「墨絵「蒸気車運転の図」勝海舟」
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勝海舟蒸気車図右頭 |
1. 勝海舟という人
勝海舟は1823(文政6)年1月に、江戸本所亀沢町(現在の墨田区両国4丁目付近)で生まれました。御家人(ごけにん)勝左衛門太郎小吉の長男で、名を麟太郎といいました(「海舟」は、妹が嫁いだ蘭学者佐久間象山筆の海舟書屋という額からとった号です)。
御家人とは知行一万石に満たない幕臣のうち将軍に直接拝謁することができる旗本以外の者を指しました。また、御家人には禄高の低い者が多かったようです。
勝家も40俵の小禄でしたが、長男の勝海舟は貧窮を跳ね返すように若い頃から剣術の稽古と蘭学の習得に励み、後に徳川幕府のもとで軍艦奉行、明治政府になると枢密顧問官という政府要職に就きました。
勝海舟の逸話として有名なのは、1860(安政7)年に咸臨丸を率いてアメリカ往復を果たしたことと、1868(慶応4)年に時の新政府軍の中心であった西郷隆盛と会見し、その結果江戸城を無血開城して江戸の町を戦火から救ったことでしょう。
さて若い頃から蘭学に熱心でアメリカにも渡った勝海舟が、蒸気機関車の絵を描いています。明治期に描かれたようですが、ここで若いうちから海外に目を向けた勝海舟と西洋文明の象徴のひとつである鉄道との接点を探ってみましょう。
2. 勝海舟が鉄道に接した可能性 その1
1855(安政2)年から、勝海舟は長崎でオランダ式の軍艦調練について学んでいます。彼が長崎にいる時、ちょうどロシアの艦隊が軍艦の故障修繕のために港へ入ってきました。率いていたのは提督プチャーチン。「1号機関車」の本文にも記載しましたが、プチャーチンは日本国内で初めて蒸気機関車の模型を走らせたその人です。
勝海舟は長崎では、軍艦の操縦だけでなく、広く外国に目を向け様々なことを学んでいました。彼はこの時プチャーチンにも直接面会しています。プチャーチンは勝海舟にヨーロッパの地図を見せたりして色々話をしたようですが、話の中に鉄道のことが出たかもしれませんね。
3. 勝海舟が鉄道に接した可能性 その2
1860(安政7)年、勝海舟は咸臨丸に乗り日本〜アメリカ間を往復しています。目的地はサンフランシスコで、復路ホノルルに寄港しています。
さて、アメリカの大陸横断鉄道の計画が承認されたのは1862年、全通が1869年ですから、勝海舟が大陸横断鉄道を見るということは有り得ません。
しかし実は1860年に、サンフランシスコでは現在のケーブルカーの原形となったボニ−エクスプレスが開通しているのです。
道路上に伸びた二条の軌道を、あるいはその図面を、勝海舟は見聞きしていたかもしれません。
4. 勝海舟が鉄道に接した可能性 その3
新橋〜横浜間の鉄道開業が1872(明治5)年10月で、当時政府の要職にあり東京赤坂氷川町に居を構えていた彼が、公用、私用で鉄道に接する機会は十分にあったはずで、実際に鉄道を見聞していたようです。
1954(昭和29)年に、尾形順一郎という人が、勝海舟が描いた蒸機機関車の絵に関して「勝海舟の畫きし鉄道蒸気車の解説」という文章を残しています。その内容は概略次のとおりです。
『今の横浜駅のあたりは、東海道神奈川宿の袖ヶ浦の入り江だった。明治5年、そこに鉄道が敷かれ蒸気機関車が走るようになった。ところで鉄道蒸汽車について話をきかせてほしいと宮中に請われた勝海舟は、鉄道助佐藤政養を伴い宮中へ上った。そして席上、宮中より頂いた用紙に絵を描いて、鉄道に関する講話をした。その時の絵は勝海舟の長女内田夢子が保管、海舟没後は侍医梅津医伯に送られ、更にこれが史料研究家尾形白髯氏に伝わった。京浜鉄道開通式の祝賀宴会席上、天皇陛下のお側に飾られた有栖川熾仁親王がお描きになられた「文明開化」の大額面は、勝海舟の講話の結果生まれたものと思われる。』
尾形氏の記述が事実であるとすると、勝海舟が描いた蒸気機関車の絵は、1872(明治5)年6月に仮営業を開始していた開業前の列車を、神奈川の袖ヶ浦付近で見た記憶をもとに、宮中で描いたことになります。
描かれた蒸気機関車は煙突が客車側にあり、バック運転をしているように見えます。仮営業は品川〜横浜間で行っていて、当時の品川駅に転車台がなかったとすると、バック運転を行っていた可能性があります。
でもこの蒸気機関車、運転台がありません。勝海舟は、バック運転の状況を記憶していても、運転台までは憶えていなかったのでしょうか。
勝海舟は1899(明治32)年に亡くなりましたが、彼の描いた蒸気機関車の墨絵は現在も交通博物館に収蔵保管されています。