の東京地区の朝通勤ラッシュ時のJR線平均乗車率は200%を切っていますので、現在の1.5倍以上の混雑だったことになります。まして、冷房などない時代でしたから、女性や子供にとっては大変な苦痛であったと思われます。

3. 短命に終った老幼優先車
さらに1957(昭和32)年6月、中央線と京浜東北線で老幼優先車が走り始めました。戦後の混乱もおさまり、日本が高度経済成長期の入口に立った当時、乗客の集中による混雑が激しかった上記ふたつの路線に、お年寄りと幼児を混雑から救う目的で運転が開始されたのです。しかし早くも翌年11月に、中央線での運転が取り止めになり、その3年後には京浜東北線からも老幼優先車は姿を消しました。戦前の老朽車両を転用したことや、通勤ラッシュ時にお年寄りや幼児の数は少なく、車両によって混雑率に大きな差が生じたことがその原因のようです。

4. シルバーシート誕生
老幼優先車は姿を消しましたが、中央線の婦人子供専用車は走り続けました。混雑の激しい中央線では婦人子供専用車が有効に機能していたようです。
しかし一方では、他の車両より婦人子供専用車が空いているという指摘もあり、1973(昭和48)年の敬老の日のシルバーシートの誕生とほぼ同時に婦人子供専用車は姿を消しました。これにより、国電各線区では編成中数両にシルバーシートを設置し、シートの色も特別なものに、そして駅のホームにもシルバーシート乗車位置がわかるように案内することとしました。
そのシルバーシートも「お年寄り専用」という印象が強かったため、現在では妊婦や乳児連れなど交通弱者の利用にも配慮し、「優先座席」とした事業者が増えています。

5. 再び女性専用車が登場
中央線で婦人子供専用車が消えてから、女性専用あるいは婦人子供専用といった車両は運転されることがなくなりました。
やがて2000(平成12)年の暮れ、京王電鉄で女性専用車両の試用が始まりました。忘年会の時期、木曜と金曜の深夜に新宿を発車する一部の優等列車に女性専用の車両を設定しました。
同時に実施したお客様へのアンケート調査で、過半数の人が女性専用車の設定に賛成であったことから、京王電鉄では、2001(平成13)年3月、23時以降に新宿を発車する全ての優等列車に女性専用車両を設定することとしました。
これがきっかけとなり、女性専用車は各地の大都市圏通勤路線で運転されるようになりました。女性の社会進出が進み、男女雇用機会均等法も改正され、深夜労働制限などが撤廃されたため、夜遅くに通勤する女性の数が増加してきたことも設定の後押しをしたとも言えるでしょう。
関東では京王電鉄、JR埼京線、横浜市営地下鉄、中京圏では名古屋市営地下鉄、関西ではJR大阪環状線、片町線、東西線、東海道線、阪和線、福知山線、和歌山線、阪急電鉄、阪神電鉄、京阪電鉄、近鉄、南海、大阪市営地下鉄、神戸電鉄、北神急行電鉄、神戸市営地下鉄、福岡では西鉄に女性専用車が運転されています。
さらに一部の夜行列車や高速バスにも女性専用車・専用席が設定されるようになりました。
このように女性専用車はここ4年ほどの間に、大都市圏を中心に増加しました。

6. 婦人子供専用車のサボ
交通博物館には、シルバーシートが導入されるまで中央線で走っていた婦人子供専用車のサボが収蔵されています。写真がそのサボ*で、二段窓の一段目窓枠に吊り下げる方式です。現在の女性専用車は、各社とも窓や車両外板にシールを貼り付けるのが一般的となっており、ホームの乗車位置案内シールの部分にもその旨が表示されています。女性専用車や優先座席のマークは現在、各社局で独自のデザインを貼付している例が多くなっています。

*サボ=車両の側面に取り付けられる、行先などを示す表示板 サイドボードの略。

「墨絵「蒸気車運転の図」勝海舟」
勝海舟蒸気車図右頭
1. 勝海舟という人
勝海舟は1823(文政6)年1月に、江戸本所亀沢町(現在の墨田区両国4丁目付近)で生まれました。御家人(ごけにん)勝左衛門太郎小吉の長男で、名を麟太郎といいました(「海舟」は、妹が嫁いだ蘭学者佐久間象山筆の海舟書屋という額からとった号です)。
御家人とは知行一万石に満たない幕臣のうち将軍に直接拝謁することができる旗本以外の者を指しました。また、御家人には禄高の低い者が多かったようです。
勝家も40俵の小禄でしたが、長男の勝海舟は貧窮を跳ね返すように若い頃から剣術の稽古と蘭学の習得に励み、後に徳川幕府のもとで軍艦奉行、明治政府になると枢密顧問官という政府要職に就きました。
勝海舟の逸話として有名なのは、1860(安政7)年に咸臨丸を率いてアメリカ往復を果たしたことと、1868(慶応4)年に時の新政府軍の中心であった西郷隆盛と会見し、その結果江戸城を無血開城して江戸の町を戦火から救ったことでしょう。
さて若い頃から蘭学に熱心でアメリカにも渡った勝海舟が、蒸気機関車の絵を描いています。明治期に描かれたようですが、ここで若いうちから海外に目を向けた勝海舟と西洋文明の象徴のひとつである鉄道との接点を探ってみましょう。

2. 勝海舟が鉄道に接した可能性 その1
1855(安政2)年から、勝海舟は長崎でオランダ式の軍艦調練について学んでいます。彼が長崎にいる時、ちょうどロシアの艦隊が軍艦の故障修繕のために港へ入ってきました。率いていたのは提督プチャーチン。「1号機関車」の本文にも記載しましたが、プチャーチンは日本国内で初めて蒸気機関車の模型を走らせたその人です。
勝海舟は長崎では、軍艦の操縦だけでなく、広く外国に目を向け様々なことを学んでいました。彼はこの時プチャーチンにも直接面会しています。プチャーチンは勝海舟にヨーロッパの地図を見せたりして色々話をしたようですが、話の中に鉄道のことが出たかもしれませんね。

3. 勝海舟が鉄道に接した可能性 その2
1860(安政7)年、勝海舟は咸臨丸に乗り日本〜アメリカ間を往復しています。目的地はサンフランシスコで、復路ホノルルに寄港しています。
さて、アメリカの大陸横断鉄道の計画が承認されたのは1862年、全通が1869年ですから、勝海舟が大陸横断鉄道を見るということは有り得ません。
しかし実は1860年に、サンフランシスコでは現在のケーブルカーの原形となったボニ−エクスプレスが開通しているのです。
道路上に伸びた二条の軌道を、あるいはその図面を、勝海舟は見聞きしていたかもしれません。

4. 勝海舟が鉄道に接した可能性 その3
新橋〜横浜間の鉄道開業が1872(明治5)年10月で、当時政府の要職にあり東京赤坂氷川町に居を構えていた彼が、公用、私用で鉄道に接する機会は十分にあったはずで、実際に鉄道を見聞していたようです。
1954(昭和29)年に、尾形順一郎という人が、勝海舟が描いた蒸機機関車の絵に関して「勝海舟の畫きし鉄道蒸気車の解説」という文章を残しています。その内容は概略次のとおりです。
『今の横浜駅のあたりは、東海道神奈川宿の袖ヶ浦の入り江だった。明治5年、そこに鉄道が敷かれ蒸気機関車が走るようになった。ところで鉄道蒸汽車について話をきかせてほしいと宮中に請われた勝海舟は、鉄道助佐藤政養を伴い宮中へ上った。そして席上、宮中より頂いた用紙に絵を描いて、鉄道に関する講話をした。その時の絵は勝海舟の長女内田夢子が保管、海舟没後は侍医梅津医伯に送られ、更にこれが史料研究家尾形白髯氏に伝わった。京浜鉄道開通式の祝賀宴会席上、天皇陛下のお側に飾られた有栖川熾仁親王がお描きになられた「文明開化」の大額面は、勝海舟の講話の結果生まれたものと思われる。』
尾形氏の記述が事実であるとすると、勝海舟が描いた蒸気機関車の絵は、1872(明治5)年6月に仮営業を開始していた開業前の列車を、神奈川の袖ヶ浦付近で見た記憶をもとに、宮中で描いたことになります。
描かれた蒸気機関車は煙突が客車側にあり、バック運転をしているように見えます。仮営業は品川〜横浜間で行っていて、当時の品川駅に転車台がなかったとすると、バック運転を行っていた可能性があります。
でもこの蒸気機関車、運転台がありません。勝海舟は、バック運転の状況を記憶していても、運転台までは憶えていなかったのでしょうか。
勝海舟は1899(明治32)年に亡くなりましたが、彼の描いた蒸気機関車の墨絵は現在も交通博物館に収蔵保管されています。
※実際の展示物・展示内容は変更となる場合があります。
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